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第三話
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そもそもの話。
童貞の何が悪い。
人は必ずセックスしなければならないという法律でもあるのか?
「そんなものはないが」
脳内の問いかけに、妖精が返事をした。はあ、と息をつく。
電車のつり革をつかみながら、「心を読むな」と心の中で釘を刺す。
「別にいいんだぞ? 童貞のままでも。だがそうするとおれは一生お前のそばにいることになるが、いいのか? おれはそれでもかまわんぞ? おれと結婚するか? 結婚すると誓いますか? 誓いのキスをどうぞ」
妖精が俺の唇目がけて飛んでくる。
「うるさい」
あまりのうるささと不気味さに、つい口に出して、叩き落してしまった。周囲にいた乗客が、「え?」という顔でこっちを見る。
お前のせいで、変人扱いされるじゃないか。
「お前は結構変人の部類だぞ」
それは三十路童貞だから?
「おれを見ても騒がなかったからだ」
まあ、騒いでも仕方ないし。隣から苦情くるし。
「そういうとこだぞ」
よくわからない。ただ、俺はこんな気味の悪い生物から変人認定されるほどに変わっているらしい。少しショックだ。
「お、来たぞ!」
妖精が突然声を上げた。電車が駅に停まり、人が降り、人が乗る。
「あの眼鏡だ」
妖精が杖で何かを指している。杖の指し示す方向を見た。眼鏡をかけたスーツの男がいる。
あの男がどうかしたのだろうか。
「お前に惚れている男だ」
「はあ?」
またしても声が出てしまった。口を抑え、咳払いでごまかした。
「インテリ系か。俺のタイプではないが、なかなかの男前だな」
ちょっと待て。おかしい。いろいろとおかしい。
仮にあの男が俺を好きだとして、どうしてそれが妖精にわかるのだ。
「おれはそういうのがわかるのだ」
馬鹿らしい。首を小さく横に振って、否定する。
「見ろ、お前を見てるぞ」
そんなわけがない、と鼻を鳴らし、もう一度男を見た。視線が噛み合った。男が驚いた様子で慌てて顔を背け、背中を丸めた。
「な、言っただろ?」
他人と目が合って気まずくて、逸らしただけだと思う。
というか、男じゃないか。
「男だな。なんてラッキーなんだ」
なんでラッキーなんだ。
「土曜の休日出勤は気が重いが、お前を見れたからラッキーだと、向こうも思ってるぞ。いつも見てるなんて健気じゃないか」
信じない。
俺は、信じない。
妖精が俺をからかっているだけだ。
「童貞卒業のチャンスだぞ」
あまりにも飛躍しすぎだ。何がどうなってそうなるのだ。それは違う。絶対に違う。
あの男とどうにかなるなんて、想像もできない。絶対に無理だ。それに向こうだっていい迷惑だろう。自分がそんなふうに見られているなんて、屈辱以外のなにものでもないだろう。
妖精が俺の目の前であぐらをかき、腕組みをして「贅沢な奴め」とため息をつく。
「それなりにいい男だぞ? 何が駄目なんだ、言ってみろ。どんな男がタイプなんだ」
どうして男に限定してくるのかがわからない。
俺は男が好きだなんて、一言も言ってない。
「見ろ。またお前を見ているぞ」
眼鏡の男は、確かに俺を見ていた。目が合っても、今度は逸らされない。
なんだろう。この視線の意味は。
好意が込められていると言われれば、そうかもしれない。
わからない。
本当に、妖精の言うことが正しいのだろうか。
確かめたくなった。
揺れる電車で、一歩踏み出した。彼が、ギョッとする。
「いいぞ、ゆけ、ゆくのだ!」
後ろで妖精が発破をかける。もう引き返せない。ドアの近くで手すりを両手でつかむ彼が、俺を凝視し、硬直している。
「ちょっといいですか?」
彼の握る手すりの、下の部分を握って、距離を詰めた。ものすごく緊張しているのが伝わってくる。こっちまでおかしくなりそうだ。
一度深呼吸してから、周囲を見回し、誰もこっちを見ていないことを確認してから囁くように、こう言った。
「俺のことが、好きですか?」
「えっ……?」
「あなたは、俺が好きですか?」
男は答えない。目を白黒させて、口をつぐんでいる。この反応だと、妖精の言っていることが本当かどうか判断できない。
「休日出勤は気が重いけど、俺を見れてラッキーって思いました?」
「なっ、えっ、そっ」
言葉になっていない。男は顔面蒼白で汗を掻き、口をパクパクさせている。手すりを握った両手が震えている。
考えていることがバレて、戦慄しているようにも見える。
突然言いがかりをつけられて、心から怯えているようにも見える。
どっちだろう。わからない。俺は人の表情から気持ちを汲み取るのが苦手だ。
電車が減速を始める。あ、と声が出た。降りなくては。
「冗談です。すいません、失礼します」
電車が完全に停まると、ドアが開く。眼鏡の男に頭を下げて、電車を降りた。
「コラ、もう、お前!」
妖精の叱咤の声が背中に刺さる。目の前に素早く回り込むと、後ろ向きに飛びながらステッキをぶんぶん振り回した。
「なんださっきのあれは!」
「さっきのあれ?」
「あんなアプローチの仕方があるか、あれじゃ変質者だぞ」
「変質者」
つぶやくと、前を歩いていた女性が肩越しに振り返った。怯えた目をして、早足で駆けていく。独り言をぶつぶつ言っている今の俺は、変質者認定されてもおかしくない。
早くこいつとおさらばしたい。
でも、それには童貞卒業がどうしても必要になってくる。
「いいか、電車で声をかけてもいいのは、本を読んでいる男が小説の世界に没頭しすぎて降りる駅を逃しそうなときだけだぞ」
よくわからない説教を始める妖精の体を鷲づかみにした。
「な、何をする!」
「妖精さんの仕事は、俺の童貞卒業のサポートだったよな?」
「そうだが、なんだ、まさかお前、……おれが好きになったのか? おれがあまりに魅力的だから?」
頬を染める妖精を、このまま握り潰したい。妖精が「よせ、苦しい!」と拳から逃れようと暴れている。
解放してから、駅のホームで仁王立ちになり、大きくため息を吐いた。
「俺は、童貞を卒業したい。いや、する」
人生で初めての下卑た目標を、切々と、宣言する。
童貞の何が悪い。
人は必ずセックスしなければならないという法律でもあるのか?
「そんなものはないが」
脳内の問いかけに、妖精が返事をした。はあ、と息をつく。
電車のつり革をつかみながら、「心を読むな」と心の中で釘を刺す。
「別にいいんだぞ? 童貞のままでも。だがそうするとおれは一生お前のそばにいることになるが、いいのか? おれはそれでもかまわんぞ? おれと結婚するか? 結婚すると誓いますか? 誓いのキスをどうぞ」
妖精が俺の唇目がけて飛んでくる。
「うるさい」
あまりのうるささと不気味さに、つい口に出して、叩き落してしまった。周囲にいた乗客が、「え?」という顔でこっちを見る。
お前のせいで、変人扱いされるじゃないか。
「お前は結構変人の部類だぞ」
それは三十路童貞だから?
「おれを見ても騒がなかったからだ」
まあ、騒いでも仕方ないし。隣から苦情くるし。
「そういうとこだぞ」
よくわからない。ただ、俺はこんな気味の悪い生物から変人認定されるほどに変わっているらしい。少しショックだ。
「お、来たぞ!」
妖精が突然声を上げた。電車が駅に停まり、人が降り、人が乗る。
「あの眼鏡だ」
妖精が杖で何かを指している。杖の指し示す方向を見た。眼鏡をかけたスーツの男がいる。
あの男がどうかしたのだろうか。
「お前に惚れている男だ」
「はあ?」
またしても声が出てしまった。口を抑え、咳払いでごまかした。
「インテリ系か。俺のタイプではないが、なかなかの男前だな」
ちょっと待て。おかしい。いろいろとおかしい。
仮にあの男が俺を好きだとして、どうしてそれが妖精にわかるのだ。
「おれはそういうのがわかるのだ」
馬鹿らしい。首を小さく横に振って、否定する。
「見ろ、お前を見てるぞ」
そんなわけがない、と鼻を鳴らし、もう一度男を見た。視線が噛み合った。男が驚いた様子で慌てて顔を背け、背中を丸めた。
「な、言っただろ?」
他人と目が合って気まずくて、逸らしただけだと思う。
というか、男じゃないか。
「男だな。なんてラッキーなんだ」
なんでラッキーなんだ。
「土曜の休日出勤は気が重いが、お前を見れたからラッキーだと、向こうも思ってるぞ。いつも見てるなんて健気じゃないか」
信じない。
俺は、信じない。
妖精が俺をからかっているだけだ。
「童貞卒業のチャンスだぞ」
あまりにも飛躍しすぎだ。何がどうなってそうなるのだ。それは違う。絶対に違う。
あの男とどうにかなるなんて、想像もできない。絶対に無理だ。それに向こうだっていい迷惑だろう。自分がそんなふうに見られているなんて、屈辱以外のなにものでもないだろう。
妖精が俺の目の前であぐらをかき、腕組みをして「贅沢な奴め」とため息をつく。
「それなりにいい男だぞ? 何が駄目なんだ、言ってみろ。どんな男がタイプなんだ」
どうして男に限定してくるのかがわからない。
俺は男が好きだなんて、一言も言ってない。
「見ろ。またお前を見ているぞ」
眼鏡の男は、確かに俺を見ていた。目が合っても、今度は逸らされない。
なんだろう。この視線の意味は。
好意が込められていると言われれば、そうかもしれない。
わからない。
本当に、妖精の言うことが正しいのだろうか。
確かめたくなった。
揺れる電車で、一歩踏み出した。彼が、ギョッとする。
「いいぞ、ゆけ、ゆくのだ!」
後ろで妖精が発破をかける。もう引き返せない。ドアの近くで手すりを両手でつかむ彼が、俺を凝視し、硬直している。
「ちょっといいですか?」
彼の握る手すりの、下の部分を握って、距離を詰めた。ものすごく緊張しているのが伝わってくる。こっちまでおかしくなりそうだ。
一度深呼吸してから、周囲を見回し、誰もこっちを見ていないことを確認してから囁くように、こう言った。
「俺のことが、好きですか?」
「えっ……?」
「あなたは、俺が好きですか?」
男は答えない。目を白黒させて、口をつぐんでいる。この反応だと、妖精の言っていることが本当かどうか判断できない。
「休日出勤は気が重いけど、俺を見れてラッキーって思いました?」
「なっ、えっ、そっ」
言葉になっていない。男は顔面蒼白で汗を掻き、口をパクパクさせている。手すりを握った両手が震えている。
考えていることがバレて、戦慄しているようにも見える。
突然言いがかりをつけられて、心から怯えているようにも見える。
どっちだろう。わからない。俺は人の表情から気持ちを汲み取るのが苦手だ。
電車が減速を始める。あ、と声が出た。降りなくては。
「冗談です。すいません、失礼します」
電車が完全に停まると、ドアが開く。眼鏡の男に頭を下げて、電車を降りた。
「コラ、もう、お前!」
妖精の叱咤の声が背中に刺さる。目の前に素早く回り込むと、後ろ向きに飛びながらステッキをぶんぶん振り回した。
「なんださっきのあれは!」
「さっきのあれ?」
「あんなアプローチの仕方があるか、あれじゃ変質者だぞ」
「変質者」
つぶやくと、前を歩いていた女性が肩越しに振り返った。怯えた目をして、早足で駆けていく。独り言をぶつぶつ言っている今の俺は、変質者認定されてもおかしくない。
早くこいつとおさらばしたい。
でも、それには童貞卒業がどうしても必要になってくる。
「いいか、電車で声をかけてもいいのは、本を読んでいる男が小説の世界に没頭しすぎて降りる駅を逃しそうなときだけだぞ」
よくわからない説教を始める妖精の体を鷲づかみにした。
「な、何をする!」
「妖精さんの仕事は、俺の童貞卒業のサポートだったよな?」
「そうだが、なんだ、まさかお前、……おれが好きになったのか? おれがあまりに魅力的だから?」
頬を染める妖精を、このまま握り潰したい。妖精が「よせ、苦しい!」と拳から逃れようと暴れている。
解放してから、駅のホームで仁王立ちになり、大きくため息を吐いた。
「俺は、童貞を卒業したい。いや、する」
人生で初めての下卑た目標を、切々と、宣言する。
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