妖精が見える三十路童貞の話

月世

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番外編

可愛いひと

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 エロ漫画家のアシスタントをしている。そう話すと、大体の人が「大丈夫?」と身を案じてくる。
「変なことされたりしないの?」
 数年ぶりに会った友人も、やはりその質問を投げてきた。
「それ言ったらシリアルキラーの漫画描いてる漫画家さんには殺されることになっちゃうから」
「確かに。どんな人なの? なんか、汗だくのおじさんとか?」
 カフェモカに口をつけて、先生の横顔を思い浮かべた。
 私はエロ漫画が大好きなエロ女だが、桃蜜ぷりん先生は別格だった。ちゃんとエロいのに、少女漫画みたいな空気があるのだ。
 凌辱とか無理やりとかは一切なく、両想いカップルによる幸せなラブエッチのみを描き続けている。
 きっと、作家自身も可愛い女性なのだろうと勝手にあこがれを抱いていたある日、先生がアシスタントを募集していると知った。横浜近郊在住者に限るとあり、私は少々ずれていたが、構わずに応募した。
 教えられた住所に一時間かけて出向くと、開いたドアの向こう側に眼光鋭い男性が立っていた。それが先生本人だとわかると、私はナチュラルに腰を抜かした。
 想像との落差がすごく、今思うと至極失礼だが、勝手に身の危険を感じたのだ。
 面接はメールのやりとりで完了していたし、今さらやっぱりやめますとは言えず、涙目で作業を開始したのだが、しばらくすると先生が「おい」と呼んだ。
「はっ、はい?」
「別に、嫌なら辞めてもいいけど」
 どうやら私は恐怖がわかりやすく顔に出ていたらしい。
「でもあんたくらい即戦力になりそうな奴、なかなかいねーし。また募集すんのもめんどくせんだよな。締め切り近いし、できたら助けてほしい」
 あ、この人は、不器用だけど悪い人じゃないんだな、と気がついた。
 そりゃあそうだ。だってこの人はあのぷりん先生だ。あこがれの先生が、助けてほしいと私に言った。辞めるという選択肢はない。
「やります、お願いします。私、先生のファンなんです。先生の描くおっぱい、この世で一番好きです」
「変な女。じゃあまあ、よろしく」
 ふい、と私から目を逸らす先生は、ちょっと照れているようだった。赤くなった耳を見て、可愛いなと感じた。
 好きになったらどうしよう。
 いや、もう、好きかも。
 背が高くて、髪を綺麗に染めていて、ピアスの数もすごい。ジャージだけど逆におしゃれだ。部屋の隅にダンベルが転がっている。ジャージの下は、筋肉質とか?
 意識すると途端にドキドキしてきた。
 どうしよう。
 ポージングのモデルになってくれとか、体位の勉強をさせてくれとか、おっぱい見せてくれとか言われたら、どうしよう。いいなりになる自信がある。
 先生が、はあ、と息をついて私を見た。
「気持ちワリィ要求とか、絶対しねーから」
「へっ」
 ドキッとして裏返った声が出た。
「好きな奴いるし、他の女になんかしようなんて、絶対ない」
「え、えっとぉ……、そうなんですね」
 どうして急にそんなことを言ったのか。頭の中を覗かれた気がして落ち着かない。
 黙って手を動かしたが、やっぱり気になってしまう。先生のことが、気になって仕方がない。
 ちら、ととなりを見ると、バクン! と心臓が跳ねた。すごくキラキラしている。ちょうど金髪だし、王子様ではなかろうか。
 好きな奴がいるから、他の女になんかしようなんて、絶対ない?
 そんな男いる? ピュアなの? と叫びたかった。
 好きな人がいようが、彼女がいようが、既婚だろうが、イケるときは構わずに手を出すのが男じゃないの?
 少なくとも私の周りにはそういう男しかいなかった。「何もしない」と言い切った男が数分後にのしかかってくることは、珍しくない。
 ハッとした。
 一つの可能性が脳裏に浮かんだ。
 先生は、もしかして、童貞では?
 そうなら、今の夢見がちな科白もうなずける。それに、先生の描く漫画がどこか幻想的で、汁が多めのエロ漫画にしてはふわふわしていて甘酸っぱい読後なのは、彼自身が清らかだからでは?
 好きな人がいる、つまり、付き合ってはいない。片思い中ということ。ずっと長い間、片思いを続けているのだとしたら。
 まあ、そんなはずはない。童貞の可能性は果てしなくゼロに近い。
 だって、先生からすごくオスみを感じる。きっと大勢の女を泣かせてきたに違いない。そして今、本当に大切だと思える人を見つけて、ひっそりと、想いを寄せているのだ。
 切なくて、いとおしい。
「すげーな」
「えっ、何が」
「仕事が速い。助かった」
 妄想しているうちに、完璧に仕事をこなしてしまった。我ながら有能だ。
「明日も来れる?」
「はい、来ます」
 それから私はずっとアシスタントを続け、一年経った。その間、何人かアシスタントが来たが、長続きはしなかった。先生の顔が怖いとか急に毒を吐くからメンタルがやられるとかで、辞めていく。辞めてくれてもいい。私は先生と二人きりがよかった。
 一年経っても私は先生に惹かれていたが、秘めた想いを打ち明けることはしなかった。先生は、ずっと誰かを想い続けていて、その健気な純愛を邪魔したくはなかったからだ。
 自分の立ち位置はわきまえている。あくまで恋する先生が好きで、私を好きになってほしいとは思わなかった。
「先生、この部屋狭くないですか?」
 あるとき、そう訊いてみた。先生ほどの売れっ子エロ漫画家なら、もっといい部屋に住めるはずだ。キッチンは狭いし、壁は薄いし、築年数もかなり経っていそうだ。
「絶対に、引っ越さない」
「えー、なんでぇ? あ、わかった。先生の好きな人、このアパートの住人とか?」
 先生は返事をしない。
「当たり?」
「うるせー、クビにすんぞ」
 どうやら、正解だったらしい。先生の耳が赤い。
「告白すればいいのに」
「そん……っ、ぐほっ、ゲッホゲホゲホ……、う、うるせーんだよ、時給八百円にすんぞ」
「いいですよぉ? 私はお金以上のもの、いただいてますから」
「……なんなんだよお前は」
「先生」
「うるせーな、仕事しろ」
「告白しましょうよ」
「しねーよ、あークソ、クソしてくる」
 先生が腰を上げ、トイレに逃げていった。
「可愛い人」
 先生はどんな人かと訊かれたら。
 私はいつも、そう答える。

〈おわり〉
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