妖精が見える三十路童貞の話

月世

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第四話

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 仕事をしている間、妖精は大人しかった。
 社内にお気に入りの社員を見つけたとかで、俺から離れ、一日中彼に張り付いていてくれた。
 平和だった。
 静かだった。
 やはり、俺は、早く童貞を卒業したい。
 その日の夜、仕事を終えて帰宅し、作戦会議を開いた。
 議題はもちろん、いかにして童貞を卒業するか。それと今朝の反省会だ。
「ファーストコンタクトは失敗に終わったわけだが、朝の電車の男はどうする?」
「どうするって、どうも? あの人が本当に俺のことを好きかはわかんないじゃん」
「なんだ? おれを疑うのか?」
「疑うよ、そりゃあ」
 お好み焼きをひっくり返して、缶チューハイのプルタブを引いた。
「訊きたいんだけど、あのときどうするのが正解だった?」
 ゆけ、と人を煽っておきながら、話しかけたら怒られた。理不尽だ。
「さりげなくハンカチを落とすとか、さりげなく目の前で倒れるとか、さりげなく髪の毛をボタンに絡めて解けなくするとか、とにかくさりげなさが重要だ」
 妖精の案はさりげなさのかけらも感じない。本当にこの妖精を頼っていてもいいのだろうか。妖精から逃れるために、どうにかして童貞を卒業したい。かと言って、誰でもいいわけでもないし、手段を選ばないのであれば、お金を払ってそういうことができるサービスはこの世にいろいろとある。
 でも俺は、ちゃんと相手を見極めて、ここぞというタイミングでそうなりたい。
「というか、男で童貞卒業っていうのはちょっと」
「なんでだ? 男はいいぞ?」
「え……、うーん……、いや、ごめん俺、ゲイじゃないし。おっぱいも触ってみたい」
「むっつりめ」
「理想は」
 チューハイを一口飲んでから、換気扇を見上げて言った。
「大恋愛の末、結婚式後の初夜で初体験とか」
「はーっはっはっは!」
 妖精がジタバタしながら空中で笑い転げている。その様をじっと横目で見て「何かおかしいか?」と訊いた。
「なんだ? 笑うところじゃなかったのか?」
「本気だよ、なんなんだよ」
「お前は……、なんだか一生童貞の気がするな……」
 妖精が憐憫の目で見てくる。
 一生童貞、つまり、一生こいつが憑いている。そんな人生は嫌だ。
 なんとしても、静寂を取り戻す。
 でも俺には恋愛というものがさっぱりわからない。
 大恋愛なんて、想像ですら難しい。
「どうやったら好きな人ができる?」
「そこからか? そこからなのか?」
 妖精が後ろに仰け反った。そのまま一回転して元の体勢に戻ると、咳払いをした。妖精の顔は憐れみの色が濃くなるばかりだ。
「お前、もしや初恋もまだか?」
「はつこい……、幼稚園の先生だったかな?」
 多分、先生が好きだった。親がそんなようなことを言っていたし、おそらく俺の初恋は幼稚園の先生なのだろうと思う。名前も顔も覚えていないが、そうに決まっている。
 妖精は疑わしそうな目で俺を見ている。
「やはりお前は外に出ろ。職場と家の往復では出会いがないぞ」
「外には出てるよ。スーパーとか、本屋とか」
「そういうことではない。たとえば、そう、レジャーだ」
 馴染みがなさすぎて、レジャーが何かが咄嗟にわからずポカンとしていると、妖精がフライパンをステッキで指して、「できてるぞ」と言った。お好み焼きが焼き上がっていた。
 皿に移してソースとマヨネーズをかけて、かつおぶしをのせる。
「レジャーって、遊園地とか?」
「冬ならスキー、夏ならプールや海とかだな」
「興味ないなあ。それに俺、インドア派だし、あんまり外に出たくない。めんどくさい」
 寒いのも暑いのも苦手だし、人混みも見たくない、とぼやく。
「お前えぇ!」
 妖精がステッキで頭を乱打してくる。
「痛い」
「そういうところが駄目だというのだ!」
 耳も痛い。
「うん、知ってる。部屋に籠ってても出会いがないのは当然だよな」
 理解を示すと、妖精は満足げに鼻を鳴らし「そうだろう?」と胸を張る。
 お好み焼きに箸を入れながら、でも、と続ける。
「めんどくさいんだわ。もう外出るのがめんどくさい、一人でいたい」
 俺の科白に妖精がハッとなった。
「さてはお前、友達もいないな?」
 うなずくほかない。学生時代は、いた。
 でも大人になって働くようになると疎遠になり、今では全員年賀状だけの関係だ。
 妖精がすっかり悲しい顔になってしまった。
「おれが友達になってやろうか?」
「いらないし」
「しかし、お前とは長い付き合いになりそうだな」
 そうならないために、俺は本気を出さなければならない。
 明日から、本気を出す。具体的な策は何もないままだが、とりあえず動き出そうと思った。
 次の日。
 休日なのに早起きして、身なりを整え、鏡の前で「よし」と気合を入れる。
「どこへゆく?」
 俺の背後で妖精が訊いた。
「ナンパだよ」
「不安しかないな」
 ナンパなんて、人生で一度も経験がない。でもこの際、仕方がない。外に出ないと、出会わないと、始まらない。
 靴を履いて玄関を出て、鍵穴に鍵を差し込むと、隣のドアが開いた。出てきた隣人が俺を見て、眉間に皺を寄せた。とても嫌そうな顔だ。なぜかはわからないが、俺は隣人に嫌われている。会うたびに、睨まれる。
「おはようございます」
 軽く頭を下げて、微笑んでみた。隣人の眉間の皺が深くなり、実に不愉快そうに顔をしかめている。もしや、と思い当たる。妖精との会話、というか俺の独り言が、うるさかったのかもしれない。
「ごめんなさい、うるさかったですか?」
 先手を打ってみた。隣人は「何が」という顔をした。
「話し声です。昨日結構、うるさかったかもって気になってて」
「別に……。何、誰か泊まりに来てんの?」
 ぶっきらぼうに訊ねて、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだ男がちら、と俺を見る。
「すいません、ただの独り言です」
「こわ、あんた大丈夫?」
 隣人は、やはり俺のことをあまりよく思っていない。
「なるほどな」
 妖精が俺の頭の上でうんうんうなずいている。
 なるほどとは? と頭の中で聞き返す。
「こいつ、お前に惚れてるぞ」
「え?」
 声が出た。隣人が俺を見て「何?」と顔をしかめる。
「なんか言いたいことでもある?」
「いえ、あの……」
 隣人は、言い淀む俺を黙って見据えている。
 惚れている? 俺に? この人が? でも、いつも嫌そうな顔で、いろいろと注意されている。テレビの音量のことも、ゴミを出す時間のことも、彼が。そう、「彼」だ。
 また、男じゃないか。
「お前は男にモテるな」
 妖精が羨ましそうに言った。
 いやいや信じない。今回ばかりはにわかには信じがたい。どちらかと言えば、俺は嫌われていると思う。
「しかしこいつは」
 妖精が何かを言いかけた。
 何?
 脳内で問いかけたが、反応がない。妖精が俺の肩に止まって、無言になった。
 もしかして、悪人なのだろうか。連続殺人鬼とか?
 目つきは悪いし、耳にたくさんピアスをしているし、髪の色がめちゃくちゃ明るいが、悪人とは思えなかった。
「あの、おとなりさん」
成瀬なるせ
「成瀬さん、今日はお休みですか? 今からお仕事?」
「休みだけど」
「どこに行くんですか? 何か用事ですか?」
「別に……、ただそこのコンビニでメシ買ってくるだけ。あんたに関係ある?」
 不信感をひしひしと感じたが、めげずに切り出した。
「よかったら、ナンパに付き合ってくれませんか?」
「……はあ?」
「ナンパなんて一人じゃ絶対に無理だけど、成瀬さんがいたら心強いかなって。女の子にモテそうだし。あ、今彼女とか」
「今はいないけど。あんた、彼女欲しいの?」
「彼女っていうか」
 童貞を卒業したいんです、とはさすがに言えない。
「ダメならいいです。突然変なお願いしてすみませんでした」
 頭を下げて、踵を返す。
「待てよ」
 呼び止められて、振り返ると、彼が頭を掻きながら言った。
「わかった、ついてってやるよ」
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