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第肆章 武器商人の都、京都炎上の章
第四十六節 一つの戦争を終わらせる絶好の機会
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前代未聞の当主交代が行われた。
「病に冒された武田信玄の『隠居』に伴い……
武田家は、織田家の血を引く四郎勝頼の息子・信勝を次の当主とする」
と。
そして。
徳川家康から奪った城に守備兵を残し、武田軍本隊はすべて甲斐国[現在の山梨県]へと撤退したのである。
一つの戦争を終わらせる絶好の『機会』が到来した。
◇
武田家の情報を掴んだ織田信長が……
6人の側近を集めている。
筆頭の菅屋長頼に続き、福富秀勝、長谷川秀一、矢部家定、堀久太郎[後の堀秀政]、そして万見仙千代である。
特に久太郎と仙千代は20歳にもなっていない若者だ。
「武田信玄の隠居に伴い、『孫』の信勝が次の当主となったらしい。
そちたちの思うところを申してみよ」
筆頭格の菅屋長頼が発言する。
「信玄は隠居したのではなく、亡くなったのでしょう」
「で、あろうな」
「ただし。
信玄を超えるほどの軍略の才を持つ四郎勝頼を飛び越えて、その息子の信勝を次の当主とすることは……
あまりに『不自然』な当主交代ではありませんか?」
「不自然?」
「武田家は、一つの『意志』を伝えていると感じます」
「長頼よ。
我が愛娘が産んだ男子を次の当主に据えることで、武田家はわしとの和平を望んでいると申したいのであろう?」
「御意」
「して……
そちは、どうすべきだと?」
「信長様。
これは、武田家との戦を終わらせる『好機[チャンス]』到来と考えるべきではないでしょうか?」
「何っ!?」
「武田家との和平に応じる替わりに……
今回の戦で徳川家康殿から奪った領地を全て返還するという『条件』を課しては如何?
そうすれば。
一滴の血を流すことなく家康殿を助け、この戦を終わらせることができます」
「おお!
確かにそうじゃ!」
仙千代を除く5人が強く頷いている。
長頼はさらに話を続けた。
「戦を始めることよりも、戦を終わらせることの方がはるかに難しいこと。
古今東西どの戦においても共通する真理です。
今、最も優先すべきは……
一途に支えた我らを裏切って討伐命令まで出した室町幕府と、何年も我らを苦しめ続けた朝倉・浅井連合を討滅することでしょう」
「……」
◇
「武田家が和平を望んでいる……
この好機を逃さず、武田家との戦争を終結させるのです」
戦を始めることよりも、戦を終わらせることの方がはるかに難しいことを考えれば……
菅屋長頼の提案は非常に的確な『戦略』だと言える。
戦略とは、何も戦争に勝利する作戦を練ることだけを指すのではない。
出口戦略。
つまり、戦争終結という出口に導くところまでが本当の戦略である。
戦争が外交戦略の『手段』に過ぎないと言われる所以だ。
◇
何の戦略もなく行き当たりばったりの人間が政府を牛耳った挙句の一つが……
目的と手段を間違えた、あのグダグダな太平洋戦争だろう。
「『先手』を打って攻撃を仕掛けようではないか。
敵軍を壊滅させれば、敵は戦意を喪失して和平へと傾くぞ」
こう考えた人間の頭の中は、さぞかし一面のお花畑となっていたに違いない。
自国内に攻めて来た敵軍を迎撃するならいざ知らず……
先手を打って攻撃を仕掛けるなど、敵の国土を蹂躙するのと何ら変わりない行為である。
国土を蹂躙された敵国民が戦意を喪失して借りてきた猫のように『大人しく』なり、和平へと傾くことなど有り得るのだろうか?
天地がひっくり返ってもそんなことは有り得ない!
リベンジに燃えて一つになった敵国民の戦意は高揚し、ますます厄介極まりない相手と化す。
こうして戦争はグダグダな『消耗戦』へと移行するのだ。
目の前のことしか考える余裕がなく、出口戦略を立てることができないならば……
余計なことはしない方が良い。
◇
さて。
非常に的確な戦略を提案した長頼も、同時に主が全く乗り気でないことを見抜いていた。
「恐れながら申し上げます。
信長様には……
武田家と和平を結ぶ意志など、微塵もないのではありませんか?」
「微塵もない!?」
万見仙千代を除く5人が驚きのあまりに声を上げる。
主の本心を早く知りたいのか、堀久太郎が質問を始めた。
「信長様。
長頼殿の仰っていることは真でございますか?」
主はようやく自分の本心を話すことにしたようだ。
「長頼よ。
さすがではないか……
皆を集めたのは、まさにこのこと。
今後の『方針』をはっきりと示しておく必要を感じたからじゃ」
「どのような方針を?」
「武田家は、『不倶戴天の敵』であると」
「不倶戴天の敵!?
この戦を、我らと武田家のどちらかが滅びるまで続けるおつもりですか?」
「久太郎。
止めても無駄じゃ。
これはもう、決めたことなのだからな」
側近たちは思わず息を飲んだが……
誰一人といえども、主に対して理由を問うことをしない。
「『なぜ』不倶戴天の敵なのですか?」
と。
主が手元に置いて大切に育てた愛娘が、武田家に嫁いで数年で亡くなったこと。
亡くなった原因が武田家の失態であると主が思い込んでいること。
主の近くで仕える側近が、このことを知らないはずはない。
ただし。
織田家と武田家のどちらかが滅びるまで戦う方針が出されるのは『想定外』であった。
あまりに激しく燃え上がる復讐の炎に、側近たちは圧倒されて息を飲んだのである。
◇
一つ。
摩訶不思議なことがある。
どの歴史書を見ても……
手元に置いて育てた娘の死に、信長がどんな反応をしたかが全く書かれていないことだ。
仮に。
手元に置いて育てていない娘であったとしても、親族の死に何の反応もしない人間がいるのだろうか?
他人に全く気配りのできない冷酷で機械のような人間であれば別だが……
そもそも信長は、家臣の妻に過ぎない寧々[豊臣秀吉の正妻]という女性へ励ましの手紙を出すほどに他人への気配りを欠かさないタイプの人間である。
そんな人間が、手元に置いて育てた愛娘の死に何の反応も示さないはずがない!
愛娘を喪った悲嘆にくれて激しく涙し、その原因を徹底的に調べようとし、原因を作り出した人間をこの世から一掃しようと激しい復讐の炎を燃やしたとして何の不思議があるだろうか?
ちなみに。
甲陽軍鑑という歴史書は……
事実を捻じ曲げた上で、こんな『デマ』まで書いている。
「息子を産んだときの難産で亡くなった」
と。
その後に書かれた歴史書も……
研究者たちが誤りだと指摘しているのにも関わらず、このデマを真に受けて同じことを書いている有様だ。
挙句の果てに、信長が武田家を滅ぼしたのは『狂気』だと書く始末である。
なぜ、手元に置いて育てた娘が亡くなったときの信長の感情を一切書かないのだろうか?
人間を何だと思っているのだろうか?
女性は道具だから書く必要すらないとでも思っているのだろうか?
出鱈目を書く歴史書の筆者よりも、むしろ信長の方がはるかに女性を『尊重』しているように思えてならないのだが。
◇
さて。
側近たちが息を飲んでいる状況で……
堀久太郎が提案を始めた。
「信長様。
恐れながら、一つ作戦をご提案させて頂いてよろしいでしょうか?」
「申せ」
「はっ。
まずは全軍で室町幕府を討つのはいかがでしょう?」
「室町幕府だと?」
「幕府を滅ぼした後は、その勢いで朝倉・浅井連合を討つのが良いと考えます」
「久太郎よ。
わしは……
はっきりと方針を伝えたつもりだが?
『武田家は、不倶戴天の敵である』
とな。
それにも関わらず、なぜ室町幕府や朝倉・浅井連合を討つことを提案する?
方針から逸れているではないか」
「信長様。
我らが『今』、置かれている状況をお考えください」
「今?」
「我らの敵は武田家のみではありません。
信長様を討伐する命令を出した室町幕府、そして朝倉・浅井連合……
これら複数の敵と同時に戦うことは兵力分散という『愚[兵法で間違いとされている行為]』を犯す羽目に陥ります」
「戦う相手を絞れと申すのか?」
「その通りです。
「複数の相手に勝利する方法はたった一つしかありません。
各個撃破戦法……
高い『機動力』をもって、圧倒的な『兵力』で弱い敵から順番に討つ。
信長様が最も得意とされている戦法ではありませんか」
「なるほど。
それで……
まずは全軍で室町幕府を討つことを提案する理由はどこにある?
幕府が最も弱いからか?」
「はい。
ただし……
『今』だけです」
室町幕府が最も弱いのは、今だけであること。
どういう意味なのだろうか?
【次節予告 第四十七節 偽りの和平】
織田信長から意見を求められた万見仙千代は、こう答えます。
「信長様に和平の意志があると勝頼を『欺いて』時間を稼ぐのです。
これこそ勝頼の動きを封じる、最も効果的な方法ではありませんか?」
と。
「病に冒された武田信玄の『隠居』に伴い……
武田家は、織田家の血を引く四郎勝頼の息子・信勝を次の当主とする」
と。
そして。
徳川家康から奪った城に守備兵を残し、武田軍本隊はすべて甲斐国[現在の山梨県]へと撤退したのである。
一つの戦争を終わらせる絶好の『機会』が到来した。
◇
武田家の情報を掴んだ織田信長が……
6人の側近を集めている。
筆頭の菅屋長頼に続き、福富秀勝、長谷川秀一、矢部家定、堀久太郎[後の堀秀政]、そして万見仙千代である。
特に久太郎と仙千代は20歳にもなっていない若者だ。
「武田信玄の隠居に伴い、『孫』の信勝が次の当主となったらしい。
そちたちの思うところを申してみよ」
筆頭格の菅屋長頼が発言する。
「信玄は隠居したのではなく、亡くなったのでしょう」
「で、あろうな」
「ただし。
信玄を超えるほどの軍略の才を持つ四郎勝頼を飛び越えて、その息子の信勝を次の当主とすることは……
あまりに『不自然』な当主交代ではありませんか?」
「不自然?」
「武田家は、一つの『意志』を伝えていると感じます」
「長頼よ。
我が愛娘が産んだ男子を次の当主に据えることで、武田家はわしとの和平を望んでいると申したいのであろう?」
「御意」
「して……
そちは、どうすべきだと?」
「信長様。
これは、武田家との戦を終わらせる『好機[チャンス]』到来と考えるべきではないでしょうか?」
「何っ!?」
「武田家との和平に応じる替わりに……
今回の戦で徳川家康殿から奪った領地を全て返還するという『条件』を課しては如何?
そうすれば。
一滴の血を流すことなく家康殿を助け、この戦を終わらせることができます」
「おお!
確かにそうじゃ!」
仙千代を除く5人が強く頷いている。
長頼はさらに話を続けた。
「戦を始めることよりも、戦を終わらせることの方がはるかに難しいこと。
古今東西どの戦においても共通する真理です。
今、最も優先すべきは……
一途に支えた我らを裏切って討伐命令まで出した室町幕府と、何年も我らを苦しめ続けた朝倉・浅井連合を討滅することでしょう」
「……」
◇
「武田家が和平を望んでいる……
この好機を逃さず、武田家との戦争を終結させるのです」
戦を始めることよりも、戦を終わらせることの方がはるかに難しいことを考えれば……
菅屋長頼の提案は非常に的確な『戦略』だと言える。
戦略とは、何も戦争に勝利する作戦を練ることだけを指すのではない。
出口戦略。
つまり、戦争終結という出口に導くところまでが本当の戦略である。
戦争が外交戦略の『手段』に過ぎないと言われる所以だ。
◇
何の戦略もなく行き当たりばったりの人間が政府を牛耳った挙句の一つが……
目的と手段を間違えた、あのグダグダな太平洋戦争だろう。
「『先手』を打って攻撃を仕掛けようではないか。
敵軍を壊滅させれば、敵は戦意を喪失して和平へと傾くぞ」
こう考えた人間の頭の中は、さぞかし一面のお花畑となっていたに違いない。
自国内に攻めて来た敵軍を迎撃するならいざ知らず……
先手を打って攻撃を仕掛けるなど、敵の国土を蹂躙するのと何ら変わりない行為である。
国土を蹂躙された敵国民が戦意を喪失して借りてきた猫のように『大人しく』なり、和平へと傾くことなど有り得るのだろうか?
天地がひっくり返ってもそんなことは有り得ない!
リベンジに燃えて一つになった敵国民の戦意は高揚し、ますます厄介極まりない相手と化す。
こうして戦争はグダグダな『消耗戦』へと移行するのだ。
目の前のことしか考える余裕がなく、出口戦略を立てることができないならば……
余計なことはしない方が良い。
◇
さて。
非常に的確な戦略を提案した長頼も、同時に主が全く乗り気でないことを見抜いていた。
「恐れながら申し上げます。
信長様には……
武田家と和平を結ぶ意志など、微塵もないのではありませんか?」
「微塵もない!?」
万見仙千代を除く5人が驚きのあまりに声を上げる。
主の本心を早く知りたいのか、堀久太郎が質問を始めた。
「信長様。
長頼殿の仰っていることは真でございますか?」
主はようやく自分の本心を話すことにしたようだ。
「長頼よ。
さすがではないか……
皆を集めたのは、まさにこのこと。
今後の『方針』をはっきりと示しておく必要を感じたからじゃ」
「どのような方針を?」
「武田家は、『不倶戴天の敵』であると」
「不倶戴天の敵!?
この戦を、我らと武田家のどちらかが滅びるまで続けるおつもりですか?」
「久太郎。
止めても無駄じゃ。
これはもう、決めたことなのだからな」
側近たちは思わず息を飲んだが……
誰一人といえども、主に対して理由を問うことをしない。
「『なぜ』不倶戴天の敵なのですか?」
と。
主が手元に置いて大切に育てた愛娘が、武田家に嫁いで数年で亡くなったこと。
亡くなった原因が武田家の失態であると主が思い込んでいること。
主の近くで仕える側近が、このことを知らないはずはない。
ただし。
織田家と武田家のどちらかが滅びるまで戦う方針が出されるのは『想定外』であった。
あまりに激しく燃え上がる復讐の炎に、側近たちは圧倒されて息を飲んだのである。
◇
一つ。
摩訶不思議なことがある。
どの歴史書を見ても……
手元に置いて育てた娘の死に、信長がどんな反応をしたかが全く書かれていないことだ。
仮に。
手元に置いて育てていない娘であったとしても、親族の死に何の反応もしない人間がいるのだろうか?
他人に全く気配りのできない冷酷で機械のような人間であれば別だが……
そもそも信長は、家臣の妻に過ぎない寧々[豊臣秀吉の正妻]という女性へ励ましの手紙を出すほどに他人への気配りを欠かさないタイプの人間である。
そんな人間が、手元に置いて育てた愛娘の死に何の反応も示さないはずがない!
愛娘を喪った悲嘆にくれて激しく涙し、その原因を徹底的に調べようとし、原因を作り出した人間をこの世から一掃しようと激しい復讐の炎を燃やしたとして何の不思議があるだろうか?
ちなみに。
甲陽軍鑑という歴史書は……
事実を捻じ曲げた上で、こんな『デマ』まで書いている。
「息子を産んだときの難産で亡くなった」
と。
その後に書かれた歴史書も……
研究者たちが誤りだと指摘しているのにも関わらず、このデマを真に受けて同じことを書いている有様だ。
挙句の果てに、信長が武田家を滅ぼしたのは『狂気』だと書く始末である。
なぜ、手元に置いて育てた娘が亡くなったときの信長の感情を一切書かないのだろうか?
人間を何だと思っているのだろうか?
女性は道具だから書く必要すらないとでも思っているのだろうか?
出鱈目を書く歴史書の筆者よりも、むしろ信長の方がはるかに女性を『尊重』しているように思えてならないのだが。
◇
さて。
側近たちが息を飲んでいる状況で……
堀久太郎が提案を始めた。
「信長様。
恐れながら、一つ作戦をご提案させて頂いてよろしいでしょうか?」
「申せ」
「はっ。
まずは全軍で室町幕府を討つのはいかがでしょう?」
「室町幕府だと?」
「幕府を滅ぼした後は、その勢いで朝倉・浅井連合を討つのが良いと考えます」
「久太郎よ。
わしは……
はっきりと方針を伝えたつもりだが?
『武田家は、不倶戴天の敵である』
とな。
それにも関わらず、なぜ室町幕府や朝倉・浅井連合を討つことを提案する?
方針から逸れているではないか」
「信長様。
我らが『今』、置かれている状況をお考えください」
「今?」
「我らの敵は武田家のみではありません。
信長様を討伐する命令を出した室町幕府、そして朝倉・浅井連合……
これら複数の敵と同時に戦うことは兵力分散という『愚[兵法で間違いとされている行為]』を犯す羽目に陥ります」
「戦う相手を絞れと申すのか?」
「その通りです。
「複数の相手に勝利する方法はたった一つしかありません。
各個撃破戦法……
高い『機動力』をもって、圧倒的な『兵力』で弱い敵から順番に討つ。
信長様が最も得意とされている戦法ではありませんか」
「なるほど。
それで……
まずは全軍で室町幕府を討つことを提案する理由はどこにある?
幕府が最も弱いからか?」
「はい。
ただし……
『今』だけです」
室町幕府が最も弱いのは、今だけであること。
どういう意味なのだろうか?
【次節予告 第四十七節 偽りの和平】
織田信長から意見を求められた万見仙千代は、こう答えます。
「信長様に和平の意志があると勝頼を『欺いて』時間を稼ぐのです。
これこそ勝頼の動きを封じる、最も効果的な方法ではありませんか?」
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