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【本編】
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しおりを挟む頭の中がふわふわする。
きし麺がゆらゆら女に姿を変えて、じりじりにじり寄ってくる。
伸ばされてきた手が指先から手首を伝って、腕に絡められてくる。
あったかい。
あったかくて、柔らかい。
ふんわり漂う良い匂いに、眩暈がする。
ぐらぐらぐらぐら視界が回る。
ゆらゆら女がぐんにゃり歪んでまたきし麺に変わった。
きし麺。
池田。
そうだ、池田はどこに行ったんだろう?
はっきりしない視界の中で白金の髪を探してみれば、伸ばされた細い指が顎を掴んできた。
「ちょっと涼ちゃん、余所見しないの」
「え、」
近い。
振り向けばゆらゆら女の顔が間近に迫っていた。
目が据わっている。
完全に酔っ払ってる。
しな垂れかかってくる身体からさり気なく逃げようと身を引けば、背中にぎゅっと顎鬚男の肩がぶつかる。
何で俺、知らない人間にぎゅうぎゅう挟まれてるんだろう。
「ねえ涼二くん、本当にほんとに玖朗の親戚じゃないの? まったくの赤の他人なの?」
「……他人れす……すいません」
さっきから、ゆらゆら女は同じ質問ばかり投げてくる。
玖朗とはどういう関係なのか、本当に親戚じゃないのか、遠い遠い縁で少しでも血がつながっているんじゃないかと。
何度違いますと返事をしても、微妙に納得出来ないような顔をして頬を膨らませる。
池田と同じ年なら……いや、同じ年とまではいかなくても、酒を飲んでいる時点で明らかに年上なのに、その子供っぽい仕草にちょっと見蕩れてしまう。
ゆらゆら女は綺麗な女だった。
そして、仕草はどことなく可愛い。
腕を絡められれば戸惑いはするけど、嫌悪感は湧いてこない。
無遠慮に頬に触られても、びっくりはするけど嫌な気はしない。
この人は池田の彼女だ、俺が興味を持ったってどうしようもない……そう思うのに、赤い唇に目を奪われる。
この唇が池田に触るんだと思うと、何だか妙な気分になった。
「でも、親戚じゃないなら何で? なんで?」
「な、何がれすか……」
「何で他人の涼二くんが、玖朗の部屋から出てくるの?」
そんなこと言われても……ベッド借りて居眠りしていたから、としか返事のしようがない。
戸惑い返答の遅れる肩に、ちょこんと頬が乗っかってきた。
そのままゆったりと目を瞑る。
睫毛が長い。
「今まで誰も玖朗の部屋入ったことないんだよ? 玖朗、あのドア触るだけでも怒るんだもん。そんな部屋から何で涼二くんが出てくるの?」
「べっど……借りれらから……」
「何でベッド貸してくれるの?」
「……わかんないれす……こまづかいらから……?」
分からない。
同じ言葉に何度も同じ言葉で返事をするのも、正直しんどい。
頭がふわふわして、ゆらゆら女の声がまるで子守唄みたいに聞こえる。
どことなく恨みがましい子守唄。
おかしい。
さっきから飲んでいるのは、ジュースやコーヒーばかりのはずなのに、何で意識が朦朧とするんだろう。
ふにゃふにゃになっているゆらゆら女につられるようにして、場の空気に酔ったんだろうか?
分からない。
重い瞼に逆らえずに目を閉じると、きゅっと頬を抓られた。
「こら、寝るな。はっきりさせてよねえ何で?」
「わ、わかんないれす……すいません、」
「分かんないじゃだめ。寝るなってば。キスしちゃうぞ」
「……れも、ねむい」
ぐらりと傾いだ頭が、ぽとんと顎鬚男の肩に乗っかる。
この男はさっきから、俺の手の中のグラスをただただ取り替えてくれるだけであんまり喋ろうとしない。
ゆらゆら女に絡まれて米搗きバッタみたいに謝る俺を面白そうに見ているだけだ。
笑って見ているくらいなら、この人どっかやってよと文句をつけたいけど、喉から声を絞り出す気力が湧いてこない。
ねむい。
さっきまで寝てたはずなのに、目を閉じると瞬時に意識が闇に呑まれそうになる。
「ちょっと哲司、飲ませすぎだよ。潰れちゃったじゃん」
「お前がせっせと煽った所為だろ。俺はグラス取り替えてただけだよ」
頭の上で声が聞こえる。
けどもう目を開ける気力が湧かない。
ふと、首筋に冷たいものが触った。
多分、手だ。
首筋から下顎にかけてを、ゆったりと撫でてくる。
「ん、」
俺をこんな風に触るのは、池田だ。
さんざゆらゆら女に絡まれる俺をほっぱらかしておいて、今更何をしにきた。
一言文句をつけてやらないことには気が済まない。
「こら涼二。起きろ」
そう思い無理矢理瞼を抉じ開けると同時に、唇をやわらかな感触が覆った。
近い。
というか、既に接触している。
あったかくて柔らかいものが下唇をするりと辿ると、ひく、と勝手に喉が引き攣った。
開きかけた瞼がまた閉じる。
気持ち良い。
「くろ、」
遠くで音がした。
水の中で聞く音のように、それはじわりと輪郭を失いながらか細く消えていく。
ふと甘い感触が離れた。
それから、背中を預けていた塊がなくなった。
両脇をがっちり固めていた二つの体温がなくなると、支えを失った身体が背凭れを伝ってずるずると傾ぐ。
やっと眠れるとほっとした。
身体が横たわってしまえば、意識が落ちるのはもっと早い。
ゆらゆら振り子みたいに揺れるこの感覚に、もう逆らわないで済む。
ほっとする。
「涼二」
すぐ耳元から声が聞こえてきた。
けどもう目を開けたくない。
落ちようとする意識を引き止めないで欲しい。
「涼二、寝るならベッド行けよ。流石に片腕じゃ運んでやれねえよ」
「ん、いい……今日はここれねう……」
「駄目だって。風邪引くぞ」
「おれが死んらら遺産は兄貴に……」
「寝惚けんなよ」
「むが、」
ぎゅ、と鼻を抓まれた。
しつこい呼びかけに対する応戦は、目を瞑ったままじゃ出来なかったらしい。
呼吸を止められる息苦しさとごくごく軽い痛みに眉を顰め目を開けると、ぼんやり霞む視界の中、池田の顔が間近に迫っていた。
感情の読み取りにくい灰色の目は、怒っているようにも呆れているようにも、困っているようにも見える。
「やっと目開けたな」
「……くち、赤い」
ふと目に入ったものを素直に口にすれば、池田は「ああ、」と呟きぞんざいに唇を指で拭った。
下唇の赤が皮膚に擦れて薄くなる。
見覚えのある赤だ。
さっきまで横からわあわあ絡んできていた、ゆらゆら女の唇と同じ赤。
「キス……?」
「違う。盗られたもん取り返しただけ」
伸ばされた指が唇を捻ってきた。
いくら柔らかくて痛覚が鈍いとはいえ、ぐいぐい揉まれたら流石に痛い。
「いたいいらい、」
「我慢しろ」
抗議の声はぴしゃりと叩き潰され、殆どそれと同時に指が離れた。
痛みでちょっと目が覚めた。
そういえば、ゆらゆら女はどこに行ったんだろう?
顎鬚もいつの間にかいない。
眼球だけ動かせる範囲で周りを見渡すけれど、俺と池田以外の人間は見当たらない。
話し声も聞こえてこない。
「客……かえっらんら」
ぽつりと呟いた自分の声に、ほっと安堵の息が漏れた。
これでもう絡まれることもないし、不機嫌な池田の顔も見ないで済む。
そう思うと、また瞼が落ちた。
今度こそ、今度こそ本当に眠りたい。
幸い今日のリビングは全然寒くないし、このままここで朝を迎えたところで風邪なんか引かない。
そう思うのに、また手が伸ばされてきた。
頭に掌の感触。
「寝んなよ涼二」
「やら、」
「ここで寝んならこのまま襲うけど」
「!」
ぱち、と音を立てるようにして目が開いた。
反動でぐらりと眩暈、再び閉じようとする瞼を無理矢理抉じ開ける。
重い瞼と戦うのは苦痛だ。
それなのに今夜は、寄って集ってみんなして俺の眠りの邪魔をする。
今にもすこんと落ちてしまいそうな意識の中で目玉を剥いているのは辛い、多分凄い人相になっているだろうと思う。
だけどそんなことは気にしていられない。
不穏な言葉を聞き流していたら、痛い目に遭う。
「……へや、いく」
じろりと睨み付けのっそり重い身体を起こせば、池田は上機嫌ににこりと笑った。
「イイ子だ」
子供をあやすような口調がむかつく。
もう一度池田を睨み、ソファから足を降ろす。
と、視界がぶれた。
「ッ?」
かくんと抜けた膝が、床に落ちる。
咄嗟に指し伸ばされた池田の手が腕を掴んできたから、衝撃はさほどではなく痛くはなかった。
けど、驚いた。
極度の眠気に膝が抜けるなんて、初めての体験だ。
いつまでも池田の腕に縋っているわけにもいかないと立ち上がるものの、気を抜けばまたすとんと落ちてしまいそうになる。
「お前、何飲んだ?」
「なにって……オレンジジュースと、グレープフルーツじゅーすと、とまとじゅーすと、こーひー……」
「それ、全部酒だよ」
「……」
後ろ頭を殴られたかと思った。
あれが全部、酒?
独特な味がするなとは思っていたけど、酒みたいな匂いなんて全然しなかった。
兄貴がよく飲む芋焼酎や、池田がよく飲むジンの匂いなんて全くしなかった……多分。
けどあれらが全部酒だったというのなら、ぐらぐら揺れるこの視界の原因は、酔い?
だまし討ちみたいに飲まされた?
「……さいあくら」
ぽつりと恨み言を漏らすと、池田もどこか疲れたように嘆息した。
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