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救われたのは

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 左足の突き刺すような痛みで、アブニールの意識は浮上した。
 しかしまだ目は閉じたままにしておく。開けないのではない。開かないように意識していた。
 何しろ傍らに人の気配がある。それにここは、知らないにおいで満ちているのだ。まずは狸寝入りを決め込みつつ、状況を把握するのが先決だと判断した。長年一人で生き延びてきた癖で、警戒心は人一倍強い。

(ここは、どこだ……?)

 それに幸いなことに、アブニールの嗅覚は常人よりもはるかに優れている。様々なにおいをかぎ分けることが出来るため、視覚からの情報がなくても支障はない。
 まず、アブニールを背中から包みこむこの感触は間違いなく寝台だ。それも、おそらくは傍らに座っている男が普段使っているものだ。一番匂いが濃いからまず間違いないだろう。
 それから、馬の匂いがする。しかしこれはほんのわずかなので、男がさっきまで乗馬していたのかもしれない。馬で移動しなければならないような場所に連れられてきたのか。あるいは彼が馬主という可能性もある。
 いや、馬主ではないか。それならば馬の匂いといっしょに牧草の匂いがするはずだ。だが男からは血の臭いがした。それから鉄……武具や防具の匂いか。

(傭兵か? いや、でもそれなら、決まった住居を構えていたとしてももう少し匂いが薄いはずだ)

 傭兵は個人であっても団体であっても、一つ所に留まる可能性は低い。かつてのアブニールがそうだったように、定期的に移動して各地で仕事をこなし生計を立てるのだ。だからたとえ自宅を所有していたとしても留まる期間は短く、その分寝具の匂いも薄くなる。
 傭兵よりは移動頻度が少なく、簡素ながらたっぷり綿が詰まった柔らかな寝台を入手できるほどに潤っていて、闘い慣れした者の匂いがする。

(なるほど……騎士か)

 合点がいったアブニールは、ゆっくりと両まぶたを上げた。真っ先に視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ木目調の天井。すぐ左側には壁があり、比較的大きな出窓からうららかな日差しが差し込んでいた。角度から見て正午だろうか。そういえば、かすかに料理の匂いも漂ってくる。
 それから右手側……こちらにはこの部屋の持ち主である男が木製の丸椅子に腰かけていた。

「よぉ。寝たふりはもうおしまいか?」

 どうやら見透かされていたらしい。一見リラックスしているようにみえても、ぴりぴりと張った気配から男の方もアブニールを警戒しているのが分かる。
 その上で自室に連れ込み、かつ手近に武器の類も置いていないという事は、素手で抑え込む自信があるということだ。
 舐められたものだが、別に腹は立たなかった。相棒が小さいからなのか、思うように背が伸びなかったアブニールは、どうにも実年齢よりも若く、弱く見られがちだ。相手の隙を見つけやすいのでアブニールとしては好都合でもあるのだが。

「あんたこそずいぶん育ちがいいんだな。人の寝顔をじろじろ眺めるなんて」

 嫌味を返してやると、男は眠たそうに半分ほど閉じている双眸を見開いた。それから声を立てて笑う。気障そうな外見にそぐわず、意外と豪快に笑う男だ。よく通る声だからか、やたら耳心地が良い。

「悪いな。あんまりにも美人だったんで、目が離せなかった」

 まったく悪びれた様子もなく口先で謝罪してくる。出会って間もなく、しかもアブニールの方は仰向けになった体勢のままで腹の探り合いをしているのが、なんだか滑稽だ。
 ひとまず無防備すぎるこの状態から抜け出すためにも起き上がるくらいのことはしたいのだが、四肢に力が入らなかった。

「あんたの目的はなんだ? 俺だっていうんなら、さっさとしてくれ」

「おいおい、親切に介抱してやった相手に対してずいぶんだな……と言いたいところだけど、結構魅惑的な誘いだな」

 男にしげしげと見つめられながら、アブニールは内心失言を悔いていた。
 身体が動かないのは男にしびれ薬でも盛られたせいだと勘違いしたが、むしろそんなアブニールを保護してくれたのかもしれない。まだ嘘をついている可能性は否めないが。
 とにかく男が何者か見定めるためにも、断片的に失った記憶を取り戻さなければならない。特に意識を失う直前の記憶だ。そもそもなぜこの場所に運び込まれたかすら、今のアブニールにははっきりしないのだ。早急に思い出す必要がある。

「そんな険しい顔で睨むなよ。冗談だからさ」

 記憶を辿るうち眉根を寄せてしまい、その意味を勘違いした男から見当違いな励ましを受ける。

「俺は無理強いは嫌いでね。やっぱりああいう行為はお互い合意の上で楽しくやらないと」

「あんたの性癖は聞いてねえ」

「はいはい。悪かったよ」

 気が散る戯言は容赦なく跳ねのけ、アブニールは昨晩の出来事を回顧しようと気持ちを集中させる。
 男の方もアブニールの意図を汲み取って黙り込む。分かってくれたのか、それとも最初から分かっていたのに揶揄われたのか。後者だった場合はそこそこ腹立たしい。
 だが、とりあえずこれで考え事に集中できる。アブニールは、おぼろげな記憶をゆっくりと思い返した。
 そうだ。昨日の夜、アブニールのもとに大それた依頼が舞い込んだのだ。そもそも事前のルールも守らずにいきなり仕事を押し付けようとしてきた不躾な輩で、その態度と内容が気に食わず、要求を突っぱねた。
 そしてしつこい依頼主を振り払うようにして店を出たのだ。ただ、アブニールは事情を知ってしまった。だから、依頼主とその仲間に消されかけた。

(そうだ。その時にこいつの声を聞いた……)

 刃傷沙汰など日常茶飯事の飲み屋街でのケンカに、この男はわざわざ首を突っ込んだのだ。なるほど男が黙って見守っているのも道理だ。アブニールが記憶を取り戻せば、自分が味方であると証明されると踏んでいたのだろう。思い出されて不都合があるなら、なんとしても邪魔したはずだ。

「悪かった。あんた、俺を助けてくれたんだな」

「いえいえ。どういたしまして。美人に助太刀するのは当然さ。謝礼はキスでいいよ」

 さっき合意がどうのと語っていたその舌の根も乾かぬうちに矛盾したことを言う。それともキスは例外なのか。

「別に一人で片付けられたし、何ならお前が乱入してきた所為で毒矢を受けたけど感謝してる。ありがとな」

 昨夜の騒動を思い出したおかげで、左足の痛みの原因も、昏倒した理由も、そして今身体が痺れているわけもすべて理解できた。半分くらいはこの男がいきなり声をかけてきたせいだ。そのせいで気が逸れて、既に倒れ伏していた男から置き土産をもらう羽目になった。

「やあ、君のピンチに駆け付けられて何よりだ。偶然飲みに出ていて正解だったな」

 当て擦るも見事に躱され、アブニールは舌打ちしたい気持ちになった。
 
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