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一章 死の王
第9話 帰れない庭〈後編 彼が護る箱庭〉
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執務室の扉が遠慮がちにノックされた後、ひょっこりと顔を出したのはエマだった。
カイムはその顔へ、いつも通り微笑み掛けると、入室を促した。
エマの顔を見て、内心動揺している自分がいることに驚いた。エマを置き去りにして、王と交渉してしまったのだ。そして、今現在、オルスタッド等の救出部隊として王が仲間となり、ジェイドと共に奔走している。エマがその事実を知ったらどう思うだろうか。
ジェイドの言葉――エマはもう子供ではない――その言葉を思い出してしまった。だが、カイムにとっては、今も変わらず十歳のエマちゃんのままであることは、どうしようもなく変えられない認識だった。
それはカイムの甘えでもあるのだろう。
エマは過去の出来事から、双生児と戦う事を強く望んでいる。だというのに、カイムはそれを親心に似た何かで遠ざけようとしているのだ。エマは、カイムや猟犬達に近過ぎる。本来なら彼女も、望むならばヘルレアと会う権利があった。カイムの手心はエマにとってはいい迷惑だろう。しかし、カイムは出来るなら、彼女が知らないところで全てを終わらせたいと願っている。
「ごめんなさい、忙しかったかしら」
「いや、猟犬が動いているから、暇で暇で……丁度、手が空いていたよ。ご苦労だったなエマ。あの蔵書量から目的の本を探すのは、ジグソーパズルのピースを探すみたいだったんじゃないかな。しばらくの間は休んでくれていいから」
「確かにそうね。量もそうだけど、私には本自体が難しくて、探すのが本当に大変だった。もう、書棚を行ったり来たりで昇降運動をして、いいダイエットになったわ」
「そんな、エマはそれ以上痩せなくてもいいよ――父の本もあるから、随分古いものばかりなんだ。すまないな。まあ、本当を言えば、僕の知らない歴代血縁者の所有物も多くて、自分でも把握し切れないんだけど。エマには随分酷い仕事を押し付けてしまったね」
「初めて書斎へ入った時の感想が、図書館みたいだもの。そう、お父様の本もあるのね。カイムのお役に立ててよかった」
「大助かりだ。最近は猟犬の棲家を離れられずにいるから。自分では中々本を取りに行けないからね。仕事で目を通しておきたい本もあるから、エマのおかげで手元に置けてよかったよ」
「あの、ところでオルスタッドはもう、任務から帰って来たのかしら。探しても居ないのだけど」
「……オルスタッド、何故?」
「彼に辞書を色々と借りて行ったの。私、事前にカイムへ確認したでしょう? 漠然とだけど、外国語の本について、どのくらい探す内に含まれていて、どれだけ知識があればいいか。私には難しくって、外国語が読めないだろうからと思って。それで、当たりを付けて借りた辞書を、オルスタッドへ返さないといけないの」
「そういえば、話していたね。でも悪いけど、オルスタッドには任務を継続してもらってる。しばらく帰ってこないだろう。期限もこうと言えない」
「分かったわ。じゃあ帰って来たら教えてね。オルスタッドったら、いろんな言語の辞書を持っているのよ。珍しい東方の島国の辞書を見せてもらったんだけど、絵のような文字だった」
「オルスタッドは変わった趣味を持っているからね。このステルスハウンドの中でも、特に変わり者かもしれない。何せ自分から猟犬を探し出して、入って来たくらいだ」
自らの実力だけで影に這い上がった――あるいは、堕ちた――彼は、たった一人で双生児との接触もなしに、その存在を嗅ぎ当てた。深い水底から下僕を送り出す怪物の王が、わずかに残す足跡のみを辿り、ノヴェクを最後の足掛かりとして世界の真実、その一片を知ったのだ。
だからこそオルスタッドの身に何か起こるとすれば、尋常ならざる出来事なのだろうと気を揉まざるおえない。
「そういえば、そうね。オルスタッドがステルスハウンドに入って来た時、変わった理由で来た人だなと思ったわ」
「まあ、確かに、変わり種だな……でも、いい兵士だよ」
「カイムの側へ居る兵士は、皆、良い人ね」
「そうだね……皆、良い人だ」苦いものが拭えなかったが、悟られないように薄く笑む。
対話でカイムの本心が判る者など、ほぼいないだろう。あるいはジェイドならばとも思うが、彼が主人の本心を知ろうが知るまいが、カイムに取ってそれ程意味は無い。
「あのね、カイム。改めて言うのも何だか変だし、照れちゃうけど、私はここで生まれて良かったと思っているの……後悔も多いけれど、皆に、カイムに会えたのだもの」
「それを言ってもらえると、僕がここに座り続けることが許されているのだと思える」カイムは無意識に瞼を伏せ、微かに笑む。
「カイム?」
「この席はね、誰か一人の為に約束されるものではないんだ。人の為に……そうだね、エマの為にでもある、こうして何の気兼ねも無しに笑える時間を作れる者だけが、座ることを許されるんだ。たとえ、どんなに力を持っていても、相応しくなければ力を失う――僕はここに居られなくなる」
「カイムはあのお屋敷へ帰るの?」
カイムは首を小さく振って穏やかに笑う。
「僕にもいつか帰る場所がある。でも、あの家ではないよ」
「……会えなくなってしまうの?」
電子端末からの着信音が鳴った。カイムはエマに断わってメールを見る。
「エマ、ごめん。少し出て来る。夕方までには戻れると思うけど……早く帰れたら一緒に食事でもしようか」
「ええ、嬉しい。お仕事の邪魔してごめんなさい。また、何か用があったら呼んで……あのね、カイム」
「どうしたんだ?」
「そう、そうだわ、鍵を返すのを忘れてたの」
「ああ、いつでもいいよ」
エマは何か別の事を言い掛けていた。誤魔化したようだったが追求するは止めておく。
鍵を握ったままのエマは、まだ何か言いたげにしているが――いってらっしゃい――と変わらずに手を振った。
カイムが執務室から出て、秘書室を通り廊下へ出ると、〈影の猟犬〉を補助する〈雑用〉のアストラル・ゼメキスがカイムの側へ付いた。
かなり大柄な男の猟犬で、カイムより身長が高い。彼はまだ二十代だがジェイドに似たゴツさがあり、些か老けて見えた。漆黒の短い髪は髪質が良いのだが、両サイド刈り上げていているので、その良さを食っている。普段彼はステルスハウンドの制服、その常装を好んで身に着けているが、今は作業着の迷彩服で、背筋を正して主人を出迎えたのだった。
「……ああ、アトラス、ついに君も駆り出されたか」
「影が全員出払っているので、順当だと思われます。お護りいたしますので同行のお許しを」
「誰が来るものかと思ったけれど――よろしい、許すーッ」カイムはアトラスの頰を摘んでびよーんと伸ばす。
「なんれしょうこれあ」
「チェスカルも笑わないけど……あれは偏屈だからか。君も十分笑わないよね、シドの方は本物の堅物だけど、君はどちらかと言えば笑わないジェイドって感じかな」
「へふかるふふ隊長へほうほふひへほひまふ」
……チェスカル副隊長へ報告しておきます。
「あ、やっぱり中身もジェイドかな」カイムは破顔して、アトラスの頰を優しくペチペチ叩く。
「――行こう、仕事だ。誰にもあの椅子は座らせない」
アトラスが目を瞑ると、薄く笑んだのを感じた。
執務室の扉が遠慮がちにノックされた後、ひょっこりと顔を出したのはエマだった。
カイムはその顔へ、いつも通り微笑み掛けると、入室を促した。
エマの顔を見て、内心動揺している自分がいることに驚いた。エマを置き去りにして、王と交渉してしまったのだ。そして、今現在、オルスタッド等の救出部隊として王が仲間となり、ジェイドと共に奔走している。エマがその事実を知ったらどう思うだろうか。
ジェイドの言葉――エマはもう子供ではない――その言葉を思い出してしまった。だが、カイムにとっては、今も変わらず十歳のエマちゃんのままであることは、どうしようもなく変えられない認識だった。
それはカイムの甘えでもあるのだろう。
エマは過去の出来事から、双生児と戦う事を強く望んでいる。だというのに、カイムはそれを親心に似た何かで遠ざけようとしているのだ。エマは、カイムや猟犬達に近過ぎる。本来なら彼女も、望むならばヘルレアと会う権利があった。カイムの手心はエマにとってはいい迷惑だろう。しかし、カイムは出来るなら、彼女が知らないところで全てを終わらせたいと願っている。
「ごめんなさい、忙しかったかしら」
「いや、猟犬が動いているから、暇で暇で……丁度、手が空いていたよ。ご苦労だったなエマ。あの蔵書量から目的の本を探すのは、ジグソーパズルのピースを探すみたいだったんじゃないかな。しばらくの間は休んでくれていいから」
「確かにそうね。量もそうだけど、私には本自体が難しくて、探すのが本当に大変だった。もう、書棚を行ったり来たりで昇降運動をして、いいダイエットになったわ」
「そんな、エマはそれ以上痩せなくてもいいよ――父の本もあるから、随分古いものばかりなんだ。すまないな。まあ、本当を言えば、僕の知らない歴代血縁者の所有物も多くて、自分でも把握し切れないんだけど。エマには随分酷い仕事を押し付けてしまったね」
「初めて書斎へ入った時の感想が、図書館みたいだもの。そう、お父様の本もあるのね。カイムのお役に立ててよかった」
「大助かりだ。最近は猟犬の棲家を離れられずにいるから。自分では中々本を取りに行けないからね。仕事で目を通しておきたい本もあるから、エマのおかげで手元に置けてよかったよ」
「あの、ところでオルスタッドはもう、任務から帰って来たのかしら。探しても居ないのだけど」
「……オルスタッド、何故?」
「彼に辞書を色々と借りて行ったの。私、事前にカイムへ確認したでしょう? 漠然とだけど、外国語の本について、どのくらい探す内に含まれていて、どれだけ知識があればいいか。私には難しくって、外国語が読めないだろうからと思って。それで、当たりを付けて借りた辞書を、オルスタッドへ返さないといけないの」
「そういえば、話していたね。でも悪いけど、オルスタッドには任務を継続してもらってる。しばらく帰ってこないだろう。期限もこうと言えない」
「分かったわ。じゃあ帰って来たら教えてね。オルスタッドったら、いろんな言語の辞書を持っているのよ。珍しい東方の島国の辞書を見せてもらったんだけど、絵のような文字だった」
「オルスタッドは変わった趣味を持っているからね。このステルスハウンドの中でも、特に変わり者かもしれない。何せ自分から猟犬を探し出して、入って来たくらいだ」
自らの実力だけで影に這い上がった――あるいは、堕ちた――彼は、たった一人で双生児との接触もなしに、その存在を嗅ぎ当てた。深い水底から下僕を送り出す怪物の王が、わずかに残す足跡のみを辿り、ノヴェクを最後の足掛かりとして世界の真実、その一片を知ったのだ。
だからこそオルスタッドの身に何か起こるとすれば、尋常ならざる出来事なのだろうと気を揉まざるおえない。
「そういえば、そうね。オルスタッドがステルスハウンドに入って来た時、変わった理由で来た人だなと思ったわ」
「まあ、確かに、変わり種だな……でも、いい兵士だよ」
「カイムの側へ居る兵士は、皆、良い人ね」
「そうだね……皆、良い人だ」苦いものが拭えなかったが、悟られないように薄く笑む。
対話でカイムの本心が判る者など、ほぼいないだろう。あるいはジェイドならばとも思うが、彼が主人の本心を知ろうが知るまいが、カイムに取ってそれ程意味は無い。
「あのね、カイム。改めて言うのも何だか変だし、照れちゃうけど、私はここで生まれて良かったと思っているの……後悔も多いけれど、皆に、カイムに会えたのだもの」
「それを言ってもらえると、僕がここに座り続けることが許されているのだと思える」カイムは無意識に瞼を伏せ、微かに笑む。
「カイム?」
「この席はね、誰か一人の為に約束されるものではないんだ。人の為に……そうだね、エマの為にでもある、こうして何の気兼ねも無しに笑える時間を作れる者だけが、座ることを許されるんだ。たとえ、どんなに力を持っていても、相応しくなければ力を失う――僕はここに居られなくなる」
「カイムはあのお屋敷へ帰るの?」
カイムは首を小さく振って穏やかに笑う。
「僕にもいつか帰る場所がある。でも、あの家ではないよ」
「……会えなくなってしまうの?」
電子端末からの着信音が鳴った。カイムはエマに断わってメールを見る。
「エマ、ごめん。少し出て来る。夕方までには戻れると思うけど……早く帰れたら一緒に食事でもしようか」
「ええ、嬉しい。お仕事の邪魔してごめんなさい。また、何か用があったら呼んで……あのね、カイム」
「どうしたんだ?」
「そう、そうだわ、鍵を返すのを忘れてたの」
「ああ、いつでもいいよ」
エマは何か別の事を言い掛けていた。誤魔化したようだったが追求するは止めておく。
鍵を握ったままのエマは、まだ何か言いたげにしているが――いってらっしゃい――と変わらずに手を振った。
カイムが執務室から出て、秘書室を通り廊下へ出ると、〈影の猟犬〉を補助する〈雑用〉のアストラル・ゼメキスがカイムの側へ付いた。
かなり大柄な男の猟犬で、カイムより身長が高い。彼はまだ二十代だがジェイドに似たゴツさがあり、些か老けて見えた。漆黒の短い髪は髪質が良いのだが、両サイド刈り上げていているので、その良さを食っている。普段彼はステルスハウンドの制服、その常装を好んで身に着けているが、今は作業着の迷彩服で、背筋を正して主人を出迎えたのだった。
「……ああ、アトラス、ついに君も駆り出されたか」
「影が全員出払っているので、順当だと思われます。お護りいたしますので同行のお許しを」
「誰が来るものかと思ったけれど――よろしい、許すーッ」カイムはアトラスの頰を摘んでびよーんと伸ばす。
「なんれしょうこれあ」
「チェスカルも笑わないけど……あれは偏屈だからか。君も十分笑わないよね、シドの方は本物の堅物だけど、君はどちらかと言えば笑わないジェイドって感じかな」
「へふかるふふ隊長へほうほふひへほひまふ」
……チェスカル副隊長へ報告しておきます。
「あ、やっぱり中身もジェイドかな」カイムは破顔して、アトラスの頰を優しくペチペチ叩く。
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