星渦のエンコーダー

山森むむむ

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泡沫夢幻

可哀想な少年と罪にまみれたオトナ・意思決定の機会すらなく、下される幕引き。

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 未来ノ島の海底深く、孤立無援の海底に築かれた厳重な監獄に、日向貴将は放逐されていた。

 この海底刑務所は、アビサル・ネザー・冥獄フォートレス(Abyssal Nether Fortress)と呼ばれている。

 脱獄不可能と名高いこの刑務所で、太陽の光が忘れ去られた闇の中、絶え間ない悔恨の日々を送っている。
 その存在はもはや人間のそれではなく、ただ消えぬ罪の烙印を胸に刻みつつ、最期の日を迎えることを待つばかりだった。

 独楽のようなフォルムの監獄は、日本から隔離されるかのように太平洋の底に沈む。ここは直立不動の城として、国内のみならず世界の名だたる凶悪犯たちを収監している。
 米国との軍事協定、電脳世界の発展と、それに伴う新たな犯罪。現実世界・電脳世界問わず巧妙化する手口。
 犯罪者たちの技術力の高さにより、たとえ裸一貫で刑務所に入れられたとて、彼らは脱獄の可能性があるものとして見られている。
 バイオテクノロジーと電脳世界を融合させた、完全なる世界を目指す。この建前は、光り輝く未来を望める無辜の民たちのものだ。罪という烙印は、永久に未来の恩恵を受けることを許さない。
 穢れた魂は、世界にとっての危険因子として処理される。反省しているか、していないかは関係がない。
 彼らは、『そういうもの』になってしまったのだ。

 ここは技術力の飛躍的向上と、未来への希望が生み出した負の側面の象徴だった。
 絶対脱獄不可能な、物理的にも電子的にも閉じられた世界を構築するため、世界はこの巨大な玩具の模倣品を海に打ち立て、電波暗室を兼ねた死の世界を作り上げたのだった。
 正確には、日向は死刑を宣告されたわけではない。あの日突き落とした少年が一命をとりとめたことにより、法律上死刑だけは免れ、ここにいる。しかし、ただ存在するである。
 この命は、今はただ過去の行いを悔いるためだけに存在しているのだという認識を新たに、独房の壁を見つめることが日常となっていた。


『出ろ』
「……? …………今日は、入浴の日ではないですよね?」
『来い』
「…………うっ!」
 ある日、日向は看守によって腕を引かれ、無理やり狭い密閉空間に放り込まれた。
 その文字通りに転がり込んだ内部で目を開けると、目の前には複数のモニターが並んでいた。四方に迫る壁は圧迫感を感じさせる。人が快適に過ごすことを目的としていないことはすぐにわかる。この場所はなんだ。
 モニターの一つに人影が映し出される。混乱する日向に、影が指示を出し始めた。

『眼の前にあるARデバイスを腕に巻き、ダイビングスーツを身に着けろ。ベルトで繋がれたポーチには、USBメモリーが入っている』
「…………こ、これ……ですか」

 日向はその言葉に従ってARデバイスとダイビングスーツを身に着けた。着たことがないため四苦八苦しながら、次第に疑問が湧き上がる。

「言われたとおりにした……でもこれは、俺の罪にどう関係するんですか? 今から、何をするっていうんですか? ……こ……ここはどこなんですか……」

 シルエットは意に介さない様子で、淡々と命令を続けた。
『お前がいる空間は物資搬入用の海中ドローンだ。5分後、人間が浮上できる深さに到達する。ハッチが開くまでにヘルメットを着用し、そしてそこを出ろ』

 日向は必死に理解しようと努め、混乱したまま影の説明を飲み下した。
 その影は、今説明したことを自分の口で説明し返してみよと、新たに命令する。言われた通りに説明を繰り返すと、影は再び命令を再開した。

『お前が到着する場所は、未来ノ島にある公園近くの海岸だ。そこにお前が最後に見てから8年間で成長し、未来ノ島学園附属未来ノ島高等専門学校二年生となった東雲柳がいる。東雲柳にUSBメモリーを手渡せ。命令は以上だ』

 日向はその命令をゆっくりと理解し、胸中にさまざまな感情が交錯する。
 不安と恐れ。そして罪の対象である少年と再会せよという命令に対する疑問。自らの罪が、この命令とどう関わるのかは分からない。
「……未来ノ島」
 しかし、状況からして命じられたことを果たす以外に選択肢はない。物資運搬用ドローンというからには、おそらく電気制御の出入り口。入れられた瞬間に聞いた音もその根拠となる。
 海の中で放り出されれば、刑務所の位置からして深ければ即死。
 海底のどのあたりの深さにいるのかを知る術もない。他に頼れる人間も、自由に扱えるツールもない。デバイスを触っても、影を呼んでも応答がない。
 先程ダイビングスーツに着替えるため立ち上がったが、直立することもできない狭さである。
 もしも自分の意思で扉を開けて外に出られたとして、浅くても海面まで辿り着けるかがわからないし、例え水面から顔を出せたとしても、日向は溺死するだろう。
 逃げられはしない。黙ってその島へ上陸するしか、生きる道はない。

 海中ドローンは静かに、海面近くへと浮上してるらしかった。水面に近づいてきてからようやく、現状の大まかな位置を示すピクトグラムが眼前に現れた。未来ノ島の地図と共に位置情報が開示される。
 日向はその間ARデバイスの指示に従い、ヘルメットをしっかりと装着した。これがあれば、少なくとも島までは命を失うことはない。
 物資運搬用ドローンの中は薄暗く、スーツの感触が肌を刺激する。

 ついにドローンが指定の深さに達する。
 ハッチが開いた。日向は恐怖を振り払い、命令通り行動することを心に決めた。
 体は海水に包まれ、ドローンから放り出される。上昇する泡の中で、ただ一つの使命を胸に刻み込み、体が浮き上がるままに上を目指した。

 人工島の海辺に上陸し、暗く静かな公園へと足を踏み入れた。木々が風にそよぎ、平和な風景を生み出している。誰もいないように思え、公園の奥へ歩く。濡れたままの体は重い。8年間の監獄生活で体力も落ちた。
 日向貴将は星を見上げる少年、東雲柳を見つけた。星々が煌めく空の下、時間が凍りつく。



 島の夜空は星々の静かな輝きによって照らされ、穏やかな海風が時折、葉擦れの音を奏でていた。
 この平和な光景の一角で、柳は深い思索に耽っている。周囲は静寂に包まれ、時を忘れさせるような静けさが漂っていた。
 心地よい。

 そんな中、過去を繋ぐ存在が近づく。
 海辺の静けさの中で、遠くからこちらを見つめる人影に気づいた。
 海の音さえも、意識から消え去ったかのように聞こえなくなる。
 人影は地面から発せられる陽炎に揺れながら、徐々にその輪郭をはっきりとさせていく。柳の心はその姿に引き寄せられるようにして、大きく揺れ動いた。

 目の前に現れたのは、深く信じ、そして裏切られた存在────日向貴将だった。

 島に足を踏み入れたこと自体、あり得ないはずの出来事。心臓が震え、胸の中で暴れ出す。
 先端技術で厳重に守られたこの島に、どうやって侵入した? 心中は疑問と困惑、そしてわずかに希望の光を見出そうとする葛藤で満ち溢れる。しかし、言葉は出ない。柳には、こんな場合へのマニュアルがない。

 その声は夜風に乗り、かすかに柳の耳に届いた。
「……東雲、柳くん?」
 柳はその声に身を硬くする。
「え…………?」
 心臓は早鐘を打ち、幼き日に硬い地面に叩きつけられ轟音に耳を塞がれた、あの無力感がリフレインする。
 記憶通りではあるが、若干掠れ、そして揺らぐ声。
「柳くん」
 もう一度名前を呼ばれたが、声が出せなかった。どうすれば良いかわからない。唇は震えて、喉が乾いた。
「……あ」
 柳は、返答なくただ静かに見つめ返していた。冷静さを取り戻そうと努める。
 揺れる日向の姿を、じっと見つめ続けた。日向はゆっくりと歩み寄ってきている。足は動かなかった。逃げるべきなのか、立ち向かうべきなのか、それとも何もせずにいることが最善なのか。
 考えようとするが、思考は雲散し形を成せない。ぐるぐると視界が回っている気がする。腹が硬くなり手が震える。背中が冷たく固まり動けない。胃袋が絞り上げられる。気持ちが悪い。
 これは、恐怖。

 分かってはいた。現在の自分はもう成人と言っていい背丈となり、様々な術を身につけてきた時間は、柳の身を守るだろう。
 記憶の中の日向よりも細くなっている気はしたが、あの事件当日までに過ごした日々で安心を感じた存在感は、そのまま恐怖感として現在の柳を圧倒する。
「…………せ、……んせ……」
 かつての信頼と裏切りによる痛みが、激しくせめぎ合う。

 海の音が戻ってきたとき、それはもはや平穏な波音ではなく、内面の嵐を反映するかのような荒々しい音となっていた。
 真意を探るように、柳はじっと彼の動きを追った。日向は立ち止まり、柳を見ていた。何をするつもりなのか。

 今更、何の用があるのか。
「……大きく、なったな……!」
 日向貴将の両目からは、涙がこぼれ落ちる。柳の困惑と長い沈黙の中、日向は勝手にも過ちと苦悩を吐露し始めた。
「……そうだな、俺が言えたことじゃない……本来なら、こうして君と対面することさえ許されない。君は俺の顔すら見たくなかったはずだ……」
 その後、日向は何かを荷物の中から取り出し、指で摘んでこちらに差し出す。
「…………ッ」
 しかし今の柳は、指一本自由に動かすことはできなかった。全身が固まり、反射的に片足が下がったが、それ以降のリアクションを取れない。
 日向が更にこちらへ近づこうと一歩動くと、ようやく足が動いて柳はまた、後退りした。

「……い…………」
 日向は近づくことが適切でないと考えたようで、USBドライブを柳の足元に投げる。
「……受け取って」
 柳はそれを拾うことなく、ただその存在を認識する。動こうとしない柳を見て、日向は言った。
「償っても償いきれない……君という人間をどれだけ傷つけたのか、俺は海の底で8年の間、ずっと考えていた」
「…………は……?」
 何を言われているのかが、わからない。

 柳はずっと苦しんできたのだ。
 この8年、日向貴将が海底に閉じ込められていることを前提として物理的な安心はあったが、自分自身というあるべき指標を失った。当然に周り中が持ち合わせている、存在への肯定意識。
 血の通った愛と優しさ、信じるという人間関係の基準を破壊されて、心理的に永久に解放されない苦しみの中だったのだ。
 日向は、他者との繋がり、その大切さ、優しくすることの意味、自信を持って生きることの楽しさを解いたその口で。
 変えられない出自、父を恨めと言った。偶然に居合わせたこと、自分自身の存在を呪えと。ならば最初から教えてくれなかった方が、きっと遥かに楽だった。

 償うつもりであったというのか。日向が?
「…………」
 そのつもりがあるのなら、なぜ柳を言葉で傷つけ、身体を地に落としたのか。殺そうとしたのか。
 償うというなら、あの時の行為は無かったことにしてほしい。
 時間を戻してほしい。記憶から消してほしい。痛みを取り去ってほしい。自分に元の人間性を返して欲しい。

「けど……俺は、君の役に立ってから死にたかった……!」
 その言葉は日向から発された。真意はわからない。
 日向が意識を失い、その口から直接に確かめることができなくなったからだ。

 咄嗟に体が動いた。
 呼吸、脈拍を確認する。怪我の有無、呼びかけ、瞳孔。数回の心配蘇生を試みる。何も起こらなかった。
 やがて視線の逃げ場を探すように、星々が静かに瞬く夜空を仰ぎ見る。
 手帳型デバイスを取り出し、淡々と通報する。何が起きたかは認識しているが、他人事のような距離感があった。

 この世を去った日向への最後の敬意とも取れる行動だが、同時に、自身の心の中で何かが閉ざされていくような感覚もあった。
「……もしもし、救急ですか。東雲柳と申します。たった今、未来ノ島西側の海岸沿い、『未来ノ島ビーチ西公園』で、44歳の男性が突然倒れて反応がありません。時刻は19:58です。その人の名前は、日向貴将です。現場に他の人はおらず、彼は水に濡れており、私の目の前で突然倒れました。目立った外傷は見当たらず、顔色は暗く、心拍と呼吸の両方を確認できません。心肺蘇生と人工呼吸を試みましたが、反応はありません。早急な救助をお願いします」

 感情を表に出すことなく、柳は投げられたUSBドライブを拾い上げた。ないに等しいほどの重さにもかかわらず、それは手の中でずしりと重かった。

 柳は自分に対してさえ、ここで仮面をかぶっていた。心を守るために。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 突然の出来事は、柳にとって数えきれない傷のひとつを再び浮き彫りにした。これまでどれほど深く仮面をかぶり、傷を隠して生きてきたのかを考える。

 通報後の事情聴取は淡々と進み、柳は必要な情報を提供した。警察署を出るとき、深い疲れが心を覆い尽くしている気がした。

 しかしそれ以上に、日向の言葉が心に重くのしかかる。
「役に立ってから死にたかった」という言葉は、柳がこれまで感じてきた痛みや苦悩を、ある種正当化するものだった。しかし、これからの自分の人生、今までの人生に対する意味が受け取れない。
 役に立つ? 自分の? 全てを打ち壊し、柳を空っぽの木偶の坊にした日向貴将が?
 母が警察署まで出向いてくれたが、彼女に向けた言葉も全てが機械的に感じた。感情の鈍化は、柳の内面と外面を遠く離れたものにしていく。これが柳の8年間だった。

 帰路につきながら、これからもこの仮面をかぶって生きていくと心に決めた。仮面をかぶることは、もう生き延びるための手段だった。自分を曝け出せば、また非常階段から突き落とされる。
 カウンセリングや家族の支え、友人たちの理解する姿勢もありながら、本当に自分の内面に触れることができた人は数少ない。
 いつも自分の感情を、弱さを隠し、人々が期待する強い柳でいることを選んだ。

 仮面の下にある数々の傷は、自身だけが知る深い闇だ。
 過去の事件で受けた傷だけではなく、それ以降に経験したすべての挫折や苦痛が生み出したものである。不自然と言われた。冷たいと言われた。不気味だと言われたこともあった。表情をパターン化し、ミリ単位で記憶して再現した。反応は穏やかで、全ての言葉に親切を含むことにした。それは他人からの評価を得る。攻撃的な人間を遠ざけ、暴力から逃れる手段。勉強し、知識を得て、他人への対処を訓練した。体を鍛えてアスリートになり、プロ選手という肩書を得て、柳に攻撃しようとする人間は格段に減った。それでも安心はできない。いつでも自分を嫌う人間はどこかにいて、柳自身もそれが自分の努力不足であるからだと感じ走ることをやめられなかった。
 無理をせず休めと、友人や家族は言ってくれる。しかし無理というものがわからない。体は動くし、脳は指令を出す。今日も生き残るため、すべての手段で強くあれと。
 夜風が柳の髪をなでる中、静かに目を閉じる。明日もまた仮面をかぶり、世界に立ち向かう。それが生き方であり、選んだ道だった。

 柳は知っていた。このままでは、人に囲まれていながらにして永久に一人きりであると。
 そして、それでいいと思っていた。戦いは、まだ終わっていない。傷を誰にも見せることなく、これからもひとりで抱えていく。

 柳は眠りにつくまでの間、終わりゆく日の静寂の中で、日向の最期の言葉を何度も反芻した。
 暗がりの中で、過去と現在が交錯する。日向がかつて自分に与えた深い傷と、その傷が時間と共にどのように変化してきたか。
 そして、日向の最期に見た、その悔恨に満ちた表情。

 柳の心は、「役に立ってから死にたかった」という言葉に重くのしかかる罪悪感と、同時に奇妙な救済感に満ちていた。
 かつての自分を苦しめた人物が、最後に己の過ちと向き合い、何かを伝えようとしたその行為。
 それが柳にとって計り知れない重さを持つ。

 横たわり天井を見上げながら、自分の中にある様々な感情を解きほぐそうと努めた。
 怒り、憎しみ、そして許し……しかし、最終的に支配したのは深い混乱と、失われた時間への哀愁だった。

 日向の存在が自分の人生にもたらした意味を、柳はまだ完全には理解できずにいた。

 日向の言葉と、出来事によって浮かび上がった事件の記憶で満たされていく。少年時代の自分、競技に打ち込む青年へと成長していく過程、そして今、プロアスリートとしての自分。
 それぞれの時期において、柳はどのように自分自身と向き合い、どのように成長してきたのか。日向との関係は、そのすべてにおいて、何らかの形で影を落としていた。

 しかし、柳の心の中で最も大きな場所を占めているのは、クリスや友人たちとの関係、そして彼らと共に過ごした時間の暖かさだった。
 彼らとの絆こそが、柳が自分自身の内面と、世界と向き合うための力の源泉であることを、この夜の孤独が教えてくれた。しかし、大切な何かが抜け落ちている。暖かさが存在こそすれ、そこに自分はいなかった。

 結局、眠りにつくまでの時間は柳にとって自己探求の旅となった。静かに目を閉じるとき、新たな日のために心を落ち着かせようとした。
 持ち帰ったUSBメモリーは、まだ机の上に転がっている。
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