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大月家と加賀さん
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〈加賀編〉
インターホンを鳴らすと、玄関のドアが即座に開いた。
「ようこそ、いらっしゃいませ!」
「加賀さん、いらっしゃい!」
飛び出してきた大月を押しのけて、五月が顔を出す。
「二人とも久しぶり。ハワイぶり」
「ハワイぶりっすね」
「入って入って」
五月が腕を引く。大月がもう片方の腕を引く。
この時点で、何か違和感があった。二人とも笑顔だが、何かがおかしい。靴を脱いでリビングに通されると、心の中で首をかしげつつ、持っていた手土産を差し出した。
「あ、これ、プリン。五月ちゃん好きだったよね」
奇妙な間を置いてから、五月が小さな声で「ありがとう」と礼を言う。
「ん? あれ? 嫌いだっけ?」
「プリン……、うん、あたしプリン大好き。加賀さん、ありがとう。加賀さん大好き」
なぜか涙目だ。大月を見ると、気まずそうに目線を床に落としている。
なんなんだ? と思ったが、なんなんだ? と訊くのもためらわれた。
とにかく空気がぎこちない。首を撫でながら視線をさまよわせていると、コルクボードに目が留まる。
「お、写真」
部屋に入ってすぐの壁に、写真まみれのコルクボードがぶら下がっている。二人のツーショットよりも、なぜか俺の登場回数が多い。明らかにハルさんが撮ったであろう、背景をぼかした腕のいいポートレートまである。
「なんか俺ばっかじゃない?」
二人が同じ照れ笑いを浮かべた。
「毎日拝んでて、おかげで元気っす。この写真なんてほんと神かと」
「これ、あたしのイチオシの加賀さん!」
大月と五月が、同じ写真を指差した。ハッと顔を見合わせて、体ごと大げさに距離を取る。しん、と一瞬静まり返った。
「えーと、あー……、部屋、意外に整ってるね」
部屋の中を見回して、率直な感想を口にした。
二人暮らしにはちょうどいい広さのリビングダイニングキッチンだ。緑色のラグ、オレンジ色のカーテン、真っ赤なソファに柄物のクッションが置かれている。全体的に色が氾濫していて落ち着かない感じではあるが、整理整頓はされている。
「掃除はおもに俺がやってるんすよ。偉いでしょ」
大月が胸を張ると、五月が小さく舌打ちをして俺の体をソファに引っ張っていく。
「どうぞ、座って。このソファ、あたしが買ったんだよ。十五万円したの」
「お、おう、そうなんだ」
「あんっ、加賀さん赤似合う!」
「え、そう?」
「赤のソファにしてよかったあ」
「加賀さんは何色でも似合うと思うけどね」
大月が低い声で言った。五月は大月を振り返らずに、再び舌を打った。
最初の違和感は正しかったようだ。
どうやら二人は今、絶賛喧嘩中だ。
うちに遊びに来ませんか、と誘われたのは今月の始めの頃だった。大月は基本土日祝日も出勤していて、カレンダー通りの俺とは休みが合わない。珍しく土曜日に休みが取れたと大はしゃぎで連絡があった。喧嘩した状態で当日を迎えることになるとは、本人たちも予想していなかっただろう。
「加賀さん、ゲームしよ、ゲーム。ぷよぷよかスマブラか、どっちがいい?」
テレビボードからコントローラーを二つ取り出しながら、五月が言った。
「スマブラってなんだっけ」
「あっ、スマブラなら勝てそう。スマブラしよ」
「じゃあ俺は今からお昼ご飯作りますね。加賀さん、パスタ好きっすか、カルボナーラ」
「うん、ありがとう。大月君作れるんだ。やるじゃん」
「スマホでレシピ見ながらっす。掃除も料理も俺がやってるんすよ。家事はもう、ほとんど俺」
これ見よがしに鼻を鳴らし、大月が親指の先で自分の顔面を指差した。五月が悔しそうに「あたしだって!」と声を上げた。
「あたしだって全然やらないわけじゃないし、あたしはあたしなりにできることがんばってるもん」
「えー? がんばってるかなあ」
「がんばってるし!」
雲行きが怪しい。手のひらをそれぞれ五月と大月に向けた。
「まあまあ、一旦落ち着こう。喧嘩の原因は家事の分担?」
五月と大月がお互いから目を逸らしている。
「よし、ちょっと話聞こうか」
頭を掻いてそう言うと、五月がコントローラーを振り上げて、「聞いて!」と叫んだ。
「この人、あたしのプリン勝手に食べたんだよ! 滅多に買えない人気のやつ、昨日仕事帰りにコンビニでゲットして、お風呂上りに食べようとしたら、ないの!」
「だって冷蔵庫に一個しかなかったから、先に食べたのかな、俺のかなって思うじゃん」
「あんたの思考回路なんか知らん! 勝手に食べるその根性が気に食わん!」
「もうだから、ずっと謝ってんのに……、って感じなんすよ、加賀さん」
「ひどいよね、加賀さん!」
はあ、と息をついて両手で顔を覆った。
「よかった……」
つぶやくと、何が? と二人が声を揃える。
「なんかもっと深刻な喧嘩かと思った。プリンでよかった」
「プリンは深刻だよ?」
五月が俺の隣に腰かけて、コントローラーを手渡してくる。
「なんかそういうの、新婚とか同棲あるあるなんじゃない? 微笑ましくていいじゃん」
「そうっすよ、あるあるっすよね。何百回も謝ってるのにしつこいんすよ」
大月がエプロンを着けながらため息まじりに言った。尻に敷かれて言いなりになっているのかと思いきや、案外、大月も負けていないのだと感心した。
「しつこいとはなんだ!」
「いやもう本当にごめんなさい。でもさ、実家は冷蔵庫にスイーツ入れといたらほとんどお父さんが食べちゃうから早い者勝ちだって、食べたいなら名前書いとけって、自分で言ってたじゃん」
「はは、お父さん」
思わず笑ってしまった。五月が仏頂面で、ゲーム機の電源を入れる。
「お父さんいないから油断したんだもん。ねえ、じゃあ、加賀さんは? 七世が勝手に冷蔵庫のプリン食べたらどうする? 殺意湧くよね?」
「プリン食べたかったんだなあ、可愛いなあって思うけど」
「ダメだこりゃ!」
俺のとなりで五月がソファの肘掛けにうなだれた。
「俺が買ってきたプリンを倉知君が食べてくれたってだけでもう幸せだからなあ」
今度、知らん顔でプリンを一つだけ冷蔵庫に入れておこう。一体どういう反応をするだろう。想像するだけでワクワクする。
「加賀さん、さすがっす。ふところ深いっす。カッコイイっす」
大月が対面式のキッチンからしみじみとした口調でうなる。別に何もカッコよくはないのだが、五月が「全面同意」と夫に同調した。
「あ、飲み物、コーヒーと紅茶と麦茶、どれがいい?」
五月が腰を浮かして訊いた。
「じゃあ麦茶」
「はぁーい」
五月が立ち上がり、キッチンのほうに回り込む。大月の背後の冷蔵庫を開けると同時に、パシン、と音がした。よくは見えなかったが、五月が大月の尻だか背中だかを叩いたのだ。大月の顔は薄く笑っている。
ホッとした。プリン戦争は終結したらしい。
五月がセンターテーブルにグラスを二つ置くと、麦茶を注ぎながら思い出したように言った。
「七世トロいから、小さいころよくお父さんにプリン食べられて泣いてたっけ。それでお母さんがお父さんをめちゃくちゃ叱るっていういつものパターン」
胸を押さえ、天を仰ぐ。プリンを食べられて、泣くとか。愛しくてむずむずする。
「やべえ、可愛い。小さいころってフレーズがもう可愛い。小さい倉知君可愛い。プリン食べられて泣く倉知君可愛い」
コントローラーを胸に抱いてよしよししていると、五月がチベットスナギツネみたいな顔で俺を見ながら「加賀さん」と呼んだ。
「七世のどこがいいの?」
「全部」
「訊くまでもなかった。もー、スマブラしよ、スマブラ」
五月が俺のとなりに腰を下ろす。
「これって格ゲーっぽいやつ? なんか見たことはあるけど」
「やったことないんだ? よしっ、絶対加賀さんに勝てる! ついに勝てる!」
初心者をボコボコにして浮かれていた五月だが、俺は人一倍負けず嫌いだ。基本操作をマスターすれば、あとはもう感覚でコツをつかみ、大月がカルボナーラを完成させるころには勝ちを譲らなくなっていた。
「おかしいよね?」
五月がフォークにパスタを巻きつけながら、表情を曇らせる。
「加賀さん、実は初心者じゃないでしょ」
「いや、やったことないけど。意味がわかれば負けないかな。大月君、パスタ美味いよ」
「ありがとう……、ございます……」
大月が涙ぐみ、目元をぬぐう。
「推しに手料理を食べてもらえるなんて、こんな嬉しいことないっす。俺の作ったパスタが加賀さんの血となり肉となる……、つまり俺たちは一心同体ってことっすよね」
「めっちゃ飛躍するね」
「じゃあ、はいはい! 夜はあたしが作りたい。いや待てよ……、加賀さんの手料理食べたい、加賀さんの手料理食べたい、大事なことだから二回言った!」
「賛成っす、あっ、なんなら泊まってってください。来客用の布団あるし、川の字で……、もちろん加賀さんが真ん中で!」
「名案やんけ!」
わたわたと盛り上がった二人が、手を叩き合わせてキャッキャしている。
「加賀さん、泊まろう? どうせ七世は夜まで仕事でしょ? ねっ、ねっ」
「明日日曜だし、休みっすよね? ぜひ、ほんと、泊まっていってほしいなあ」
二人が目を輝かせ、鼻息を荒くし、身を乗り出して迫ってくる。
どうしてこの二人は、こんなにも俺のことが好きなのだろうか。結婚して落ち着けば、俺のことなんてどうでもよくなって静かになると思ったが、相変わらずだ。
ただのおっさんを、いつまで慕ってくれるだろう。
可愛い奴らめ。
自然と手が伸びた。二人の頭を順番に撫でる。
撫でられた、と抱き合って喜ぶ夫婦を眺めながらパスタを食べる。可愛いと思う。こうやって過ごす時間も悪くはない。ただそれとは別に、頭の中では「いつどのタイミングでおさらばしよう」と、帰ることを考えていた。
倉知の帰りが何時になるかはわからない。でも、ちゃんと出迎えてやりたい。おつかれさまと労いたい。あったかい料理を作って、笑顔で抱きしめたい。
そんなことを考えながらパスタを食べ終え、一時間ほどゲームをしたあと、二人の結婚式のアルバムを見せられた。
「はあ、披露宴楽しかったな。またやりたい。あたしったら、こんなに可愛いんだもん」
五月が頬杖をついてアルバムをめくる。集合写真が目に飛び込んできた。探すつもりはなくても、倉知の姿を一瞬で見つけてしまい、にこ、と微笑んだ。ブーケトスでゲットしたブーケを、大切そうに両手で持っている。可愛い。写真を撫でまわしたいのを我慢して、しみじみとつぶやいた。
「もうそろそろ一年経つんだな」
「早いっすよねえ」
「あっ、ねえ、バドミントンしよ!」
言うと同時に五月がすっくと立ち上がった。
「え、なんで急に? 今から?」
「今日無風だから絶好のバド日和っすよ」
大月が勢いよく飛び上がり、二人が俺の腕を引いた。アクティブというか、若いというか。近所の公園に引きずられ、おだやかな日差しの下、ラケットを振る。
めちゃくちゃ健全で、健康的な休日だ。雲一つない晴天。公園の桜が咲き誇り、肌に触れる空気が気持ちいい。
元来、インドアの人間ではあるが、こういうのも嫌いじゃない。というか、楽しい。
「加賀さん、上手い! 好き!」
汗だくになった五月が地面に大の字になり、叫ぶ。
「はるか昔にテニスやってたからね」
「カッコイイっす! しびれるっす!」
うわーうわーと声を上げる大月の後ろで、スケートボードを持った少年少女がこっちを見ている。ずっと、やけに見られている。いい歳をした大人がバドミントンに興じる姿が面白いのかもしれない。ニコニコして、いちいち拍手を送ってくれる。
「あ、なんかきた」
大月にラケットを渡し、ズボンの尻ポケットからスマホを出した。
「七世?」
五月が訊いた。画面を見下ろして、うん、とうなずいた。自動的に弾んだ声が出てしまった。代わりに大月の声は沈んでいた。
「やっぱ、泊まってってくれないすよね」
「手料理もなし?」
二人がしょんぼりと肩を落とす。
「すまん。でもほら、どうせ着替えもパンツもないし、またの機会にね」
パンツ! と二人が喜んでいる隙に、木陰に移動して腰を下ろし、返信を打つ。
パンツ、パンツ、と交互に声を掛け合い、ラリーを続ける二人に、スマホの画面を見ながら訊いた。
「夜、何食べたい?」
「えっ、夜っ?」
二人が声をハモらせた。
「倉知君、今からこっち来るって。一緒に買い物行って、材料仕入れて、アパート戻ろっか。大したもの作れないけど、何がいい? リクエストあればどうぞ」
ラケットを放り出し、二人が両手を繋ぐ。ぐるぐる回りながら「ヒーハー!」と叫んでいる。本当に、仲がいい。
肉じゃが、コロッケ、とんかつ、ハンバーグ、とメニューを叫びながら回転する二人を笑って眺めていると、桜の花びらが落ちてきた。いつの間にかすっかり春だ。
季節が巡る。
〈おわり〉
インターホンを鳴らすと、玄関のドアが即座に開いた。
「ようこそ、いらっしゃいませ!」
「加賀さん、いらっしゃい!」
飛び出してきた大月を押しのけて、五月が顔を出す。
「二人とも久しぶり。ハワイぶり」
「ハワイぶりっすね」
「入って入って」
五月が腕を引く。大月がもう片方の腕を引く。
この時点で、何か違和感があった。二人とも笑顔だが、何かがおかしい。靴を脱いでリビングに通されると、心の中で首をかしげつつ、持っていた手土産を差し出した。
「あ、これ、プリン。五月ちゃん好きだったよね」
奇妙な間を置いてから、五月が小さな声で「ありがとう」と礼を言う。
「ん? あれ? 嫌いだっけ?」
「プリン……、うん、あたしプリン大好き。加賀さん、ありがとう。加賀さん大好き」
なぜか涙目だ。大月を見ると、気まずそうに目線を床に落としている。
なんなんだ? と思ったが、なんなんだ? と訊くのもためらわれた。
とにかく空気がぎこちない。首を撫でながら視線をさまよわせていると、コルクボードに目が留まる。
「お、写真」
部屋に入ってすぐの壁に、写真まみれのコルクボードがぶら下がっている。二人のツーショットよりも、なぜか俺の登場回数が多い。明らかにハルさんが撮ったであろう、背景をぼかした腕のいいポートレートまである。
「なんか俺ばっかじゃない?」
二人が同じ照れ笑いを浮かべた。
「毎日拝んでて、おかげで元気っす。この写真なんてほんと神かと」
「これ、あたしのイチオシの加賀さん!」
大月と五月が、同じ写真を指差した。ハッと顔を見合わせて、体ごと大げさに距離を取る。しん、と一瞬静まり返った。
「えーと、あー……、部屋、意外に整ってるね」
部屋の中を見回して、率直な感想を口にした。
二人暮らしにはちょうどいい広さのリビングダイニングキッチンだ。緑色のラグ、オレンジ色のカーテン、真っ赤なソファに柄物のクッションが置かれている。全体的に色が氾濫していて落ち着かない感じではあるが、整理整頓はされている。
「掃除はおもに俺がやってるんすよ。偉いでしょ」
大月が胸を張ると、五月が小さく舌打ちをして俺の体をソファに引っ張っていく。
「どうぞ、座って。このソファ、あたしが買ったんだよ。十五万円したの」
「お、おう、そうなんだ」
「あんっ、加賀さん赤似合う!」
「え、そう?」
「赤のソファにしてよかったあ」
「加賀さんは何色でも似合うと思うけどね」
大月が低い声で言った。五月は大月を振り返らずに、再び舌を打った。
最初の違和感は正しかったようだ。
どうやら二人は今、絶賛喧嘩中だ。
うちに遊びに来ませんか、と誘われたのは今月の始めの頃だった。大月は基本土日祝日も出勤していて、カレンダー通りの俺とは休みが合わない。珍しく土曜日に休みが取れたと大はしゃぎで連絡があった。喧嘩した状態で当日を迎えることになるとは、本人たちも予想していなかっただろう。
「加賀さん、ゲームしよ、ゲーム。ぷよぷよかスマブラか、どっちがいい?」
テレビボードからコントローラーを二つ取り出しながら、五月が言った。
「スマブラってなんだっけ」
「あっ、スマブラなら勝てそう。スマブラしよ」
「じゃあ俺は今からお昼ご飯作りますね。加賀さん、パスタ好きっすか、カルボナーラ」
「うん、ありがとう。大月君作れるんだ。やるじゃん」
「スマホでレシピ見ながらっす。掃除も料理も俺がやってるんすよ。家事はもう、ほとんど俺」
これ見よがしに鼻を鳴らし、大月が親指の先で自分の顔面を指差した。五月が悔しそうに「あたしだって!」と声を上げた。
「あたしだって全然やらないわけじゃないし、あたしはあたしなりにできることがんばってるもん」
「えー? がんばってるかなあ」
「がんばってるし!」
雲行きが怪しい。手のひらをそれぞれ五月と大月に向けた。
「まあまあ、一旦落ち着こう。喧嘩の原因は家事の分担?」
五月と大月がお互いから目を逸らしている。
「よし、ちょっと話聞こうか」
頭を掻いてそう言うと、五月がコントローラーを振り上げて、「聞いて!」と叫んだ。
「この人、あたしのプリン勝手に食べたんだよ! 滅多に買えない人気のやつ、昨日仕事帰りにコンビニでゲットして、お風呂上りに食べようとしたら、ないの!」
「だって冷蔵庫に一個しかなかったから、先に食べたのかな、俺のかなって思うじゃん」
「あんたの思考回路なんか知らん! 勝手に食べるその根性が気に食わん!」
「もうだから、ずっと謝ってんのに……、って感じなんすよ、加賀さん」
「ひどいよね、加賀さん!」
はあ、と息をついて両手で顔を覆った。
「よかった……」
つぶやくと、何が? と二人が声を揃える。
「なんかもっと深刻な喧嘩かと思った。プリンでよかった」
「プリンは深刻だよ?」
五月が俺の隣に腰かけて、コントローラーを手渡してくる。
「なんかそういうの、新婚とか同棲あるあるなんじゃない? 微笑ましくていいじゃん」
「そうっすよ、あるあるっすよね。何百回も謝ってるのにしつこいんすよ」
大月がエプロンを着けながらため息まじりに言った。尻に敷かれて言いなりになっているのかと思いきや、案外、大月も負けていないのだと感心した。
「しつこいとはなんだ!」
「いやもう本当にごめんなさい。でもさ、実家は冷蔵庫にスイーツ入れといたらほとんどお父さんが食べちゃうから早い者勝ちだって、食べたいなら名前書いとけって、自分で言ってたじゃん」
「はは、お父さん」
思わず笑ってしまった。五月が仏頂面で、ゲーム機の電源を入れる。
「お父さんいないから油断したんだもん。ねえ、じゃあ、加賀さんは? 七世が勝手に冷蔵庫のプリン食べたらどうする? 殺意湧くよね?」
「プリン食べたかったんだなあ、可愛いなあって思うけど」
「ダメだこりゃ!」
俺のとなりで五月がソファの肘掛けにうなだれた。
「俺が買ってきたプリンを倉知君が食べてくれたってだけでもう幸せだからなあ」
今度、知らん顔でプリンを一つだけ冷蔵庫に入れておこう。一体どういう反応をするだろう。想像するだけでワクワクする。
「加賀さん、さすがっす。ふところ深いっす。カッコイイっす」
大月が対面式のキッチンからしみじみとした口調でうなる。別に何もカッコよくはないのだが、五月が「全面同意」と夫に同調した。
「あ、飲み物、コーヒーと紅茶と麦茶、どれがいい?」
五月が腰を浮かして訊いた。
「じゃあ麦茶」
「はぁーい」
五月が立ち上がり、キッチンのほうに回り込む。大月の背後の冷蔵庫を開けると同時に、パシン、と音がした。よくは見えなかったが、五月が大月の尻だか背中だかを叩いたのだ。大月の顔は薄く笑っている。
ホッとした。プリン戦争は終結したらしい。
五月がセンターテーブルにグラスを二つ置くと、麦茶を注ぎながら思い出したように言った。
「七世トロいから、小さいころよくお父さんにプリン食べられて泣いてたっけ。それでお母さんがお父さんをめちゃくちゃ叱るっていういつものパターン」
胸を押さえ、天を仰ぐ。プリンを食べられて、泣くとか。愛しくてむずむずする。
「やべえ、可愛い。小さいころってフレーズがもう可愛い。小さい倉知君可愛い。プリン食べられて泣く倉知君可愛い」
コントローラーを胸に抱いてよしよししていると、五月がチベットスナギツネみたいな顔で俺を見ながら「加賀さん」と呼んだ。
「七世のどこがいいの?」
「全部」
「訊くまでもなかった。もー、スマブラしよ、スマブラ」
五月が俺のとなりに腰を下ろす。
「これって格ゲーっぽいやつ? なんか見たことはあるけど」
「やったことないんだ? よしっ、絶対加賀さんに勝てる! ついに勝てる!」
初心者をボコボコにして浮かれていた五月だが、俺は人一倍負けず嫌いだ。基本操作をマスターすれば、あとはもう感覚でコツをつかみ、大月がカルボナーラを完成させるころには勝ちを譲らなくなっていた。
「おかしいよね?」
五月がフォークにパスタを巻きつけながら、表情を曇らせる。
「加賀さん、実は初心者じゃないでしょ」
「いや、やったことないけど。意味がわかれば負けないかな。大月君、パスタ美味いよ」
「ありがとう……、ございます……」
大月が涙ぐみ、目元をぬぐう。
「推しに手料理を食べてもらえるなんて、こんな嬉しいことないっす。俺の作ったパスタが加賀さんの血となり肉となる……、つまり俺たちは一心同体ってことっすよね」
「めっちゃ飛躍するね」
「じゃあ、はいはい! 夜はあたしが作りたい。いや待てよ……、加賀さんの手料理食べたい、加賀さんの手料理食べたい、大事なことだから二回言った!」
「賛成っす、あっ、なんなら泊まってってください。来客用の布団あるし、川の字で……、もちろん加賀さんが真ん中で!」
「名案やんけ!」
わたわたと盛り上がった二人が、手を叩き合わせてキャッキャしている。
「加賀さん、泊まろう? どうせ七世は夜まで仕事でしょ? ねっ、ねっ」
「明日日曜だし、休みっすよね? ぜひ、ほんと、泊まっていってほしいなあ」
二人が目を輝かせ、鼻息を荒くし、身を乗り出して迫ってくる。
どうしてこの二人は、こんなにも俺のことが好きなのだろうか。結婚して落ち着けば、俺のことなんてどうでもよくなって静かになると思ったが、相変わらずだ。
ただのおっさんを、いつまで慕ってくれるだろう。
可愛い奴らめ。
自然と手が伸びた。二人の頭を順番に撫でる。
撫でられた、と抱き合って喜ぶ夫婦を眺めながらパスタを食べる。可愛いと思う。こうやって過ごす時間も悪くはない。ただそれとは別に、頭の中では「いつどのタイミングでおさらばしよう」と、帰ることを考えていた。
倉知の帰りが何時になるかはわからない。でも、ちゃんと出迎えてやりたい。おつかれさまと労いたい。あったかい料理を作って、笑顔で抱きしめたい。
そんなことを考えながらパスタを食べ終え、一時間ほどゲームをしたあと、二人の結婚式のアルバムを見せられた。
「はあ、披露宴楽しかったな。またやりたい。あたしったら、こんなに可愛いんだもん」
五月が頬杖をついてアルバムをめくる。集合写真が目に飛び込んできた。探すつもりはなくても、倉知の姿を一瞬で見つけてしまい、にこ、と微笑んだ。ブーケトスでゲットしたブーケを、大切そうに両手で持っている。可愛い。写真を撫でまわしたいのを我慢して、しみじみとつぶやいた。
「もうそろそろ一年経つんだな」
「早いっすよねえ」
「あっ、ねえ、バドミントンしよ!」
言うと同時に五月がすっくと立ち上がった。
「え、なんで急に? 今から?」
「今日無風だから絶好のバド日和っすよ」
大月が勢いよく飛び上がり、二人が俺の腕を引いた。アクティブというか、若いというか。近所の公園に引きずられ、おだやかな日差しの下、ラケットを振る。
めちゃくちゃ健全で、健康的な休日だ。雲一つない晴天。公園の桜が咲き誇り、肌に触れる空気が気持ちいい。
元来、インドアの人間ではあるが、こういうのも嫌いじゃない。というか、楽しい。
「加賀さん、上手い! 好き!」
汗だくになった五月が地面に大の字になり、叫ぶ。
「はるか昔にテニスやってたからね」
「カッコイイっす! しびれるっす!」
うわーうわーと声を上げる大月の後ろで、スケートボードを持った少年少女がこっちを見ている。ずっと、やけに見られている。いい歳をした大人がバドミントンに興じる姿が面白いのかもしれない。ニコニコして、いちいち拍手を送ってくれる。
「あ、なんかきた」
大月にラケットを渡し、ズボンの尻ポケットからスマホを出した。
「七世?」
五月が訊いた。画面を見下ろして、うん、とうなずいた。自動的に弾んだ声が出てしまった。代わりに大月の声は沈んでいた。
「やっぱ、泊まってってくれないすよね」
「手料理もなし?」
二人がしょんぼりと肩を落とす。
「すまん。でもほら、どうせ着替えもパンツもないし、またの機会にね」
パンツ! と二人が喜んでいる隙に、木陰に移動して腰を下ろし、返信を打つ。
パンツ、パンツ、と交互に声を掛け合い、ラリーを続ける二人に、スマホの画面を見ながら訊いた。
「夜、何食べたい?」
「えっ、夜っ?」
二人が声をハモらせた。
「倉知君、今からこっち来るって。一緒に買い物行って、材料仕入れて、アパート戻ろっか。大したもの作れないけど、何がいい? リクエストあればどうぞ」
ラケットを放り出し、二人が両手を繋ぐ。ぐるぐる回りながら「ヒーハー!」と叫んでいる。本当に、仲がいい。
肉じゃが、コロッケ、とんかつ、ハンバーグ、とメニューを叫びながら回転する二人を笑って眺めていると、桜の花びらが落ちてきた。いつの間にかすっかり春だ。
季節が巡る。
〈おわり〉
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