死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

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二章 猟犬の掟

第15話 思考は欲望という泥沼へ

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 猟犬の棲家。その一室は静寂に包まれている。ベッドには幼い子供が眠っていて、カイムとヘルレアがその様子を見守っていた。

 ヘルレアは子供といる時、いつになく気配は穏やかで静かだった。鋭く研磨した刃のような気配は、鞘へ納めたかのように、その鋭利さを潜ませている。

 何事もないような顔をして、自らの存在を限りなく零へと近づける。その行為に子供への気づかい以外、見出すものはないだろう。傍にいるだけで相手を傷つけてしまいかねない、その事実を、ヘルレアはよく知っている。

「ヘルレアも、子供が好きですか?」

「子供? 特に愛でる趣味はないけどな――だがまあ、これを言うとカイムは不快に思うかもしれないが……」

「どうぞ」

「愛玩動物として人間を見れなくもない」

「なるほど」

「もう少し嫌な顔されると思ったけどな」

「明確に誰かを傷つける意図がないのなら、不快には感じません。こればかりは心のありようですから、僕の口からは何も言えるはずもないです。ヨルムンガンドが人間を同列に扱ってくれるなどとは思いません。それこそ、驕りになりかねない。危険です」

「人間をペットにしようとは思わないから安心しろ」

「なかなかにエグいお言葉ですが、とりあえず安堵しておきます」

 何の切欠もなしに会話が途絶えた。ヘルレアは特に会話を求める様子がないので、部屋は完全な沈黙に包まれた。

 ヘルレアはあらゆる動作に音を伴わない。カイムが動かなければ本当に無音で、いっそ、ヘルレアにはカイムの呼吸音すら耳障りに聞こえるかもしれない。

 ヘルレアが何気なく向けた横顔を見る。その顔を形作る線は、緻密に造形されたかのよう。黒い睫毛は、遠くからでもよく見える程、長く豊かだ。青い瞳は仄暗く灯る。化粧を知らないであろう肌は、どこまでも透き通るようでいて白い。血色はまるで感じられないのに、不思議な事に、形の良い唇は血を刷いたように熟れている。

 造り物のようだと思う。粗がまるでなくて、ただただ純粋に美を追求し極める、神の寵愛を受けた造形物。

 人間と世界蛇。

 疑問に思う程、形体は人類に近いが、生理は全く違う。カイム自身も確かにそれを体感した。正直、最も恥ずべき形で、だが。ヨルムンガンドとの接触が、あそこまで人間を血迷わせる結果になろうとは、カイム自身思わなかった。

 しかし、接触だけがトリガーの全てではないらしい。ヨルムンガンドには視覚的扇情性というものが具わっているのではないか、と常々言われている。

 ――つまり、見ているだけで性的興奮を誘う。

 カイムは思わず目を伏せる。

 正直、気まずかった。

 今はヘルレア自身への恐れよりも、カイムが抱く情欲の動きが恐ろしかった。

 ヨルムンガンドと関わる以上、番の話がついて回る。ステルスハウンドでも、そういったの話題は避けずにはいられないものだ。カイムはいい年をした男であり、抵抗感を持つ理由というものも持ち得なかった。そして何より、特殊な教育も徹底して受けて来た。

 ――はずだった。

 ヨルムンガンドというものの異質さを、どこか甘く見ていたのかもしれない。

 それは暴力でないだけ、カイムを盲目にしていたのだろう。

 異常はヘルレアに舐められてから始まった。まるで強過ぎる香水を、まとい続けているかのようだ。

 カイムは完全にいる――。

 自覚は出来る。

 本来ならば、現状を全てを組織に報告すべきであろう。だが、さすがのカイムもヘルレアへ欲情しているとは言い辛い。いっそ全般の具体的な話を求められる方がカイムには楽だった。何故ならそれはカイムの仕事だからだ。だが、欲情して回りが見えなくなるのはカイムの仕事とは程遠く、むしろ危険視される可能性の方が高い。たとえヨルムンガンドであるヘルレアの能力だとしても、カイムがそれを断ち切れないままにしているのなら、問題とされてしまう。

 一切の私情を排除した上で、ヨルムンガンドと向き合わなければならない。

 欲があれば眼が曇る。

 カイムは民間人から立つ番とは違うのだ。

 ――全ては大義の為に。

 聞こえのいい言葉を選んでも、今のカイムでは格好もつくまい。悶々としている自分の愚かさに、笑いが漏れそうになる。だが、これも一つの戦いか、と。

 ジェイド達にすらまだ言えそうもなかった。言ったら首でも絞められそうだ。酷い醜態を晒す事になる。

 ――もしかしたら、ヘルレアには知られてしまっているかもしれない。

 ヘルレアは座ったまま眼をつぶっている。

 この短い付き合いで、王は人間等の生物から肉体的な変調を感じ取れるようだというのが分かった。

 カイムは知らぬ顔をしてヘルレアの傍にいるが、筒抜けだとしたら、それはあまりにも情けなくはないか。

 ヘルレアに気を使われているという事になる。

 あの何事にも豪胆で大雑把な印象を与えるヘルレアに、だ。

 カイムはつい眼を擦る。

 この情欲の乱れはいつ治まるのだろうか。そもそも治まってくれるのだろうか。ヨルムンガンドというもは、恐るべき能力でもって人間の機能さえ狂わせる。

 そして、それがまた驚くべき事に、ヘルレアにしか欲望を刺激されない。それに気がついたのはヘルレアとの外出だった。

 まさに、周りを見えなくさせる。

 一種の囲い込みのような。

 考えれば考える程、気持ちの乱れが気になって落ち着かなくさせる。

 だが、ふっと、子供が視界に入ると、カイムは息をつく。どこか安定をもたらしてくれるのは、カイムが子供に愛おしいという感情を抱けるからか。子供好きと自覚できるのは、ひとえにエマの存在が大きいだろう。

 しかしながら、カイムは子供を持つ事ができない。機能的な問題ではなく、ノヴェクの血と、カイムの負ったものの大きさに他ならない。

 そして、ヘルレアの番になれば尚更、子供は望めないだろう。

 ――この子に何がしてやれるのか。

 館では縁の無い、普通の子供を養うのは稀にある。成長すればそのまま働くのが一般的だ。だが、ジゼルにはそれができないだろう。ジゼル一人を部屋に閉じ込め、一生養うのは簡単だ。ステルスハウンドでも、カイム個人でも何ら負担にはならない。しかし、明らかにそういう問題ではない。

 この子の一生を潰してしまう。

 カイムとは違うのだ――。

 ジゼルという少女は、カイムのように、猟犬の主人として一生涯の予定を組まれるような、理不尽で窮屈な、生まれでは無いはずだ。

 本来なら自分で道を選ぶ権利を持ち、自由に生きていける。このような争いの渦中にある館の部屋へ、閉じ込めて一生を終えさせてしまっていいはずが無いのだ。

 それに、子供を狭い部屋へ閉じ込めてしまうなど、とても残酷な事だ。

 ジゼルは見た目には、安らかに眠っている。

 純金の髪に、翠の瞳。その美しい色味に、カイムは以前とはまた違う暗い影を見る。

 ――ジゼルに罪はない。

 これはカイムの問題なのだ。この子供の容姿を理由にして、区別していいわけが無い。

「嫁さんにしてやればどうだ?」

「ジゼルの事を仰っているのですか?」

「別にお前は一般人ではないから、どれだけ年の離れた嫁でもいいだろう。数の制限だって知ったことか。嫁か愛人かは知らないが、囲ってやれば、この部屋で生きる意味も見いだせるはず」

「僕はヘルレアの番になる為にいるのですが」

「それはご苦労さん、遠慮しておくよ」

 カイムは大きくため息をついた。

 王は小さく笑っていて、何だかとても嬉しそうだ。

「普通の幸せっていうのは、考えた事がないのか?」

 カイムが思わずヘルレアの顔を見据える。青い瞳は、淡く灯っている。

「……普通の幸せ?」

「公園に居た時から気になってはいたが……まさか、お前は本当にを知らないのか?」

「あの、僕は――、」

 ドアが少々乱暴にノックされる。

「ジェイドが来たようだ」ヘルレアが半眼になる。

 カイムが入室を許可すると、ジェイドが顔を出した。アンバーの瞳を細めて、険しい表情をしている。

「子供を保護したって?」

 ジェイドは私服姿だ。

 白いポロシャツに黒いスラックスと、よく見かける出で立ちである。

 ヘルレアはそうしたジェイドを珍しそうに、まじまじと見ている。

「私服だと更におっさん臭いな」

「余計なお世話だ」

 ジェイドはベッドへ近づいて行くと、ジゼルを覗き込む。

「ん? 何だかカイムに似ていないか」

「勘弁してくれ」

「このガキ、瞳も翠だぞ。存外、カイムの隠し子だったりしてな」

「いい加減にしてください」

「それにしても、嫁さんもいないのに、子持ちか」

「ヘルレアと同じような事を言ってくれるな。館で育てるつもりだが、親代わりになるつもりはないよ」

「館の人間から養子にしたい者を探すのか?」

「カイムとも話したが、こいつはこの部屋から、一生出す事はできない」

「何だその無茶苦茶な話は」

 カイムはため息をついた。

「この子供、ジゼルは〈レグザの光〉に利用されて、身体に危険な綺述をされてしまったんだ」

「たしか、〈世界蛇の輪〉から分派した過激派共だったか。綺紋を扱える奴がいるのか――まさか、クシエルが」

 ヘルレアが物凄い勢いで首を振っている。

「違う、そうじゃない。あいつ等わけの分からない、綺紋モドキの落書きをしやがったんだ」

「そのような事が可能なのか」

「私も理解し難いが、しているのだから、出来るんだろうとしか言えない」

「それで、こういう状況なのか。部屋から出せないという事は……」

「今、以上の事はしてやれない」

「ヘルレアがシャマシュをくださり、人間として生きられるだけの状態にはなるようだ」

「狂信者の奴等、残酷な事をしやがる」

「これでとりあえず話は終わりだ。私達は用があるんだ。ジェイドが代わりに、このガキを見ておいてくれ」

「……これは、来たのは間違いだったな」

「用とはなんですか? 離れてしまうのは、危険なのでは」

「大して離れるわけではないから、問題ない。何かあったら壁やら床やら打ち抜いて、一足飛びで来てやるよ」

「館をやたらに壊さないでくださいね。古いのでなかなかに貴重な建造物なのですよ。まあ、緊急時は仕方がないかもしれませんが」

 ジェイドがジゼルを見る。

「まあ、いいだろう。大人しく寝ているようだし」

「……イタズラするなよ」

「お前の減らず口を縫いつけてやりたい」

 カイムはヘルレアについて扉へ向い、廊下へ出ると誰もいない。カイムの私室として使用している区画なので、いる者は限られている。

 廊下はほんのり薄暗く涼しい。清潔にはしているが、閉めさせていた一画なので、どこか拭い去りようのない湿っぽい臭さがある。喧騒から隔離されたような場所を選んだのは、ジゼルを人目につかない部屋へ置くためだ。

 扉を閉めると、ヘルレアがカイムへ振り返る。顔を合わせる形となり、青く灯る瞳に釘付けとなる。カイムとの身長差でヘルレアは上目使いになっている。その顔は、どこかはにかむよう。

 ――駄目だ。

 何故だろう?

 抱かなくてはいけないのに。

 でも、それは――。

 カイムは頭が真っ白になりかけていたが、自分というものを簡単に忘れられる程、穏やかな生き方をしていなかった。

 背筋が一瞬で凍り付き、欲と使命のあまりに隔たりあるさまを、目の覚める思いで見つける。

 呼吸を乱すな――。

 ヘルレアへ知られてはならない。たとえ、それが愚かしい努力だとしても、最小限の変調で収めなければ。

 ヘルレアの手がカイムへゆっくり伸びてくると、ネクタイを掴み、王自身の元へ引き寄せた。

 熱は冷めてくれそうもなかった。

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