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一章 死の王
第28話 あなたを守るもの〈後編 伏せられた瞳〉
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コニエルはいったい何をしたというのだろう。それとも何かを見たのだろうか。
エマが館に居ない間に何があったのだろう。友人のエルヴィラはコニエルが怯えている素振りをみせていたという。あの重武装の要塞のような館で、何を怯える必要があるのか。
エマはカイムの秘書でしかないが、コニエルが何か誤りを犯したならば、それでも問いたださなければならない。
カイムの為にならないことは処理しなくては。でもそれは、カイムがコニエルの事情を知らなかった場合だが。カイムに何かを問うたとしても直接的では意味がない。でないと、余計に隠されてしまう。なるべくコニエルの名前を出さずに、それとなく探りをいれてみる方がいいだろう。
エマはマツダを手伝って茶器の片付けをしている。廊下をマツダの後ろに付いて歩いていた。
「エマさん、もうカイム様のところへ戻っても構いませんよ」
「マツダさん一人だと大変ではありませんか。トレー二つ分ですよ」
「いえいえ、この爺にお任せください。カイム様と何かお話したい事があるのではありませんか」
エマは思わず口元を押さえてしまった。
「マツダさんは何でもお見通しね」
「それはあなたが、こんなに小さな時から一緒なのですから」
マツダが手で赤ん坊を抱くような素振りをした。エマは小さな笑いが漏れて、鼻がくすぐったくなった。
茶器類をマツダに任せると、エマはカイムのいる執務室へ廊下を急いだ。
マツダとはカイムと同じくらい付き合いが長い。エマはこの館で生まれ育ったのだから。エマに取ってマツダは本当に祖父がいたら、このような人なのだろうな、という指標だった。エマには父母双方の祖父母がいなかったので一番身近な老人がマツダだったのだ。
皆が本当に血の繋がった家族ならと、何度考えたことか。
しかし、それ以上に別の深い絆を感じているのも確かだ。常に怪物と生死をやり取りする過酷な環境で、何より強固な連帯感が生まれている。皆一様に双生児を命懸けで追い続け、綺士や使徒を殲滅しようとしているのだ。これはステルスハウンドの使命なのだという。しかし、使命だからと言われて組織に居続ける人間はいない。皆、それぞれの目的と意志で猟犬として居続ける。
――そして、私も。
銃を持つことは出来ないが、銃を持ち命懸けで戦う戦闘員の支えになることは出来る。だからこそ、こうして組織に居るのだ。
これからしようとしている事は、エマがステルスハウンドの一猟犬として、カイム等と向き合えるかどうかの話になるかもしれない。もし全てを隠され続けてるというならば、エマはまだ猟犬ですらない。
執務室の扉をノックして顔を覗かせると、カイムは既に書類仕事をしていた。
「エマはそのまま部屋に戻ったのかと思ったよ」
「ごめんなさいお邪魔して。少しお話がしたくて。けど、そんなに急ぎじゃないからまた今度」
「いや、いいよ構わない。下からの報告だから危急を要するってわけではないから」
カイムは書類を机の脇へまとめてからエマを見た。いつも通りカイムは穏やかにエマを見ている。エマはカイムの、その姿を見ていると今まで考えていたことが、口にできなくなりそうだった。
「……本はどうだったかしら。間違っていなければ良いのだけれど」
「すまない。まだ本は見てないんだ。色々急用が出来てしまって」
「そんなこと謝らなくていいの。カイムが忙しい事くらい分かっているから。少し聞いてみただけ」
どう言葉を繋げばいいのか、エマは分からなくなってしまった。カイムも何もいわず静かに微笑んでいる。エマの言葉を待っているのだ。
「カイムは……お屋敷に帰らないのね」
「そうだね。時間がないから。近頃減ってはいるんだが、使徒の処理がね。なかなか骨が折れるよ。影の猟犬がいない今、余計に掃討が手間取る。近頃、奇っ怪な使徒も多いらしいし」
「そう、前線で働く兵士達は命懸けだものね」
「本当によくやってくれてると思うよ」
エルヴィラやコニエルの名前は出さない方がいい。だが、エマは二人の名前を出さずに、どう話しを切り出していいものか分からなくなってしまった。
「……棲家は大丈夫かしら。危険に曝される事はないのかな」
「エマ、何も怖がる事はないよ。棲家には僕達が居るから。何かあったら絶対に守ってみせる――命懸けで」
「でも、だけど、カイムは誰が守ってくれるの? 猟犬は守ってくれるけど、でもそれは……」
カイムはエマをしばらく見詰めると、静かに頷いた。エマが言葉を次がなくても、カイムは彼女が何を言いたいのか理解しているようで、優しく眼を伏せて笑む。
「僕の事は気にしなくていい、エマ。いいかい、僕はね。ただ人を護る為に生まれて来たんだよ――エマのように悲しい思いをする子を、これ以上増やさないように、僕達は戦っている……僕が持つ、幸せの形は皆とは違う。僕を思って悲しんでくれる事はないんだよ」
「それは、本当に?」
「僕は少し人とは違う風に生まれたから。エマなら、これはなんとなく分かるのではないかな。この話しはあまり出来ないけれど――ありがとう、エマ。優しい子だ」
――ああ、カイムは今も、私を子供のように思っている。
エマは微笑む。
けれど、心は酷く寂しくて、噤んでいたものが、溢れ出してしまいそうだった。
――私は違う。私は、
「……棲家はエルヴィラみたいな兵士がいるから、安全なのだものね」
「エルヴィラ……か、たしか館の警備兵だね。エマの友達だとかいう」
「そう、親友よ。――そういえば、カイム。私がお屋敷に行っている間、警備区域に変更があったと聞いたの。急に司令が出て、皆戸惑ったらしいわよ」
エマはカイムの顔をさり気なく見るが、カイムの穏やかな顔には曇りの欠片もなかった。
「それでエルヴィラから聞いたのだけど、同じく警備兵をしている同僚が、何かしでかしてしまったらしくて、酷く落ち込んでいるらしいの。エルヴィラが心配していて、カイムのところに話が来ていないか、聞いてくれって彼女に頼まれてしまって」
「エマが業務を気にするなんて珍しいね」
さり気なくカイムは書類を手元に引き寄せた。
カイムは怒っているのだろうか。
書類を流し読みながらペンでサインを入れている。
「心配いらないよ。警備部署からの上奏はないし、誰も誤りは犯していない。平時と同じで何の滞りもなく遂行されている。エマは何も気にする事はないよ」
有無を言わせない物言いだ。これ以上聞くなとカイムは言っているのだ。これ程厳しい態度を――他人には判らないだろうが――受けたことがエマにはない。カイムが怒っているとは言わない、これは紛れもない拒絶だ。
「そう、エルヴィラにはそう伝えておく。お仕事の邪魔してごめんなさい」
エマは無性に泣きたくなった。カイムはやはり何かを隠している。それと同時にエマはカイムの不興を買ったことが、恐ろしくて切なくてたまらなかった。
――これがエルヴィラと同じ気持ちなの?
幼子が唯一絶対の親から見棄てられるようなこの感覚。子供として扱われ、猟犬でないと暗に否定されて、悲しんだというのに、それなのに……答えは。
――カイムにとって、私は何。
カイムはいつだって優しい。いつだって、どんな時も。そうしてエマを守るのだ。目を背けたい事実から、仲間の死の叫びから。エマは今まで何をして来た。全てが終わってから、ただ悲しみ、静かに絶望するのだ。
また、何も出来なかったと――。
「カイム、私は猟犬になれるの?」
カイムの笑顔が一瞬揺れた。緑の瞳がエマから離れるのを彼女は感じた。
カイムは何も言わなかった。彼は肩を落として、ただ一つだけため息を付いた。
「カイムお願い、教えて。私は生まれた時からここに、ステルスハウンドに居るの。支えられたかは分からないけれど、多くを見てきた。仲間の死も、様々な憎しみも、共に歩んで来た。私はいったい何」
――ああ、私は何を言っているんだ。
コニエルは、留守中の出来事は。こんな事を話すために来たわけじゃない。どうして。カイムを困らせたくない。だから見てみぬふりしてきたのに。
――こんな。
カイムはいつもと同じように、真っ直ぐに人を――エマを見据えた。何の迷いも曇りもない緑の瞳。強い意志と、揺るぎ無い自信。そしてそこには、消えることのない愛情が宿っていた。
「エマは自由になりなさい。僕から言えるのはそれだけだよ」
エマの目に溢れていた涙が溢れそうになった。カイムは深く目を伏せて、あの優しい緑の瞳が見えなくなってしまった。エマは踵を返して静かに扉を閉めて袖で涙を拭い、その場を立ち去った。
また彼に、悲しい顔をさせてしまったのだ。
コニエルはいったい何をしたというのだろう。それとも何かを見たのだろうか。
エマが館に居ない間に何があったのだろう。友人のエルヴィラはコニエルが怯えている素振りをみせていたという。あの重武装の要塞のような館で、何を怯える必要があるのか。
エマはカイムの秘書でしかないが、コニエルが何か誤りを犯したならば、それでも問いたださなければならない。
カイムの為にならないことは処理しなくては。でもそれは、カイムがコニエルの事情を知らなかった場合だが。カイムに何かを問うたとしても直接的では意味がない。でないと、余計に隠されてしまう。なるべくコニエルの名前を出さずに、それとなく探りをいれてみる方がいいだろう。
エマはマツダを手伝って茶器の片付けをしている。廊下をマツダの後ろに付いて歩いていた。
「エマさん、もうカイム様のところへ戻っても構いませんよ」
「マツダさん一人だと大変ではありませんか。トレー二つ分ですよ」
「いえいえ、この爺にお任せください。カイム様と何かお話したい事があるのではありませんか」
エマは思わず口元を押さえてしまった。
「マツダさんは何でもお見通しね」
「それはあなたが、こんなに小さな時から一緒なのですから」
マツダが手で赤ん坊を抱くような素振りをした。エマは小さな笑いが漏れて、鼻がくすぐったくなった。
茶器類をマツダに任せると、エマはカイムのいる執務室へ廊下を急いだ。
マツダとはカイムと同じくらい付き合いが長い。エマはこの館で生まれ育ったのだから。エマに取ってマツダは本当に祖父がいたら、このような人なのだろうな、という指標だった。エマには父母双方の祖父母がいなかったので一番身近な老人がマツダだったのだ。
皆が本当に血の繋がった家族ならと、何度考えたことか。
しかし、それ以上に別の深い絆を感じているのも確かだ。常に怪物と生死をやり取りする過酷な環境で、何より強固な連帯感が生まれている。皆一様に双生児を命懸けで追い続け、綺士や使徒を殲滅しようとしているのだ。これはステルスハウンドの使命なのだという。しかし、使命だからと言われて組織に居続ける人間はいない。皆、それぞれの目的と意志で猟犬として居続ける。
――そして、私も。
銃を持つことは出来ないが、銃を持ち命懸けで戦う戦闘員の支えになることは出来る。だからこそ、こうして組織に居るのだ。
これからしようとしている事は、エマがステルスハウンドの一猟犬として、カイム等と向き合えるかどうかの話になるかもしれない。もし全てを隠され続けてるというならば、エマはまだ猟犬ですらない。
執務室の扉をノックして顔を覗かせると、カイムは既に書類仕事をしていた。
「エマはそのまま部屋に戻ったのかと思ったよ」
「ごめんなさいお邪魔して。少しお話がしたくて。けど、そんなに急ぎじゃないからまた今度」
「いや、いいよ構わない。下からの報告だから危急を要するってわけではないから」
カイムは書類を机の脇へまとめてからエマを見た。いつも通りカイムは穏やかにエマを見ている。エマはカイムの、その姿を見ていると今まで考えていたことが、口にできなくなりそうだった。
「……本はどうだったかしら。間違っていなければ良いのだけれど」
「すまない。まだ本は見てないんだ。色々急用が出来てしまって」
「そんなこと謝らなくていいの。カイムが忙しい事くらい分かっているから。少し聞いてみただけ」
どう言葉を繋げばいいのか、エマは分からなくなってしまった。カイムも何もいわず静かに微笑んでいる。エマの言葉を待っているのだ。
「カイムは……お屋敷に帰らないのね」
「そうだね。時間がないから。近頃減ってはいるんだが、使徒の処理がね。なかなか骨が折れるよ。影の猟犬がいない今、余計に掃討が手間取る。近頃、奇っ怪な使徒も多いらしいし」
「そう、前線で働く兵士達は命懸けだものね」
「本当によくやってくれてると思うよ」
エルヴィラやコニエルの名前は出さない方がいい。だが、エマは二人の名前を出さずに、どう話しを切り出していいものか分からなくなってしまった。
「……棲家は大丈夫かしら。危険に曝される事はないのかな」
「エマ、何も怖がる事はないよ。棲家には僕達が居るから。何かあったら絶対に守ってみせる――命懸けで」
「でも、だけど、カイムは誰が守ってくれるの? 猟犬は守ってくれるけど、でもそれは……」
カイムはエマをしばらく見詰めると、静かに頷いた。エマが言葉を次がなくても、カイムは彼女が何を言いたいのか理解しているようで、優しく眼を伏せて笑む。
「僕の事は気にしなくていい、エマ。いいかい、僕はね。ただ人を護る為に生まれて来たんだよ――エマのように悲しい思いをする子を、これ以上増やさないように、僕達は戦っている……僕が持つ、幸せの形は皆とは違う。僕を思って悲しんでくれる事はないんだよ」
「それは、本当に?」
「僕は少し人とは違う風に生まれたから。エマなら、これはなんとなく分かるのではないかな。この話しはあまり出来ないけれど――ありがとう、エマ。優しい子だ」
――ああ、カイムは今も、私を子供のように思っている。
エマは微笑む。
けれど、心は酷く寂しくて、噤んでいたものが、溢れ出してしまいそうだった。
――私は違う。私は、
「……棲家はエルヴィラみたいな兵士がいるから、安全なのだものね」
「エルヴィラ……か、たしか館の警備兵だね。エマの友達だとかいう」
「そう、親友よ。――そういえば、カイム。私がお屋敷に行っている間、警備区域に変更があったと聞いたの。急に司令が出て、皆戸惑ったらしいわよ」
エマはカイムの顔をさり気なく見るが、カイムの穏やかな顔には曇りの欠片もなかった。
「それでエルヴィラから聞いたのだけど、同じく警備兵をしている同僚が、何かしでかしてしまったらしくて、酷く落ち込んでいるらしいの。エルヴィラが心配していて、カイムのところに話が来ていないか、聞いてくれって彼女に頼まれてしまって」
「エマが業務を気にするなんて珍しいね」
さり気なくカイムは書類を手元に引き寄せた。
カイムは怒っているのだろうか。
書類を流し読みながらペンでサインを入れている。
「心配いらないよ。警備部署からの上奏はないし、誰も誤りは犯していない。平時と同じで何の滞りもなく遂行されている。エマは何も気にする事はないよ」
有無を言わせない物言いだ。これ以上聞くなとカイムは言っているのだ。これ程厳しい態度を――他人には判らないだろうが――受けたことがエマにはない。カイムが怒っているとは言わない、これは紛れもない拒絶だ。
「そう、エルヴィラにはそう伝えておく。お仕事の邪魔してごめんなさい」
エマは無性に泣きたくなった。カイムはやはり何かを隠している。それと同時にエマはカイムの不興を買ったことが、恐ろしくて切なくてたまらなかった。
――これがエルヴィラと同じ気持ちなの?
幼子が唯一絶対の親から見棄てられるようなこの感覚。子供として扱われ、猟犬でないと暗に否定されて、悲しんだというのに、それなのに……答えは。
――カイムにとって、私は何。
カイムはいつだって優しい。いつだって、どんな時も。そうしてエマを守るのだ。目を背けたい事実から、仲間の死の叫びから。エマは今まで何をして来た。全てが終わってから、ただ悲しみ、静かに絶望するのだ。
また、何も出来なかったと――。
「カイム、私は猟犬になれるの?」
カイムの笑顔が一瞬揺れた。緑の瞳がエマから離れるのを彼女は感じた。
カイムは何も言わなかった。彼は肩を落として、ただ一つだけため息を付いた。
「カイムお願い、教えて。私は生まれた時からここに、ステルスハウンドに居るの。支えられたかは分からないけれど、多くを見てきた。仲間の死も、様々な憎しみも、共に歩んで来た。私はいったい何」
――ああ、私は何を言っているんだ。
コニエルは、留守中の出来事は。こんな事を話すために来たわけじゃない。どうして。カイムを困らせたくない。だから見てみぬふりしてきたのに。
――こんな。
カイムはいつもと同じように、真っ直ぐに人を――エマを見据えた。何の迷いも曇りもない緑の瞳。強い意志と、揺るぎ無い自信。そしてそこには、消えることのない愛情が宿っていた。
「エマは自由になりなさい。僕から言えるのはそれだけだよ」
エマの目に溢れていた涙が溢れそうになった。カイムは深く目を伏せて、あの優しい緑の瞳が見えなくなってしまった。エマは踵を返して静かに扉を閉めて袖で涙を拭い、その場を立ち去った。
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