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 コーヒーの湯気が立ち上る。
 出されたカップに手を出せないまま見ていると、晴さんはひょいとカップを掴んで傾けた。

「どこから話せばいいですかねえ……えりなのこと、からでいいですか? のろけ話も混ざるかと思いますけど」
「ええっと……お好きにどうぞ。どこからでも」

 少なくとも。晴さんとの付き合いは、バイトをはじめてからだけれど。この人は俺のことを感情のゴミ箱だとは思っていない。ただ自分がつらかったことを吐き出す場所だと思っていない。
 ただそういうのって、遠慮されているんだろうなと思う。
 実際にいつでも元気な人っていうのは、自分の機嫌を取るのが上手い上に、周りに配慮をしない。だから自分だけは常に元気なんだ。この人は配慮し過ぎる人。

「本当に、大丈夫ですから」
「……うん、ありがとうフクくん」

 コーヒーの香りが漂う中、晴さんはポツンポツンと話しはじめた。

「えりなと出会ったのは、大学時代だよ。同じ文学科の学生でね。文学科は他の学科よりも特に就職に弱いと言われていて、一緒に古典を読み進めるのも、古文の研究を勧めるのも楽しかったけれど、同時に周りのプレッシャーが強かった」
「あ、はい……なんとなくわかります」

 今の世の中、大学の学科選びは、イコール就職に有利か否かに結びついてしまう。バブルの頃にはじゃんけんで就職先を決められた時代もあったらしいけれど、バブルも知らなければ、じゃんけん就職なんておとぎ話レベルでありえない。
 多分晴さんは、本来の大学生だったんだろう。勉強のために大学に通う。俺みたいに生活のために大学で成績を残しながら就職先を決めるような奴とは、根本的に違う。
 晴さんはゆったりと続ける。

「えりなとふたりで一緒に勉強をするのは楽しかったけれど、僕は大学を卒業したら就職をした。えりなは大学院まで上がって、古文の勉強をしたんだ。ふたりとも進路は別れたけれど、だんだん温度差が生まれていったんだよ。僕は古文とは縁もゆかりもない商社であくせく働きながら、ふたりで暮らしはじめたアパートに帰っていた。えりなとふたり暮らしのアパートは、いつも僕が明かりを付けていた。最初の一年ほどは、えりなを大学に迎えに行って一緒に帰ってたんだけどね。だんだん、あの子の帰りが遅くなっていったんだよ」

 俺は黙って晴さんを見ていた。
 本当に珍しいほどに、晴さんの顔からは色が消えている。

「大丈夫ですか? 話せますか?」

 俺は医者でもなければカウンセラーでもなくて、ただの売店員だ。ただ、一緒に働いている人の愚痴を聞いているだけ。
 本当にヘビーな話を打ち明けられても、ああそうかで流すしかないけれど、打ち明けた方が参ってしまうことはよく見かけたから。
 俺が尋ねると、ようやく晴さんの顔に色が戻ってきた。少し弱々しい笑みだけれど。

「すみません……続けますね。最初に異変を感じたのは、そろそろえりなが大学院を卒業する頃でした。博士課程を卒業したあと、文学系だとなかなか就職は見つからないものの、優秀な場合は大学に残って講師の枠を埋められますから、どうなったのかと聞こうとしたんですけど、普段笑っているえりなが、それを尋ねた途端に顔を強張らせたんです。『どうして研究だけさせてくれないの?』と」
「それって……」
「どういう意味か辛抱強く問いただしたら、彼女は大学院で、ずっとパワハラを受け続けていたんです。大学は今やなにかにつけて予算が削られているために、どんどん余裕がなくなった先で、博士課程を取ろうとしているえりなが格好のストレスの捌け口にされたみたいで。最初の一年は俺が送り迎えをしていたので、向こうもそう簡単に手を出せなかったみたいなんですけど……僕が出張でしばらく地元を離れている間に、パワハラがエスカレートしていって、彼女は本当に見えない量でストレスが蓄積していったんです」
「そんなことって……」

 閉じられた場所では、どうしてもストレスが発生して、その発散先を探しはじめる。えりなさんが眠っているのは、まさか。
 晴さんは淡々と答える。

「彼女はとうとう、そのことに耐えきれなくなって自殺してしまいました……僕は、どうすればいいのかわからなくなり、仕事に逃げるようになりました」
「……訴えたりとかは、できなかったんですか?」

 晴さんは首を振った。

「彼女も最初はひとりで解決しようと、学生課に相談したり、弁護士の無料案内に相談に行ったりしたみたいですが、あれだけひどいパワハラをしておきながら、向こうは証拠の出るようなことをさせなかったんです。ペン型録音機やスマホの録画機能も使えず、証拠がないことには動き出せないと言われてしまい、どうにもなりませんでした」

 あれだけ綺麗にされて眠っているえりなさんを思う。
 あの人が、自殺を……。ゆっくりと眠っている彼女を思い返すと、どうにもイメージがピンと来なかった。

「そんな中、ある日仕事帰りにICカードを取り出そうとしたときに、見つけたんですよ。パラレルラインの切符を。気付けば駅にいました。僕の世話をしてくれた駅長さんは静かな人で、特に話は聞かずに、駅の説明だけして、『乗りますか? 乗りませんか?』とだけ尋ねてきました。ここの駅長も、本当に人によって様々みたいですよ」
「そうなんですね……」

 晴さん以外のパラレルラインの駅長さんを知らないけれど、よくよく考えたら晴さんが別の並行世界から来た人な以上、晴さん以外の駅長さんもいるんだよなと今更ながら気付いた。
 晴さんは少しだけ思い出したのか、クスクス笑ってから続けた。

「僕はえりなの生きている時間に戻りたかった。彼女がもうパワハラされず、ちゃんと頼って相談してくれる世界で、今度こそふたりで生きたかった……だからパラレルラインに乗って移動したんですけど……そこで事故に遭いました」
「さっきから何度も出ていますけど……その事故って?」
「ええ……」

 カタンとカップをテーブルに置いて、晴さんはどこか遠くを見た……いや、この駅長室の最奥の部屋、えりなさんの眠っている部屋だろう。そこを見ながら、晴さんは淡々と説明をしはじめた。

「元々並行世界は、限りなく元の世界に近いだけで、別の世界って話はしましたよね?」
「はい……それはもう何度も」
「ですから、もしもの世界が必ずしも自分の意向に沿うかどうかは、誰にもわかりません。ただ今と違う時系列の世界に移動するだけで、厳密にタイムスリップやタイムループとも違いますから」
「タイムスリップは聞いたことありますけど……タイムループってどんなんでしたっけ?」
「タイムループは、元の時間をやり直すって感じですね。並行世界に移動するっていうのは、タイムスリップともタイムループとも違うものですよ……ただ前提が違うだけで、結果が同じこともまた、あり得るんです」

 そこで俺は押し黙ってしまった。

「えりなは、パラレルラインに乗らずに、パラレルラインの路線に飛び降りてしまったんです」
「…………え? この世界の、えりなさんですよね?」
「はい。パラレルラインの管理会社からは『ありえない』と驚かれてしまいました。こちらの彼女は、大学院に進むことはなかったものの、今度は会社でパワハラされて、疲れ果ててしまいました。こちらの世界には、僕はいません。いないから僕もこの世界に来られた訳で。彼女は会社と駅、自宅をローティーンのように回り続け、くたびれたところで、パラレルラインの駅に辿り着いてしまったんです。彼女は、あの頃はよかったと思っても、やり直したいと思うだけの気力はなかったのに、です」

 そんなこと、本当にどうすればよかったんだろう。
 まさかと思うけど、晴さん。この人は、目の前で最愛の人が撥ねられるのを見てしまったのか……?
 晴さんは遠くを見る目で、今度こそはっきりと彼女のいる部屋を見た。
 彼女は未だにこんこんと眠っている……電車で撥ねられた人とは思えないくらいに、綺麗な顔をして。

「さすがにまずいと判断したのか、この世界に移動したばかりの僕はパラレルライン側に捕まりまして、話をすることになりました。今彼女が起きたら、間違いなくまた死のうとする。だから、彼女が生きたくなるまでは眠らせておく。もし彼女が起きたら別の並行世界に一緒に移動してもいいけれど、さすがにタダでそこまでのサービスはできない。と。だから僕はここで働いているんですよ」
「……えりなさんが起きるまで、ですか?」
「はい。僕は駅から出られません。パラレルラインの通路を使えば、管理会社の使う町で生活用品の買い出しはできますし、スマホは使えるのでネットは見られますから、世の中の情勢は知ることができますけど、まあそれだけですね」

 俺は言葉が出なかった。
 どうしてそこまでできるんだとか。どうしてそこまでしないといけないのかとか。喉から飛び出そうになっても、そんなの決まっているだろと飲み込んでしまう。
 なにもかもを投げ捨ててまで助けられなかった人を、今度こそ全部投げ捨てて助けようとしている。それだけだろう。
 自分のことを忘れられてしまった世界には、もう戻ることができない。なにもかも捨てて着の身着のままでえりなさんを追いかけてきたのに彼女に先立たれてしまったんなら、今度こそ彼女が生きたいと思えるまで待って、一緒に世界を変えたほうがいいじゃないか。
 俺はそこまでの未練も、後悔も、あるかどうかなんて、言えない。言えっこない。
 ただ、なにがなんだかわからなくなって、涙が出てきた。そんな俺を見て「フクくん」と晴さんは謳うように言った。

「正直、僕は君のそういうところを、尊敬しています」
「えっ……?」
「ここに来られるってことは、君にも今にも忘れられないくらいの後悔があるってことですけれど、君は切符を使わない。君は、ここで生きたことを『なかったこと』にしたくないのでしょう?」

 その言葉で、俺の目にまた涙が溢れた。

「……ここには、友達がいて、俺のために泣いてくれる奴がいるんです」
「はい」
「友達はなんにも聞きません。俺にとって一番楽な相手です。逆に俺のために泣く奴は、全然素直じゃないし、ツンケンした物言いしかしないけど……俺よりもずっと優しいんです。ふたりがどこまで俺のことを考えているのかは知りませんけど、俺はふたりを置いてこの世界を出て行けないんです」
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