電車の男ー社会人編ー番外編

月世

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〈加賀編〉

 高橋が一人暮らしを始めておよそ半年が経過した。
 意外にも一向に音を上げず、むしろ以前より早く出社するようになった。たったそれだけのことだが、ようやく年相応の大人になった気がした。 
 ある日弁当を持参したときには、感動で目頭が熱くなった。
 弁当の中身は冷凍食品が目立ったが、便利で美味いし何も問題じゃない。あの高橋が、弁当を自作しようと思いついた時点で快挙だ。
「すげえ、ちゃんと弁当じゃん。やればできるじゃねえか」
 社食で弁当を広げる高橋を、手放しで褒めた。頭を撫でてやると、目を輝かせてウインナーを突きつけてきた。
「食べます?」
「いや、いらないけど」
「そうだ、じゃあ今度、主任を僕の部屋に招待しますね」
 醤油ラーメンをすすりながら、「ん?」と訊き返す。
「僕の手料理を振舞いますから。今度の土曜日にしようかな」
「有無を言わさねえな」
 ラーメンを飲み込むと、呆れて肩をすくめた。
「七世君と二人でぜひ。うわー、楽しみだなあ」
 そういうことになった。
 指定された土曜日の午後六時。倉知を連れて、高橋のアパートに向かった。チャイムを鳴らすと「しゅにーん」と中から声が聞こえた。
「開いてます、入ってくださーい、助けてー」
 高橋が喚いている。
「何か様子がおかしいですね」
 倉知が言った。
「高橋の様子がおかしいのはよくあることだが、確かになんか変だな」
「入りましょう」
 玄関のドアを開けると、カレーの匂いがした。手料理を振舞うと言われたときはどうしようと思ったが、カレーで助かった。
「うわー、あっ、あーっ」
 奥で高橋が騒いでいる。倉知と顔を見合わせて「お邪魔します」と声をハモらせ、靴を脱ぎ、部屋に上がる。
 廊下を抜けると、高橋が部屋の真ん中でこっちに背中を向けたまま、硬直していた。
「何してんの?」
「む、虫です、虫が体に止まったんですよぉ」
「げ、まさかG?」
「Gってなんです? てんとう虫です、Tですぅ」
「なんだよ、Tかよ」
「ふふ……」
 倉知が俺の背後で笑いを漏らす。
「つーか、部屋、めっちゃオシャレじゃん」
 一人暮らしには十分な広さのダイニングキッチンだ。床材はホワイト系で、家具がモノトーンで統一されている。真新しい匂いがするし、壁の白さが際立っている。
「新築?」
「そんなことより、Tをなんとかしてくださいよぉ」
「はいはい。どこ?」
「背中ですね。ここに」
 倉知が指先でそっとてんとう虫に触れる。人差し指にてんとう虫を乗り移らせると、慈悲にあふれた天使の微笑みを浮かべた。
「可愛いですね」
「本当にな」
 力強く同意する。
「今だっ、早く、そいつを外に」
 高橋が窓を開けて叫んだ。てんとう虫を外に逃がすと、高橋が大きなため息をついた。
「ああ、よかったぁ……。昨日からずっといるから引っ越そうかと思いました」
「はは、本気で言ってそう」
「本気ですよぉ。七世君、助けてくれてありがとう」
 高橋が倉知の手を握る。握ったままブンブン振って、倉知を見上げて言った。
「そして、今日は来てくれてありがとう」
「はい、こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」
「わあ、七世君の手、おっきいなぁ」
 高橋が、倉知の手をなかなか離さない。二人の手元を黙ってジッと見ていると、倉知が視線に気づき、「あの」と言った。
「カレー、いい匂いですね」
「あっ、そうそう、カレーだよ。七世君のカレーに負けないぞぉ。ここ、座ってください。今温めるから、待っててくださいね」
 ダイニングの椅子を引いて、二人で向かい合って腰を下ろす。
 倉知と見つめ合う。心の中でいろいろ言ってから、ニコ、とすると、ニコ、が返ってくる。
 ふ、と息をつき、改めて部屋の中を見回した。
 猫の形をした壁掛け時計、テレビボードの隅にアロマスティック、白いダイニングテーブルにネイビーのランチョンマット。これは高橋のセンスではない。
「一緒に住んでるんだっけ?」
 あえて「前畑と」を抜かして訊くと、キッチンカウンターの向こう側で高橋が「まだですよ」と答えた。
「でも土日は泊まっていくので、今は一緒に住む練習中って感じです」
 あっさりとそんなことを言った。一瞬冗談かなと思ったが、顔を見る限り、本気だ。
「プロポーズ、そろそろ大丈夫だと思いますか?」
 高橋に訊かれ、首を傾げた。
「どうだろ。わかんねえ」
 この二人に関しては、本当に読めない。
「テレビでほら、棒高跳び、二人でやりましたよね。もう一回テレビに出て、プロポーズやり直したいなあ」
「走り高跳びな」
 訂正を入れると、高橋が「そうでした」と笑って、トレイを持ってこっちに来た。
「お待たせしました。これは前菜の彩りサラダです」
 ランチョンマットの上にサラダが並ぶと、倉知が「すごい」と褒めた。
「お店のサラダみたいですね」
「はい、コンビニのサラダです」
「お、おう、ごまかさないんだ」
 自分の手柄にしないところは潔くていいと思う。
「だって、キャベツの千切りできないんですもん。とりあえず、カレーが温まるまでサラダ食べててください」
 言われるまま、もそもそと二人でサラダを食す。この状況が何かちょっとおかしくなってきた。口の端をピクピクさせていると、倉知が控えめに「あの」と言った。
「走り高跳びって?」
「うん、ハイジャン」
「加賀さんの得意技ですよね」
「いや待って、そうだっけ? 高校んときやってたってだけだからね」
「テレビに出たんですか? いつ? 高橋さんと二人で? 走り高跳びをテレビでやったってことですか? それ、どういう状況ですか?」
 まずい、倉知が拗ねている。畳みかけるように質問を重ねてくる。
「あー、言ってなかったっけ。素人参加のコーナーに出てくれないかって、仕事中に声掛けられたんだよ。そしたら高橋がやるってノリノリで」
 キッチンカウンターの向こうで、カレーを掻き混ぜながら高橋が天を仰ぐ。
「懐かしいなあ、随分前ですよねぇ。ジャンプに成功したらテレビで公開プロポーズしてもいいって言われて、でも僕、失敗したんですよね。そしたら主任が、リベンジしてくれて……、主任が飛ぶ姿、カッコよかったなぁ」
 倉知は、一体なんのことかまったくわからないがとにかく加賀さんが走り高跳びをしているところを俺も見たかった、という顔をしている。
「加賀さんが走り高跳びしてるとこ、俺も見たかった」
 静かにフォークを置いて、悲しそうな顔で倉知が言った。
「うん、でも、生放送だったからね」
「テレビということは、全国に加賀さんが、加賀さんの美しさが、見つかってしまったってことですよね……」
「いや、ローカル番組だから」
「仕事中だったんですよね? じゃあ、スーツで飛んだんですか?」
「そう、スーツと革靴」
 倉知が黙った。
「七世君」
 うつむいてサラダを凝視している倉知を、高橋が呼んだ。
「見たかったらあげようか」
 倉知が勢いよく高橋を見る。
「何、録画してたの?」
 訊くと、高橋が誇らしそうに胸を張った。
「お母さんが欠かさず観てる番組なんです。僕が出てたから咄嗟に録画してくれたんですけど、ダビングしたDVD親戚中に配ったりして大変でしたよぉ」
 倉知が素早く立ち上がり、高橋に向かって深々と頭を下げた。
「いくらでも出しますので、どうか、よろしくお願いします」
「そんなそんな、いいよぉ。今度主任にDVD渡すから、受け取ってね」
「ありがとうございます……っ、なんとお礼を言っていいかわかりません……、本当に、ありがとうございます……!」
 めちゃくちゃ感激している。ほとんど泣き声だ。なんだかわからないが、可愛い。必死なのが可愛い。健気で可愛い。
 たまんねえな、とうっとりしていると、玄関のほうから物音が聞こえた。ドアが開く音と、ガサガサというビニール袋の音。
「あ、カレーの匂いだ」
 前畑の声だ。そういえば、今日俺たちが来ることを伝えてあったのだろうか。高橋を見ると、どうやら忘れていたらしい顔をしている。
「ちょっとー、カレー作ったの? えらーい、褒めてあげるぅ、なでなでしてあげるーぅ」
 酔っているのかというほど、甘えた声が響いてくる。前畑だと思えない。いや、前畑の、高橋に対する発言だと思えない。どうやらまずいところに出くわしてしまったようだ。
「ねぇー、ハーゲンダッツ安かったから爆買いしちゃって、冷蔵庫開いてる……、あれ、これ誰の靴?」
 三人で、顔を見合わせた。
 俺は黙って人差し指を唇に当てると、腰を上げ、玄関に向かった。
「……ヒッ、加賀君!?」
「こんばんは。お邪魔してます」
「え、なんで、やだ、えっ、待って、うそ、今の、聞こえてた?」
「今のって? 何も?」
 前畑の顔が、強張った表情からホッとした表情に変わった瞬間、背後から高橋の声が言った。
「前畑さーん、冷蔵庫開いてますよー」
「聞こえてるじゃない!」
「いや、うん、ごめん、めちゃくちゃ聞こえてた」
「やだやだ、お願い嘘でしょ、あっ、この大きい靴、もしかして七世君?」
 顔面蒼白の前畑が、俺の背後を見て息を呑む。振り返ると、倉知が申し訳なさそうに頭を下げた。
「こんばんは。あの、大丈夫です」
 はにかむ倉知を見て、前畑が悲鳴を上げた。玄関のドアにぶつかって、ガチャガチャと慌ただしく外に飛び出していった。
 バタン、とドアが閉まる。
「あれ、前畑さん、出て行っちゃった? ハーゲンダッツは?」
「ちょっと、見てくるわ」
 靴を履いてドアを開けると、真横に前畑がうずくまっていた。ドアを閉めて、隣にしゃがみ込む。
「わかるよ、あいつの頭、撫でたくなるよな。ちょっとの成長が嬉しくて、褒めてやりたくなるのもわかる。俺もよくやるよ」
「下手な慰めはよして……」
 ぷい、と顔を背けた前畑の声はかすれて弱々しい。
 普段、前畑は高橋に手厳しい。最初からずっとブレずにそうだ。心配もあったが、二人だけのときはちゃんと甘やかしていることがわかって安心した。
 でも、それを隠しておきたい気持ちもわかる。
「別に、からかわないし誰にも言わないよ」
「……加賀君はそんなことしないって、わかってる。でも、加賀君には聞かれたくなかったの」
「うん、じゃあ、忘れるから」
 前畑は答えない。膝を抱え、あっちを向いたままだ。
「よし、戻るか」
 腰を上げ、ドアノブに手をかける。
「一緒にカレー食おうよ。倉知君のカレーに負けないんだって。それすげえよな」
 前畑が顔を上げて俺を見た。
「何それ、あいつ、バカなんだから……」
 つぶやいて、立ち上がり、フン、と鼻を鳴らした。
「もう、自分でハードル上げてどうするのよ」
 調子が戻った前畑を見て、ドアを開けた。玄関に入ると、カレーの匂い。
「ただいまー、腹減ったー」
 おかえりなさい、と奥から二人の声が返ってくる。
「加賀君、ありがと」
 背中で前畑が言った。
 何が、とはあえて訊かないし、前畑も、言わない。うん、とだけ答えた。
 ドアが、ゆっくりと閉まる。

〈おわり〉
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