電車の男ー社会人編ー

月世

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Ⅲ.倉知編

「素晴らしい一日」

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 毎朝、電車で本を読む加賀さんを見ていた。
 一方的だった視線は九か月後に双方向に変わり、以降、長く交わった。
 朝の通学電車から始まる一日が、楽しみだった。
 本を読んでいながら、意識は俺に向いていて、それがくすぐったくて、嬉しかった。俺がちゃんと見ていることを確認するように、たまに、ちらりと見上げてきた。目が合うと、ひっそり微笑む加賀さんが、本当に、愛しかった。
 今まさに、見上げてくる加賀さんが、あのときと同じ表情で、笑う。
「懐かしい」
 思わず口をついて出た言葉に、加賀さんが同意する。
「うん」
 土曜の昼前、電車は空いている。にも関わらず、座席には座らず、いつかの定位置へと自然と収まった。
 デート仕様の加賀さんは、普段の何倍も人目を惹く。公共の乗り物は避けたかったが、ハガキの文末に「できるだけ公共交通機関をご利用ください」と小さな印字を発見し、迷うことなく電車を選択した。
 結果的に、電車でよかった。
 二人で乗る電車は、心が躍る。初々しかった高校生の自分を追想し、年月の経った今もこうして変わらず加賀さんと一緒にいられる奇跡を噛み締めた。
 付き合うか、と言われたときに、予感があった。
 この人のことをもっと好きになる。
 あの予感は正しくて、俺の「好き」は止まらない。誇張でもなんでもなく、一秒ごとに、さらに好きになっている。
 窓の外を見ている加賀さんの目が、瞬きをするたびに、俺の胸は甘く疼く。
 好き、大好き、と口中でつぶやいた。髪の一本一本まで、全部好きだ。
 幸せな気持ちで観察していると、手すりを握る手に感触があった。小指に、加賀さんの人差し指が、触れている。絡ませるとかじゃなく、ただ触れているだけなのに、高揚感に包まれた。
 静かに舞い上がる俺を、加賀さんが面白そうに見てくる。
 車両に乗客は数人。誰も俺たちを見ていない。大っぴらに手を繋ぐわけにはいかないが、これくらいは許されたい。
 なぜなら、今日はデートだ。ただのおでかけじゃない。そう、これはデートなのだ。
 デートに大切なのは、ときめきだ。いつだって俺は、加賀さんにときめかされてきた。今日もすでにときめきっぱなしだ。
 でも、俺だけじゃなく加賀さんにもときめいて欲しい。少し大人になった俺を見て欲しい。
 だから、デートのプランは任せてくれと胸を張った。
 写真展の会場であるギャラリーの近辺で、ランチが人気の店をリサーチ済みだ。ハルさんがギャラリーにいるのは午後かららしく、写真展の前にまずはそこで腹ごしらえをしましょうと、颯爽と先陣を切り、案内した。
 普段は絶対に入らないタイプの店だ。外観がおしゃれすぎて、なんとなく敷居の高さを感じた。ガラス張りで、テラスがあり、レンガ調の壁、不思議な形の照明や謎のインテリアも、すべてがスタイリッシュだった。
 外国に紛れ込んだ気分だ。メニューも、コースがどうとかデザートがどうとか、選択肢が多くて決められない。
「決めた、ヒレカツ丼」
 迷っていると、テーブルに置いたメニューを一緒に覗いていた加賀さんが、突然そう言った。
「え、ヒレカツ丼? カフェにヒレカツ丼なんて」
 加賀さんがメニューを指差した。指先には確かにヒレカツ丼と書いてある。写真もヒレカツ丼だ。
「あるんですね」
「あるんだな。倉知君はロコモコ丼がいいんじゃない?」
「ロコモコ……ってなんでしたっけ」
 加賀さんの手が素早く移動して、メニューの一部を三本の指で隠した。指の下に、ロコモコ丼の写真があるらしい。
「さて、ロコモコとはなんでしょう」
「えーと、なんか、野菜……、ロコっていう野菜を肉がモコっと包んでる?」
「ぶ……っは、可愛い」
 加賀さんが肩を揺らして低い笑い声を漏らす。
「倉知君、ロコモコ丼にしよ。単品なら単純明快だし、悩まなくて済むし、何が出てくるかお楽しみってことで」
 悩んでいることに気づかれていたらしい。頭を掻く。
「はい、でも俺、ロコモコ好きかな……」
 語感からはまったく想像できない。デートで闇鍋の要素を味わう必要があるのだろうか。苦手なものだったら取り返しがつかない。
「大丈夫、倉知君好きなやつだよ」
 ロコモコ、とつぶやいていると、加賀さんがメニューを閉じて手を上げて、すいませんと店員を呼んだ。
 女性の店員が飛んできた。オーダーを取っている間ずっと加賀さんの顔を見ている。いつものことと言えば、いつものこと。今日は特にカッコイイから仕方がない。
 去り際に、小さく「はあっ……」と恍惚のため息をついた店員の背中を見ながら、脳内で、仕方がない、と呪文のように繰り返す。仕方がないのだが、こうも思う。
「カッコよくしなくていいのに」
「ん?」
「そんなに、さらに磨きをかけなくても、いつも通りのカッコよさでいいのになって」
 ファッションのことなんてなんの知識もないし、何がどうと評価もできないのだが、加賀さんがすごく素敵なコーディネイトで、頭から足先に至るまで全身が完璧なのはわかる。普通にしていても目立つのに、これだとみんなが加賀さんを好きになる気がして心配だった。
 さっきの店員が、振り返ってこっちを見ている。別の店員と顔を寄せ合い、何か喋っている。ハートが飛んでくる幻覚が見えそうだ。
「あ、おめかしがダメとかじゃなくて」
 今の自分の科白はちょっと嫌な感じだった。ハッとして言い繕い、視線を戻すと、加賀さんと目が合った。テーブルを挟んで向き合っているから、目が合うのは当たり前だ。
 加賀さんが、俺を見ている。優しい顔で笑って、まっすぐ俺だけを見ている。
 背中に汗がにじむ。
 まずい、カッコイイ。なんてカッコ良さだ。すべてにおいて整っていて、造形が美しすぎる。
 意識した途端に頬が火照り、緊張で体が強張った。
 視線を逸らすのも変だし、返事がないから別の話題を振るのも不自然だし、黙るしかない。黙って加賀さんと見つめ合い、息を殺す。
「俺がこういうキリッとしてるふうなのは、ちゃんと特別って思ってるからだよ」
 黙ったまま、長く見つめ合ったあと、加賀さんが微笑みを崩さずに言った。
「倉知君が、今日という日を特別感持って、リードしようって頑張ってくれてるのと一緒」
 リードしようと頑張っていることが透けていたらしい。ぐ、と喉を詰まらせる。
「それにたまにカッコつけると、そうやってドキドキソワソワしてくれるからやめられない。乙女の表情が最高」
 手のひらを扇ぐ俺を見て、加賀さんが笑う。笑い方が色っぽい。ランチに不必要な色気を放出する加賀さんから慌てて顔を背け、店内を見回した。
 デート向きのおしゃれなカフェと謳っているせいか、客はカップルが多い。あとは若い女性のグループで、当然というか、男二人なのは俺たちだけ。
 見られている。加賀さんが注目されているだけじゃないのはなんとなくわかった。
「気にしない、気にしない」
 加賀さんが言った。
「はい、でも、ちょっと、なんか、変な感じですね」
 ガラス張りの窓際は、オープンすぎる。店内の客のみならず、通行人からの視線も気になってしまう。
 親子連れが通り過ぎ、俺たちに気づいた小さな男の子が無邪気に手を振ってくる。二人揃って振り返す。
「新鮮でいいじゃん」
 加賀さんが水の入ったグラスを持ち上げる。グラスの中を漂う黒いストローの先を、加賀さんの可憐な唇が、咥えた。そのまま俺を見て、淫靡に微笑む。
 いや、別に、淫靡なつもりはないと思う。俺の下心がそう見せているだけだ。
 ただのお冷なのにストローなんだなあ、この店はどこまでもおしゃれを追求しているなあと中身のない感想で邪心を追いやっていると、俺の後ろの席で、女性たちの囁く声が聞こえた。
 可愛いとか尊いとかありがたいとか、多分、加賀さんを褒めている。
 加賀さんに注がれる女性たちの熱視線を、どうすれば遮断できるのか。
 永遠の課題だ。
 少し離れたテーブルの二人組の女性たちも、さっきから挙動が怪しい。何か、こっちに来る雰囲気がする。と思ったまさにそのとき、彼女たちが席を立ち、声をかけてきた。
「あのー、こんにちはー、写真撮ってもいいですか?」
 スマホをちらつかせて、女性が加賀さんに言った。
「ごめんね」
 なぜ急に写真、と普通なら困惑するところだが、加賀さんはうろたえもせず、驚きもせず、短い謝罪に笑顔をプラスし、速攻で断った。いつものことだが鮮やかだ。
「やん、お兄さん、インスタとかやってないんですか?」
「見たい見たい」
 二人が口々に言った。二人とも常に体をくねくねさせていて、見ていてちょっと面白かったが、一向に引く感じがない。
「そういうのはしてないね」
「えー、してくださいよー」
「フォローしたーい」
「いやいや、ごめんね」
「代わりに私が投稿しますよ。ハッシュタグイケメンで写真上げたら絶対バズるから。だから、一枚だけ撮らせてください」
 お願い、お願い、とスマホを振って懇願し始めた。さすがに、他の客の視線が痛い。加賀さんはずっと笑っているが、口元を隠し、俺を見た。言っていい? と目で、お伺いを立ててくる。定番の一言を告げる気配に急いで口を開く。
「すいません」
 女子たちが俺を見て、「あっ」と顔を輝かせた。
「え、やだ、二人ともイケメンなんですね。撮ってもいいですか? やっぱりツーショットがいいな。並んで並んで、笑って笑って」
 初対面の他人を撮るという風習が、どこかの地域では当たり前のように存在するのだろうか。戸惑いつつ、強い口調で首を横に振る。
「すいません、ダメです」
 この科白は、俺が言わなければ。
「デート中なので邪魔しないでいただけると嬉しいです」
 彼女たちはぽかんとしてから、目を見開いた。
「えっえっ、すごい、そうなんですね?」
「えー、本当? えー?」
 手を取り合って体を弾ませる二人の後ろで「お客様」と声がかかる。トレイを持った若い男性店員が、申し訳なさそうに言った。
「他のお客様のご迷惑ですので、お席にお戻りください」
「あっ……、はーい、ごめんなさーい」
 二人が何度も振り返りながら、自分たちの席に戻っていく。
「お待たせいたしました。ロコモコ丼のお客様」
「あっ、はい」
 返事をして軽く手を上げると、店員が俺を見た。すごく、見てくる。一度も目を離さずに皿を置き、「デートですか?」と訊いた。
「え? は、はい……、すいません」
「なんで謝るんですか」
 眉をハの字にした店員が、一度加賀さんを横目で見てから、「お似合いです」とニヤリとした。
「ごゆっくりどうぞ」
 加賀さんの前にヒレカツ丼を置くと、彼は慇懃に頭を下げて身をひるがえし、さっきの女性たちのテーブルに大股で歩み寄った。
「お客様、先ほどは失礼いたしました。もしよろしければハッシュタグイケメンで、僕の写真をネットの海に放流し、全世界の晒しものにしてください。SNSに上げる際には当店の店名もお願いいたします」
 いやにハキハキとした口調が聞こえた。周囲の客がクスクスする中、二人の女性客が楽しそうに彼を撮影し始めた。好意的な笑い声が、店内に広がっていく。
 ポージングしている彼の後姿を見て、加賀さんが訊いた。
「あの面白い店員、知り合い?」
「え? いえ、全然知らない人だと……」
 変わった髪形をしている。前髪もすべて後ろに束ねて一つに結んでいるが、サイドが短い刈り上げで、いわゆるツーブロックになっている。こんな奇抜な髪形をしている人は、忘れないと思う。白シャツに黒いズボン、細身の長身にギャルソンエプロンがよく似合っていて、イケメンと自称するのだから、多分その部類だ。
「なんか知ってるみたいな感じに見えたけど」
 確かに、知り合いに話しかけるノリだったかもしれない。人の顔と名前を記憶するのは得意なほうだが、まったくわからない。
「誰だろう……」
「それより倉知君、ほら、ロコモコ。好きなのだっただろ?」
 加賀さんが指を差す。運ばれてきたロコモコ丼に視線を落とすと、わあ、と声が出て、笑顔になった。
「ハンバーグと目玉焼きだ、なんで?」
「ロコとモコ、どこだよってか」
 笑いを堪えた声で加賀さんが言った。
「ロコ&モコですよね。ハンバーグがロコで、目玉焼きがモコなんでしょうか。いや、逆かな?」
 加賀さんがうなだれて、静かに両手で顔を隠す。くっ、とかぐっ、とか苦悶したあとで、顔をごしごしとこすり、復活した。
「食おう」
 加賀さんが両手を合わせたので、それに倣い、一緒に「いただきます」をした。上から目玉焼き、ハンバーグ、キャベツの千切り、ご飯の層になっていて、皿の端にミニトマトとアボカドが添えられている。大胆なようでいて、繊細な料理だと思った。何かを一つでも間違えると、バランスを崩して台無しになる。
 目玉焼きの黄身が、いい感じに半熟なのも、憎い。スプーンの先で突くと、黄身がとろっと溢れてくる。黄身が流れた白身部分と、ハンバーグ、白米、キャベツを一気に掬い上げ、口の中に放り入れた。
 美味い。
 美味いはずだ。ハンバーグと目玉焼きなんて、最強のタッグだ。
「ロコ&モコ、めっちゃ楽しそうに食うね」
 無言で貪っていると、加賀さん言った。美味しそう、じゃなくて、楽しそう、という言葉のチョイスに、そうなんです、と相槌を打ちたい。うなずいて親指を立てると、加賀さんが「はは」と笑う。
 それからは一言二言交わしただけで、あっという間に完食した。ほぼ同時に食べ終わり、再び一緒に手を合わせて、ごちそうさまでしたと頭を下げる。
「ヒレカツ丼、美味しかったですか?」
「うん、ヒレカツだった」
 なんだか面白い感想だ。加賀さんが左手でグラスを持ち上げながら、右手を伸ばす。伝票を、つかもうとしている。そうはさせるかと素早く横取りして、「よし」と小さくガッツポーズをする。
「今日は俺が奢ります」
「おっ、さすが新社会人。サンキュ」
 二人で席を立ち、椅子を戻しながら、そういえばと後ろのテーブルをそっと振り返った。加賀さんをひそやかに褒めちぎっていた人たちは、あれからずっと静かだった。急にこちらへの干渉をやめた原因は不明だが、三人の女性がこっちを見て、無言で拝んでいた。
 一人と目が合ったので、やかましくしてしまってすみませんの意味も込め、軽く会釈をすると、三人がぺこぺこと激しく頭を下げてきた。
 なんだかわからないが、ヒソヒソ声を気にせずデートの時間を過ごせたのはありがたかった。「デートだから邪魔しないで」と言ったのを聞いていて、配慮してくれたのかもしれない。いい人たちだ。
「何、また知り合い?」
 加賀さんが不思議そうだ。俺も不思議だ。
「いえ、知らない人たちです。さっきの店員さんもやっぱり知らないですよ」
「人類みな兄弟だな」
 そうですねえ、と返事をして伝票をレジのトレイに置くと、くだんの店員が忍者のように現れた。
「美味しかったですか?」
 外食で、しかも初めての店で、店員がこんなにフレンドリーなこともあまりない。困惑はするが、おかげで嫌な空気にならずに済んだ。あれは神対応だと思う。
「はい、ごちそうさまでした。あの、先ほどはありがとうございました」
 彼は何が? という感じで一拍の間を空けてから、伝票を持ってレジに打ち込みながら言った。
「私服、そんな感じなんですね。チャラいって言ったの謝ります。高校生みたいでなんかすごく素朴だなって。あ、褒めてますよこれ。可愛いです。見れてラッキー」
 尻ポケットから財布を取り出す格好で、硬直した。
「え……、あれ? えっ、山本君……? あっ、違う、山田君だっけ? どっち?」
「どっちでもありません。僕は西園寺《さいおんじ》です」
 くっくっく、と悪役笑いをして、眼鏡をしていないのに、癖なのか、フレームを持ち上げる仕草をした。
「西園寺君……、そっか、なんか、学校のときと全然違うし、わからなかった、ごめんね」
「バイト中はコンタクトですからね」
 問題はそこだけじゃない気もするが、うん、と同意した。
「生徒?」
 俺の後ろから加賀さんが顔を出し、ツッコミを入れてくる。
「どうした先生、名前間違えまくりじゃん」
「違うんです、これには事情があって……、いや、そんなことより」
 生徒に、バレてしまった。
 心臓が冷えていく。
 落ち着け、まだ大丈夫だ、挽回できる、ごまかせる。
 自分で自分に言い聞かせたが、何をどう言えば、そんなことが可能だというのだ。
「さっきはお騒がせしてごめんね」
 加賀さんが俺の腕に自分の腕を絡ませながら言った。
「女の人がしつこいから、デートって嘘ついたんだけど、信じないでね。ただの友達だから」
 この場を乗り切るために必要な嘘だと、わかっている。俺を助けるための、優しい嘘だ。
 でも俺の目は勝手に熱くなって、涙が盛り上がっていくのがわかった。
「駄目ですよ」
 西園寺が不満げに、眉間にしわを寄せた。
「先生を泣かせないでください」
「え、うわ、ホントだ」
 加賀さんが俺を見上げて「ごめん」と目の端の涙を親指でぬぐった。
「な、泣いてません」
「いやいや、ごめんね」
「ペアリング、可愛いですね。本当にお二人、お似合いです」
 西園寺が言った。
「ありがとう……」
 否定するのがつらくて、思わず認めてしまった。どうなるのか、と得体の知れない恐怖が這い上がってきたが、加賀さんの手が、優しく背中に触れた瞬間、恐怖は霧散する。
 大丈夫。
「二千二百円です」
 淡々とした口調で会計を進めようとする西園寺に一万円札を渡し、声を潜め、名前を呼んだ。
「西園寺君、お願いが」
「誰にも言いませんよ。言いふらすにしたって、僕、友達いなさそうでしょ」
「いや、そんなこと」
 確かに、学校での西園寺は今とまったく外見が違う。背中を丸め、高身長を隠し、やたらと長い垂れた前髪の奥は分厚い眼鏡で、表情がわかりづらい。とっつきにくい雰囲気ではある。
「こう見えて陽キャなんで、友達は多いんですけどね」
 くっくっく、と再び陰気にほくそ笑みながらお札を数え、お釣りとレシートを添えて、手渡してくる。
「僕自身、ジェンダーにこだわりはないんです。でも隠しておきたい大人の事情もわかります。まあそのうち、気軽に言える時代が来ますよ。その日までの辛抱です」
 そう言って、爽やかに笑う西園寺を、すごいと思った。
「素晴らしい一日になりますように。またお越しくださいませ」
 背筋を伸ばし、腹の前で両手を組み合わせ、絶妙な角度で頭を下げる西園寺に見送られ、店を出た。
「あんなカッコイイ子が学校にいたら、モテるんじゃない? 倉知君と張るくらいタッパあったし、名前も西園寺って、アイドルみたい」
 店を出た途端、組んでいた腕をほどいて、加賀さんが離れていった。
「……どうかな、学校だとあんまり目立たない生徒なんですけど……。ちょっと待ってください。えっと、ギャラリー、こっちの道ですね。徒歩六分です」
 事前に登録しておいた住所を呼び出してスマホを見ながら道案内すると、加賀さんが軽く口笛を吹いた。
「すげえ、使いこなしてんじゃん、スマホ」
「加賀さん、知ってますか。スマホってすごく便利ですよ」
「マジか、知らなかった」
 はは、ふふ、と笑って目的地を目指す。休日だから、歩行者が多い。こっそり手を繋ぐこともできなさそうだ。
 でもちゃんと、デートだ。六分間、並んで歩けることが嬉しい。
「倉知君やっぱり、学校で人気ありそうだね。鈍感だからちょっと心配」
「鈍感」
 ちら、と横目で加賀さんを見る。うっ、と胸を押さえ、加賀さんが背を丸めて謝った。
「ごめん、今ブーメラン戻ってきて刺さったわ」
「きっと特大のブーメランですよね」
「はは、うん、ごめんね」
「加賀さん、さっきから謝ってばっかり」
「うん」
 はあ、とため息が聞こえた。加賀さんの横顔は何かを憂いでいるようだった。
「泣かせてごめんね」
「あの場はあれがベストだったと思います。西園寺がいい子だったからよかったけど、そうじゃなかったら……。やっぱり、気をつけてないといけませんね、外だと」
 もう指輪も、着けないほうがいいのでは、と考えて、どんよりと落ち込みそうだ。
「倉知君、寄り道しようか」
「え?」
「こっち、公園あるから」
「この辺、来たことあるんですか?」
「いや、昨日ネットで下調べした。スマホって便利だな」
 加賀さんも、今日のデートを楽しみにしてくれていたのだと思うと胸が温かくなり、モヤモヤが吹き飛んでいった。余計なことに囚われたくない。今は、デートを満喫したい。
 開けたスペースに噴水があって、ベンチがあって、花壇に色とりどりの花が咲いていて、並木道がある、大人の公園だ。噴水の縁に座っていたり、写真を撮っていたり、人は少なくなかったが、騒々しさはない。
 二人でベンチに腰かけて、水しぶきを上げる噴水を眺めた。
「のどかですね」
「うん、寝そう」
 今日はとにかく天気がいい。太陽の光が、降り注ぐ。淀んだ何かが、浄化されていく気がした。
「ちょっとネガティブじゃない? 大丈夫?」
「大丈夫です」
 即答してから、気づかれないように深く息を吐き、大きく、吸う。それから、吐き出した。
「大っぴらに言えなくて、嘘つかなきゃとか、そういうのがしんどくて、かといって、開き直るのも違うし……、誰かに見られてるかもって思いながら行動するのも嫌だし、いろいろ、考えて……、でも、これくらいの窮屈は、なんてことないんです。俺、すごい幸せです。加賀さんと一緒にいられるなら、なんだっていい。落ち込んでみても、壁にぶち当たっても、結論はいつもそこなので、俺は本当に、幸せです」
「うん」
 ベンチに並んで座る俺たちの間には、若干のスペースがある。子どもが一人、座れるくらいの距離を開けて、座っている。
 そりゃあ、手を、繋ぎたい。
 腕を組んで、歩きたい。
 人に、なんの気兼ねもなく「デートです」と宣言したい。
 噴水をバックにカップルが自撮りしているのが羨ましいし、俺だって加賀さんと顔を寄せ合って撮りまくりたい。
 でも別に、それほど重要かといえば、そうでもない。
 くっつくなら家でもできる。どうしても外で密着しなければならない理由はない。
 家で恋人つなぎをして、腕を組んで、一緒の写真に収まればいい。
「俺もすげえ幸せ」
 加賀さんが、こぶしを向けてきた。こぶしを返してコツンと触れ合わせると、加賀さんがむずむずした顔になり、突然頭を撫でてきた。撫でるというか、手をのせるというか、一瞬のことだったが、嬉しくて、泣きそうだ。
 加賀さんが咳払いをした。長い脚を組み、斜めになって、俺を見る。
「一生懸命店探してくれたんだろうなって思うと、愛しくてさ」
 俺から目を逸らさずに、加賀さんがまろやかに微笑んだ。
「スマホのマップで案内してくれて、デートだから邪魔するなって牽制も頑張ったし、ロコ&モコは可愛いし、あと、奢ってくれてごちそうさまでした。俺はもうその健気さが可愛くて可愛くて、あ、泣きそう」
 ときめきを感じて欲しいと張り切っていたが、加賀さんは何をしても俺が可愛いらしい。とめどない愛情が痛いほどに伝わってきて、つられて泣きそうになった。抱きしめたくて仕方がなかったが、ここは外だし我慢した。帰ったら、存分に、抱きしめよう。
「加賀さん」
 小声で呼んだ。目をこすっていた加賀さんが、俺を見る。
「うん」
 目の前を、犬の散歩中の女性が歩いている。反対方向からは手を繋いだカップルが来る。人の往来が途切れるのを、待っていられない。
 加賀さんに向き直り、口を開ける。
 好、き、で、す、と一語一語、声を出さずに告げた。
 加賀さんが、目を細めて破顔した。
「俺も」
 言葉を切って、唇の動きだけで「好き」と告げる加賀さんが、可愛い。
 顔を見合わせて、声を上げて、一緒に笑う。
 二人で過ごした時間が、幸せが、積み重なっていく。
 宝物だ。

〈倉知編完結・加賀編につづく〉
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