死を恋う神に花束を 白百合を携える純黒なる死の天使【アルファポリス版】

高坂 八尋

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二章 猟犬の掟

第16話 手を引く者に

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「カイム、睫毛ついてるぞ。あまり眼は擦るな」

 カイムはネクタイを引っ張られ、ヘルレアの顔間近まで寄せられていた。王は、カイムの顔についた睫毛を摘んでいる。親切な行為だというのに、ヘルレアがすると酷く混乱する。

「ありがとうございます。眼を擦るのは、どうも癖のようなのです」癖かどうかも自分ではよく判らないが、言い訳をしたくて堪らなかった。

 ヘルレアは何事もなかったように、さっさと廊下を行ってしまう。

 カイムは崩折れそうになった。自分の愚かさに自分自身を殴ってやりたくなった。簡単に欲へ溺れてしまう己の意思が、如何に弱いか、今更思い知った。

 ヘルレアが急に立ち止まって、カイムへ振り返った。微かに笑っているような怪しい表情だ。しかもそれは、楽しい悪戯を思い付いた子供のような顔だった。

「医療棟だったか、そこへ行くぞ」

「あの、もしかしてエマのところへ行くのでしょうか」

「ああ、ペンダントを買っただろう。エマに渡してやれ」

「そうですね、様子も見たいので行きましょう」

「ちょっと待った。私が贈り物に関わった事は言うなよ」

「さすがに、僕でも承知しています……今の状況では」

「カイムなら、余計な事を言うと思ったが」

「エマが今一番、何に傷付いているのかくらい分かります。分かっているつもりです。彼女が幼い頃から一緒にいるのですから」

「それならいい。人外から心の機微についてを論じさせるなよ」




 カイムとヘルレアは医療棟入口前に来た。

「ここからはお前だけで行け、人が多い。さすがに見つかる」

「分かりました。ヘルレアはどうなさるのですか」

「ここいらにいるから、エマがどう反応したか教えろ」

「エマの反応ですか? 喜んでくれると思いますけど」

「お前の妄想から感想を聞いても仕方がない。私はエマの反応が聞きたいんだ」

「分かりました。お待ち下さい」

 カイムは医療棟へ入ると、受付に手を上げて、そのまま上階のエレベーターへ乗る。

 エマは個室へ入院している。部屋のドアをノックすると、入室を促す小さな声がする。

「エマ、体調はどうだい?」

「カイム、驚いた。来てくれたのね」

 エマはまだ少し顔色が悪い。

 ベッド脇には椅子が置かれているので、カイムはそこへ座る。

「ごめん、仕事があって、なかなか来られなくて」

「……分かってる、気にしないで。カイムはとても忙しいもの」

「何か困っている事はないかい?」

「特に何もないわ。医療棟だと言っても棲家には変わりないから、いつもと同じよ」

「それはよかった。それでも何かありそうだったら、僕のところから使用人を連れて来て、こちらに置いてくれても構わないよ」

「それは使用人さん達、困るんじゃないかしら」

「マツダが采配してくれるよ」

「カイムは呑気ね」

 小さく微笑むエマに、カイムは安堵の息をつく。この小さな笑みを見られただけで、カイムはどこか我が家へ帰って来られたような気がするのだ。

「ところで、外へ出掛ける用事があったんだけど。その時、久し振りに自分で買い物をしたんだ――それで、エマに似合いそうなペンダントを見つけたから」

 カイムはヘルレアの選んだ菫のペンダントを手に乗せて、エマに見せる。

「カイムがプレゼントをくれるなんて珍しい」エマが浮かべた笑顔はとても華やいでいた。

「なかなか気が利かなくてすまない……ペンダントをつけてみるかい」

 カイムはエマの首元にチェーンを回し、うなじ辺りでフックを止める。

「ありがとう、カイム。嬉しい」

 眩いまでの笑顔に、カイムはとても満たされた気持ちになった。

「まだ話しをしたいところだけど、仕事が立て込んでて、もう行かないと、ごめん、エマ」

「いいの、来てくれて嬉しかった。私も直ぐ元気になって、お仕事のサポートに行くから」

「ありがとう、じゃあ、元気で。また、会おう」

 カイムは部屋を出る。エマを、これ程までに愛おしいと感じる、その幸福をカイムは噛み締めた。

 カイムは直ぐに医療棟入口へ戻った。ヘルレアとはここで別れたので、おそらく同じ場所で会えるのでは無いか、と周囲を探す。

「ヘルレア?」

 カイムは背後から裾を引っ張られる感触に、慌てて振り返る。そこには小さなヘルレアがいた。

「エマはどうだった? 贈り物を喜んだか」

「凄く喜んでくれました。これもヘルレアのおかげですね」

「そうか、よかったな――お前は、それを見てどう思った」

「勿論、嬉しかったですよ。何だか暖かな気持ちになりました」

「カイム、どうだ分かったか。幸せってこういうことではないのか? それでも、自分を誤魔化せるのか。欲しいとは思わないのか」

「……それが目的で、自覚し易いようにプレゼントを用意したのですね」

「まあ、色々含みがあるが、楽しい時間が過ごせただろう」

「それは間違いなく事実ですね」

「お前達は、番だ、番だと簡単に言うが、カイムは人間としての幸せを本当に捨てられるのか」

「……それは、違います」

 ヘルレアが、カイムを見つめる。

「僕は何も捨てるつもりはありません。ただ、幸せの形が変わるだけ」

欺瞞ぎまんだ」

「本当にそうでしょうか? 愛する者達が痛みを感じずに生きていける、これ以上の幸福はないと思いますけど」

「それで、お前には何が残る? お得意の自己犠牲か?」

「いいえ、これは限りなく自己満足に近い。守りたいと願う思いは、多くが私情です――まあ、僕の場合、私情というのはよろしくないですけど。だから、これは秘密ですよ」

「本当に、何も残らないかもしれないんだぞ」

 カイムは微笑む。

「僕は独りにはなりません。あなたがいますから」

 ヘルレアは目を見張った。青い瞳が柔らかく灯る。

 カイムを見つめるヘルレアの瞳が、今ようやく彼を、本当に映したようだ――そう、カイムには感じられた。遠く広く焦点を結んで、どこでもない所を見ていた王は、今、目の前でカイムのことを見据えていた。

「……とんでもない物好きだな」

「おそれいります」

「このド阿呆」

「どういう流れからの罵倒ですか? 酷いですよ」

 カイムとヘルレアはジゼルがいる部屋へ戻って来た。ジェイドが腕を組みつつ、椅子に座ってジゼルを見守っている、と言うより看守のように監視していた。カイムが仕事として、ジェイドへ任せてしまったので、結果的に厳しく行動を遵守している。

「すまなかった、ジェイド。ご苦労」

「別に何の手間にはならなかったから、構わないが」

「なかなか眼を覚まさないな」ヘルレアがジゼルの首をやんわりと押さえる。

「殺すなよ」

「うるさい、シャマシュの様子を見ているんだよ」

「何か異常はありますか?」

「肉体的な異常は特に感じない、ただ……」

「どうしました?」

「これは長期戦になるかもしれないな」

「眼を覚ますには時間がかかるということか」ジェイドがジゼルを覗き込む。

「まあ、そうだな。時間の経過で激しく変化していっている。眠りが深い」

「無理矢理、起こしたらどうなる」

「もう二度と心が戻って来ないと思う」

「憐れなものだな……では、俺はそろそろ行くぞ」

 ジェイドが立ち上がりかけた瞬間、カイムはその腕を掴む。

「悪いが、まだこの部屋にいて欲しい。色々話しがあって」

 ジェイドはカイムを見て、一瞬、固まるが、何事もなかったかのように椅子へ座った。

「お前達、先程はどこへ行っていたんだ」

「エマを口説いていた」ヘルレアが息を擦るように笑った。

「何を考えている!」

「そこまで具体的な軟派はしていないよ。プレゼントは贈ったけど」

「してるだろうが。何をしている、この馬鹿共が」

「カイムはジェイドの上司だろう。酷い言われようだな」

「ジェイドは容赦がないからね」

「それでなくとも、ややこしいものを、余計に難しくなったらどうする気だ」

 ヘルレアは大笑いしている。

「笑うなヘルレア、どうせお前が手引きしたんだろう」

「そうに決まっているだろうが。この朴念仁ぼくねんじんが、今、このタイミングで細やかに動くわけがないね」

「クソ! 一番の壁がヘルレア自身というのは分かっていたが、周りまで引っ掻き回すとは思いもしなかった」

「ヘルレアは悪戯好きだから」あはは、と声を漏らして笑う。

「カイム、のほほんとしている場合か、お前の人間関係いいようにされて、終いには切り崩されるぞ」

「大げさな……とは、僕でもさすがに言えないな」カイムは苦笑いする。

「ヘルレア、いいか。エマには二度と近寄るな。変な企みに巻き込むのも赦さない。爬虫類風情が人の感情をもてあそぶな。情というのはバケモノが思うより、厄介なんだぞ……傷つけてくれるな、所詮、王にとって遊び捨てるものだとしても」

「そこまでだ。止めるんだ、ジェイド。もう、いい」カイムの声は自然、低くなる。

 途端、カイムは身の内へ、冷たい風が通った気がした。

 ――ああ、久し振りにやってしまった。

 カイムは表面上だけでも気付かれる前に、眉間からは力を抜いて、なんとか無表情を保つ。

 ジェイドはそんなカイムの顔を見ると、直ぐに視線を逸した。カイムにしか判らないであろう細やかさで、硬直している。

 そうした二人の異変を、ヘルレアは明らかに察知して、何も言わず様子を見ている。王はかなり敏感だ。傍へ一緒に居れば居るほど、心の機微に鋭くなっていくようだ。

「ジェイドの表現は不適切でした。申し訳ございません」カイムは穏やかに笑む。

「まあ今まで散々、ジェイドに好き放題言われていたけどな」

「ジェイドも、引き留めてすまなかった。もう下がっていい」

「承……、いや。そうか、分かった」

 ジェイドが部屋を離れると、ヘルレアが、閉まった扉を見続けている。

「……やはり、カイムは飼主なんだ、な?」

「どうかしましたか」

「おかしな人間達もいるものだ、という話だ」

 カイムは曖昧に微笑むしかなかった。言えるはずもないのだから。

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