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番外編
妖精が見えた元三十路童貞の話
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妖精が見えた元三十路童貞の話
〈成瀬編〉
シャワーから出ると、雪がぶつぶつ喋っていた。
妖精か。ほほえましい。
濡れた頭をタオルで拭いながら、冷蔵庫を開ける。
「……うん、全然、問題ない。いらんって、大丈夫やし送らんでいいよ」
缶ビールをつかんで、動きを止めた。今なんか、おかしなイントネーションだったな?
「なんも。全然変わらんし、仕事も普通。うん……、え、いつ? いや、来んといてや、忙しいんやって、……うん、土日も忙しいから。ほんとやって、……は? しとらんし、なんでねんて」
妖精との会話じゃなくて、電話らしいと気がついた。缶ビールをそっと取り出して、冷蔵庫を静かに閉めた。おそらく家族と電話をしているのだろう。
口を押え、笑い声を噛み殺す。なまっているのが、めちゃくちゃ可愛い。
「彼女はおらんけど、彼氏はおるよ」
持っていた缶ビールが手から滑り落ち、足の甲を直撃した。
「いっ! ……てぇ!」
叫んで飛び上がる。うずくまってひとしきり悶絶していると、雪の声が上から降ってきた。
「大丈夫?」
「……折れた」
「救急車呼ぶ?」
「いや、いい。……今の電話、誰?」
「兄です」
「あー、兄貴いんの。へー……、あ、方言可愛い。どこの出身だっけ。東北だっけ?」
「……北です」
「北って。ざっくりすぎんだって」
「成瀬さん。今の、忘れてください」
肩にかけていたタオルを俺の頭にかぶせて、強引にガシガシしてくる。
「今のって? もしかして、北って半島か?」
「違います、方言です。恥ずかしいんですよ。聞かれたくなかったのに」
忘れろ、忘れろ、と耳元で囁きながら、タオルで頭を揉んでくる。あー、可愛いなー。とほだされている場合じゃない。
「雪」
手首をつかんで、動きを止めた。邪魔なタオルを払いのけると、目の前には頬を染めた雪の顔。とりあえず、キスをした。チュウチュウ音を立てて唇を吸ってから、「お前、さっき」と思い出したように言った。
「彼女はおらんけど彼氏はおるよって」
「なまりを忠実に再現しないでください」
「お前、兄貴にあんなこと言って、どうすんだよ」
「どうするとは?」
雪は、キョトンとしている。つられてこっちまでキョトン顔になってしまう。
「うち、自営業なんです。両親の代わりに兄が面倒見てくれて、歳が離れてるからいつまでも子ども扱いで。彼女はできたかってしつこくて、だから、安心させたかった」
「安心させたくて彼氏はいるって言ったのか? 逆効果じゃねーか」
「そうかな、そうかも……。でも俺、成瀬さんのおかげで幸せですよ?」
雪の目は、純粋だった。めちゃくちゃ綺麗な目で見られて、思わずひるんでしまった。そんなふうに言われたら、叱れなくなる。
「俺も幸せ」
囁いて、抱きしめて、キスをして、押し倒す。
「また? せっかくシャワーしたのに」
俺の腰に両足を絡ませて、雪が言った。
「妖精戻ってきた?」
「いえ」
「じゃあしようぜ」
立ったまま壁に手をつかせ、腰をつかんで後ろから穿つ。
俺たちは、セックスばかりしている。終わっても、次はどんな体位でやろうかと考えるくらい、セックスで頭がいっぱいだった。
でも前提に、愛がある。誰でもいいなら三十三まで童貞を続けてはいない。
俺は雪が好きだ。雪も俺を好きなのだとよくわかる。
身内に「彼氏がいる」と堂々と打ち明けた。それは、俺の存在が雪にとって「揺るがないもの」であることの証明に思えた。
俺にとっても、揺るがない。七年見てきた男だ。やっと手に入れた。
だからもし、ドアをガンガンに叩いて「出てこい」と脅迫する男が現れたら、全力で、守ってみせる。
「電話に出ろ、いるのはわかってるぞ! 雪、雪、こら、雪! 開けなさい!」
そう、まさに今の状況だ。
雪の兄から電話があった翌日の夜、ドアを叩く音が鳴り響いた。急いで玄関から飛び出すと、男が雪の部屋のドアを乱打していた。
友人か元カレという選択肢はない。雪は仕事以外では引きこもりで、宅配便しか人が来ない。雪、と下の名前で呼ぶ男。昨日の電話の件がよぎり、兄だろうとすぐに思い至った。
「開けてくれぇ……、雪ぃ」
男がドアにすがりつき、膝をつく。他の部屋の住人たちが、何事かと部屋から顔を出している。このままでは通報されかねない。
「雪はまだ帰ってませんけど」
声をかけると、男が俺を見て怪訝な顔になる。
「今、あんた、雪って呼び捨てに……」
男がハッとなった。よろよろと立ち上がり、「貴様か!」と叫ぶと俺の胸倉をつかんできた。
「貴様が雪の、かっ、かれ……、ぴ……ですか?」
男は泣いていた。泣きながら、揺さぶってくる。
とにかく周囲の目から遮断しなければと男を自室に押し込んで、床に座らせ、お茶を出し、「あの」と切り出した。
「雪のお兄さんですよね」
「……そうです」
うつむいて答える兄の前に腰を下ろすと、正座をして対峙した。
「昨日の電話で心配になった、とかですか」
訊くと、兄が急いで顔を上げた。何か、とても葛藤しているのはわかる。
「やはり、あなたが彼ぴですか……」
「いやまあ、はい、なんですかその彼ぴって」
「これでも堪えてるんです。彼ぴ呼びならちょっと可愛くて、憎しみが薄れるでしょう?」
「憎しみ」
歳が離れていて、子ども扱いで、いつも気にかけている兄。女じゃなく男がいると言えば、そりゃあ心配して遠い北の地から飛んでくるはずだ。
やっぱりどう考えても逆効果だった。
「雪は、小さな頃から人付き合いが苦手で」
兄がぽつぽつと語り出した。友人も少なく、引きこもってパソコンばかりいじっていた。だから、人間相手にどう接すればいいのかわからないところがある。誤解されることが多いが、素直ないい子なのだと言うので、「そうですね」と答えた。
兄は忙しなく自分の頬をこすりながら、俺の目を見ずに続けた。
「あなたが彼氏だと……、にわかに信じられなくて……。雪は、よくわかってないんじゃないかと……、その、好きとか嫌いとか、恋愛感情をわかっていないんですよ、雪は」
俺と付き合っていることを、何かの間違いだと言いたいらしいとわかった。
冗談じゃない。俺たちはめちゃくちゃ恋愛してる。好きって言うし、言われるし、セックスしまくってる。
と言いたかったがやめた。この人は、ただ混乱している。いつまでも子どもだと思っていた弟が、急に「彼氏」を作ってしまった。信じたくない気持ちは理解できる。
「今日、僕がここに来たのはですね、別に、別れろと強要するためじゃないんですよ。ただ本当に、あの子はわかってるのか、騙されてないか、何か事件に巻き込まれてないかを確認したくて」
「男と付き合うことに関しては、特に咎めないと?」
相手が男だから止めにきたのかと思ったが、違うらしい。兄が顔を上げた。顔面蒼白で、唇がわなわなしている。
「本当に、お互いが好きならの話ですよ。あなたは? 雪を大切にしてくれていますか? 失礼ですが、お仕事は何を? 年齢は? 年収は? ヒモになろうとか金が目当てとか、そういうのじゃ」
「俺は七年ここに住んで、あいつを見守ってきた。ずっと好きで、やっと手に入れたのに金目当て? は、笑える。一応これでもそれなりに稼いでんだわ。愛してるし、好き好き言い合って、セックスしまくってるけど?」
「セッ」
「恋愛感情がわからない? 決めつけんなよ。雪は俺をちゃんと好きだ。毎日俺の手料理楽しみにして帰ってくんだよ。ルンルンで、俺んとこに、帰ってくる。……俺といて、幸せだって……、言ってました。……雪は今、幸せなんです」
途中から我に返り、敬語に戻したが後の祭りだ。チンピラを見る目で俺を見ている。まずい。非常にまずい。家族と敵対するのは得策とは言えない。
ぐうううううきゅるるるる、と滑稽な音が響いた。兄が、恥ずかしそうに頬を染め、腹を抱えて背を丸める。
「ひ、昼も夜も食べてなくて……」
「……今日、鍋なんすけど。雪が帰ってくるまで待てます?」
「鍋……、いいね」
意気消沈した兄が、弱々しい動作でテーブルの上のグラスを持ち上げ、口に運ぶ。一気に飲み干すと、息をつき、口元を押さえて「ぐう」と言った。うぐ、ぬう、ふう、と、何か喋っているなと思ったら、嗚咽だった。彼は、泣いていた。
「なんすか、なんなんすか」
「だって、どうやら本当にラブラブみたいだから……、驚いちゃって……」
「あー、なんかすんません」
カッとなって「セックスしまくってる」と言ってしまった。どうかそこには触れてくれるなと思ったが、兄は嗚咽の合間に「セックス」とこぼした。
「雪が、あの小さかった雪が……、清らかで穢れを知らない純白の雪が……。信じられない……、だって、性的なことに興味なんてなかったはずなのに」
「いや、あるだろ」
ついツッコミを入れてしまった。
雪は確かに他人に対する興味は薄いが、性欲は人並みにある。俺と出会ってから開花したのではなく、ちゃんとそれなりの知識は持っていたし、気持ちいいことは大好きだし、かなりエロい。
「お兄さん、あいつはもうガキじゃないすよ。ちゃんと、オスです。大人のね」
「や、やめたまえよぉ……」
兄が突然立ち上がり、部屋の中をふらふらと歩き回り始めた。
やめたまえよ、なんて科白を言う奴を初めて見た。変わっているというか、面白い人だ。歳が離れていると言っていたが、若く見える。長身で、清潔感があって、どことなく雪に似ている。
「雪はいつも、こんなに遅いの?」
兄が腕時計を見て言った。
「まあ、そうすね」
「あなたは、お仕事は?」
後ろ手を組んで、部屋の中をうろうろしながら訊いてくる。
「フリーランス……、あ、やべ」
仕事用の液晶タブレットを点けっぱなしにしていた。原稿が丸見えになっている。慌てて腰を上げた瞬間、彼が画面を二度見した。
「これは……」
「いや、その、これはその、違うんですよ」
急いで画面を消したが、多分、しっかり見られてしまった。大股を開いた女の乳が、揺れまくっているシーンの色付けの途中だった。ヤバいやつ認定は避けられない。
終わった、と思った瞬間、兄が呆然とつぶやいた。
「えっ……、今のぷるぷるのおっぱいは……、桃蜜《ももみつ》ぷりん先生?」
「え」
桃蜜ぷりん、というのは俺のペンネームだ。
「え?」
兄が目を丸くして俺を見る。俺も「え?」と返して、しばらく二人で「え?」と言い合っていた。
「描きかけの原稿、ということは……、もしや先生ご本人?」
エロ漫画家なんて、心証が悪いに決まっている。でもいずれ知られるなら今ここで打ち明けたほうがいい。
「まあ、はい、です」
兄がスタスタと俺に歩み寄り、ガシ、と手を握ってきた。
「大ファンです」
「ありがとう、ございます……? え?」
「ただいまー」
玄関のドアが開く音と、のんびりとした雪の声。
「なんか妖精が、面白いことになってるから早く帰れって、何が……」
雪が俺たちを見て硬直した。
「兄ちゃん」
「雪っ!」
兄が雪に突撃し、抱きしめて頬ずりを始めた。
「こんなに遅くまで働いて、お前はなんて偉い子なんや。体大丈夫か? どこもしんどくないか?」
すりすりが止まらない。なんだこれは、とぼんやり立ち尽くしていると、雪が「なんで」と言った。
「なんで兄ちゃんが成瀬さんのとこに?」
「成瀬さん?」
「成瀬さん」
兄に抱きしめられたまま、雪が俺に目線を寄越す。
「雪、とんでもない事実が判明した。お前の彼ぴ、知らんと思うけど高名な漫画家やぞ?」
「高名って」
思わず失笑してしまった。エロ漫画にジャンルを絞るならともかく、漫画家全体の枠でいえば、知名度は底の底だ。
「漫画家なのは知ってるよ。全巻買ったし」
「全巻買った? 一番好きなのどれ?」
「あのー、とりあえず鍋食わね?」
俺が提案すると、二人が嬉しそうに声を揃えて「鍋」とうなずいた。
三人で、鍋をつつく。
鍋は仲間意識が生まれる。以前妖精がそう言っていた。確かに鍋というのは妙なパワーがある。雪とこうなったのもある意味鍋のおかげかもしれないし、突然現れた兄ともすっかり打ち解けた。
何をしにここに来たのか、本来の目的を完全に忘れている。上機嫌で酒を飲む兄は「先生」を連呼し、ほぼ俺の作品の話しかせずに、鍋をほとんど一人で平らげると眠ってしまった。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
雪が兄を揺さぶったが、起きる気配はない。
「いいよ、寝かせとけば」
「この人、何しにきたんだろう」
「電話に出ろっつって、お前んとこのドアめっちゃ叩いてて、やべえと思ったからうちに入れた」
「本当に、ご迷惑おかけして申し訳ありません」
雪が、見たこともないような表情をしている。怒っているような、苦虫を噛み潰したような、不愉快丸出しの顔だ。ちょっと新鮮で、可愛い。
「昨日あのあと何回も電話があって、大丈夫なのかとか騙されてるんじゃないかとか、うっとうしくて着信拒否にしてたんです」
雪がネクタイを緩めた。ふうーっ、腹の底から大きく息をつく。
「男と付き合ってるなんて言うからだろ」
「浮かれてたんです。ちょっと、成瀬さんのこと自慢したいって気持ちが前に出すぎたっていうか」
「彼氏なんて言ったら心配するって、家族なら。雪、おじや食う?」
「いただきます」
台所で卵を溶いていると、背中に何かがくっついてきた。何かというか、雪しかいない。
「そうか、家族だ」
後ろの雪がつぶやいた。
「何?」
溶き卵がどんどん滑らかになっていく。手を止めずに背中のぬくもりに浸っていると、雪が少し上ずった声で言った。
「成瀬さんと、家族になりたい」
「はっ?」
「恋人とか彼氏だと、期間限定っていうか、いずれ終わる関係っぽいけど、家族ならずっと一緒にいられる。じゃあ俺は、成瀬雪になりたい」
溶き卵の入ったボウルと菜箸を調理台に置いて、ため息をついた。背中の人肌が離れていく。
「ごめんなさい」
雪の声がひどく落ち込んでいる。
「すごく重いこと言いましたね。そもそも男同士だし、無理だし……、なんか、ごめんなさい……、忘れてください」
「結婚しよう」
振り返り、雪を抱きしめた。男同士で結婚はできないのは知っている。要は雪が、俺と一生離れたくないと思ってくれている。それが、死ぬほど嬉しかった。
付き合って、まだ一年も経っていない。そりゃあ今が一番楽しいときで、お互いに舞い上がっている自覚もある。
でも、それがなんだ?
雪の頬を撫で、顔を寄せる。唇を吸い、舌を入れる。雪が、むしゃぶりついてくる。
すぐそこで兄が寝ている。構わなかった。というか、逆にそれがいい刺激になり、俺たちは、燃えた。
雪が俺の前で両膝をつき、下着とズボンを膝まで下ろし、股間にかぶりついてくる。あっという間に勃起したペニスが、雪の口の中で硬く膨張する。
「ん……、んっ、んん」
後ろ頭を押さえつけ、軽く腰を振る。くぐもった雪の声が、部屋に響く。
「ここでする?」
口の中から抜け出ると、声を潜めて訊いてみた。雪は兄を気にしているようだったが、向こうの部屋からいびきが聞こえている。これは当分起きそうもない。
「待ってろ。ゴムとローション、持ってくる」
「え、その状態で?」
勃起した下半身をさらけ出した格好で、寝ている兄の体をそっとまたぎ、ゴムとローションを取って台所に戻ってくると、雪が口を両手で押さえて身を固くしていた。
「すごい、ミッションクリアですね」
「ゾクゾクしたか?」
「しました」
ヒソヒソと会話を交わし、再びキスをする。下だけを脱いだ状態で体をこすり合い、まさぐり合い、気持ちよくなったところで合体した。シンクに手をつかせ、後ろから腰を打ちつけた。液体のねばつく音が、ねちょねちょと響いている。
「あっ、ああっ、あーっ、あっ」
「雪、ちょっと、うるせー」
雪の口を後ろから塞ぎ、「兄ちゃん起きるぞ?」と脅してやると、体が小刻みに震えてきた。
「すげえ締まってんだけど。そういう性癖?」
「うっ、うう、ふ、んん……っ」
口を塞いだまま腰をぶつけた。パン、パン、と肉を打つ音が響く。わざと、大きな音を出している。そのほうが喜ぶと思ったからだ。
二人とも、いつもよりかなり早く終わった。すぐそばに人がいて、いつ見られてもおかしくない状態でヤるのは意外と燃える。
服を着直し、おじやを作る。なぜかニヤニヤしてしまう。雪を見ると、同じように口元がニヤついていた。
「あ、帰ってきた」
おたまでおじやをよそっていた雪が、何もない空間を見上げた。妖精が帰ってきたらしい。
「兄ちゃんに妖精の話、したかったな」
「さらに心配されるからやめとけ」
「妖精って?」
兄が目をこすり、むくりと起き上がった。
「いい匂い……、おじや?」
「兄ちゃん、まだ食べるつもり?」
「うーん、うん、いや、うん」
「どっちねんて」
雪が困った顔で笑う。なまっているのが可愛い、とひそかに胸を押さえていると「雪」と兄が改まった口調で雪を呼んだ。
「なんか、明るくなったなお前。目がキラキラやし、顔色もいいし、健康そうや」
「そうかな」
「先生のこと、好きか」
雪が俺をちら、と見た。
「大好き」
「そうやろうな」
目の前で繰り広げられる兄弟のやり取りを、聞いていないふりでおじやを口に放り込んでいると、雪の兄が俺を呼んだ。
「先生」
「なんすか」
「弟を、よろしくお願いします」
彼は背筋を伸ばし、はっきりとした口調でそう言うと、床に頭をこすりつけた。
「先生になら安心して弟を任せられます」
箸と皿をテーブルに置いて、口の中のものを飲み込んだ。あぐらをやめて、正座で兄に向き合うと、一度咳払いをする。
「いいんすか、エロ漫画家に任せても」
「先生の作品は、愛で溢れています。あんな漫画を描く人が悪人なわけがない」
「エロ漫画すよ、ただの」
「愛のあるエロ漫画なんです」
「はあ、どうも」
確かに俺は、鬼畜や凌辱のたぐいは描かない。いつもカップルがイチャイチャして、溺愛して、エロいことをするだけの漫画を描いている。描いているものがそのままイコール作者というわけでもない。いろいろ言いたいことはあったが、やめておいた。
「それに、雪が元気そうで幸せそうなのが何よりの答えです。愛されてるのがよくわかる。安心しました」
「全力で愛してます。任せてください」
俺が胸を張ると、兄は一瞬泣きそうな顔をしたが、素早く腰を上げた。雪もつられて立ち上がり、俺もあとに続く。
「兄ちゃん、帰るの? もう遅いし泊まってけば?」
「父ちゃんらに店丸投げして出てきたし、はよ帰らんと。駅の近くのホテル泊まって、始発で帰るわ。先生、お鍋ごちそうさまでした。これからも漫画、楽しみにしてます。雪、元気でな」
よろしく、ありがとう、さよなら、またねとせかせかと去っていった。去り際に、伏せた目から堪えきれなかった涙が落ちたのを見てしまった。雪は、気づいただろうか。
玄関のドアが閉まると、雪がリビングに戻り淡々と後片付けを始めた。明日も仕事だし、早く寝たいのだ。
「俺がやるからいいよ。風呂ってこいよ」
「いえ、やらせてください。兄がとんだご迷惑を……、本当にすみませんでした」
「いや全然。なんか面白かったしもう謝んのなし。てか店って何? 実家、なんかやってんの?」
「蕎麦屋です。成瀬さん、好き?」
「好き」
洗い物を始める雪の腰に腕を回す。首の裏に唇を押し当てて、「好き」と囁いた。
「あっ」
雪の体がビクッと震えた。
「ちょ、ちょっと、邪魔しないで、お皿、割れる……」
体をぴったりと密着させ、胸と腹を撫でさする。
「蕎麦、食いに行きたい。結局雪の実家ってどこ? 兄ちゃんに訊けばよかったな」
「あの、すごく邪魔なんですが」
「いいよ、もうこんなん、ほっとけ」
水を止めて、雪の体を抱え上げた。
「手がびしょぬれ」
「うん」
雪をベッドに寝かせて上に乗る。またがったまま服を脱いで、訊いた。
「妖精は?」
「……いない」
濡れた手を俺の腹筋になすりつけて、雪がもぞもぞと身じろぎをした。視線を下にやると、股間にふくらみを発見した。鷲づかみにして揉みしだく。
「日付変わる前に解放するから」
「……ダメです」
「でもお前、こんな硬くなってんのに」
「日付変わってもいいから。たくさんしたい」
獣の咆哮を上げ、雪に覆いかぶさった。でたらめにキスをして、鼻息を荒くしながらシャツを剥く。二つの愛しい突起が、ぷっくりととんがっている。指で弾く。
黙々と両方の乳首を人差し指でしつこくくすぐっていると、雪の腹が波打った。感じているのかと思ったら、笑っていた。
「何がおかしい」
「だって、顔が」
「顔がなんだよ」
「無表情で人の乳首いじってるの、すごくシュールで」
「雪」
笑みの形の唇を舐めた。舌を、入れる。絡ませる。唾液を混ぜ合わせる。雪の喉が鳴る。
狂ったみたいにキスを続け、二人の先走りで下半身がぬるぬるになった頃、体を繋げた。
薄く開いた雪の目を、覗き込む。見つめ合う。
「好きだ」
と言うと、雪が顔をくしゃ、とゆがめた。
「好き」
泣き声が返ってくる。雪がしがみついてくる。体を持ち上げ、向かい合った格好で、膝に座らせた。
「成瀬さん、好き」
「下の名前で呼べよ。お前、成瀬雪になるんだろ?」
「……和虎さん」
「よし」
下から突き上げた。押し殺した喘ぎを零し、何度も俺の名を呼ぶ。何度も、何度も。
めまいがしそうだった。突然好きな人が自分を好きになり、見ているだけの人生が一変した。
お前は幸せになれる。
俺の妖精が消えた日、あいつはそう言った。
妖精の予言は必ず当たる。
俺は、幸せになれる。
翌朝。
雪が眠っている間に、音を立てないようひっそりと朝食を作った。朝は何も食べられないみたいな顔をしているくせに、意外にもちゃんと朝食を摂る派だ。
まだまだ知らないことが山ほどある。
俺はこれから、いろんな雪を知ることができる。
「和虎さん」
振り返ると、雪が照れ笑いで立っていた。瞬間、昨夜の情事が脳内で再生した。和虎さん、和虎さん、と俺を呼び、乱れに乱れまくった雪の痴態がまざまざとよみがえる。自分で腰を振って、自分でしごいて、俺の腹の上で見事なイキっぷりを披露してくれた。顔に飛んだ精液の生温かさを思い出し、前屈みになった。
「おはようございます」
「……はよ。メシできてる」
勃起を悟られまいと背を向ける。
「ありがとうございます。あっちでシャワーして着替えてきますね」
昨日のスラックスに、昨日のワイシャツを羽織った格好で部屋を出ていった。いい加減、不便だ。
「一緒に引っ越さねーか」
雪が戻ってくると、朝食を並べたローテーブルに向かい合ってあぐらをかき、開口一番に訊いた。
「え、どこに? なんで?」
「不便だろうが、あっち行ったりこっち行ったり」
「となりだし、そうでもないですけど」
納豆を掻き混ぜながら、雪が首をかしげた。なぜ急に引っ越しの話題を出したのか、気づいていない。
「遮音性の優れた部屋なら、すげー声で喘ぎまくれるだろ」
一瞬箸が止まった。もう一押しだ。
「でかい風呂なら一緒に入れんぞ? 風呂場でイチャつけんの、よくね?」
「よい。引っ越しましょう」
意外と簡単だった。雪は淡白なようでエロいことが大好きだ。
「妖精も自分の部屋が欲しいんだって」
「段ボールで充分じゃね」
宙を見上げ、雪が肩をすくめた。
「キャットタワーがいいとのことです」
「猫飼ってねーのにキャットタワーあんの、すげえホラーだな」
「確かに」
あはは、と楽しそうに笑った雪が、「あ」と気がついた。
「引っ越したら猫も飼えるんだ」
「飼う?」
「飼う、飼いたい」
子どもみたいな顔で笑う。そんなに猫が好きなのかよ。反応がめちゃくちゃ可愛い。可愛いいいいいいいいいいい。口を引き結び、歯を食いしばって吠えるのを堪えた。
「そっか、二人で暮らすんだ」
俺の顔をじっと見て、しみじみと雪が言った。ようやく実感が湧いたらしい。
「家族だしな」
雪の笑顔が眩しい。
二人の幸せが、始まる。
〈おわり〉
〈成瀬編〉
シャワーから出ると、雪がぶつぶつ喋っていた。
妖精か。ほほえましい。
濡れた頭をタオルで拭いながら、冷蔵庫を開ける。
「……うん、全然、問題ない。いらんって、大丈夫やし送らんでいいよ」
缶ビールをつかんで、動きを止めた。今なんか、おかしなイントネーションだったな?
「なんも。全然変わらんし、仕事も普通。うん……、え、いつ? いや、来んといてや、忙しいんやって、……うん、土日も忙しいから。ほんとやって、……は? しとらんし、なんでねんて」
妖精との会話じゃなくて、電話らしいと気がついた。缶ビールをそっと取り出して、冷蔵庫を静かに閉めた。おそらく家族と電話をしているのだろう。
口を押え、笑い声を噛み殺す。なまっているのが、めちゃくちゃ可愛い。
「彼女はおらんけど、彼氏はおるよ」
持っていた缶ビールが手から滑り落ち、足の甲を直撃した。
「いっ! ……てぇ!」
叫んで飛び上がる。うずくまってひとしきり悶絶していると、雪の声が上から降ってきた。
「大丈夫?」
「……折れた」
「救急車呼ぶ?」
「いや、いい。……今の電話、誰?」
「兄です」
「あー、兄貴いんの。へー……、あ、方言可愛い。どこの出身だっけ。東北だっけ?」
「……北です」
「北って。ざっくりすぎんだって」
「成瀬さん。今の、忘れてください」
肩にかけていたタオルを俺の頭にかぶせて、強引にガシガシしてくる。
「今のって? もしかして、北って半島か?」
「違います、方言です。恥ずかしいんですよ。聞かれたくなかったのに」
忘れろ、忘れろ、と耳元で囁きながら、タオルで頭を揉んでくる。あー、可愛いなー。とほだされている場合じゃない。
「雪」
手首をつかんで、動きを止めた。邪魔なタオルを払いのけると、目の前には頬を染めた雪の顔。とりあえず、キスをした。チュウチュウ音を立てて唇を吸ってから、「お前、さっき」と思い出したように言った。
「彼女はおらんけど彼氏はおるよって」
「なまりを忠実に再現しないでください」
「お前、兄貴にあんなこと言って、どうすんだよ」
「どうするとは?」
雪は、キョトンとしている。つられてこっちまでキョトン顔になってしまう。
「うち、自営業なんです。両親の代わりに兄が面倒見てくれて、歳が離れてるからいつまでも子ども扱いで。彼女はできたかってしつこくて、だから、安心させたかった」
「安心させたくて彼氏はいるって言ったのか? 逆効果じゃねーか」
「そうかな、そうかも……。でも俺、成瀬さんのおかげで幸せですよ?」
雪の目は、純粋だった。めちゃくちゃ綺麗な目で見られて、思わずひるんでしまった。そんなふうに言われたら、叱れなくなる。
「俺も幸せ」
囁いて、抱きしめて、キスをして、押し倒す。
「また? せっかくシャワーしたのに」
俺の腰に両足を絡ませて、雪が言った。
「妖精戻ってきた?」
「いえ」
「じゃあしようぜ」
立ったまま壁に手をつかせ、腰をつかんで後ろから穿つ。
俺たちは、セックスばかりしている。終わっても、次はどんな体位でやろうかと考えるくらい、セックスで頭がいっぱいだった。
でも前提に、愛がある。誰でもいいなら三十三まで童貞を続けてはいない。
俺は雪が好きだ。雪も俺を好きなのだとよくわかる。
身内に「彼氏がいる」と堂々と打ち明けた。それは、俺の存在が雪にとって「揺るがないもの」であることの証明に思えた。
俺にとっても、揺るがない。七年見てきた男だ。やっと手に入れた。
だからもし、ドアをガンガンに叩いて「出てこい」と脅迫する男が現れたら、全力で、守ってみせる。
「電話に出ろ、いるのはわかってるぞ! 雪、雪、こら、雪! 開けなさい!」
そう、まさに今の状況だ。
雪の兄から電話があった翌日の夜、ドアを叩く音が鳴り響いた。急いで玄関から飛び出すと、男が雪の部屋のドアを乱打していた。
友人か元カレという選択肢はない。雪は仕事以外では引きこもりで、宅配便しか人が来ない。雪、と下の名前で呼ぶ男。昨日の電話の件がよぎり、兄だろうとすぐに思い至った。
「開けてくれぇ……、雪ぃ」
男がドアにすがりつき、膝をつく。他の部屋の住人たちが、何事かと部屋から顔を出している。このままでは通報されかねない。
「雪はまだ帰ってませんけど」
声をかけると、男が俺を見て怪訝な顔になる。
「今、あんた、雪って呼び捨てに……」
男がハッとなった。よろよろと立ち上がり、「貴様か!」と叫ぶと俺の胸倉をつかんできた。
「貴様が雪の、かっ、かれ……、ぴ……ですか?」
男は泣いていた。泣きながら、揺さぶってくる。
とにかく周囲の目から遮断しなければと男を自室に押し込んで、床に座らせ、お茶を出し、「あの」と切り出した。
「雪のお兄さんですよね」
「……そうです」
うつむいて答える兄の前に腰を下ろすと、正座をして対峙した。
「昨日の電話で心配になった、とかですか」
訊くと、兄が急いで顔を上げた。何か、とても葛藤しているのはわかる。
「やはり、あなたが彼ぴですか……」
「いやまあ、はい、なんですかその彼ぴって」
「これでも堪えてるんです。彼ぴ呼びならちょっと可愛くて、憎しみが薄れるでしょう?」
「憎しみ」
歳が離れていて、子ども扱いで、いつも気にかけている兄。女じゃなく男がいると言えば、そりゃあ心配して遠い北の地から飛んでくるはずだ。
やっぱりどう考えても逆効果だった。
「雪は、小さな頃から人付き合いが苦手で」
兄がぽつぽつと語り出した。友人も少なく、引きこもってパソコンばかりいじっていた。だから、人間相手にどう接すればいいのかわからないところがある。誤解されることが多いが、素直ないい子なのだと言うので、「そうですね」と答えた。
兄は忙しなく自分の頬をこすりながら、俺の目を見ずに続けた。
「あなたが彼氏だと……、にわかに信じられなくて……。雪は、よくわかってないんじゃないかと……、その、好きとか嫌いとか、恋愛感情をわかっていないんですよ、雪は」
俺と付き合っていることを、何かの間違いだと言いたいらしいとわかった。
冗談じゃない。俺たちはめちゃくちゃ恋愛してる。好きって言うし、言われるし、セックスしまくってる。
と言いたかったがやめた。この人は、ただ混乱している。いつまでも子どもだと思っていた弟が、急に「彼氏」を作ってしまった。信じたくない気持ちは理解できる。
「今日、僕がここに来たのはですね、別に、別れろと強要するためじゃないんですよ。ただ本当に、あの子はわかってるのか、騙されてないか、何か事件に巻き込まれてないかを確認したくて」
「男と付き合うことに関しては、特に咎めないと?」
相手が男だから止めにきたのかと思ったが、違うらしい。兄が顔を上げた。顔面蒼白で、唇がわなわなしている。
「本当に、お互いが好きならの話ですよ。あなたは? 雪を大切にしてくれていますか? 失礼ですが、お仕事は何を? 年齢は? 年収は? ヒモになろうとか金が目当てとか、そういうのじゃ」
「俺は七年ここに住んで、あいつを見守ってきた。ずっと好きで、やっと手に入れたのに金目当て? は、笑える。一応これでもそれなりに稼いでんだわ。愛してるし、好き好き言い合って、セックスしまくってるけど?」
「セッ」
「恋愛感情がわからない? 決めつけんなよ。雪は俺をちゃんと好きだ。毎日俺の手料理楽しみにして帰ってくんだよ。ルンルンで、俺んとこに、帰ってくる。……俺といて、幸せだって……、言ってました。……雪は今、幸せなんです」
途中から我に返り、敬語に戻したが後の祭りだ。チンピラを見る目で俺を見ている。まずい。非常にまずい。家族と敵対するのは得策とは言えない。
ぐうううううきゅるるるる、と滑稽な音が響いた。兄が、恥ずかしそうに頬を染め、腹を抱えて背を丸める。
「ひ、昼も夜も食べてなくて……」
「……今日、鍋なんすけど。雪が帰ってくるまで待てます?」
「鍋……、いいね」
意気消沈した兄が、弱々しい動作でテーブルの上のグラスを持ち上げ、口に運ぶ。一気に飲み干すと、息をつき、口元を押さえて「ぐう」と言った。うぐ、ぬう、ふう、と、何か喋っているなと思ったら、嗚咽だった。彼は、泣いていた。
「なんすか、なんなんすか」
「だって、どうやら本当にラブラブみたいだから……、驚いちゃって……」
「あー、なんかすんません」
カッとなって「セックスしまくってる」と言ってしまった。どうかそこには触れてくれるなと思ったが、兄は嗚咽の合間に「セックス」とこぼした。
「雪が、あの小さかった雪が……、清らかで穢れを知らない純白の雪が……。信じられない……、だって、性的なことに興味なんてなかったはずなのに」
「いや、あるだろ」
ついツッコミを入れてしまった。
雪は確かに他人に対する興味は薄いが、性欲は人並みにある。俺と出会ってから開花したのではなく、ちゃんとそれなりの知識は持っていたし、気持ちいいことは大好きだし、かなりエロい。
「お兄さん、あいつはもうガキじゃないすよ。ちゃんと、オスです。大人のね」
「や、やめたまえよぉ……」
兄が突然立ち上がり、部屋の中をふらふらと歩き回り始めた。
やめたまえよ、なんて科白を言う奴を初めて見た。変わっているというか、面白い人だ。歳が離れていると言っていたが、若く見える。長身で、清潔感があって、どことなく雪に似ている。
「雪はいつも、こんなに遅いの?」
兄が腕時計を見て言った。
「まあ、そうすね」
「あなたは、お仕事は?」
後ろ手を組んで、部屋の中をうろうろしながら訊いてくる。
「フリーランス……、あ、やべ」
仕事用の液晶タブレットを点けっぱなしにしていた。原稿が丸見えになっている。慌てて腰を上げた瞬間、彼が画面を二度見した。
「これは……」
「いや、その、これはその、違うんですよ」
急いで画面を消したが、多分、しっかり見られてしまった。大股を開いた女の乳が、揺れまくっているシーンの色付けの途中だった。ヤバいやつ認定は避けられない。
終わった、と思った瞬間、兄が呆然とつぶやいた。
「えっ……、今のぷるぷるのおっぱいは……、桃蜜《ももみつ》ぷりん先生?」
「え」
桃蜜ぷりん、というのは俺のペンネームだ。
「え?」
兄が目を丸くして俺を見る。俺も「え?」と返して、しばらく二人で「え?」と言い合っていた。
「描きかけの原稿、ということは……、もしや先生ご本人?」
エロ漫画家なんて、心証が悪いに決まっている。でもいずれ知られるなら今ここで打ち明けたほうがいい。
「まあ、はい、です」
兄がスタスタと俺に歩み寄り、ガシ、と手を握ってきた。
「大ファンです」
「ありがとう、ございます……? え?」
「ただいまー」
玄関のドアが開く音と、のんびりとした雪の声。
「なんか妖精が、面白いことになってるから早く帰れって、何が……」
雪が俺たちを見て硬直した。
「兄ちゃん」
「雪っ!」
兄が雪に突撃し、抱きしめて頬ずりを始めた。
「こんなに遅くまで働いて、お前はなんて偉い子なんや。体大丈夫か? どこもしんどくないか?」
すりすりが止まらない。なんだこれは、とぼんやり立ち尽くしていると、雪が「なんで」と言った。
「なんで兄ちゃんが成瀬さんのとこに?」
「成瀬さん?」
「成瀬さん」
兄に抱きしめられたまま、雪が俺に目線を寄越す。
「雪、とんでもない事実が判明した。お前の彼ぴ、知らんと思うけど高名な漫画家やぞ?」
「高名って」
思わず失笑してしまった。エロ漫画にジャンルを絞るならともかく、漫画家全体の枠でいえば、知名度は底の底だ。
「漫画家なのは知ってるよ。全巻買ったし」
「全巻買った? 一番好きなのどれ?」
「あのー、とりあえず鍋食わね?」
俺が提案すると、二人が嬉しそうに声を揃えて「鍋」とうなずいた。
三人で、鍋をつつく。
鍋は仲間意識が生まれる。以前妖精がそう言っていた。確かに鍋というのは妙なパワーがある。雪とこうなったのもある意味鍋のおかげかもしれないし、突然現れた兄ともすっかり打ち解けた。
何をしにここに来たのか、本来の目的を完全に忘れている。上機嫌で酒を飲む兄は「先生」を連呼し、ほぼ俺の作品の話しかせずに、鍋をほとんど一人で平らげると眠ってしまった。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
雪が兄を揺さぶったが、起きる気配はない。
「いいよ、寝かせとけば」
「この人、何しにきたんだろう」
「電話に出ろっつって、お前んとこのドアめっちゃ叩いてて、やべえと思ったからうちに入れた」
「本当に、ご迷惑おかけして申し訳ありません」
雪が、見たこともないような表情をしている。怒っているような、苦虫を噛み潰したような、不愉快丸出しの顔だ。ちょっと新鮮で、可愛い。
「昨日あのあと何回も電話があって、大丈夫なのかとか騙されてるんじゃないかとか、うっとうしくて着信拒否にしてたんです」
雪がネクタイを緩めた。ふうーっ、腹の底から大きく息をつく。
「男と付き合ってるなんて言うからだろ」
「浮かれてたんです。ちょっと、成瀬さんのこと自慢したいって気持ちが前に出すぎたっていうか」
「彼氏なんて言ったら心配するって、家族なら。雪、おじや食う?」
「いただきます」
台所で卵を溶いていると、背中に何かがくっついてきた。何かというか、雪しかいない。
「そうか、家族だ」
後ろの雪がつぶやいた。
「何?」
溶き卵がどんどん滑らかになっていく。手を止めずに背中のぬくもりに浸っていると、雪が少し上ずった声で言った。
「成瀬さんと、家族になりたい」
「はっ?」
「恋人とか彼氏だと、期間限定っていうか、いずれ終わる関係っぽいけど、家族ならずっと一緒にいられる。じゃあ俺は、成瀬雪になりたい」
溶き卵の入ったボウルと菜箸を調理台に置いて、ため息をついた。背中の人肌が離れていく。
「ごめんなさい」
雪の声がひどく落ち込んでいる。
「すごく重いこと言いましたね。そもそも男同士だし、無理だし……、なんか、ごめんなさい……、忘れてください」
「結婚しよう」
振り返り、雪を抱きしめた。男同士で結婚はできないのは知っている。要は雪が、俺と一生離れたくないと思ってくれている。それが、死ぬほど嬉しかった。
付き合って、まだ一年も経っていない。そりゃあ今が一番楽しいときで、お互いに舞い上がっている自覚もある。
でも、それがなんだ?
雪の頬を撫で、顔を寄せる。唇を吸い、舌を入れる。雪が、むしゃぶりついてくる。
すぐそこで兄が寝ている。構わなかった。というか、逆にそれがいい刺激になり、俺たちは、燃えた。
雪が俺の前で両膝をつき、下着とズボンを膝まで下ろし、股間にかぶりついてくる。あっという間に勃起したペニスが、雪の口の中で硬く膨張する。
「ん……、んっ、んん」
後ろ頭を押さえつけ、軽く腰を振る。くぐもった雪の声が、部屋に響く。
「ここでする?」
口の中から抜け出ると、声を潜めて訊いてみた。雪は兄を気にしているようだったが、向こうの部屋からいびきが聞こえている。これは当分起きそうもない。
「待ってろ。ゴムとローション、持ってくる」
「え、その状態で?」
勃起した下半身をさらけ出した格好で、寝ている兄の体をそっとまたぎ、ゴムとローションを取って台所に戻ってくると、雪が口を両手で押さえて身を固くしていた。
「すごい、ミッションクリアですね」
「ゾクゾクしたか?」
「しました」
ヒソヒソと会話を交わし、再びキスをする。下だけを脱いだ状態で体をこすり合い、まさぐり合い、気持ちよくなったところで合体した。シンクに手をつかせ、後ろから腰を打ちつけた。液体のねばつく音が、ねちょねちょと響いている。
「あっ、ああっ、あーっ、あっ」
「雪、ちょっと、うるせー」
雪の口を後ろから塞ぎ、「兄ちゃん起きるぞ?」と脅してやると、体が小刻みに震えてきた。
「すげえ締まってんだけど。そういう性癖?」
「うっ、うう、ふ、んん……っ」
口を塞いだまま腰をぶつけた。パン、パン、と肉を打つ音が響く。わざと、大きな音を出している。そのほうが喜ぶと思ったからだ。
二人とも、いつもよりかなり早く終わった。すぐそばに人がいて、いつ見られてもおかしくない状態でヤるのは意外と燃える。
服を着直し、おじやを作る。なぜかニヤニヤしてしまう。雪を見ると、同じように口元がニヤついていた。
「あ、帰ってきた」
おたまでおじやをよそっていた雪が、何もない空間を見上げた。妖精が帰ってきたらしい。
「兄ちゃんに妖精の話、したかったな」
「さらに心配されるからやめとけ」
「妖精って?」
兄が目をこすり、むくりと起き上がった。
「いい匂い……、おじや?」
「兄ちゃん、まだ食べるつもり?」
「うーん、うん、いや、うん」
「どっちねんて」
雪が困った顔で笑う。なまっているのが可愛い、とひそかに胸を押さえていると「雪」と兄が改まった口調で雪を呼んだ。
「なんか、明るくなったなお前。目がキラキラやし、顔色もいいし、健康そうや」
「そうかな」
「先生のこと、好きか」
雪が俺をちら、と見た。
「大好き」
「そうやろうな」
目の前で繰り広げられる兄弟のやり取りを、聞いていないふりでおじやを口に放り込んでいると、雪の兄が俺を呼んだ。
「先生」
「なんすか」
「弟を、よろしくお願いします」
彼は背筋を伸ばし、はっきりとした口調でそう言うと、床に頭をこすりつけた。
「先生になら安心して弟を任せられます」
箸と皿をテーブルに置いて、口の中のものを飲み込んだ。あぐらをやめて、正座で兄に向き合うと、一度咳払いをする。
「いいんすか、エロ漫画家に任せても」
「先生の作品は、愛で溢れています。あんな漫画を描く人が悪人なわけがない」
「エロ漫画すよ、ただの」
「愛のあるエロ漫画なんです」
「はあ、どうも」
確かに俺は、鬼畜や凌辱のたぐいは描かない。いつもカップルがイチャイチャして、溺愛して、エロいことをするだけの漫画を描いている。描いているものがそのままイコール作者というわけでもない。いろいろ言いたいことはあったが、やめておいた。
「それに、雪が元気そうで幸せそうなのが何よりの答えです。愛されてるのがよくわかる。安心しました」
「全力で愛してます。任せてください」
俺が胸を張ると、兄は一瞬泣きそうな顔をしたが、素早く腰を上げた。雪もつられて立ち上がり、俺もあとに続く。
「兄ちゃん、帰るの? もう遅いし泊まってけば?」
「父ちゃんらに店丸投げして出てきたし、はよ帰らんと。駅の近くのホテル泊まって、始発で帰るわ。先生、お鍋ごちそうさまでした。これからも漫画、楽しみにしてます。雪、元気でな」
よろしく、ありがとう、さよなら、またねとせかせかと去っていった。去り際に、伏せた目から堪えきれなかった涙が落ちたのを見てしまった。雪は、気づいただろうか。
玄関のドアが閉まると、雪がリビングに戻り淡々と後片付けを始めた。明日も仕事だし、早く寝たいのだ。
「俺がやるからいいよ。風呂ってこいよ」
「いえ、やらせてください。兄がとんだご迷惑を……、本当にすみませんでした」
「いや全然。なんか面白かったしもう謝んのなし。てか店って何? 実家、なんかやってんの?」
「蕎麦屋です。成瀬さん、好き?」
「好き」
洗い物を始める雪の腰に腕を回す。首の裏に唇を押し当てて、「好き」と囁いた。
「あっ」
雪の体がビクッと震えた。
「ちょ、ちょっと、邪魔しないで、お皿、割れる……」
体をぴったりと密着させ、胸と腹を撫でさする。
「蕎麦、食いに行きたい。結局雪の実家ってどこ? 兄ちゃんに訊けばよかったな」
「あの、すごく邪魔なんですが」
「いいよ、もうこんなん、ほっとけ」
水を止めて、雪の体を抱え上げた。
「手がびしょぬれ」
「うん」
雪をベッドに寝かせて上に乗る。またがったまま服を脱いで、訊いた。
「妖精は?」
「……いない」
濡れた手を俺の腹筋になすりつけて、雪がもぞもぞと身じろぎをした。視線を下にやると、股間にふくらみを発見した。鷲づかみにして揉みしだく。
「日付変わる前に解放するから」
「……ダメです」
「でもお前、こんな硬くなってんのに」
「日付変わってもいいから。たくさんしたい」
獣の咆哮を上げ、雪に覆いかぶさった。でたらめにキスをして、鼻息を荒くしながらシャツを剥く。二つの愛しい突起が、ぷっくりととんがっている。指で弾く。
黙々と両方の乳首を人差し指でしつこくくすぐっていると、雪の腹が波打った。感じているのかと思ったら、笑っていた。
「何がおかしい」
「だって、顔が」
「顔がなんだよ」
「無表情で人の乳首いじってるの、すごくシュールで」
「雪」
笑みの形の唇を舐めた。舌を、入れる。絡ませる。唾液を混ぜ合わせる。雪の喉が鳴る。
狂ったみたいにキスを続け、二人の先走りで下半身がぬるぬるになった頃、体を繋げた。
薄く開いた雪の目を、覗き込む。見つめ合う。
「好きだ」
と言うと、雪が顔をくしゃ、とゆがめた。
「好き」
泣き声が返ってくる。雪がしがみついてくる。体を持ち上げ、向かい合った格好で、膝に座らせた。
「成瀬さん、好き」
「下の名前で呼べよ。お前、成瀬雪になるんだろ?」
「……和虎さん」
「よし」
下から突き上げた。押し殺した喘ぎを零し、何度も俺の名を呼ぶ。何度も、何度も。
めまいがしそうだった。突然好きな人が自分を好きになり、見ているだけの人生が一変した。
お前は幸せになれる。
俺の妖精が消えた日、あいつはそう言った。
妖精の予言は必ず当たる。
俺は、幸せになれる。
翌朝。
雪が眠っている間に、音を立てないようひっそりと朝食を作った。朝は何も食べられないみたいな顔をしているくせに、意外にもちゃんと朝食を摂る派だ。
まだまだ知らないことが山ほどある。
俺はこれから、いろんな雪を知ることができる。
「和虎さん」
振り返ると、雪が照れ笑いで立っていた。瞬間、昨夜の情事が脳内で再生した。和虎さん、和虎さん、と俺を呼び、乱れに乱れまくった雪の痴態がまざまざとよみがえる。自分で腰を振って、自分でしごいて、俺の腹の上で見事なイキっぷりを披露してくれた。顔に飛んだ精液の生温かさを思い出し、前屈みになった。
「おはようございます」
「……はよ。メシできてる」
勃起を悟られまいと背を向ける。
「ありがとうございます。あっちでシャワーして着替えてきますね」
昨日のスラックスに、昨日のワイシャツを羽織った格好で部屋を出ていった。いい加減、不便だ。
「一緒に引っ越さねーか」
雪が戻ってくると、朝食を並べたローテーブルに向かい合ってあぐらをかき、開口一番に訊いた。
「え、どこに? なんで?」
「不便だろうが、あっち行ったりこっち行ったり」
「となりだし、そうでもないですけど」
納豆を掻き混ぜながら、雪が首をかしげた。なぜ急に引っ越しの話題を出したのか、気づいていない。
「遮音性の優れた部屋なら、すげー声で喘ぎまくれるだろ」
一瞬箸が止まった。もう一押しだ。
「でかい風呂なら一緒に入れんぞ? 風呂場でイチャつけんの、よくね?」
「よい。引っ越しましょう」
意外と簡単だった。雪は淡白なようでエロいことが大好きだ。
「妖精も自分の部屋が欲しいんだって」
「段ボールで充分じゃね」
宙を見上げ、雪が肩をすくめた。
「キャットタワーがいいとのことです」
「猫飼ってねーのにキャットタワーあんの、すげえホラーだな」
「確かに」
あはは、と楽しそうに笑った雪が、「あ」と気がついた。
「引っ越したら猫も飼えるんだ」
「飼う?」
「飼う、飼いたい」
子どもみたいな顔で笑う。そんなに猫が好きなのかよ。反応がめちゃくちゃ可愛い。可愛いいいいいいいいいいい。口を引き結び、歯を食いしばって吠えるのを堪えた。
「そっか、二人で暮らすんだ」
俺の顔をじっと見て、しみじみと雪が言った。ようやく実感が湧いたらしい。
「家族だしな」
雪の笑顔が眩しい。
二人の幸せが、始まる。
〈おわり〉
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