虚ろの告白

石田空

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10月4日

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心臓がバクバク言っています。

「どういうことなの……」

咲人さんに私は騙されていたんでしょうか。でも考えてみると変なのです。
私はこの家にいる間、だいたいのことは許されていますが、台所に入ることと、ネット環境に頼ることの二点だけはどれだけ頼んでも許してくれなかったのです。
ネットだって、私がスマホを隠していなかったら使うことができませんでした。
でも。
私は本当にそれだけなのかと疑問に思いました。

私はどうして記憶喪失になったんでしょうか。私はどうしてここに閉じ込められているんでしょうか。
そもそもの話。咲人さんがもし結婚しているとして、奥さんはどこに行ったんでしょうか。私は自分のスマホをじっくり見ました。
根本的な疑問として、私はどうしてスマホを隠していたのでしょうか。ネット環境を守るためにしては、あまりにも隠し方が仰々しいのです。私はしばらく考えた末、自分のスマホの中身を検索することにしました。
咲人さんの情報はどうも出版社でもまずいものらしく、もうまともなものは残っていません。スマホを隠すほどの用心深かったかつての私ならば、スマホにそれを隠すのではないでしょうか。
ファイルの大きさを確認し、一番大きなファイルを検索します。出てきたのは音声データでした。私はそれを付けました。

「なにこれ」

『あなたが主人と不倫していたことは既に証拠が挙がっているんです。この写真、もう言い訳はできませんよね!?』

刺々しい女性の声が響きました。私はその声を聞いた途端、頭に激痛が走りました。

「うう……っ」

思い出したくない。そう直感的に思いましたが、同時に思い出します。
思い出したい。この女は私の人生を奪った。私の生き甲斐を奪った。私の名前を奪った。私の作品を汚した。
思い出したくない。もう私のアイデンティティはボロボロだ。もう大人しく咲人さんに匿われて余生を過ごしたい。もういいじゃないか、不倫でも。私は知らなかったんだ。私は悪くない。
思い出したい。私を返せ。私を帰せ。私を孵せ…………!!
頭の中を記憶の濁流が流れてきて、私はベッドに倒れ込んでゼイゼイと全身で息をします。スマホからは音声データが延々と流れてきます。

『誤解です。私は彼が結婚していたことを知りませんでした。別れます。別れますから、これでいいですよね!?』

右も左もわからない出版界での泳ぎ方を教えてくれたのは、間違いなく咲人さんでした。
私にとって、彼は恩師であり、先輩であり、気付けば公私ともにパートナーになり、いつかは結婚することもあるのだろうとロマンティックに思っていた、まだ悪意も狂気も知らない青二才でした。
世の中にはどうしようもない慣習を残している会社も、ろくでなし過ぎる人間も、狂気に飲まれてしまった人もいるということを、私は理解できていなかっただけです。

『あの人はねえ、才能のある人が好きなのよ。小説を書く才能、小説を読ませる才能、どれだけ小説に興味のない人間でもね、読みやすい文章、自分にとって身近な人間が書かれた話というものには興味を持って読んでしまうものなの。あなたは間違いなく才能があるんでしょうね。そしてあの人は、才能のある人を愛さずにはいられないの! 病気なのよ。私と結婚したのだって、私が原稿を出版社に持ち込んだからだわ。私に才能があるって見込んでくれたの。でもね、私は伸びなかった! どれだけ書いても増刷されることもなく、忘れ去られて、原稿だって無くされてしまった! 出版界は才能がない人間にはとことん冷たくぞんざいに扱うの! あの人も私に愛想を尽かしたから、あなたのような小娘を愛してしまったんでしょうね、忌々しい女……!』

彼女はかつて小説家を目指して持ち込み活動を続けていた人でした。咲人さんとそこで知り合い、彼女に惚れ込んだ彼とトントン拍子に結婚したものの……彼女の作風はいまいち受けませんでした。
しかし彼女は私を見つけてしまったのです。私を見つけた彼女は、私を。
私を筆にしようと思い立ってしまったのです。

『あなたは私が証拠と一緒にネットにばらまいたら一発で人生が終わるわ。あなただって小説家だもの。小説を書けなくなるのは嫌ね?』
『やめてください……別れますから。許してください』
『許しているわ、私の言うとおりの小説を書いてくれるのならばねえ……! あなたはたくさんの作風を持っているのでしょう? ならば私の作風だって許容してくれるはずだわ! あなたは私の小説を発表するための飾りになるのよ!』

こうして私は、この部屋に閉じ込められ、来る日も来る日も、彼女の命令された小説を書くようになったのです。
彼女の用意した登場人物表はお世辞にもよろしくなく、張りぼてのようでした。少しでも個性を持たせようとすると、彼女は殴るのです。

『面白くないわ! ちゃんと書きなさい』
『ごめんなさい!』

嫁姑戦争の果てに、嫁が姑に復讐を果たす話。
それは私にとってはそこまで面白みのある作品には思えませんでしたが、咲人さんが修正を加え、校正を重ねた結果、どうにか見られるような話になりました。
それがよりによって、ドラマ化が決まってしまったのです。
彼女は完全に調子に乗るようになりました。

『ほら! 出版界は馬鹿なのよ! ネームバリューさえある人間が書いたら、誰だってなんだっていいんだわ! そしてこの才能は私のものよ! 私だけのものよ! ねえ、この印税は私のものよ!? だってあなた、使うところがないでしょう?』
『待ってください。本を出したでしょう? これで解放して……』
『まだよ! 私の才能をもっと世に知らしめないと!』

彼女は自分の作品を褒めちぎる文章ばかり読んで有頂天になっていました。
一方私はどんどん磨り減っていきました。

【波風ことはどうしたん? いきなり大昔の昼ドラみたいなもん書き出して】

私は書きたくて書いた訳じゃないのに。

【面白いよ! 波風ことはの作風ってざまぁがないのがつまらなかったから、途端に面白くなった!】

私の作風ですらないのに。

【波風先生のキャラ、もっと深みがあったと思うのに、なんか浅い?】

私の中で、なにかがミシミシひび割れていく音を聞きました。
もうヤダ。書きたくない。私の書きたくないものばかり書きたくない。私の小説を返して。私の名義で出ているけれど、こんなの私の話じゃない。
私の小説を返して。返して。

私が自分の耳にシャーペンを突き立てて自殺を謀ったのは、そのときでした。

そこまで思い出して、私は疑問に思いました。
でも……私は死にきれず、記憶だけ失ってここにいた。ここまではいいとして。彼女はどうなったのでしょうか。
考えられることはひとつ。私がここにずっと閉じ込められている理由。
冷蔵庫まで歩いて行きました。冷蔵庫の近くまで辿り着き、私はそこで異臭をするのに気付きました。
彼女は私に罵声を浴びせるとき、いつも言っていました。

咲人さんは私の才能を愛していると。

愛している才能を持った私が自殺したら、彼はどんな行動を取るのか。
実はすぐにわかる話でした。私は冷蔵庫を開け、「ああ……」と呻き声を上げました。
彼女の首が入っていたのです。

「ただいま……なにをやっているんだ!?」
「どうして彼女を殺したんですか」

咲人さんはお土産と夕食を床に放り投げて、慌てて冷蔵庫を閉めました。それでも、彼女の首が消えることはありません。
彼女の目はギョロリと剥いていました。
彼女は才能がなかったのかもしれません。私を殴る蹴るをした挙げ句、私の名前を使って本を出版し続け、私から印税すら奪いました。でも。
私は自分の小説が書きたかっただけで、最初から彼女のことはどうでもよかったのです。彼女には、殺されるほどの価値なんてありませんでした。
しかし咲人さんからしてみれば、私が咎めたようにも聞こえたのでしょう。彼は声を荒げました。

「君を自殺に追いやったからだ。君はこれから才能を伸ばし、大成していく人だった! だから僕が君を育て上げていたのだから!」
「だから不倫したのですか? 彼女を放置してまで」
「彼女には才能がなかった! どれだけ人物をもっと書けるようにとか、どれだけもっと機微のわかる文章を書くようにとか指導しても、彼女は書きたいものしか書かなかったし書けなかった! 君のように柔軟に作風をやりくりできないのだから、どうしようもないだろう!?」
「でもあなたが不倫しなかったら、私が自殺することなんてなかった。あなたは最低です」
「うちの出版社の方針なんだよ! うちは作家がよそに行かないよう囲い込むのに、体だってなんだって使うのだから! でも本当だ。僕は君を愛している!」

ここにはまともな人はひとりもいない。
私は咲人さんのことも彼女のこともどうでもよく、ただ小説が書きたかっただけ。本当はもっと裏切られたとか、偽りの愛とか、怒ることはいくらでもあるのに、私の心は凪いだまま。彼に気持ちがちっともなかったと思い知ってしまった。
咲人さんは才能を伸ばすということばかりに躍起になっていた。愛さえあればどれだけモラルも倫理も侵していても許されると本気で信じている、作家を育てること以外は全てかなぐり捨ててしまった狂気の人。
彼女は小説家になりたい気持ちと愛されたい気持ちで身を崩し、とうとう彼の不倫相手である私に狂気を向けた人。私以外の才能ある不倫相手が対象になった可能性だってあったけれど、たまたまその牙は私に向き、結果として咲人さんに殺されてしまった可哀想な人。私にとってはどうでもいい人。

どうでもいい人なのだから、もう消えてもらいましょう。
私は台所の流し台を漁ると、ちょうど見つかりました。包丁です。

「もう、いい加減にしてください」
「ことは……!」
「結局あなたは、私のことなんてどうでもよかったんじゃないですか」

肉切り包丁は、とても重かったです。
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