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一章 死の王
第30話 過ちの代償〈前編 愛する人を送れるように〉
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39
カイムは手元の書類を、思わず握り潰した。
――僕は過ちを犯したかもしれない。
エマは隠し果せると信じていたのだろうか、あの悲しみの表情を。
どこまで知っているのだろう。何を知ってしまったのだろう。
エマを追い掛けるべきか。
追い掛けてどうする。
謝るのか。
何を。
謝罪は許されない。
仲間への侮辱になる。
そして何より、カイムは主人なのだから――。
――でも、僕はエマの主人ではない。
ならばエマは。
彼女は仲間ではないのか。
仲間だ。
でも猟犬ではない。
なのに何故、こんなにも苦しいのか。幸せにと願ったのに。もう二度と辛い思いはさせないと誓っていたのに。エマ本人が知らずに背負っている過去は、カイムにとっては過去では無く、今現在の出来事であると言っていい。彼女が吐露する翳りは、真実の痛みではない。
だから、何をしてでも守らなければ。
――それでも、今、一番悲しい思いをさせているのは僕だ。
エマはヘルレアの事を知っているのだろうか。エマを屋敷へ行かせた時、この館に双生児の王であるヘルレアを招いていた事を。
どうすればいいのだろうか。
ここで誤魔化せば、余計に傷付けてしまうかもしれない。だが、面と向かって話して彼女の知らない事実まで話してしまったら。
――僕は何を考えている。まだエマに隠し続けられると思っているのか。
それこそエマへの愚弄だ。
こうなる事は分かって居たはずだ。それが考えていた時よりも、早まったにしか過ぎない。
幸いというには心情が追いつかないが、今、ヘルレアは館に居ない。ヘルレア本人が身近に居て訳を話すより、居ない状態の方がエマの動揺を、最小限に抑えられるかもしれない。
でも、それはエマがヘルレアとの対談を知らなかった場合だ。
もう全てを知っていたら。
あるいは断片的な情報しか知らなかったら。
そして、実際のところ何も知らなかったら。
全てがカイムの思い違いだったなら。
カイムはいったいどうするべきなのだろうか。最善と踏んでいたところ、最悪の心証を踏み抜いてしまったとしたら。
エマは常に受け入れて来た。どんなに辛い事実でも、どれだけ過酷な現実でも。だが、今回の事はどうだ。ステルスハウンドの代表であるカイムでさえ、受け入れるのが難しい出来事だった。それを二十ばかりの、まだ女の子とさえ呼べる歳の女性にこれだけ残酷な現実を突き付けて、今までのようにいられるだろうか。
カイムが王の番となり、ステルスハウンドの館を主として治め、兵士、職員、その全てがヘルレアのものになる。
今まで長い間、それこそエマが生まれる遥か昔から、双生児双方を敵として、争い続けている時の方が多い。そして、その争いの渦中で彼女は生まれたのだ。また、エマはステルスハウンドで、常に王は邪悪と見聞きして育って来たのだ。その双生児が、自らの主となる。王に己の命を預け、場合によっては綺士となり下僕になって使役される。これを絶望と言わずにいられようか。
カイムが立ち上がろうと机に手をつくと、机の装飾彫りが、手のひらに押し付けられた。カイムは目の覚める思いで、縁彫りに指を這わせた。蔦と枝葉の繋がる先には、二匹の蛇が絡まりあっている。カイムは唐突にその装飾が思い出されて、再び椅子に腰を下ろした。
――これは間違い無く私情だ。
「……何を考えていた」
カイムはステルスハウンドの代表であり、猟犬の主人だ。誰が傷付こうとも、しなくてはならない事がある。それがエマやジェイド、オルスタッド達が過酷な道に立たされたとしても。現に影の猟犬は人員の入れ替わりが活発だ。死地へ送り出すのを承知で、常に任務を遂行させている。そしてエマを仲間だというならば、尚更に特別扱いするべきではないのではないか。
――しかし、それでも駄目なのだ。
幼いエマが思い出されて、いつも逡巡してしまう。カイムは、エマが生まれた時から傍に居た。歩き出した頃も知っているし、乳歯が全て生え変わった時も知っている。妹のように思って来た。
誰も蔑ろにするつもりはない。でも、エマだけは見届けてやりたいという思いがある。けして揺るがない幸福を約束してやりたい。今までの過酷な時間を忘れてしまうくらいに。真実を知らないままで。
――そう、いつかエマに好きな人が出来た時、送り出してやれるような、平和な世界を遺してあげたい。
たとえ僕が、いなくなった後だとしても。
おそらくカイムは、多くの事を見届けずに、去る日が来る。でも、それをエマが知る必要は無い。今はただ傍に居て、彼女が自分の道を歩いて行けるまで、歩みを揃えてあげられればいいと願っている。
カイムは椅子の背もたれに、深くもたれ掛かり上を向いて強く目を閉じた。
色々考えても結局は、後ろめたいのだ。エマの小さな変化に怯えて、どうしようもなく焦っている。余裕がある振りをして、内心はこんなにも揺れ動いていたのだ。いずれ知れると分かっていながら、心のどこかでこのまま何事もなかったのだと、振る舞い続けていられたら、そのように考えていた。
でも、それを続ける事は出来ない。いずれ破綻してしまう。
エマが何を知り、何を望んでいようとも、彼女自身がカイムに何も求めない限り、何もするまい。そしてもう、ヘルレアに付いては隠したりはしない。これだけカイムの傍近くにいるのだ、事実を知る権利はエマにもある。
たとえカイムが隠したとして、エマが彼に何も聞かなかったとしても、いずれはその時は必ず来るのだから。
執務室の扉がノックされた。一瞬、エマかと思ったが、直ぐに違うのだと納得した。ノックをした相手を招くと猟犬であった。深刻な表情で書類を抱えている。
「影の猟犬、ジェイド・マーロンからの報告が入りました」
カイムは手元の書類を、思わず握り潰した。
――僕は過ちを犯したかもしれない。
エマは隠し果せると信じていたのだろうか、あの悲しみの表情を。
どこまで知っているのだろう。何を知ってしまったのだろう。
エマを追い掛けるべきか。
追い掛けてどうする。
謝るのか。
何を。
謝罪は許されない。
仲間への侮辱になる。
そして何より、カイムは主人なのだから――。
――でも、僕はエマの主人ではない。
ならばエマは。
彼女は仲間ではないのか。
仲間だ。
でも猟犬ではない。
なのに何故、こんなにも苦しいのか。幸せにと願ったのに。もう二度と辛い思いはさせないと誓っていたのに。エマ本人が知らずに背負っている過去は、カイムにとっては過去では無く、今現在の出来事であると言っていい。彼女が吐露する翳りは、真実の痛みではない。
だから、何をしてでも守らなければ。
――それでも、今、一番悲しい思いをさせているのは僕だ。
エマはヘルレアの事を知っているのだろうか。エマを屋敷へ行かせた時、この館に双生児の王であるヘルレアを招いていた事を。
どうすればいいのだろうか。
ここで誤魔化せば、余計に傷付けてしまうかもしれない。だが、面と向かって話して彼女の知らない事実まで話してしまったら。
――僕は何を考えている。まだエマに隠し続けられると思っているのか。
それこそエマへの愚弄だ。
こうなる事は分かって居たはずだ。それが考えていた時よりも、早まったにしか過ぎない。
幸いというには心情が追いつかないが、今、ヘルレアは館に居ない。ヘルレア本人が身近に居て訳を話すより、居ない状態の方がエマの動揺を、最小限に抑えられるかもしれない。
でも、それはエマがヘルレアとの対談を知らなかった場合だ。
もう全てを知っていたら。
あるいは断片的な情報しか知らなかったら。
そして、実際のところ何も知らなかったら。
全てがカイムの思い違いだったなら。
カイムはいったいどうするべきなのだろうか。最善と踏んでいたところ、最悪の心証を踏み抜いてしまったとしたら。
エマは常に受け入れて来た。どんなに辛い事実でも、どれだけ過酷な現実でも。だが、今回の事はどうだ。ステルスハウンドの代表であるカイムでさえ、受け入れるのが難しい出来事だった。それを二十ばかりの、まだ女の子とさえ呼べる歳の女性にこれだけ残酷な現実を突き付けて、今までのようにいられるだろうか。
カイムが王の番となり、ステルスハウンドの館を主として治め、兵士、職員、その全てがヘルレアのものになる。
今まで長い間、それこそエマが生まれる遥か昔から、双生児双方を敵として、争い続けている時の方が多い。そして、その争いの渦中で彼女は生まれたのだ。また、エマはステルスハウンドで、常に王は邪悪と見聞きして育って来たのだ。その双生児が、自らの主となる。王に己の命を預け、場合によっては綺士となり下僕になって使役される。これを絶望と言わずにいられようか。
カイムが立ち上がろうと机に手をつくと、机の装飾彫りが、手のひらに押し付けられた。カイムは目の覚める思いで、縁彫りに指を這わせた。蔦と枝葉の繋がる先には、二匹の蛇が絡まりあっている。カイムは唐突にその装飾が思い出されて、再び椅子に腰を下ろした。
――これは間違い無く私情だ。
「……何を考えていた」
カイムはステルスハウンドの代表であり、猟犬の主人だ。誰が傷付こうとも、しなくてはならない事がある。それがエマやジェイド、オルスタッド達が過酷な道に立たされたとしても。現に影の猟犬は人員の入れ替わりが活発だ。死地へ送り出すのを承知で、常に任務を遂行させている。そしてエマを仲間だというならば、尚更に特別扱いするべきではないのではないか。
――しかし、それでも駄目なのだ。
幼いエマが思い出されて、いつも逡巡してしまう。カイムは、エマが生まれた時から傍に居た。歩き出した頃も知っているし、乳歯が全て生え変わった時も知っている。妹のように思って来た。
誰も蔑ろにするつもりはない。でも、エマだけは見届けてやりたいという思いがある。けして揺るがない幸福を約束してやりたい。今までの過酷な時間を忘れてしまうくらいに。真実を知らないままで。
――そう、いつかエマに好きな人が出来た時、送り出してやれるような、平和な世界を遺してあげたい。
たとえ僕が、いなくなった後だとしても。
おそらくカイムは、多くの事を見届けずに、去る日が来る。でも、それをエマが知る必要は無い。今はただ傍に居て、彼女が自分の道を歩いて行けるまで、歩みを揃えてあげられればいいと願っている。
カイムは椅子の背もたれに、深くもたれ掛かり上を向いて強く目を閉じた。
色々考えても結局は、後ろめたいのだ。エマの小さな変化に怯えて、どうしようもなく焦っている。余裕がある振りをして、内心はこんなにも揺れ動いていたのだ。いずれ知れると分かっていながら、心のどこかでこのまま何事もなかったのだと、振る舞い続けていられたら、そのように考えていた。
でも、それを続ける事は出来ない。いずれ破綻してしまう。
エマが何を知り、何を望んでいようとも、彼女自身がカイムに何も求めない限り、何もするまい。そしてもう、ヘルレアに付いては隠したりはしない。これだけカイムの傍近くにいるのだ、事実を知る権利はエマにもある。
たとえカイムが隠したとして、エマが彼に何も聞かなかったとしても、いずれはその時は必ず来るのだから。
執務室の扉がノックされた。一瞬、エマかと思ったが、直ぐに違うのだと納得した。ノックをした相手を招くと猟犬であった。深刻な表情で書類を抱えている。
「影の猟犬、ジェイド・マーロンからの報告が入りました」
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