死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

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二章 猟犬の掟

第14話 魔幻の囁き〈後編 寄り添う姿〉

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 これ程までにはっきりとした幻を見せられるのは並の妖魔ではないだろう。分かってはいたが、幻覚を仕掛ける種類で高位の妖魔となると、正直、どういった形で身体を損なわせて来るか分からない。

 幻覚を引き出されている時点で、体力を削られている可能性もある。あるいはこの世界そのものが幻であるという、最悪の事態もありうるのだ。

 チェスカルは再び木に切り傷を付けながら歩き出した。正直、妖魔について門外漢のチェスカルには、どうにもならない階級の妖魔だ。

 いっそ、本当に血を流すかと考える。

 それでも歩き続けていると、足元がおぼつかない程くらくなっている事に気が付いた。チェスカルは空を見上げた――つもりになった。枝葉が密集し過ぎて黒々としている。僅かな切れ間から、恵みのように漏れていた灯火も失われつつあった。

 それから幾らもしない時を置いて、妖樹の森は闇に呑まれた。完全に射陽がなくなると、チェスカルは動けなくなってしまう。

 彼は一つため息をつく。

「お許し下さい、カイム様」

 眼を閉じて首を軽く振った。それは何かを断ち切るような、目を覚まさせるような動作だった。

 密集する樹木の輪郭線が、牢獄のような線の集まりになって見えてくる。物体の輪郭がはっきりと澄んで見えて、で見るよりも、注意深く周囲を観察出来る。

 気温がめっきり下がって来た。見えはしないが、おそらく息は白い。

 チェスカルは寒さで見動きが取りづらくなって、木に寄りかかり、座り込んでしまった。暗闇の中、感覚を限界まで研ぎ澄まして周囲の様子を捉える。血気類の気配は薄い。チェスカルはどちらかというと、使徒と対人専門の兵士なので、血気類は馴染まない。

 そうして周囲に気を配っていると、背後がほの明るい事に気が付いた。

「……仔犬パピー、こんなところにいると怒られるよ」

 茶目っ気があるのに、どことなく冷たくて、でも優しい声。

 その声の主が見たくて、チェスカルは思わず幹から顔を出す。

 褪せたような色の金髪と、緑色の瞳をした青年が屈んでいる。傍には少年が座っていた。

「何故、いえに帰らないんだい」

「よく分かりません。あそこなのですか?」

「そうだよ、君のいえだ。ご飯を食べて、寝て、遊んで、勉強する。それで、後もう少し大きくなったら、働くところ」

「そうか、そうなのか……でも、何か大事なことを忘れてしまった気がするんです。絶対に忘れてはいけないはずなのに」

「辛いかい?」青年が深く瞬く。

「誰かを傷付けてしまう気がします」

 青年が、少年の頭へ手を伸ばすと、優しく撫でる。そうした青年の顔は、とても愛おしそうで、母親のようだった。少年は撫でられるのが嬉しいのだろう、にこにことし始めている。すると青年が、何かを確かめるように、一つ小さく頷く。少年の頭を撫でていた手をぴたりと止めて、手を軽く押し付けるような動作を取る。

「何か感じるかな?」

「……もう少しだけ撫でてください、」

 恥ずかしげに言う少年に、青年が仄かに微笑む。

「もう、大丈夫だから気にしないで。僕が君の代わりに背負うから。君は気にしなくてもいい」

「よく分かりません」

 青年がにっこり笑う。

「それでいいんだよ。分からなくても、恐がる必要はない」

「……はい」

 少年は、まだまだ幼さの残る顔で、小さく声を出して笑ってみせた。そうしていると、今までの不安げな翳りは微塵もなく、楽しそうにしている。

 青年はそれをただ穏やかに見守っていた。

「そうだ、まだ、名前をあげていないね」

「名前?」

「そう、仔犬のままでは困るだろう」

「仔犬では恥ずかしいですね」

名前は僕が付けてあげよう」

「あのいえにいる偉い方が、付けるのではないのですか」

 青年が楽しげに吹き出している。少年がぽかんとしていると、優しく両ほっぺをつねられた。

「帰ろうか。僕はお腹が空いてしまったよ」

「ぼく……私もです。帰りましょう」

 青年が立ち上がると、少年へ手を差し出したので、その大きな手を取って立ち上がる。そのまま青年が少年の手を握って、手を引いてくれる。

「今日は僕も仔犬と一緒に夕食を摂ろうかな。今日の献立はなんだろうね」

「そういう突発的な行為はいけないって、教わりました」

 二人の人影は青く燃え尽き、消え去ってしまった。チェスカルはあまりにも懐かしい光景を、思わず噛み締めてしまった。どこか切ない情景だというのに、笑いが込み上げて仕方がなかった。若い、あまりにも若過ぎる主人に、当時のチェスカルは一切、件の青年が主どころか重役に爪先すら掛ける存在だとも思っていなかった。

 ――カイム様は迎えに来てくださった。

 など下手をすればどうなるか分からなかった。それをおもんぱかって仔犬一匹の為に力を振るって、自ら足を運ぶという異例の行為をしたのだ。

 そして主人は、掟で罰する手を差し伸べたものの、チェスカルは何一つ苦痛を感じることもなかった。

 また、主人には如何程の暇があるというのだろう。仔犬の為に少ない時間を割いてくれた。


 何の苦労も感じさせないよう。


 ただ穏やかで優しく。


 寄り添う姿を思い出す。


 生きて帰らねばと、チェスカルはため息をつく。

 寒さで身体に震えが来る。

 身の置き場を変えようとした時、知らず知らずのうちに、身体が動かなくなっている事に気が付いた。

「結局、これか?」

 ただ、気配だけ探っていると、自然、俯いて来る。そのうち身体の重みに従って、ほとんど倒れかかっていた。

 仄かに灯るものが傍にいる。

 女児が口を動かして何かを言う素振りをしている。血塗れの手を胸に当てていた。

 ――ああ、これが妖魔の手管だったのか。

 女児が倒れているチェスカルを覗き込む。彼女の身体が青く蛍火を灯している。

 それはとても幻想的な光景で、神秘すら感じられる。チェスカルは、ふ、とヘルレアの瞳を思い出したが、小さく頸を振る。

 ――あれだけ苛烈な青は、この世に一つしか存在し得ない。

 どこまでも静かでいて、そして相反するように燃え盛る瞳。そこに見い出せる生と死は、あまりにも鮮やかに過ぎた。

 ――比べるまでもない、なんと薄ぼけたことか。

 女児はゆっくりと手を伸ばし、チェスカルへ触れようとしている。触れられる間際、チェスカルはほんのり笑うと、ダガーを女児のの首へ一閃させる。

 彼女は仰け反りその勢いで後退した。頸から血を飛沫しぶき上げさせている。

「ここまで実体があるとは思わなかった」

 定まらない重心にふらついているかと思うと、全身青い光に塗り潰されて、人型をした光の塊になった。

 何か音がぽつりぽつりと溢れだして、曲のような繋がりを持って聞こえ出す。しかし、耳を傾けても乱雑過ぎて理解出来なかった。

 光の塊は既に行き場を見失っているようだ。次第に青い光が消えて行くと、そこに現れたのは妖人だった。擦れたような姿が、初めに見た妖人と大差ない。

 この妖魔は完全な幻惑を行うのではなく、格下の生物を操りながら、それらに幻を投影させる。

 幻は見た者の体力を奪い、徐々に動けなくさせていくという種類だろうとも、体感していた。

 また、妖樹の森を歩かせる事によって、獲物の体力低下への自覚を、くらましていたのだ。

 しかし、そもそも初めの頃、チェスカルは女児のようなものへ、実体があるとは思わなかった。完全な幻と思い込まされていた。幻想的な演出によって、人間に誤った認識を植え付けていたのだ。

 妖魔の知性というにはいささか手が込み過ぎているようにも感じられるが、チェスカル程度の知識では図り知れない、神に等しい魔性もいるというのだから、所詮、人間には分かりかねるのだろう。

 身体は少し衰弱しているが、座っていれば動くようになりそうだった。

 チェスカルは小さく笑む。

 ――これは一つでも解決したと言えるのだろうか。

 ハルヒコとルークは同じ境遇に置かれているのか。ならば、彼等はどうしている。ルークは――あれは何の心配もいらないだろう。馬鹿だが、チェスカルよりも命のやり取りになれている。

 ハルヒコは体力馬鹿だな。体力に物を言わせて、なんとか答えをみつけるだろう。

 ハルヒコやルークはゴーストだ、心配いらない。

 しかし、村の人達は違う。

 ――ああ、早く村を救わなければ。

 ――私はおそらく何も持たなかっただろう。それと同じように、人々もまた何も持ち得ないのだろうから。

 ごめんよ、もう名も知らない妹――。

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