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38 退院ですか?
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二週間ちょっとで富士子は退院となった。食事指導を受けて「入院中に6キロ痩せたのよ。保つわ!」と意気込んでいたが、多分、いや絶対に直ぐに断念する。
帰りの車中、市役所へ寄りたいと言う。
「何しに行くの?」
「障害者手帳取りに行くのよー」
「えっ、お袋障害者になったの?」
「そう。ETC割引になるから取っておくわ」
心臓にペースメーカーを入れている人が障害者手帳を持っているのは分かるが、心臓弁膜症も対象?そんなに大事なのか?と洋介は首を傾げた。
最初に富士子から聞いた「手術、受けなくても良いんだけど」という言葉が頭にあるせいか、未だに大病とは思えない。
「なんか、心臓弁膜症で障害者手帳って違和感」
「なるのよー。見て」
と、富士子は助手席から病院で貰ったプリントを突き付けてくる。常識的に考えれば運転中の洋介が資料を読めるはずもないのだが、退院してテンションが高い富士子はそんな事はお構いなしで、ここに書いてある見て見てと指差す。
「分かった。分かったから、後で見せて。今は運転中だから」
辟易しながら片手で押し止めると、富士子は洋介に見せるのは諦めたが、自分で読み上げ始めた。
「まあ、今更確認しなくても内容は分かってるんだけどね。ほら、あたし、手話通訳で、聾の人も障害者手帳持ってるから知ってたし。映画も割引になるのよ。まあ私は60歳以上だから、とっくに老人割引になってるし、関係ないけど。電車とかも安くなるのよ。でもそれもお父さんと一緒に作った65歳以上だと電車代が割引になるクレジットカードあるし。あと、美術館とか博物館とかも無料よ」
「美術館はお母さんには関係ないだろう」
後部座席の平介がちゃちゃを入れてくる。
「関係ありますよー。真一君と行くもの。付添一名無料になるから二人で行けばお得よ」
「へえ、色々割引あるんだ。いいじゃない」
「そういう目で見れば、そうだけどねー」
富士子がどこか含みを持たせた言い方をする。まあ、洋介だって分かっている。能天気に割引いいねと思っている訳ではないが、他に言葉が思い付かなかったのだ。
「あと、病院もタダになるし、障害者年金も出るし」
「今回の入院したお金は?」
「それはこれから手続きする」
「そうなんだ」
「うん」
「じゃあ、時間かかりそうだな」
「そうでもないわよ。今日は手帳の申請だけだし。病院で全部貰って来たし。あ、でも手話通訳の友達にも会いたいの。退院したってメールしたら、今日は市役所にいるからって」
数年前、市役所の受付に手話通訳者が待機するようになった。
富士子も一、二年勤務していた事がある。手話通訳者は基本的に自宅待機で依頼が来たら現地に赴く。場所も時間も依頼によって変わる。その点、市役所勤務は市役所のオープン時間と同じだから朝から晩迄、会社勤務みたいで新鮮、お弁当持って行くのよと楽しそうに通っていたっけ。
そう言えば、まだその頃洋介は東京で働いていた。だから、数年前、じゃなくて結構前か……。
「一人しかいないから、誰か来てたら友達いないと思うけど、居たらちょっとだけ挨拶して来たい」
通訳者センターから市役所に派遣されている手話通訳者は一人。
市役所は最近建て直されて大きくなった。前は10階建て位の古い建物が一つだったのが、新しく新館が出来て更に広くなった。東京に住んでいた時に区役所に行った事は何度かあるが、それと比べてもかなりうちの市の市役所は大きい。そこに一日に何人の市民が市役所に来て、その内何人が聾者なのか分からないが、たった一人しか通訳者がいないのは流石に少ない気がする。が、富士子に言わせると「一人でもいるだけで、前よりはずっと良くなったのよ」だそうだ。
まあ兎に角、そんな状況だから、受付に行っても富士子の友達が仕事中で席を外している可能性は高いという意味だ。
「お母さんのちょっとは、ちょっとじゃないからな」
平介が嫌味を言う。確かに富士子のちょっとは長引く。特に友達との話は長い。
「今日は本当にちょっとよう。まだ本調子じゃないもの」
「心配だ。洋介、ついて行ってあげなさい」
「えっ、俺ぇ?」
嫌だというのが声にも顔に出てしまう。市役所には中学の同級生が勤めているし、それ以外の知り合いにも会いそうで嫌だ。
何より富士子の手話通訳仲間に挨拶しなければならないのがきつい。退院したての母親は心配だが、引きこもり無職として誰にも会いたくない気持ちの方が強い。
「んー、洋ちゃん嫌なら離れてていいから。途中迄はついて来て欲しい」
平介も洋介もそういうのが苦手なのは富士子も分かっている。申し訳なさそうにしながらも、付いてきてなどと言うからには、富士子にも不安があるのだろう。仕方ない。
「分かった。けど、遠くからでも俺に挨拶させようとすんなよ」
過去の経験が蘇る。
引きこもる前、学生時代とか就職中のたまの帰省、スーパーの駐車場とかで富士子の知り合いにばったり出くわした時。近寄らないように離れていても富士子は「ちょっと、ちょっと来て」と呼びつけるのだ。話している内に興が乗って、実は息子が近くにいると言ってしまうらしい。どんなに嫌だと事前に念押しておいても、ごめんねと口では謝りつつも嬉し気に呼びつけるのだ。
若い頃なら、愛想が悪くても許された。無愛想に遠くで会釈するだけでも、おばさん達はキャーキャー喜んだ。けど、流石に今の年でそれは許されない。一般的には結婚して子供もいる歳だ。ちゃんと「母がいつもお世話になっております」とか挨拶しないと駄目だろう。けど、今だからこそ挨拶したくない。
ジト目で見ると、富士子は「大丈夫よう。直ぐ終わるから」と請け合ったが、怪しいもんだと洋介はため息つきたくなった。
帰りの車中、市役所へ寄りたいと言う。
「何しに行くの?」
「障害者手帳取りに行くのよー」
「えっ、お袋障害者になったの?」
「そう。ETC割引になるから取っておくわ」
心臓にペースメーカーを入れている人が障害者手帳を持っているのは分かるが、心臓弁膜症も対象?そんなに大事なのか?と洋介は首を傾げた。
最初に富士子から聞いた「手術、受けなくても良いんだけど」という言葉が頭にあるせいか、未だに大病とは思えない。
「なんか、心臓弁膜症で障害者手帳って違和感」
「なるのよー。見て」
と、富士子は助手席から病院で貰ったプリントを突き付けてくる。常識的に考えれば運転中の洋介が資料を読めるはずもないのだが、退院してテンションが高い富士子はそんな事はお構いなしで、ここに書いてある見て見てと指差す。
「分かった。分かったから、後で見せて。今は運転中だから」
辟易しながら片手で押し止めると、富士子は洋介に見せるのは諦めたが、自分で読み上げ始めた。
「まあ、今更確認しなくても内容は分かってるんだけどね。ほら、あたし、手話通訳で、聾の人も障害者手帳持ってるから知ってたし。映画も割引になるのよ。まあ私は60歳以上だから、とっくに老人割引になってるし、関係ないけど。電車とかも安くなるのよ。でもそれもお父さんと一緒に作った65歳以上だと電車代が割引になるクレジットカードあるし。あと、美術館とか博物館とかも無料よ」
「美術館はお母さんには関係ないだろう」
後部座席の平介がちゃちゃを入れてくる。
「関係ありますよー。真一君と行くもの。付添一名無料になるから二人で行けばお得よ」
「へえ、色々割引あるんだ。いいじゃない」
「そういう目で見れば、そうだけどねー」
富士子がどこか含みを持たせた言い方をする。まあ、洋介だって分かっている。能天気に割引いいねと思っている訳ではないが、他に言葉が思い付かなかったのだ。
「あと、病院もタダになるし、障害者年金も出るし」
「今回の入院したお金は?」
「それはこれから手続きする」
「そうなんだ」
「うん」
「じゃあ、時間かかりそうだな」
「そうでもないわよ。今日は手帳の申請だけだし。病院で全部貰って来たし。あ、でも手話通訳の友達にも会いたいの。退院したってメールしたら、今日は市役所にいるからって」
数年前、市役所の受付に手話通訳者が待機するようになった。
富士子も一、二年勤務していた事がある。手話通訳者は基本的に自宅待機で依頼が来たら現地に赴く。場所も時間も依頼によって変わる。その点、市役所勤務は市役所のオープン時間と同じだから朝から晩迄、会社勤務みたいで新鮮、お弁当持って行くのよと楽しそうに通っていたっけ。
そう言えば、まだその頃洋介は東京で働いていた。だから、数年前、じゃなくて結構前か……。
「一人しかいないから、誰か来てたら友達いないと思うけど、居たらちょっとだけ挨拶して来たい」
通訳者センターから市役所に派遣されている手話通訳者は一人。
市役所は最近建て直されて大きくなった。前は10階建て位の古い建物が一つだったのが、新しく新館が出来て更に広くなった。東京に住んでいた時に区役所に行った事は何度かあるが、それと比べてもかなりうちの市の市役所は大きい。そこに一日に何人の市民が市役所に来て、その内何人が聾者なのか分からないが、たった一人しか通訳者がいないのは流石に少ない気がする。が、富士子に言わせると「一人でもいるだけで、前よりはずっと良くなったのよ」だそうだ。
まあ兎に角、そんな状況だから、受付に行っても富士子の友達が仕事中で席を外している可能性は高いという意味だ。
「お母さんのちょっとは、ちょっとじゃないからな」
平介が嫌味を言う。確かに富士子のちょっとは長引く。特に友達との話は長い。
「今日は本当にちょっとよう。まだ本調子じゃないもの」
「心配だ。洋介、ついて行ってあげなさい」
「えっ、俺ぇ?」
嫌だというのが声にも顔に出てしまう。市役所には中学の同級生が勤めているし、それ以外の知り合いにも会いそうで嫌だ。
何より富士子の手話通訳仲間に挨拶しなければならないのがきつい。退院したての母親は心配だが、引きこもり無職として誰にも会いたくない気持ちの方が強い。
「んー、洋ちゃん嫌なら離れてていいから。途中迄はついて来て欲しい」
平介も洋介もそういうのが苦手なのは富士子も分かっている。申し訳なさそうにしながらも、付いてきてなどと言うからには、富士子にも不安があるのだろう。仕方ない。
「分かった。けど、遠くからでも俺に挨拶させようとすんなよ」
過去の経験が蘇る。
引きこもる前、学生時代とか就職中のたまの帰省、スーパーの駐車場とかで富士子の知り合いにばったり出くわした時。近寄らないように離れていても富士子は「ちょっと、ちょっと来て」と呼びつけるのだ。話している内に興が乗って、実は息子が近くにいると言ってしまうらしい。どんなに嫌だと事前に念押しておいても、ごめんねと口では謝りつつも嬉し気に呼びつけるのだ。
若い頃なら、愛想が悪くても許された。無愛想に遠くで会釈するだけでも、おばさん達はキャーキャー喜んだ。けど、流石に今の年でそれは許されない。一般的には結婚して子供もいる歳だ。ちゃんと「母がいつもお世話になっております」とか挨拶しないと駄目だろう。けど、今だからこそ挨拶したくない。
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