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仕事始め
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〈倉知編〉
「倉知先生、結婚したの?」
新年最初の朝礼が終わった瞬間、駆け寄ってきた西村先生が叫ぶように言った。
視線が集中し、「結婚?」「うそ」「誰が?」「倉知先生だって」と波紋のように、教室全体がざわついていく。
という夢を見た。
軽く頬をつねると、ちゃんと痛い。夢ではなさそうだ。
「ほんとだ、指輪」
英語の杉浦先生が口に手を当て、俺の左手を指差した。
「えーっ、おめでとう」
彼女が手を打つと、拍手の連鎖が始まった。みんなが口々に「おめでとう」と祝福の声をかけてくれる。
かすれた声で、ありがとうございますと返事をするのがやっとで、俺の頭の中は、真っ白だった。
帰国してからの一日は、ずっと家にいて、二人でひたすらイチャイチャしていた。幸せはいつまでも尾を引いていて、だから、単純に、指輪を外すのを忘れていたのだ。
「まだ若いのに、もう結婚って、やるなあ」
校長が感心したようにうなり、となりの教頭が目にも止まらぬ速さで手を叩いている。
「あ、あの」
結婚はしていません、この指輪はなんでもなくて。
そう弁解すればいい。今ならまだ、取り返しがつく。
言いかけたが、続きは出てこなかった。
だって俺は結婚した。この指輪はなんでもなくない。大切な、結婚指輪だ。
「付き合って長いの?」
西村先生が訊いた。うなずいてから、心臓を押さえ、口を開く。
「……はい、長いです」
「式は挙げるの?」
無邪気に質問を続ける西村先生に、馬鹿正直に返答した。
「去年の年末に、ハワイで」
キャー、ヒュー、と歓声が上がる。
「素敵じゃない、ハワイ。写真ないの?」
見たい見たいハワイハワイと女性陣が群がってくる。
「あの……、籍を入れてなくて……、というか、入れる予定はなくて」
「へー、事実婚ってやつ? それで写真は?」
写真を諦めない西村先生が「スマホは?」と手を出してくる後ろで、校長がまったりとした口調でニコニコして言った。
「いいじゃない、いるよ、そういう人。法律や制度にとらわれない生き方っていうの? 何、奥さん稼いでる人?」
「働いてます、はい」
言いながら、浅見先生を探した。人の輪から外れたところから、困った顔でこっちを見ている。目が合うと、彼は肩をすくめてから親指を立てて、うなずいた。いけ、という合図だ。
この場をなんとか乗り切って、あとで校長にだけでも真実を話すとか。
いや、もう、言ってしまいたい。いずれは言わなければいけないときがくる。それならもう、ごまかすのはやめにしたい。
せっかく、新しい年の始まりだ。
蔑んだ目で見られようと、迫害されようと、構わない。
何かあれば、戦ってみせる。それだけだ。
「写真は?」
西村先生が、今度は両手を出してくる。
「見てくれますか?」
「見たい!」
見たい、見たい、とみんなが押し寄せてくる。
「校長、少しお時間いただいてもよろしいですか?」
今日はまだ新学期前だ。つまり、生徒は登校していない。授業はないからみんな余裕を見せているが、このあと職員会議がある。
教頭が職員室の時計を見上げ、「十分後に会議室ですよ」と急かした。
「会議室で写真回覧するのもいいねえ」
校長が提案すると、他の教員が「プロジェクター用意します?」と悪乗りする。
盛り上がっている。この熱が、引いていくのが怖かった。
でも、後戻りはできない。
意を決し、デスクの引き出しからスマホを取り出した。
「私が最初だから、順番ね。みなさん、ちゃんと並んで。整列!」
西村先生が仕切ると、彼女の後ろに列ができた。
一度深呼吸をして、胸を張ってスマホを差し出した。
「驚くと思います。どうぞ」
「何、そんなに美人さんなの?」
スマホを受け取った西村先生が、画面に視線を移した。
「んまあ、素敵、タキシード、タキシー……えっ」
目が、見開いていく。ハッと顔を上げ、俺を見る。スマホと俺を見比べて、口をパクパクさせたあと、魂の抜けたような声で言った。
「うん、美人さんだわ」
「はいはい、次の人に回して、見たらすぐ回して」
西村先生の次にちゃっかり並んでいた教頭が、ひょいとスマホを奪う。
少しの間があった。教頭は画面に顔を近づけ、咳ばらいをする。
「確かに美人ですね」
そう言って、次の杉浦先生にスマホを渡す。
「え? あっ、……え? ほんとだ、美人……」
放心した声だが、目は輝いたままだった。次の人も、その次の人も、まるで伝言ゲームのように「美人」「美人」とつぶやいていく。
「待って、もう一回見せて。すごいイケメンじゃなかった?」
先頭にいた西村先生が列を乱すと、みんながスマホを持った校長の周りに集結する。ざわついていく職員室に、いたたまれなくなり、腹の底から声を振り絞る。
「お騒がせしてすみません」
みんなが俺を見た。
「不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。みなさんに理解して欲しいとか認めて欲しいとかは、言いません。権利を主張する気持ちも一切ないです。ただ、僕にはこの人しかいなくて、生涯添い遂げます。何があっても離れない覚悟があります。だから、静かに見守っていただけるとありがたいです。お願いします」
声を張り、深く、頭を下げた。
静寂。
耳鳴りがした。
怖くて、手が震える。両手を握り締めたとき、手を打つ音が、鳴った。
顔を上げた。浅見先生が、満足そうにうなずいている。
「いいぞ、立派」
みんなが同調し、拍手が膨れ上がっていく。おめでとう、おめでとう、と再び投げかけられるたくさんの祝福の言葉。
職員室を見回した。一人ひとりと目を合わせ、安堵する。驚いてはいたが、嫌悪は見当たらない。奇跡だと思った。
「うん、いいじゃない。すごく幸せそうだもん」
校長が言って、俺にスマホを返してくれた。
「結婚のことは指輪でバレちゃうから、生徒たちには本人から報告してもらおうかな。お相手の件は教職員のみの極秘事項にしましょう。全校生徒に騒がれるのも不本意でしょ。いい? みなさん、わかりましたか?」
校長が人差し指を唇に当てると、はい、はい、とあちらこちらで返事が飛んだ。
「はいはい、じゃあそういうことで、会議室に移動してくださいね。倉知先生、おめでとう」
教頭が俺の肩を叩いてから、早足で職員室から出ていった。
気まずさはない。ぎこちなさもない。何事もなかったように、通常運転に切り替わった瞬間だった。
なるほどそうか。
みんな、それほど他人のプライベートに重点を置いていない。そんなに暇じゃないのだ。仕事モードに切り替わった人々が、解散する。
「校長」
職員室を出て、廊下を歩く校長を追いかけた。
「あの、指輪は、着けていてもいいんでしょうか」
「え?」
校長が足を止めて振り返る。
「結婚指輪を外せなんて、パワハラもいいとこだよ」
「でも」
「倉知先生、真面目だねえ。今はもういろんなカップルがいるじゃない? 結婚の形も様々だし、同性同士でも珍しくない時代なんだから。そんなに卑下しないで、堂々としてたらいいよ」
俺を見上げる校長の目は、優しかった。喉が詰まる。泣き出しそうなるのを、堪える。
「ただね、箝口令《かんこうれい》を敷いたからってどこからかは漏れちゃうだろうし、そのときはそのとき、もし何かあったら、一緒に考えようか」
なるようになるよ、とのんびりした口調で言って、にっこりとほほ笑んだ。
「会議が大好きな教頭が待ってるよ。行こう」
踵を返し、鼻歌を口ずさむ校長の後姿に深く、礼をした。
「倉知先生」
西村先生の声が俺を呼ぶ。頭を下げた俺の顔を下から覗き込んできて、あっと声を上げた。
「泣いてるの? 私のせい? ごめんね、なんか、なんて言っていいか、ごめんね」
「いえ、違います、大丈夫です。謝らないでください」
おろおろする西村先生に、もう一度「大丈夫です」と繰り返す。
職員室からぞくぞくと出てくる教職員たちが、おめでとうと俺の腕やら背中やら頭やらを叩きながら、会議室へと向かう。
「嫌な顔されたり、責められたり、何か言われるかもって考えてた自分が情けないです。みんな、そんな人たちじゃないのに」
「確かに。見くびってたかも」
最後に出てきた浅見先生が、無精ひげの生えた顎を撫でながら言った。
「上手くいってよかったね」
「はい、……ありがとうございます」
上手くいったらしい。浅見先生がそういうのだから、そうなのだ。肩に入っていた力が、すっと抜けていく。
「指輪、気づいてやらなくてすまん。改めて、結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
こぶしを向けてくる浅見先生にこぶしを返すと彼はほんの少し、目の錯覚かもしれないが、口の端を持ち上げたように見えた。
「あれ? まさか浅見先生、知ってたの?」
西村先生が小さな体をわななかせ「もう」と吠えて、浅見先生を可愛いげんこつでポカポカし始めた。
「ずるいずるい、私だって倉知先生と仲良しなのに、なんでなの?」
「ふっふっふ、彼にお会いしましたよ、すでに」
「え? どうして? いつ? 実物もやっぱり美人さん?」
「ええもう。めちゃくちゃいい男です」
「へええ、いいなあ」
廊下を歩きながら会話する二人の背中をぼんやり見送っていると、西村先生が振り返った。
「私にも今度会わせてくれる?」
顔を伏せ、目元を拭う。
「はい、ぜひ」
笑って、力強く応えた。
その日はほぼ会議で一日が潰れ、気づくと窓の外は暗くなっていた。
浅見先生は奥さんが帰国しているからと、定時に帰っていった。お疲れさま、お先に、と言い置いて、一人二人と職員室から姿を消していく。
帰ることにした。
「お先に失礼します」
残っていた数名が、「お疲れー」と手を振った。
今朝の出来事はやはり夢だったのかと疑いたくなるほど、みんな普通だった。他の写真も見せてくれとせがまれたり、ハワイの土産はないのかと冗談めかしてねだられたりはしたが、ネガティブな視線や言葉を向けられることはなかった。
深刻に考えすぎていたのかもしれない。というか、浅見先生の言う通り、「見くびっていた」のだ。俺はいつでも、悪い方向にばかり物事を想像してしまう。
でも、最悪を想定していたからこそ、なんでもなかった今の状況が、幸せで恵まれていると実感できる。
外し忘れてよかったとミスを前向きにとらえたとき、ハッと気がついた。
加賀さんも、指輪をしたまま出勤した。
慌ててスマホを取り出すと、加賀さんからLINEが届いていた。
『指輪、大丈夫だった?』
送られたのは昼を少し過ぎた頃。外し忘れていましたが、大丈夫です、まで入力して、思い直し、削除する。
『お疲れ様です。帰宅後にお話しします。今から帰ります。』
メッセージを送信し、家路を急ぐ。
帰宅して着替えを済ませ、冷蔵庫と相談の末、オムライスに決めた。チキンライスが完成すると同時に、加賀さんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「この匂いは、オムライス」
「正解です」
「可愛い」
得意技の「可愛い」が飛び出した。加賀さんはすぐになんでも可愛いと言う。小さく笑い、「また」とつぶやいて、フライパンに卵液を流し入れる。
加賀さんは半熟でとろとろの卵より薄焼きが好きだ。俺も薄焼き派だ。なぜなら薄焼きのほうが、ケチャップでいろいろ描きやすい。
「腹減った」
着替えを終え、寝室から戻ってきた加賀さんが、冷蔵庫のドアを開けて「指輪」と思い出したように言った。
「外すの忘れてただろ。いつ気づいた?」
「朝礼のときに指摘されて、正直に話しました」
「……え? 外さなかったってこと? 話したって、誰に?」
「教職員全員です」
加賀さんが黙ってビールのプルタブを開けた。少し振り向くと目が合った。にこ、と笑うとビールに口をつけた加賀さんが、目で笑みを返してくれる。
薄焼き卵にチキンライスを包み皿に盛り付けると、完成したオムライスにケチャップで絵を描いた。
「クマ? いや、うさぎ?」
加賀さんが俺の手元を覗き込んで言った。
「猫です。ちょっと失敗したけどこれは俺のだから気にしないで」
「画伯可愛い」
「加賀さんのは、こう」
もう一つのオムライスには、大きなハートを描く。
「可愛い。倉知君ビールは?」
「じゃあいただきます」
オムライスをダイニングテーブルに置いて、席に着く。
「なんかすげえ穏やかだし、全然落ち込んでるふうじゃないってことは、大丈夫だったの?」
手を合わせた状態で待っていると、加賀さんが俺の前にビールの缶を置いて言った。
「はい。奇跡的に」
「いじめられなかった?」
「なかったです。みんなおめでとうって言ってくれて、あ、加賀さんに謝らないと」
「え、何」
椅子を引いて腰を下ろした加賀さんが、手を合わせた。いただきます、と声を揃えてから、頭を掻く。
「挙式の写真、みんなに見せちゃったんです。勝手にすいません」
「あー、俺も会社の連中に見せたわ。勝手にごめん」
オムライスを口に放り込みながら、加賀さんが俺を見る。咀嚼する口元が、笑っている。俺も、笑顔が止まらない。
「校長が、指輪、外さなくてもいいって言ってくれたんです」
「マジか」
「さすがに生徒には本当のことは言えないけど、今はそれでもいいかなって。大きな一歩です」
「うん」
「俺、もう二度と、指輪を外しません」
「うん」
「加賀さん、好きです」
「うん、俺も」
俺が喋っている間、加賀さんは相槌を打ちながら、手を休めなかった。よほど空腹だったのか、がつがつと貪っている。俺はこの気持ちのいい食べっぷりを見るのが好きだった。
視線は加賀さんに釘付けのまま、オムライスの上の猫を伸ばす。
「オムライスめっちゃ美味い」
「よかったです」
「倉知君食べないの?」
「なんか、胸がいっぱいで」
ケチャップをスプーンで撫で続けて、苦笑する。安心したし、幸せなのだが、あまり現実味がなく、体がふわふわした状態だ。
「ちなみに俺も、今日指輪着けたまま出社したんだけど」
「え?」
「運転中に気づいて、でもまあいっかって」
ビールを呷る加賀さんの喉仏を見つめて唖然とする。
「なんか、俺らが思ってるより周囲は柔軟だよな」
「はい……、それは……俺も、そう思います。あの、それで、平気でした?」
「俺の場合、もうほとんどみんなわかってるから。運動会のあれでとっくに確定してるわけだし」
去年の運動会の借り物競争で「好きな人」のお題が出た。加賀さんは俺を連れてゴールしたが、その後嘆く女性や好奇の目を向ける人は少なからずいたらしい。
でも、嫌な目に遭うことはない、全然大したことじゃないと加賀さんはいつでも平然としていた。
「挙式だけで結婚したとか無理あるかなって思ったけど、他にもいるらしくてさ。男同士はまあ俺が初だけど、これはちゃんと結婚指輪認定されたから」
加賀さんが左手を振る。
「じゃあ」
「うん」
「外さなくてもいいんですね」
「うん。倉知君、好き」
思わず椅子から立ち上がる。
加賀さんが笑う。
座ったまま両手を大きく広げて俺を待ち構えた。
抱きしめる。
幸せだ。
もう二度と、指輪を外さない。
〈おわり〉
「倉知先生、結婚したの?」
新年最初の朝礼が終わった瞬間、駆け寄ってきた西村先生が叫ぶように言った。
視線が集中し、「結婚?」「うそ」「誰が?」「倉知先生だって」と波紋のように、教室全体がざわついていく。
という夢を見た。
軽く頬をつねると、ちゃんと痛い。夢ではなさそうだ。
「ほんとだ、指輪」
英語の杉浦先生が口に手を当て、俺の左手を指差した。
「えーっ、おめでとう」
彼女が手を打つと、拍手の連鎖が始まった。みんなが口々に「おめでとう」と祝福の声をかけてくれる。
かすれた声で、ありがとうございますと返事をするのがやっとで、俺の頭の中は、真っ白だった。
帰国してからの一日は、ずっと家にいて、二人でひたすらイチャイチャしていた。幸せはいつまでも尾を引いていて、だから、単純に、指輪を外すのを忘れていたのだ。
「まだ若いのに、もう結婚って、やるなあ」
校長が感心したようにうなり、となりの教頭が目にも止まらぬ速さで手を叩いている。
「あ、あの」
結婚はしていません、この指輪はなんでもなくて。
そう弁解すればいい。今ならまだ、取り返しがつく。
言いかけたが、続きは出てこなかった。
だって俺は結婚した。この指輪はなんでもなくない。大切な、結婚指輪だ。
「付き合って長いの?」
西村先生が訊いた。うなずいてから、心臓を押さえ、口を開く。
「……はい、長いです」
「式は挙げるの?」
無邪気に質問を続ける西村先生に、馬鹿正直に返答した。
「去年の年末に、ハワイで」
キャー、ヒュー、と歓声が上がる。
「素敵じゃない、ハワイ。写真ないの?」
見たい見たいハワイハワイと女性陣が群がってくる。
「あの……、籍を入れてなくて……、というか、入れる予定はなくて」
「へー、事実婚ってやつ? それで写真は?」
写真を諦めない西村先生が「スマホは?」と手を出してくる後ろで、校長がまったりとした口調でニコニコして言った。
「いいじゃない、いるよ、そういう人。法律や制度にとらわれない生き方っていうの? 何、奥さん稼いでる人?」
「働いてます、はい」
言いながら、浅見先生を探した。人の輪から外れたところから、困った顔でこっちを見ている。目が合うと、彼は肩をすくめてから親指を立てて、うなずいた。いけ、という合図だ。
この場をなんとか乗り切って、あとで校長にだけでも真実を話すとか。
いや、もう、言ってしまいたい。いずれは言わなければいけないときがくる。それならもう、ごまかすのはやめにしたい。
せっかく、新しい年の始まりだ。
蔑んだ目で見られようと、迫害されようと、構わない。
何かあれば、戦ってみせる。それだけだ。
「写真は?」
西村先生が、今度は両手を出してくる。
「見てくれますか?」
「見たい!」
見たい、見たい、とみんなが押し寄せてくる。
「校長、少しお時間いただいてもよろしいですか?」
今日はまだ新学期前だ。つまり、生徒は登校していない。授業はないからみんな余裕を見せているが、このあと職員会議がある。
教頭が職員室の時計を見上げ、「十分後に会議室ですよ」と急かした。
「会議室で写真回覧するのもいいねえ」
校長が提案すると、他の教員が「プロジェクター用意します?」と悪乗りする。
盛り上がっている。この熱が、引いていくのが怖かった。
でも、後戻りはできない。
意を決し、デスクの引き出しからスマホを取り出した。
「私が最初だから、順番ね。みなさん、ちゃんと並んで。整列!」
西村先生が仕切ると、彼女の後ろに列ができた。
一度深呼吸をして、胸を張ってスマホを差し出した。
「驚くと思います。どうぞ」
「何、そんなに美人さんなの?」
スマホを受け取った西村先生が、画面に視線を移した。
「んまあ、素敵、タキシード、タキシー……えっ」
目が、見開いていく。ハッと顔を上げ、俺を見る。スマホと俺を見比べて、口をパクパクさせたあと、魂の抜けたような声で言った。
「うん、美人さんだわ」
「はいはい、次の人に回して、見たらすぐ回して」
西村先生の次にちゃっかり並んでいた教頭が、ひょいとスマホを奪う。
少しの間があった。教頭は画面に顔を近づけ、咳ばらいをする。
「確かに美人ですね」
そう言って、次の杉浦先生にスマホを渡す。
「え? あっ、……え? ほんとだ、美人……」
放心した声だが、目は輝いたままだった。次の人も、その次の人も、まるで伝言ゲームのように「美人」「美人」とつぶやいていく。
「待って、もう一回見せて。すごいイケメンじゃなかった?」
先頭にいた西村先生が列を乱すと、みんながスマホを持った校長の周りに集結する。ざわついていく職員室に、いたたまれなくなり、腹の底から声を振り絞る。
「お騒がせしてすみません」
みんなが俺を見た。
「不快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。みなさんに理解して欲しいとか認めて欲しいとかは、言いません。権利を主張する気持ちも一切ないです。ただ、僕にはこの人しかいなくて、生涯添い遂げます。何があっても離れない覚悟があります。だから、静かに見守っていただけるとありがたいです。お願いします」
声を張り、深く、頭を下げた。
静寂。
耳鳴りがした。
怖くて、手が震える。両手を握り締めたとき、手を打つ音が、鳴った。
顔を上げた。浅見先生が、満足そうにうなずいている。
「いいぞ、立派」
みんなが同調し、拍手が膨れ上がっていく。おめでとう、おめでとう、と再び投げかけられるたくさんの祝福の言葉。
職員室を見回した。一人ひとりと目を合わせ、安堵する。驚いてはいたが、嫌悪は見当たらない。奇跡だと思った。
「うん、いいじゃない。すごく幸せそうだもん」
校長が言って、俺にスマホを返してくれた。
「結婚のことは指輪でバレちゃうから、生徒たちには本人から報告してもらおうかな。お相手の件は教職員のみの極秘事項にしましょう。全校生徒に騒がれるのも不本意でしょ。いい? みなさん、わかりましたか?」
校長が人差し指を唇に当てると、はい、はい、とあちらこちらで返事が飛んだ。
「はいはい、じゃあそういうことで、会議室に移動してくださいね。倉知先生、おめでとう」
教頭が俺の肩を叩いてから、早足で職員室から出ていった。
気まずさはない。ぎこちなさもない。何事もなかったように、通常運転に切り替わった瞬間だった。
なるほどそうか。
みんな、それほど他人のプライベートに重点を置いていない。そんなに暇じゃないのだ。仕事モードに切り替わった人々が、解散する。
「校長」
職員室を出て、廊下を歩く校長を追いかけた。
「あの、指輪は、着けていてもいいんでしょうか」
「え?」
校長が足を止めて振り返る。
「結婚指輪を外せなんて、パワハラもいいとこだよ」
「でも」
「倉知先生、真面目だねえ。今はもういろんなカップルがいるじゃない? 結婚の形も様々だし、同性同士でも珍しくない時代なんだから。そんなに卑下しないで、堂々としてたらいいよ」
俺を見上げる校長の目は、優しかった。喉が詰まる。泣き出しそうなるのを、堪える。
「ただね、箝口令《かんこうれい》を敷いたからってどこからかは漏れちゃうだろうし、そのときはそのとき、もし何かあったら、一緒に考えようか」
なるようになるよ、とのんびりした口調で言って、にっこりとほほ笑んだ。
「会議が大好きな教頭が待ってるよ。行こう」
踵を返し、鼻歌を口ずさむ校長の後姿に深く、礼をした。
「倉知先生」
西村先生の声が俺を呼ぶ。頭を下げた俺の顔を下から覗き込んできて、あっと声を上げた。
「泣いてるの? 私のせい? ごめんね、なんか、なんて言っていいか、ごめんね」
「いえ、違います、大丈夫です。謝らないでください」
おろおろする西村先生に、もう一度「大丈夫です」と繰り返す。
職員室からぞくぞくと出てくる教職員たちが、おめでとうと俺の腕やら背中やら頭やらを叩きながら、会議室へと向かう。
「嫌な顔されたり、責められたり、何か言われるかもって考えてた自分が情けないです。みんな、そんな人たちじゃないのに」
「確かに。見くびってたかも」
最後に出てきた浅見先生が、無精ひげの生えた顎を撫でながら言った。
「上手くいってよかったね」
「はい、……ありがとうございます」
上手くいったらしい。浅見先生がそういうのだから、そうなのだ。肩に入っていた力が、すっと抜けていく。
「指輪、気づいてやらなくてすまん。改めて、結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
こぶしを向けてくる浅見先生にこぶしを返すと彼はほんの少し、目の錯覚かもしれないが、口の端を持ち上げたように見えた。
「あれ? まさか浅見先生、知ってたの?」
西村先生が小さな体をわななかせ「もう」と吠えて、浅見先生を可愛いげんこつでポカポカし始めた。
「ずるいずるい、私だって倉知先生と仲良しなのに、なんでなの?」
「ふっふっふ、彼にお会いしましたよ、すでに」
「え? どうして? いつ? 実物もやっぱり美人さん?」
「ええもう。めちゃくちゃいい男です」
「へええ、いいなあ」
廊下を歩きながら会話する二人の背中をぼんやり見送っていると、西村先生が振り返った。
「私にも今度会わせてくれる?」
顔を伏せ、目元を拭う。
「はい、ぜひ」
笑って、力強く応えた。
その日はほぼ会議で一日が潰れ、気づくと窓の外は暗くなっていた。
浅見先生は奥さんが帰国しているからと、定時に帰っていった。お疲れさま、お先に、と言い置いて、一人二人と職員室から姿を消していく。
帰ることにした。
「お先に失礼します」
残っていた数名が、「お疲れー」と手を振った。
今朝の出来事はやはり夢だったのかと疑いたくなるほど、みんな普通だった。他の写真も見せてくれとせがまれたり、ハワイの土産はないのかと冗談めかしてねだられたりはしたが、ネガティブな視線や言葉を向けられることはなかった。
深刻に考えすぎていたのかもしれない。というか、浅見先生の言う通り、「見くびっていた」のだ。俺はいつでも、悪い方向にばかり物事を想像してしまう。
でも、最悪を想定していたからこそ、なんでもなかった今の状況が、幸せで恵まれていると実感できる。
外し忘れてよかったとミスを前向きにとらえたとき、ハッと気がついた。
加賀さんも、指輪をしたまま出勤した。
慌ててスマホを取り出すと、加賀さんからLINEが届いていた。
『指輪、大丈夫だった?』
送られたのは昼を少し過ぎた頃。外し忘れていましたが、大丈夫です、まで入力して、思い直し、削除する。
『お疲れ様です。帰宅後にお話しします。今から帰ります。』
メッセージを送信し、家路を急ぐ。
帰宅して着替えを済ませ、冷蔵庫と相談の末、オムライスに決めた。チキンライスが完成すると同時に、加賀さんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「この匂いは、オムライス」
「正解です」
「可愛い」
得意技の「可愛い」が飛び出した。加賀さんはすぐになんでも可愛いと言う。小さく笑い、「また」とつぶやいて、フライパンに卵液を流し入れる。
加賀さんは半熟でとろとろの卵より薄焼きが好きだ。俺も薄焼き派だ。なぜなら薄焼きのほうが、ケチャップでいろいろ描きやすい。
「腹減った」
着替えを終え、寝室から戻ってきた加賀さんが、冷蔵庫のドアを開けて「指輪」と思い出したように言った。
「外すの忘れてただろ。いつ気づいた?」
「朝礼のときに指摘されて、正直に話しました」
「……え? 外さなかったってこと? 話したって、誰に?」
「教職員全員です」
加賀さんが黙ってビールのプルタブを開けた。少し振り向くと目が合った。にこ、と笑うとビールに口をつけた加賀さんが、目で笑みを返してくれる。
薄焼き卵にチキンライスを包み皿に盛り付けると、完成したオムライスにケチャップで絵を描いた。
「クマ? いや、うさぎ?」
加賀さんが俺の手元を覗き込んで言った。
「猫です。ちょっと失敗したけどこれは俺のだから気にしないで」
「画伯可愛い」
「加賀さんのは、こう」
もう一つのオムライスには、大きなハートを描く。
「可愛い。倉知君ビールは?」
「じゃあいただきます」
オムライスをダイニングテーブルに置いて、席に着く。
「なんかすげえ穏やかだし、全然落ち込んでるふうじゃないってことは、大丈夫だったの?」
手を合わせた状態で待っていると、加賀さんが俺の前にビールの缶を置いて言った。
「はい。奇跡的に」
「いじめられなかった?」
「なかったです。みんなおめでとうって言ってくれて、あ、加賀さんに謝らないと」
「え、何」
椅子を引いて腰を下ろした加賀さんが、手を合わせた。いただきます、と声を揃えてから、頭を掻く。
「挙式の写真、みんなに見せちゃったんです。勝手にすいません」
「あー、俺も会社の連中に見せたわ。勝手にごめん」
オムライスを口に放り込みながら、加賀さんが俺を見る。咀嚼する口元が、笑っている。俺も、笑顔が止まらない。
「校長が、指輪、外さなくてもいいって言ってくれたんです」
「マジか」
「さすがに生徒には本当のことは言えないけど、今はそれでもいいかなって。大きな一歩です」
「うん」
「俺、もう二度と、指輪を外しません」
「うん」
「加賀さん、好きです」
「うん、俺も」
俺が喋っている間、加賀さんは相槌を打ちながら、手を休めなかった。よほど空腹だったのか、がつがつと貪っている。俺はこの気持ちのいい食べっぷりを見るのが好きだった。
視線は加賀さんに釘付けのまま、オムライスの上の猫を伸ばす。
「オムライスめっちゃ美味い」
「よかったです」
「倉知君食べないの?」
「なんか、胸がいっぱいで」
ケチャップをスプーンで撫で続けて、苦笑する。安心したし、幸せなのだが、あまり現実味がなく、体がふわふわした状態だ。
「ちなみに俺も、今日指輪着けたまま出社したんだけど」
「え?」
「運転中に気づいて、でもまあいっかって」
ビールを呷る加賀さんの喉仏を見つめて唖然とする。
「なんか、俺らが思ってるより周囲は柔軟だよな」
「はい……、それは……俺も、そう思います。あの、それで、平気でした?」
「俺の場合、もうほとんどみんなわかってるから。運動会のあれでとっくに確定してるわけだし」
去年の運動会の借り物競争で「好きな人」のお題が出た。加賀さんは俺を連れてゴールしたが、その後嘆く女性や好奇の目を向ける人は少なからずいたらしい。
でも、嫌な目に遭うことはない、全然大したことじゃないと加賀さんはいつでも平然としていた。
「挙式だけで結婚したとか無理あるかなって思ったけど、他にもいるらしくてさ。男同士はまあ俺が初だけど、これはちゃんと結婚指輪認定されたから」
加賀さんが左手を振る。
「じゃあ」
「うん」
「外さなくてもいいんですね」
「うん。倉知君、好き」
思わず椅子から立ち上がる。
加賀さんが笑う。
座ったまま両手を大きく広げて俺を待ち構えた。
抱きしめる。
幸せだ。
もう二度と、指輪を外さない。
〈おわり〉
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特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
淫愛家族
箕田 はる
BL
婿養子として篠山家で生活している睦紀は、結婚一年目にして妻との不仲を悩んでいた。
事あるごとに身の丈に合わない結婚かもしれないと考える睦紀だったが、以前から親交があった義父の俊政と義兄の春馬とは良好な関係を築いていた。
二人から向けられる優しさは心地よく、迷惑をかけたくないという思いから、睦紀は妻と向き合うことを決意する。
だが、同僚から渡された風俗店のカードを返し忘れてしまったことで、正しい三人の関係性が次第に壊れていく――
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