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二章 猟犬の掟
第23話 偽りの世界と知りながら〈前編 終わらない夢 這い寄る手〉
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某国の病院で最も設備が整っているという、某国自らの案内の元、重体の猟犬は搬送されたのだが――。
ある程度安定し始めて、充てがわれた病院の個室は、あまりに埃っぽく擦れていた。
だが、入院している当の本人は見て回れるような身体ではなく、眉をひそめたのはサポートする猟犬ばかりだろう。
オルスタッド・ハイルナーはただ天井をぼんやりと見ていた。彼の頑健だった身体は、二度と動く事がないのだと、彼はもう理解していた。
ノヴェクは既にオルスタッドを見棄てている。それを隠しもせず、彼にかなりの無理を強いて帰館させる準備にはいっている。何故なら、ノヴェクの秘密を守らなければならないからだ。生きた猟犬を一匹でも手の内から離す事を嫌っている。
「オルスタッド、帰る用意が出来ました」
オルスタッドはクロエに声を掛けられ、初めて彼女の存在に気づいた。僅かに焦点が定まらず、よく見慣れたクロエの顔を心の中に思い描いた。意識がぼんやりとしている。オルスタッドには理由が分かっていたので、ただ、その穏やかな朦朧とした世界を、揺蕩っていた。
桃色の前髪はぱつんと切り揃えていて、長さは肩まであり後ろで括っている。瞳は淡い紫色と、肌は東洋形の淡桃色系という今一人種区分の分からない女性だった。
――どちらかといえば外界形民族のような。
クロエ・メロウはオルスタッドのサポート役として、ここ東占領区近辺の国にある病院へ訪れている。
彼女は元々影の雑用として働く猟犬だ。しかし、雑用と言えども次期影として控えている存在で、オルスタッドの後任として直ぐに抜擢される可能性もある。何故ならクロエはオルスタッドが育てた猟犬だからだ。女性の猟犬は大抵の場合、男性の猟犬に体力が劣るのが普通だ。女性の猟犬で兵士として高い階級を持つ者は、体力を上回る技術を身に着けている事が多い。
今現在はこのクロエ・メロウと、更にベル・ヴィッカがカイムの側に――まだ雑用だが――置かれている女性兵士だった。
「クロエ、帰ったら部屋を片付けて置いてくれるか」
「それは、勿論」
「全て処分してくれ」
「オルスタッド、それは……」
「迷ったんだが。でも、クロエなら分かるだろうと、分かってしまうだろうと」
「そんな、酷い!」
「それは、違うよ。カイム様はね、私達に夢を見せてくださっているんだ。猟犬へ絶対に与えられるはずの無いものを、無理して最期の最期まで。けして夢が覚めないように」
「夢?」
「カイム様が今の引退や報償金等、人間らしい報償や制度を定めたんだ。でも、君ははっきりと分からないと思う」
「報償金? 子犬の頃に習った気がします。でも、気がするだけで思い出せません。元々、私はあまり詳しくありませんけど、それは昔から……あれ、昔っていつかしら? それに先輩は、皆確かに引退していて、その後――まさか、嘘よ。そんなの嫌!」
クロエは慄え、その視線がオルスタッドの動かなくなった身体へ注がれると、直ぐに見てはいけないものを見てしまったかのように、眼をさまよわせた。
「おそらく、それはカイム様の御心ではないだろう。仔犬の手を引いてくださるあの方を、思い出さずにいられようか。役目の重い猟犬や仔犬の心を、今も変わらず肩代わりすらしてくださる。あの方は、猟犬が逃れようもなかった非情な歴史を夢へ変えてくださった」
クロエは口を押さえている。
オルスタッドは切なく微笑んだ。もう一度、クロエの顔が見たかった。このヒトらしい感情に、オルスタッドは愚かにも最近気が付いた。
「なんて美しい夢幻だろうか」
「私達は、一体何なのでしょう」
「もう一度機会を与えられた、幸福。それを生きる罪と罰」
「幸福? 罪と罰……」
「クロエは猟犬になった事を後悔しているか?」
「カイム様にお会い出来ただけでとても幸せです」
オルスタッドはクロエの口から、カイムという他の男の名前が出るという不快感を想像してみた。だが、カイムという主人の名前からは何一つ不愉快さは生まれようはずもなかった。
よく馴染んだ希釈されていく感覚。恐怖という感情が紛れ解け合い薄まる。それはカイムの無意識で行われる処置の一つだった。猟犬が主人の望まない状態になった瞬間、力が主人の意思無しで効果するという。
……君ならば、向き合えるだろうか。
……剥奪されるのは侮辱に感じよう。
あの時、カイムは諦めを顔に浮かべオルスタッドを見ていた。オルスタッドにだけは、一部希釈をしないと約束してくれたのだ。
……望めばいつでも、夢を見せてあげるから。
……終わらない夢を約束しよう。
特別に許された現の記憶。
事実だけ記憶に残して、感情は薄く散じる。捉えられないクロエを見つめた。クロエがどこともしれないところを見ている。
「クロエ……?」
「どうしましたか。オルスタッド」
クロエは何事もなかったように掃除を始める。
オルスタッドは微笑む。
――だから、恐れずに話せたものだが。
余計な事も話す流れになって、少し可哀想な事をしたか、とオルスタッドはため息をつく。彼はちょこちょこ動き回るクロエを視界へ収め続ける。元の病室よりも綺麗にしそうな勢いで掃除をしている。
もう去らねばならないオルスタッドには、クロエへ抱いた感情を伝えるような、迷惑極まりない行為は出来なかった。こればかりはカイムも直ぐに手を加えてはくれない。
それでも、人間らしい生き方を選ばなかった後悔はない。ただ探究するまま望むままに生きられたことは幸福なことだろう。
オルスタッドは意識が揺らぐままに、ぼんやりとしていた。すると瞼の裏に閉塞感のある闇を見つける。一瞬理解出来なくて、何度か瞬きしてみる。それ程広さの無い、オルスタッドが三歩か四歩けば壁に突き当たりそうな闇。妄想でも始まったのかと思ったが、カイムの庇護を感じていたので、精神の破綻では無いような感覚があった。
何か突然作られた小部屋。ある種のVR(ヴァーチャルリアリティ)地味た視界と奥行きの感じ方に、オルスタッドは興味をそそられる。そうしているうちに伏せった瞼の内でなくても、小部屋が存在する事に気が付いた。消せない心像風景の存在に囚われてしまった。意識の中に小部屋が居座り続け、敢えて考え、また見ようとしなくても、存在を常に感じた。
オルスタッドはその闇が何なのかはっきりと分からなかった。しかしその闇がとても馴染み深いもののように感じていた。ただ無心に闇を探っているような気になっているうちに、酷く懐かしい、主人が与えてくれた夢の残滓を捕えた。何故それを理解出来たのか。オルスタッドはその穏やかなものへ意識を集中する程、自分の記憶が欠落していきそうになったからだ。
頭を撫でる手が同時に思い出される。
その瞬間、この闇が自分の心を構成する何かではないかと察した。持って生まれた官能の一部で、何かを切欠に――おそらくはクシエルとの接触を期に――発露してしまったのではないか。そうしてひらめくように思考が及ぶと、青い炎が灯った。オルスタッドはもう意識を離せなくなっていた。
激しい炎が燃え盛る。だというのに闇はどれ程の見通しも利かなかった。いつの間にかその闇は小部屋ではなくなっていたのだ。閉塞感を失い無限の闇がオルスタッドの中へ生まれている。
闇に白いものがぽつんと浮かび上がる。それを見ていると、白く細長いものが、闇を撫で回しながら蠢いているのが分かった。
闇を探っている。確かめている。調べている。
――人間のような剥き出しの白い手が、首元近くまで一杯に露出している。
理解したと同時に、手が闇を更に弄り始める。確実に近付いてくる。
――あの手は炎を探していたのだ。
あれには大方の感覚が存在しないように感じられた。ただ一つオルスタッドの意識に反応している。気付いた時にはもう遅く、断ち切る方法を探し始めた頃には、手指が滑らかに蠢く様子さえ見て取れた。
そして違和感に気付く。腕には生々しいミミズ腫れ地味た文字のような入墨が、喰い込んでいた。
――名前の庇護。
オルスタッドは自分が瞬きもせず天井を見ていた事に気が付いた。
彼は入墨を見た事で我に返った。それを自覚していた。自らの戒めに救われのだ。オルスタッドは小さく主人へ感謝を述べる。
「どうかしましたか?」
「夢を見ていたんだ。悪夢を」
某国の病院で最も設備が整っているという、某国自らの案内の元、重体の猟犬は搬送されたのだが――。
ある程度安定し始めて、充てがわれた病院の個室は、あまりに埃っぽく擦れていた。
だが、入院している当の本人は見て回れるような身体ではなく、眉をひそめたのはサポートする猟犬ばかりだろう。
オルスタッド・ハイルナーはただ天井をぼんやりと見ていた。彼の頑健だった身体は、二度と動く事がないのだと、彼はもう理解していた。
ノヴェクは既にオルスタッドを見棄てている。それを隠しもせず、彼にかなりの無理を強いて帰館させる準備にはいっている。何故なら、ノヴェクの秘密を守らなければならないからだ。生きた猟犬を一匹でも手の内から離す事を嫌っている。
「オルスタッド、帰る用意が出来ました」
オルスタッドはクロエに声を掛けられ、初めて彼女の存在に気づいた。僅かに焦点が定まらず、よく見慣れたクロエの顔を心の中に思い描いた。意識がぼんやりとしている。オルスタッドには理由が分かっていたので、ただ、その穏やかな朦朧とした世界を、揺蕩っていた。
桃色の前髪はぱつんと切り揃えていて、長さは肩まであり後ろで括っている。瞳は淡い紫色と、肌は東洋形の淡桃色系という今一人種区分の分からない女性だった。
――どちらかといえば外界形民族のような。
クロエ・メロウはオルスタッドのサポート役として、ここ東占領区近辺の国にある病院へ訪れている。
彼女は元々影の雑用として働く猟犬だ。しかし、雑用と言えども次期影として控えている存在で、オルスタッドの後任として直ぐに抜擢される可能性もある。何故ならクロエはオルスタッドが育てた猟犬だからだ。女性の猟犬は大抵の場合、男性の猟犬に体力が劣るのが普通だ。女性の猟犬で兵士として高い階級を持つ者は、体力を上回る技術を身に着けている事が多い。
今現在はこのクロエ・メロウと、更にベル・ヴィッカがカイムの側に――まだ雑用だが――置かれている女性兵士だった。
「クロエ、帰ったら部屋を片付けて置いてくれるか」
「それは、勿論」
「全て処分してくれ」
「オルスタッド、それは……」
「迷ったんだが。でも、クロエなら分かるだろうと、分かってしまうだろうと」
「そんな、酷い!」
「それは、違うよ。カイム様はね、私達に夢を見せてくださっているんだ。猟犬へ絶対に与えられるはずの無いものを、無理して最期の最期まで。けして夢が覚めないように」
「夢?」
「カイム様が今の引退や報償金等、人間らしい報償や制度を定めたんだ。でも、君ははっきりと分からないと思う」
「報償金? 子犬の頃に習った気がします。でも、気がするだけで思い出せません。元々、私はあまり詳しくありませんけど、それは昔から……あれ、昔っていつかしら? それに先輩は、皆確かに引退していて、その後――まさか、嘘よ。そんなの嫌!」
クロエは慄え、その視線がオルスタッドの動かなくなった身体へ注がれると、直ぐに見てはいけないものを見てしまったかのように、眼をさまよわせた。
「おそらく、それはカイム様の御心ではないだろう。仔犬の手を引いてくださるあの方を、思い出さずにいられようか。役目の重い猟犬や仔犬の心を、今も変わらず肩代わりすらしてくださる。あの方は、猟犬が逃れようもなかった非情な歴史を夢へ変えてくださった」
クロエは口を押さえている。
オルスタッドは切なく微笑んだ。もう一度、クロエの顔が見たかった。このヒトらしい感情に、オルスタッドは愚かにも最近気が付いた。
「なんて美しい夢幻だろうか」
「私達は、一体何なのでしょう」
「もう一度機会を与えられた、幸福。それを生きる罪と罰」
「幸福? 罪と罰……」
「クロエは猟犬になった事を後悔しているか?」
「カイム様にお会い出来ただけでとても幸せです」
オルスタッドはクロエの口から、カイムという他の男の名前が出るという不快感を想像してみた。だが、カイムという主人の名前からは何一つ不愉快さは生まれようはずもなかった。
よく馴染んだ希釈されていく感覚。恐怖という感情が紛れ解け合い薄まる。それはカイムの無意識で行われる処置の一つだった。猟犬が主人の望まない状態になった瞬間、力が主人の意思無しで効果するという。
……君ならば、向き合えるだろうか。
……剥奪されるのは侮辱に感じよう。
あの時、カイムは諦めを顔に浮かべオルスタッドを見ていた。オルスタッドにだけは、一部希釈をしないと約束してくれたのだ。
……望めばいつでも、夢を見せてあげるから。
……終わらない夢を約束しよう。
特別に許された現の記憶。
事実だけ記憶に残して、感情は薄く散じる。捉えられないクロエを見つめた。クロエがどこともしれないところを見ている。
「クロエ……?」
「どうしましたか。オルスタッド」
クロエは何事もなかったように掃除を始める。
オルスタッドは微笑む。
――だから、恐れずに話せたものだが。
余計な事も話す流れになって、少し可哀想な事をしたか、とオルスタッドはため息をつく。彼はちょこちょこ動き回るクロエを視界へ収め続ける。元の病室よりも綺麗にしそうな勢いで掃除をしている。
もう去らねばならないオルスタッドには、クロエへ抱いた感情を伝えるような、迷惑極まりない行為は出来なかった。こればかりはカイムも直ぐに手を加えてはくれない。
それでも、人間らしい生き方を選ばなかった後悔はない。ただ探究するまま望むままに生きられたことは幸福なことだろう。
オルスタッドは意識が揺らぐままに、ぼんやりとしていた。すると瞼の裏に閉塞感のある闇を見つける。一瞬理解出来なくて、何度か瞬きしてみる。それ程広さの無い、オルスタッドが三歩か四歩けば壁に突き当たりそうな闇。妄想でも始まったのかと思ったが、カイムの庇護を感じていたので、精神の破綻では無いような感覚があった。
何か突然作られた小部屋。ある種のVR(ヴァーチャルリアリティ)地味た視界と奥行きの感じ方に、オルスタッドは興味をそそられる。そうしているうちに伏せった瞼の内でなくても、小部屋が存在する事に気が付いた。消せない心像風景の存在に囚われてしまった。意識の中に小部屋が居座り続け、敢えて考え、また見ようとしなくても、存在を常に感じた。
オルスタッドはその闇が何なのかはっきりと分からなかった。しかしその闇がとても馴染み深いもののように感じていた。ただ無心に闇を探っているような気になっているうちに、酷く懐かしい、主人が与えてくれた夢の残滓を捕えた。何故それを理解出来たのか。オルスタッドはその穏やかなものへ意識を集中する程、自分の記憶が欠落していきそうになったからだ。
頭を撫でる手が同時に思い出される。
その瞬間、この闇が自分の心を構成する何かではないかと察した。持って生まれた官能の一部で、何かを切欠に――おそらくはクシエルとの接触を期に――発露してしまったのではないか。そうしてひらめくように思考が及ぶと、青い炎が灯った。オルスタッドはもう意識を離せなくなっていた。
激しい炎が燃え盛る。だというのに闇はどれ程の見通しも利かなかった。いつの間にかその闇は小部屋ではなくなっていたのだ。閉塞感を失い無限の闇がオルスタッドの中へ生まれている。
闇に白いものがぽつんと浮かび上がる。それを見ていると、白く細長いものが、闇を撫で回しながら蠢いているのが分かった。
闇を探っている。確かめている。調べている。
――人間のような剥き出しの白い手が、首元近くまで一杯に露出している。
理解したと同時に、手が闇を更に弄り始める。確実に近付いてくる。
――あの手は炎を探していたのだ。
あれには大方の感覚が存在しないように感じられた。ただ一つオルスタッドの意識に反応している。気付いた時にはもう遅く、断ち切る方法を探し始めた頃には、手指が滑らかに蠢く様子さえ見て取れた。
そして違和感に気付く。腕には生々しいミミズ腫れ地味た文字のような入墨が、喰い込んでいた。
――名前の庇護。
オルスタッドは自分が瞬きもせず天井を見ていた事に気が付いた。
彼は入墨を見た事で我に返った。それを自覚していた。自らの戒めに救われのだ。オルスタッドは小さく主人へ感謝を述べる。
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