電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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かつての少年は

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〈後藤編〉

「一年間、お疲れ様でした」
 加賀君が乾杯、とグラスを掲げ、みんなが口々に「お疲れ」とか「ウェーイ」とか言いながら各自の飲み物を頭の上に持ち上げた。
 隣同士の加賀君と七世君が、お互いのジョッキをコン、と軽くくっつけて、顔を見合わせる瞬間をしっかりと目に焼きつけ、私は上機嫌でビールに口をつけた。
 対面に、左から千葉君、加賀君、七世君が並んで座っている。こちら側は前畑を真ん中に、右側に私、左側に高橋君だ。
 前畑が千葉君に加賀君の隣を快く譲ったのは、多分、無自覚にいちゃつく二人を眺めていたいからだろう。
「七世君、今日は来てくれてありがとうね」
 七世君を拝みながら、前畑が言った。
 営業部の忘年会とは別に、気の置けないメンバーで毎年年末に飲み会を開いているが、我々は気づいてしまった。七世君が、とっくに飲める年齢になっていることに。
 久しぶりに七世君に会いたかった私たちは、忘年会を口実に、彼を召喚した。
「お誘いいただけて嬉しいです」
 健康的に弾ける笑顔は眩しかった。胸が熱くなる。この子はいくつになっても本当にいい子だ。もう二十歳を過ぎているのに変わらず純粋で、綺麗な瞳をしている。
 誰にも見つからないように、目の端を、指先でそっと拭った。
 久しぶりに会えて、嬉しくて涙ぐんでしまうほどに、私は七世君をまるで我が子のように大切に思っている。
「倉知君はお酒強そうだよね。結構飲めるの?」
 千葉君が訊いた。七世君は絶対にお酒に弱いタイプだと思っていたから、千葉君の胸倉をつかんで揺さぶって、「具体的にどこが強そうに見えるのか?」と問いただしたくなった。
「多分、普通だと思います」
 二人のやりとりを真ん中で聞いていた加賀君は、ニヤニヤしていた。この顔を見る限り、七世君はあまり強くないようだ。
「このお店、懐かしいですね」
 七世君がビールを片手に室内を見回した。
「あー、そういやここで倉知君のお披露目したっけ。あんとき掘りごたつに潜ってたよな、高橋」
 ネクタイを緩めながら加賀君が言った。
「え? 僕が? 子どもじゃあるまいし、こんなとこ潜りませんよぉ」
「潜ってた」
 私と前畑がすかさず声を揃える。
「ほんと懐かしい! あれから何年経った?」
 取り皿にサラダを盛りながら前畑が言うと、「五年?」と加賀君が答え、箸で摘まんだ料理を口に放り込む。
「お、これ美味い。ちょっと食べてみ」
「なんですか?」
「謎の物体。あーん」
 なんの迷いもなく、あーんを展開する二人を、私は無言で見つめた。本人たちに照れがなく、あまりに自然な光景すぎて、騒ぐのが筋違いに思えた。私の隣で前畑が「んふっ」と控えめな声を漏らす。
「これイカですね。この緑のは海苔?」
「正解。イカゲソの磯辺揚げ、だって」
 加賀君がメニューを読み上げて、生ビールのジョッキを持ち上げた。美味そうに喉を鳴らす。ペースが速い。今日は飲む気だな、と察した。万が一酔っても、今日は七世君がいるから安心だ。
「あのときオレンジジュース飲んでた高校生が、ビール飲んでんだよな」
 加賀君が感慨深げにつぶやいて、七世君の横顔を見つめている。
「あれ? そっか、シラフでキスしてみせてくれたんだっけ。やだもう、ありがたい!」
 前畑の科白に、七世君がむせた。
「加賀さん、人前でそういうことするんですね」
 人前でそういうことをしていそうなモテキングが、加賀君をうさんくさそうに見ている。
「倉知君、人にキスシーン見せつけるの、性癖なんだよ。な」
 同意を求められた七世君は、顔を覆って「すいません」と認めた。認めるのが可愛い。
「つーかなんでそういう、キスする流れになったんだっけ?」
 七世君の大きな背中をさすりながら、加賀君が首を傾げた。なんだっけ。私もよく覚えていない。なんせ五年も前の話だ。
「王様ゲームですよね?」
 高橋君が思いついた顔で言ったが、そんなものは、過去一度もやったことがない。
「キスしないのって、めぐみさんがいきなり訊いたんですよ」
 記憶の糸をたぐる大人たちを差し置いて、七世君がためらいがちに言った。
「あ、私か。そうかも。うわ、なんか記憶力なさすぎて怖くなってきた」
「老化現象ですねぇ」
 高橋君には言われたくない、と笑う。
「あの日のことを一生忘れない、キリッ! とか言ってても、忘れちゃうよね……、今のこの楽しい瞬間も、数年後には記憶の淵に沈む……」
 悲観する前畑に、加賀君が「大事なことだけ覚えてたらいいよ」と軽い口調で言った。
「あのとき、キスが濃厚すぎて倉知君が大変なことになったのは覚えてるだろ。それでいいんだよ」
 イカゲソの磯辺揚げを淡々と食べながら、加賀君が言った。
「それ、大事なことですか?」
 七世君が頭を掻く。
 そう、あのとき、キスで興奮した七世君の七世君が、元気になったのだ。懐かしい。あの頃君は、若かった。
「大変なことって?」
 思い出し笑いをする面々の中で、千葉君が一人、不思議そうだ。
「勃起したんですよ」
 親切に教えてあげたのは高橋君だ。さすがだ。言いにくい単語をサラッと言う。
「あ、ああ……、高校生だよね? じゃあ普通……かな?」
 千葉君のフォローは苦しかった。可哀想に、照れ屋の七世君は、さぞかし恥ずかしがっているだろう。
 わくわくしながら視線を向けると、中ジョッキを飲み干して、男らしく手の甲で口を拭い、よく通る声で宣言した。
「もう俺は、キスだけで勃起しませんから」
 しん、と間が空いた。
「すごい! 大人になったね!」
 前畑が拍手をすると、高橋君もつられて手を打ち、千葉君も後を追う。誇らしげな得意満面が可愛かったので、私も拍手で称えたが、加賀君だけは苦笑いで、七世君の体を肘で突いた。
「おいおい、そんなことないだろ? するだろ?」
「いえ、なんでですか、キスだけで勃起なんて、もうしませんよ」
「いやいや」
「しませんってば」
 二人が言い合いを始めた。喧嘩とは違う。顔が笑っているし、お互いの体を押し合って、どう見てもイチャイチャしている。
「もしかして七世君酔ってない?」
 前畑が私に耳打ちをした。
「あ、そうかも。え、中ジョッキ一杯で?」
「可愛いね」
「可愛すぎ」
 お酒に弱い若者というのはなんだか可愛い。七世君だとなおさら可愛い。
「ねえねえ、これって、キスの流れだよね」
「うん、だよね」
 キスで勃起するか試してみようという展開になる予感しかない。
 固唾を飲んで見守る私たちの期待を背負った二人が、「する」「しない」と繰り返す。
「じゃあ」
 加賀君が言った。私と前畑が同時に前のめりになる。
「あ、倉知君、もう飲んだの? おかわりは?」
 前畑がうなだれ、私は肩を落とす。
「いいですか?」
「酔わない程度にな。何飲む?」
 メニューを渡された七世君が、眉間にシワを寄せて吟味したあとで、「カシスソーダ?」と答えた。なんで疑問形なのかわからないが、ほっこりした。
 もうキスとかは別にいいか、と思った直後、前畑が咳払いをしてから訊いた。
「七世君って、酔ったらどうなるの?」
「第一形態は、キス魔。千葉君、呼び出しボタン押して」
 加賀君があっさりと答え、飲みかけのビールを流し込む。キス魔という単語に、個室内が一気に落ち着かない雰囲気になった。高橋君が「僕にもチャンスが?」と小さくつぶやいたのが聞こえた。
「わかった、私も心の準備しとくね」
 前畑がバッグを引き寄せ、中からリップを出して塗り直し始めたが、七世君が「大丈夫です」と胸を張った。
「酔っても加賀さんにしかしませんから」
「それはどうもありがとうございます!」
 前畑がテーブルに三つ指をついて頭を下げる。
「で、第二形態は?」
 千葉君が興味深そうに訊いた。加賀君が七世君をチラ見してから、真顔になって、頭を抱えた。
「第二形態は、……やばい」
 やばいって? どうなるの? と急かす私たちに、七世君が慌てて言い繕う。
「な、内緒です、内緒」
 私たちは、ひそかに目配せをした。
 酔えば答えが明らかになる。
 オーダーを取りにきた店員にあらゆるアルコールを注文し、これも美味しいよ、飲んでみて、とさりげなく薦めたが、加賀君が止めた。
「お前らの魂胆は見え見えだ」
「だって、やばいなんて言われたら見てみたいじゃない」
 私が言うと、加賀君は肩をすくめ、フッとクールな笑いを浮かべた。
「キス魔からの第二形態なんて、想像できるだろ?」
「あ、やっぱりそういうこと?」
 理解した、というふうに私はうなずき、前畑はほくそ笑み、千葉君は気づいていない顔でハイボールを傾け、高橋君がとぼけた声で言った。
「第二形態は身長が二倍になるんですよね?」
「フリーザかよ」
 加賀君がよくわからないツッコミを入れると、ふふふふ、と堪えた笑い声が聞こえた。七世君だ。
「身長が二倍……ふふっ」
 まさかと思うが高橋君のボケがツボに入ったようだ。素直ないい子だ。
「七世君、酔った? 酔っ払った? そろそろキス魔になる?」
 前畑がぐいぐいと催促する。
「キス……」
 七世君の目が、ゆっくりと加賀君に注がれた。その視線の動かし方は、酔っ払いのそれだった。ドキッとした。七世君から初めて色気を感じた瞬間かもしれない。
「こら、煽るなよ」
 危険を察知した加賀君が、メニューで七世君の視線を遮断する。
「キスはしたいです」
 はっきりと告げたあとで、すぐに「でも」と否定した。
「酔ったらキスしたくなるというより、常に加賀さんにキスしたいです。一日中キスしたいです。許されるなら、今すぐしたいです」
 いきなりすごくノロケてきた。感心したうなり声が漏れた。許す、と勝手に許可を出したかったが、加賀君が私を見て、目で訴えていた。「駄目だ、よせ」と。
「我慢できてるってことは理性が残ってる証拠で、つまり俺はまだ酔っていないことになります。あの、俺、酔うと本当にひどいんです。だから酔わせないでくださいね」
「もうっ、七世君ったら面白い! 何? すんごい可愛いんですけど、七世君! 七世きゅん!」
 七世君は可愛い。気持ちはわかる。高橋君は面白くないのでは、と様子を見たが、食べて飲むことに夢中だ。多分、七世君より高橋君が先に酔って、寝落ちする。
「わかった、酔わせないね。あっ、これ、ジュースみたいなお酒だから、多分これなら酔わないんじゃない? 甘くて美味しいよ。飲む?」
「前畑さん」
「えっ、うん、なになに、なあに?」
 七世君に突然呼ばれた前畑が、背筋を伸ばす。
「……なんだっけ」
「えっ」
「何言おうとしたか忘れました。酔ってるかもしれません」
 えへへ、と照れ笑いする七世君は、どう見ても酔っている。
「んもう、なんという、あざと可愛いさっ」
 両手の拳をぶんぶん振って、テンションが上がる一方の前畑だったが、ふと、動きを止めて笑顔を消した。
「ねえ、七世君、私の名前、ちゃんと覚えてる?」
「前畑さん」
「じゃなくて、下の名前ね? 前畑さんじゃなくて、ちゃんと名前で呼んでって言ったよね? 忘れちゃったんでしょ、どうせ……」
 いじける前畑に、七世君が慈しむような微笑みを見せた。
「若菜さん」
「せ、正解ー! あれー? 覚えてたの?」
「加賀さんが名字で呼ぶから、つられるんですよ」
「ということは? 加賀君が若菜って呼べば解決しない? ね、加賀君」
 加賀君の返事はない。千葉君と何か話し込んでいる。
「加賀君、聞いてる?」
「あ、ごめん、聞いてない。仕事の話してた」
「ああ……っ、この塩対応が癖になるの!」
 前畑がテーブルを乱打し、はずみで箸が落下した。掘りごたつの中でカランと音を立て、転がっていく。
「あんっ、私のお箸がっ」
 前畑がテーブルの下を覗き込む。それきり、動かなくなった。
「ちょっと、何やってるの? 新しいの貰いなよ」
「めぐみさん」
 覗き込んだままの体勢で、私を呼ぶ。
「ちょっと」
「え? 何?」
「いいから」
 前畑の目が、真剣だった。なんなのだ、と呆れながら、テーブルの下を覗く。
 何を見せたいのかは、すぐにわかった。
 加賀君と七世君が、手を重ね合わせていた。
 前畑と顔を見合わせ、ゆっくりと、身を起こす。
 七世君は左手で箸を持って、唐揚げを摘まみ、口に運んでいた。私たちが目撃したことに気づいているだろうに、悠々としている。
 大人の余裕を感じた。
 抑えられない衝動を爆発させていた少年は、大人になったのだ。人の目につかないところで、節度を持って、触れ合う慎ましさを身につけてしまった。
 好きだと表現するたびに、照れたり恥ずかしがったりしていた高校生の七世君は、もういない。寂しくもあるが、成長したのだと、しみじみと喜びを噛みしめる。
「大人になったね」
 静かに声をかけた。
 七世君が私を見る。
「はい、大人です」
 屈託なく笑う顔は、まぎれもなく出会った頃のままで、懐かしくて、愛しくて、恋しくて、私は再び目を潤ませた。

〈おわり〉
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