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第参章 武田軍侵攻、策略の章
第三十二節 空城の計、徳川家康の真の狙い
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徳川家康は、三方ヶ原合戦で惨敗した。
突撃するために魚鱗の陣を組んでいた武田軍であったが……
いつの間にか包囲殲滅するための鶴翼の陣へと変わり、美しい翼が生えていた。
武田信玄の采配が振られると、美しい翼は敵の側面へと回り込んで一気に襲い掛かって来る。
一方。
徳川・織田連合軍は、無防備な側面を武田四天王の山県昌景と内藤昌豊が襲い掛かって来るのを見て大いに驚愕し、狼狽した。
再び信玄の采配が振られると……
美しい翼が閉じ始め、徳川・織田連合軍はその中に閉じ込められた。
「殿!
お退きくだされっ!」
家康は旗本[親衛隊のこと]たちに守られながら慌てて退却を始める。
「徳川家康を生きて帰すなとの命令じゃ。
必ず討ち取れ!」
武田軍の執拗な追撃により……
さすがの家康も死を覚悟した、その時!
不思議なことが起こった。
「徳川家康!
このわしが見付けたり!」
「うぬは誰じゃ?
嘘を付くな!
家康はこっちじゃ!」
「惑わされるでない!
どちらも偽物じゃ!
本物の家康はここにいるぞ!」
何と、家康の居場所を知らせる兵士が次々と現れたのだ!
武田軍の兵士もいれば、武田軍の『ふり』をしている徳川軍の兵士まで混ざってしまっている。
肝心の徳川家康は、小太りの他にこれという特徴がない。
敵味方関係なく誰が家康なのか分からなくなった。
◇
遠江国・浜松城[現在の静岡県浜松市]。
一人の『武器商人』が、徳川家康の帰りを待っている。
名前を茶屋四郎次郎と言う。
数十年後に江戸幕府で大きな特権を与えられ、日本有数の豪商へと成り上がる男である。
「四郎次郎!
待たせたのう」
やたらと臭い男が声を掛けてきた。
見れば徳川家康本人だ。
逃げる途中で、恐怖のあまり大も小も漏らしたのだろうか。
思わず鼻を押さえそうになったが……
主に対して、さすがにそんな態度は取れない。
「家康様。
見事な惨敗だったようで……
一体、何が起こったのです?」
「我らは武田軍を密かに追った。
撃って逃げ、撃って逃げを繰り返せす戦法……
一撃離脱戦法よ」
「一撃離脱戦法?
それは妙ですな」
「何が妙なのじゃ?」
「そもそも一撃離脱戦法とは、まともに戦わない戦法でしょう?
まともに戦ってないのになぜ『惨敗』したので?」
痛いところを突かれた。
どうやら、四郎次郎は戦法のことをよく知っているようだ。
誤魔化しが通じない相手であった。
「そちは……
商人の割に、やけに戦法に詳しいではないか」
「ただの商人だと思ってもらったら困りますな。
それがしは、戦に必要なモノを扱う武器商人ですぞ。
戦のことはちゃんと学んでおります。
戦を知らずして、戦に必要なモノの商いはできますまい」
「確かにそうじゃ。
そちには誤魔化さずに話さねばならんか」
「そう願いたいですな……」
家康は、全てを打ち明けることにした。
◇
「武田軍を追って三方ヶ原の台地を上がったとき……
わしは見たのじゃ」
「何を見たので?」
「武田軍が、魚鱗の陣で布陣しているのを」
「魚鱗の陣?
そんな馬鹿な!
大軍がそんな陣形を使うはずがありますまい。
見間違えたのではなく?」
「そちは陣形にも詳しいのか。
見間違えたのではないぞ。
真に、魚鱗の陣で布陣しておったのじゃ」
「何と非常識な!」
「それを見たわしは、鶴翼の陣を組んだ」
「鶴翼の陣?
左右に広がる陣形ですか。
ん……
ああ、そういう狙いにございますか」
「そういう狙いよ」
「左右に広がり、側面から鉄砲で狙撃することを狙ったわけですな?」
「そうじゃ。
実際に、敵の前衛部隊の多くを倒すことができた。
倒れても倒れても向かって来たがな」
「何と凄まじい……」
「わしもそこまでは読んでいたのじゃ。
鉄砲隊の後ろに長槍隊を配置し、弾込めの時間を稼がせた」
「なるほど」
「わしは……
信玄の罠にまんまと嵌まっていた。
武田軍の魚鱗の陣は、わしを鶴翼の陣に布陣させるための餌であったのだからな」
「『餌』?
どういう意味です?」
「一撃離脱戦法は……
一撃を与えたら、すぐ離脱せねばならん。
これでは大した戦果にならないではないか」
「仕方ありますまい。
時間を掛けて何度も繰り返すことで、敵を精神的に追い詰めていく戦法なのです。
その間にも、家康様の他の城は武田軍によって次々と落とされてしまいますが」
「四郎次郎よ。
『既に』、多くの城が武田軍によって落とされている!」
「……」
「全ては、己の武力が足りないせいじゃ!
これがいかに歯痒いことか……
そちに分かるか?」
「お察しします」
「せめて……
敵に一矢報いてやりたかった!」
「武田軍の魚鱗の陣を見たとき……
家康様は、とてつもない誘惑に駆られたのでしょう?
『一撃離脱戦法より威力のある十字砲火戦法を使い、大きな戦果を上げてから浜松城へ凱旋したい』
と」
「その誘惑は、とてつもなく大きかった」
「武田信玄は……
家康様の気持ちを読み取った上で、魚鱗の陣に布陣したのでしょうか?」
「そういうことになる」
「何とも悪辣な……」
「『兵は詭道なり』。
孫子の兵法にもある。
これを実際に用いることができる武将はそうはいないがな」
「して……
戦はその後、どういう展開になったのです?」
「武田軍は、いつの間にか鶴翼の陣へと変わっていた。
あの武田四天王が左右に配置されたことに全く気付かなかった」
「それに側面を突かれたと?」
「我らは、前方から武田軍前衛部隊と、左側面を山県昌景隊、右側面を内藤昌豊隊と三方から包囲された」
「あの、泣く子も黙る武田四天王に包囲されたのですか……
生きて帰れただけでも幸運かもしれませんぞ」
「そうであろうな……
つくづく、信玄のやることは用意周到であったわ。
鉄砲の弾丸と火薬が尽きたとの噂も、自ら『曝け出した』に相違ない」
「自ら曝け出したですと!?」
「うむ。
わしが、安心して城を出るためにな」
「弱みというのは本来……
『隠したがる』ものでは?
それを自ら曝け出せば、誰もが疑わずに信じてしまいますぞ!」
「わしは……
見事にしてやられたのじゃ!」
◇
四郎次郎は、信玄のもう一つの狙いに気付いた。
「家康様!
兵法によると……
鶴翼の陣は、左右の翼の部分に強力な軍勢を置くと聞きます。
まさか!」
「そのまさかじゃ。
わしは、最強部隊を中央から離してしまった……」
「兵法を知らぬ者は、最強部隊を必ず手元に置くでしょう。
ただ家康様は兵法にお詳しい……
それすらも逆手に取られたと?」
「わしが、ここまでしてやられるとは……
全てわしのせいじゃ!
わしが弱くて愚かなばかりに、大勢の者を死なせてしまった!」
「戦は勝利することもあれば敗北することもあります。
敗北したとしても……
反省して学び、次の勝利に繋げれば良いこと。
それよりも先のことをお考えください。
武田軍は、追撃して来ますぞ」
「追撃なら、振りほどいたではないか」
「いえ。
もっと本格的な追撃があるはず。
急ぎ備えをなされませ」
「ならば……
城の門を全て開けるか」
「は?」
◇
城の門を全て開ける!?
この男は一体、何を言っているのか?
惨敗して気でも狂ったか……
四郎次郎はそう思わずにはいられなかった。
「四郎次郎よ。
わしの気が触れたとでも思っているのであろう?」
「い、いえ……」
「図星だな。
わしが仕掛けようとしているのは……
『空城の計』よ」
「空城の計?
それは……
わざと全ての門を開けて城をがら空きに見せることで、敵に罠かと警戒させる策略のことで?」
「うむ」
「用心深い大将ほど警戒して退却するかもしれませんが……
あの武田軍に通用しましょうか?」
「わしは警戒させるとは申しておらんぞ。
武田軍を城の中に入り込ませるのが、真の狙いだからのう」
「え!?
城の中に入り込ませて良いのですか?」
「もう忘れたのか。
そちは城の中に入ってからここまで来るのに、真っ直ぐの道を進んで来たか?」
「い、いえ。
道は何度も折れ曲がっておりました。
そのうち方向が分からなくなり、案内がなければ道に迷っていたかも……
ん!?
ああ、そういうことですか!」
「そういうことじゃ。
道が何度も折れ曲がっているのは、途中に兵を隠すためよ」
「鉄砲で狙撃するための……
ですな?」
「ありとあらゆる『場所』からな」
【次節予告 第三十三節 兵士なのか、民間人なのか】
南蛮人が日本にもたらした新兵器・火縄銃を利用した戦法が、短期間で著しい進化を遂げていく中。
ある者たちは……
凄まじい威力とは別の、ある『特徴』に注目しました。
突撃するために魚鱗の陣を組んでいた武田軍であったが……
いつの間にか包囲殲滅するための鶴翼の陣へと変わり、美しい翼が生えていた。
武田信玄の采配が振られると、美しい翼は敵の側面へと回り込んで一気に襲い掛かって来る。
一方。
徳川・織田連合軍は、無防備な側面を武田四天王の山県昌景と内藤昌豊が襲い掛かって来るのを見て大いに驚愕し、狼狽した。
再び信玄の采配が振られると……
美しい翼が閉じ始め、徳川・織田連合軍はその中に閉じ込められた。
「殿!
お退きくだされっ!」
家康は旗本[親衛隊のこと]たちに守られながら慌てて退却を始める。
「徳川家康を生きて帰すなとの命令じゃ。
必ず討ち取れ!」
武田軍の執拗な追撃により……
さすがの家康も死を覚悟した、その時!
不思議なことが起こった。
「徳川家康!
このわしが見付けたり!」
「うぬは誰じゃ?
嘘を付くな!
家康はこっちじゃ!」
「惑わされるでない!
どちらも偽物じゃ!
本物の家康はここにいるぞ!」
何と、家康の居場所を知らせる兵士が次々と現れたのだ!
武田軍の兵士もいれば、武田軍の『ふり』をしている徳川軍の兵士まで混ざってしまっている。
肝心の徳川家康は、小太りの他にこれという特徴がない。
敵味方関係なく誰が家康なのか分からなくなった。
◇
遠江国・浜松城[現在の静岡県浜松市]。
一人の『武器商人』が、徳川家康の帰りを待っている。
名前を茶屋四郎次郎と言う。
数十年後に江戸幕府で大きな特権を与えられ、日本有数の豪商へと成り上がる男である。
「四郎次郎!
待たせたのう」
やたらと臭い男が声を掛けてきた。
見れば徳川家康本人だ。
逃げる途中で、恐怖のあまり大も小も漏らしたのだろうか。
思わず鼻を押さえそうになったが……
主に対して、さすがにそんな態度は取れない。
「家康様。
見事な惨敗だったようで……
一体、何が起こったのです?」
「我らは武田軍を密かに追った。
撃って逃げ、撃って逃げを繰り返せす戦法……
一撃離脱戦法よ」
「一撃離脱戦法?
それは妙ですな」
「何が妙なのじゃ?」
「そもそも一撃離脱戦法とは、まともに戦わない戦法でしょう?
まともに戦ってないのになぜ『惨敗』したので?」
痛いところを突かれた。
どうやら、四郎次郎は戦法のことをよく知っているようだ。
誤魔化しが通じない相手であった。
「そちは……
商人の割に、やけに戦法に詳しいではないか」
「ただの商人だと思ってもらったら困りますな。
それがしは、戦に必要なモノを扱う武器商人ですぞ。
戦のことはちゃんと学んでおります。
戦を知らずして、戦に必要なモノの商いはできますまい」
「確かにそうじゃ。
そちには誤魔化さずに話さねばならんか」
「そう願いたいですな……」
家康は、全てを打ち明けることにした。
◇
「武田軍を追って三方ヶ原の台地を上がったとき……
わしは見たのじゃ」
「何を見たので?」
「武田軍が、魚鱗の陣で布陣しているのを」
「魚鱗の陣?
そんな馬鹿な!
大軍がそんな陣形を使うはずがありますまい。
見間違えたのではなく?」
「そちは陣形にも詳しいのか。
見間違えたのではないぞ。
真に、魚鱗の陣で布陣しておったのじゃ」
「何と非常識な!」
「それを見たわしは、鶴翼の陣を組んだ」
「鶴翼の陣?
左右に広がる陣形ですか。
ん……
ああ、そういう狙いにございますか」
「そういう狙いよ」
「左右に広がり、側面から鉄砲で狙撃することを狙ったわけですな?」
「そうじゃ。
実際に、敵の前衛部隊の多くを倒すことができた。
倒れても倒れても向かって来たがな」
「何と凄まじい……」
「わしもそこまでは読んでいたのじゃ。
鉄砲隊の後ろに長槍隊を配置し、弾込めの時間を稼がせた」
「なるほど」
「わしは……
信玄の罠にまんまと嵌まっていた。
武田軍の魚鱗の陣は、わしを鶴翼の陣に布陣させるための餌であったのだからな」
「『餌』?
どういう意味です?」
「一撃離脱戦法は……
一撃を与えたら、すぐ離脱せねばならん。
これでは大した戦果にならないではないか」
「仕方ありますまい。
時間を掛けて何度も繰り返すことで、敵を精神的に追い詰めていく戦法なのです。
その間にも、家康様の他の城は武田軍によって次々と落とされてしまいますが」
「四郎次郎よ。
『既に』、多くの城が武田軍によって落とされている!」
「……」
「全ては、己の武力が足りないせいじゃ!
これがいかに歯痒いことか……
そちに分かるか?」
「お察しします」
「せめて……
敵に一矢報いてやりたかった!」
「武田軍の魚鱗の陣を見たとき……
家康様は、とてつもない誘惑に駆られたのでしょう?
『一撃離脱戦法より威力のある十字砲火戦法を使い、大きな戦果を上げてから浜松城へ凱旋したい』
と」
「その誘惑は、とてつもなく大きかった」
「武田信玄は……
家康様の気持ちを読み取った上で、魚鱗の陣に布陣したのでしょうか?」
「そういうことになる」
「何とも悪辣な……」
「『兵は詭道なり』。
孫子の兵法にもある。
これを実際に用いることができる武将はそうはいないがな」
「して……
戦はその後、どういう展開になったのです?」
「武田軍は、いつの間にか鶴翼の陣へと変わっていた。
あの武田四天王が左右に配置されたことに全く気付かなかった」
「それに側面を突かれたと?」
「我らは、前方から武田軍前衛部隊と、左側面を山県昌景隊、右側面を内藤昌豊隊と三方から包囲された」
「あの、泣く子も黙る武田四天王に包囲されたのですか……
生きて帰れただけでも幸運かもしれませんぞ」
「そうであろうな……
つくづく、信玄のやることは用意周到であったわ。
鉄砲の弾丸と火薬が尽きたとの噂も、自ら『曝け出した』に相違ない」
「自ら曝け出したですと!?」
「うむ。
わしが、安心して城を出るためにな」
「弱みというのは本来……
『隠したがる』ものでは?
それを自ら曝け出せば、誰もが疑わずに信じてしまいますぞ!」
「わしは……
見事にしてやられたのじゃ!」
◇
四郎次郎は、信玄のもう一つの狙いに気付いた。
「家康様!
兵法によると……
鶴翼の陣は、左右の翼の部分に強力な軍勢を置くと聞きます。
まさか!」
「そのまさかじゃ。
わしは、最強部隊を中央から離してしまった……」
「兵法を知らぬ者は、最強部隊を必ず手元に置くでしょう。
ただ家康様は兵法にお詳しい……
それすらも逆手に取られたと?」
「わしが、ここまでしてやられるとは……
全てわしのせいじゃ!
わしが弱くて愚かなばかりに、大勢の者を死なせてしまった!」
「戦は勝利することもあれば敗北することもあります。
敗北したとしても……
反省して学び、次の勝利に繋げれば良いこと。
それよりも先のことをお考えください。
武田軍は、追撃して来ますぞ」
「追撃なら、振りほどいたではないか」
「いえ。
もっと本格的な追撃があるはず。
急ぎ備えをなされませ」
「ならば……
城の門を全て開けるか」
「は?」
◇
城の門を全て開ける!?
この男は一体、何を言っているのか?
惨敗して気でも狂ったか……
四郎次郎はそう思わずにはいられなかった。
「四郎次郎よ。
わしの気が触れたとでも思っているのであろう?」
「い、いえ……」
「図星だな。
わしが仕掛けようとしているのは……
『空城の計』よ」
「空城の計?
それは……
わざと全ての門を開けて城をがら空きに見せることで、敵に罠かと警戒させる策略のことで?」
「うむ」
「用心深い大将ほど警戒して退却するかもしれませんが……
あの武田軍に通用しましょうか?」
「わしは警戒させるとは申しておらんぞ。
武田軍を城の中に入り込ませるのが、真の狙いだからのう」
「え!?
城の中に入り込ませて良いのですか?」
「もう忘れたのか。
そちは城の中に入ってからここまで来るのに、真っ直ぐの道を進んで来たか?」
「い、いえ。
道は何度も折れ曲がっておりました。
そのうち方向が分からなくなり、案内がなければ道に迷っていたかも……
ん!?
ああ、そういうことですか!」
「そういうことじゃ。
道が何度も折れ曲がっているのは、途中に兵を隠すためよ」
「鉄砲で狙撃するための……
ですな?」
「ありとあらゆる『場所』からな」
【次節予告 第三十三節 兵士なのか、民間人なのか】
南蛮人が日本にもたらした新兵器・火縄銃を利用した戦法が、短期間で著しい進化を遂げていく中。
ある者たちは……
凄まじい威力とは別の、ある『特徴』に注目しました。
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