大罪人の娘・前編

いずもカリーシ

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第参章 武田軍侵攻、策略の章

第二十八節 真・三方々原合戦

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1572年10月。

3万人の大軍を率いて甲斐国かいのくに[現在の山梨県]を出発した武田信玄は、まず徳川家康のいる遠江国とおとうみのくに[現在の静岡県西部]へと襲い掛かった。
徳川軍の兵も精強ぞろいではあったものの……
兵数で圧倒的に勝る武田軍が相手ではひとたまりもない。

徳川がたの城は次々と陥落し、武田軍は家康の居城・浜松城[現在の静岡県浜松市]へと迫りつつある。

 ◇

浜松城には、織田信長がつかわした3千人の援軍が既に着いていた。

大将は佐久間信盛さくまのぶもり
徳川軍と合わせ、およそ1万1千人の兵力となる。

「家康殿。
我らは兵の数こそ多くはありませんが……
!」

信盛のぶもり殿。
まことに有り難く存ずる」

「この城にもって武田軍を迎え撃ち……
攻め寄せる敵をことごとく鉄砲の餌食にしてやりましょう」
当然のごとく、信盛のぶもりは浜松城に籠城ろうじょうすることを勧める。

「果たして……
あの信玄が正面から攻めて来ますかな?」
一方の家康は、全く別のことを考えているようだ。

「どういう意味で?」
「ある『噂』が流れていることをご存知か?」

「噂?」


「それはまことで?
鉄砲が撃てない状況では、この城を落とすことなど不可能……」

左様さよう[その通り]。
あの信玄が……
愚かにも、この城を正面から攻めて来るはずがないでしょう」

家康の言ってることは的を得ている。
浜松城は、攻めて来る兵を様々な場所から狙撃そげきする設備がある。
加えて信盛が鉄砲の弾丸と火薬を大量に持ってきた。

いくら精強な武田軍とはいえ……


「ではどうなさる?
まさか……
城を出て戦うとおおせではありますまいな?」

「信玄は必ず、この城を素通りする。
それを……
我らは籠城する『ふり』をしながら待つ」

「籠城する、ふり?」
「そして……
ひそかに追い掛け、背後から鉄砲隊で攻めるのじゃ」

「撃って退く、撃って退くを繰り返して敵を消耗させると?」
「うむ。
一撃離脱戦法いちげきりだつせんぽう』でござる」

 ◇

一撃離脱戦法。

読んで字のごとく……
敵に一撃を食らわせ、すぐに離脱する。
ヒットエンドラン戦法やゲリラ戦法などとも言う。
要するに、『まともに戦わない』戦法のことだ。

やられた側はたまったものではない。
行軍中でも、休憩中でも、睡眠中でも、突然に敵から狙撃される。
自分の位置が分からないよう巧みに隠れて撃ってくる。
こちらは慌てて狙撃してくる兵の位置を探すが、その間も一人また一人と撃ち殺されていく。

音や火花で判断しながら敵の位置を探すしかない。
ようやく発見できた頃には、もう敵はいない。
離脱した後だからだ。

いつどこから狙撃されるか分からない。
常に気が抜けず、夜もおちおち眠れない。
兵たちは体力も精神も消耗し、士気は大きく落ちるだろう。

鉄砲の弾丸と火薬が『豊富』だからこそ可能な作戦でもある。

 ◇

家康の予想通り、武田軍は浜松城を素通りした。

少し間を置いて徳川・織田連合軍が後を追い……
三方ヶ原みかたがはらの台地を上がった瞬間、衝撃的な光景を目の当たりにする。

使番つかいばん[伝令のこと]が慌てて家康の元へ駆け込んで来た。
「殿!
た、武田軍が」

「落ち着け」
「全軍が布陣ふじんして我らに備えております」

「何っ!?
武田軍全軍が布陣!?
しまった……
我らの動きを読まれていたか!」

家康は慌てたが、逃げるわけにもいかない。
敵を見ただけで逃げ出したとあっては笑い物だ。
兵たちに動揺を見せるわけにもいかず、強気を装った。

「敵の全軍がいるなら、むしろ好都合よ。
鉄砲の的だらけではないか。
撃てば当たるぞ、ははは!」

「ただ……
敵が、『奇妙きみょう』な布陣をしているのです」

「奇妙な、布陣?
どんな布陣じゃ?」

「『魚鱗ぎょりんの陣』と思われます」
「魚鱗の陣だと!?
そんな馬鹿なことがあるか!
敵陣を見に行くぞ!」

魚鱗の陣とは、敵の『一点』を突破するために使う陣形である。
魚のうろこのような先の尖った三角形を想像してもらえば分かりやすい。
尖った針を突き刺すかのように敵に突撃し、それを深く刺して傷口を広げていく。

使
たった1万1千人の徳川軍に対して……
3万人もいる武田軍が使うべき陣形ではない。

なぜ、武田軍は魚鱗の陣なのだろうか?

 ◇

武田軍の奇妙な布陣を見た家康は、一瞬でその意図を悟る。

「敵はやはり……
鉄砲の弾丸と火薬が尽きていたのじゃ!
『突撃』という手段しか残っていないのであろう」

すぐに陣立じんだてを決めた。
「これは好機ぞ!
我らは『鶴翼かくよくの陣』に布陣せよ!」

鶴翼の陣とは、敵の『全体』を包囲するために使う陣形である。
鶴が翼を広げるように横に広がって敵を包み込む。
そして最後は翼を閉じて敵を殲滅せんめつする。

使
3万人の武田の大軍に対して……
たった1万1千人しかいない徳川軍が使うべき陣形ではない。

歴史上有名な『三方ヶ原みかたがはら合戦』。
2

この理由について、歴史書では納得のいく答えを今だに出せていない。

 ◇

家康の元へ、慌てて駆けて来る騎馬武者がいる。
その者は至極しごく真っ当な指摘を始めた。

「家康殿!
なぜ鶴翼かくよくの陣に?
左右に広がったことで中央が薄くなり、簡単に『突破』されてしまいますぞ!」

「信盛殿。
武田軍の前衛部隊は盾を構えている。
正面から鉄砲を撃ったところで、盾で弾かれてしまうではござらぬか」

家康の言っている盾とは、竹を束ねて縄で縛ったものである。
竹束たけたば』と呼ぶ。

元々、兵士たちは『木の板』を盾に使って敵の矢から身をまもるのが常識であった。
ただし。
鉄砲の弾丸は木の板などあっさりと貫通してしまう。
今までの常識は崩壊してしまった。

そこで木製の盾に代わって竹製の盾が登場する。
竹は木よりも薄いものの、円筒形えんとうけいのために『傾斜装甲けいしゃそうこう』を有している。

傾斜装甲とは……
自分に向かって正面から飛んでくる弾丸に対し、盾を斜めに構えている状態をイメージすると分かりやすい。
斜めに構えれば装甲の厚みは自然と増す。
弾丸は盾を貫通出来なくなってはじかれてしまう。

木の板よりも薄いが装甲は厚い竹束たけたばの登場によって、鉄砲隊の『正面』からの狙撃そげきは無力化された。
盾を構えていない『側面』か背後から狙撃しないと相手の身体に当てることができない。

「わしは……
明智光秀殿から、ある戦法を教わった。
十字砲火戦法じゅうじほうかせんぽう』じゃ」

「明智殿が?
具体的に、どうせよと?」

「『
と」

「あえて中央を薄く?
何と非常識な!」

「一見すると非常識ではあるが……
中央を薄くすれば、敵の突撃を『誘う』ことができる」

「ん!?
鉄砲隊を左右に広げたことで、突撃して来る敵の側面を狙撃できると?」

「盾を構えていない側面ならば……
敵を確実に撃ち殺せましょうぞ」

「なるほど。
敵がその罠にうまくまってくれれば良いが」
こう言うと、信盛は自軍へと戻っていく。

こうして織田軍鉄砲隊がやや右に、徳川軍鉄砲隊がやや左に展開し、瞬く間に鶴翼かくよくの陣への布陣が完了した。
突撃して来る武田軍を狙撃しようと今か今かと待ち構えている。

「さあどうする?
我が十字砲火から逃れるすべはないぞ!」
家康は必死に強がっていた。

惜しむべきは……
十字砲火を編み出した明智光秀本人が、ここにいなかったことだ。
いたらこう怪しんだに違いない。

「これは妙だ。
信玄がまことに突撃するつもりなら、布陣が完了する前にこそすべきであろうに。
もしや……
『罠』ではないか?」
と。

 ◇

いよいよ三方ヶ原みかたがはら合戦、開戦である。

武田軍の一部が左に動いた。
左側に広がるのかと思いきや、そうではない。
まるで『別動隊』かのようにどんどん離れていく。

これを見た家康は慌てた。
「我らの背後に回り込むつもりでは?
退路を断たれるぞ!」

左へと動く別動隊は、家康から見ると右へ動いている。
慌てた家康は……
直ちに右翼うよくにいる酒井忠次さかいただつぐ隊へ対応を命じた。

酒井忠次隊は、徳川軍最強を誇っている。
「これで……
別動隊に退路を断たれる心配はなくなった」

安堵の息を漏らした、その直後!
家康の顔がみるみる蒼白そうはくになった。

「これが『陽動作戦』だとしたら……?
しまった!
信玄めに、してやれられた!」


【次節予告 第二十九節 十字砲火の恐るべき威力】
一方の徳川・織田連合軍は……
鶴翼の陣によって左右に広がりつつ、Uの字になっていました。
そして、十字砲火の恐るべき威力を目の当たりにする瞬間が訪れたのです。
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