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序章
いつかのあの日 《一》
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蒼穹に浮かぶ積雲。綿飴のような雲が、天都の石畳の上に鉛色の影を落とす。
いつ何時も、初夏のような陽射しが降り注ぐこの穏やかな上界において、闇は存在しない。
あるのは、鉛色の影のみ。夜でさえ下界の暁程の色合いしかないこの場所で、人知れずそれは天都の外れの一角に姿を現した。
石畳の一角に突如として現れた漆黒の闇。まるで、音すらない泥犂の入口のよう。
最初にそれに気付いたのは誰だったか。恐怖に凍てつく叫び声がその場に響き渡った。
沙麼蘿がその場に足を踏み入れた時、天人達は悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
現れた漆黒の闇が辺り一面に広がり、まるで闇が舌舐めずりして天人を飲み込んでいるように見えた。
上界の南南東の端に位置する此処から鶯光帝の住まう紫微宮に向かって、闇が大きく深くその漆黒を伸ばしている。
目を凝らして見据えた闇の先には、幾人もの倒れた天人達の姿が見えた。その中には、見知った顔もある。
南門、朱雀門を護る兵達。その奥には水軍の将、天蓬元帥。そしてその隣には、鶯光帝の側近中の側近である霊山の大将と言われる捲簾大将。
鶯光帝はことの重大さを悟り、最も信頼のおける捲簾をつかわしたのだ。にもかかわらず、彼らは赤紅色の血に染まり、もはや息さえしていなかった。
又、近くには釈迦如来の第二弟子である金蝉子の姿もあった。仏界からの援軍も、意味をなさなかったということだ。
その更に奥には、天色の衣を自らの血で染め上げたナタ太子の姿があった。ナタの徽章は白蓮華と紅蓮華だが、すでにその蓮華柄も血に染まり見えない。
『これは魔だ』
沙麼蘿は、直感的にそう想った。上界には決して存在するはずのない魔。魔は、人の負の感情を食らい増長し、すべてを飲み込み消滅させる。私利私欲に埋もれた下界ならいざ知らず、この上界に現れることなどない。
確かに負の感情は上界にも存在するが、下界に比べれば僅かなものだ。誰かが下界から持ち込まぬ限り、現れるはずはない。誰かが、朱雀門を通って……。
朱雀門の近くには、霊獣朱雀がいる。朱雀が魔に気付かぬはずはない。
「そこまでこの世界が憎いか、朱雀。世界を消滅させてまで」
そう沙麼蘿が呟いたとき、
『お前のような化け物でも、私を消し去ることはできまい』
漆黒の闇の中から声のようなものが聞こえ、顔のない何かが、自分に向けてニャリと笑った気がした。
『そうか……。私はこの日のために、生まれてきたのか』
魔を見据えた沙麼蘿が漠然とそう想ったとき、今まで白と黒でしか感じ取ることができなかった彼女の頭の中に、美しい薄明光線の光りと共に無数の色が降り注ぎ、彼女の心を彩った。
仏界で鬼神と聖人の間に生まれ、心を持たず忌みの子として疎まれ、真っ暗な世界で操り人形のように喋りもせず、何もなかった彼女の心に白と黒の色をつけたのは此処道界だった。
「尊い子。愛し子」
そう言って抱きしめてくれた聖宮。
「僕の妹だよ。大切にして可愛がるんだ!」
何時も手を握って離さなかった皇。
親にさえ抱きしめられたこともなく、触られたことすらなかった沙麼蘿に、人の温もりを教えてくれた此処道界。
聖宮が愛し、これから先皇が生きていくこの世界。此処を護りきらなければ道界はおろか仏界、下界と、この世界のすべてを魔は飲み込み消滅させる。
「お前ごときに、この世界を渡しはしない」
沙麼蘿は、そっと右手の掌を開いた。すると、手首の白金の腕釧が微かに光を放ち細かな粒子が掌に集まり渦を巻き、そして一つの形を作り始めた。そこに現れたのは白刃。
単剣と呼ばれる長さ三尺程の剣。やや細身で剣身は両側が刃。剣格は阿修羅の徽章である宝相華の形。剣柄には阿修羅一族の色である紅色の絹糸が巻かれ、剣首は龍の頭。龍の口には藍晶石の玉が咥えられ、剣首の端には剣柄と同じ紅色の剣穂が付けられている。
阿修羅が持つ五つが宝刀の一つ“氷龍神剣”。
********
蒼穹→青空・大空
天都→天上界の都
上界→天上界・神々の住む所
下界→地上・人間等が住む所
泥犂→地獄
天人→天上人・神々
紫微宮→天帝の住む所
赤紅色→鮮やかで濃い赤色。神なのでこの色に
仏界→天上界で仏教神が住む所
天色→晴天の澄んだ空のような鮮やかな青色
衣→衣服・着物
徽章→衣服などにつけるしるし・バッジ。ここではお印の意味
薄明光線→太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光りが漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象
聖人→仏教神
道界→天上界で道教神が住む所
掌→手のひら
白金→プラチナ
腕釧→ブレスレット
白刃→鞘(さや)から抜いた刀、抜き身
三尺→約70センチ、ここでは一尺約23センチ1ミリ
剣格→日本刀でいう鍔(つば)
宝相華→空想上の花、ここでは奈良の興福寺の阿修羅像が身につけている布の柄のこと
剣柄→日本刀でいう柄(つか)
紅色→鮮やかな赤色
剣首→日本刀でいう柄頭あたり
藍晶石→カヤナイト
剣穂→多くの糸をたばねその先端を散らして垂らしたもの、房、タッセルみたいなもの
いつ何時も、初夏のような陽射しが降り注ぐこの穏やかな上界において、闇は存在しない。
あるのは、鉛色の影のみ。夜でさえ下界の暁程の色合いしかないこの場所で、人知れずそれは天都の外れの一角に姿を現した。
石畳の一角に突如として現れた漆黒の闇。まるで、音すらない泥犂の入口のよう。
最初にそれに気付いたのは誰だったか。恐怖に凍てつく叫び声がその場に響き渡った。
沙麼蘿がその場に足を踏み入れた時、天人達は悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
現れた漆黒の闇が辺り一面に広がり、まるで闇が舌舐めずりして天人を飲み込んでいるように見えた。
上界の南南東の端に位置する此処から鶯光帝の住まう紫微宮に向かって、闇が大きく深くその漆黒を伸ばしている。
目を凝らして見据えた闇の先には、幾人もの倒れた天人達の姿が見えた。その中には、見知った顔もある。
南門、朱雀門を護る兵達。その奥には水軍の将、天蓬元帥。そしてその隣には、鶯光帝の側近中の側近である霊山の大将と言われる捲簾大将。
鶯光帝はことの重大さを悟り、最も信頼のおける捲簾をつかわしたのだ。にもかかわらず、彼らは赤紅色の血に染まり、もはや息さえしていなかった。
又、近くには釈迦如来の第二弟子である金蝉子の姿もあった。仏界からの援軍も、意味をなさなかったということだ。
その更に奥には、天色の衣を自らの血で染め上げたナタ太子の姿があった。ナタの徽章は白蓮華と紅蓮華だが、すでにその蓮華柄も血に染まり見えない。
『これは魔だ』
沙麼蘿は、直感的にそう想った。上界には決して存在するはずのない魔。魔は、人の負の感情を食らい増長し、すべてを飲み込み消滅させる。私利私欲に埋もれた下界ならいざ知らず、この上界に現れることなどない。
確かに負の感情は上界にも存在するが、下界に比べれば僅かなものだ。誰かが下界から持ち込まぬ限り、現れるはずはない。誰かが、朱雀門を通って……。
朱雀門の近くには、霊獣朱雀がいる。朱雀が魔に気付かぬはずはない。
「そこまでこの世界が憎いか、朱雀。世界を消滅させてまで」
そう沙麼蘿が呟いたとき、
『お前のような化け物でも、私を消し去ることはできまい』
漆黒の闇の中から声のようなものが聞こえ、顔のない何かが、自分に向けてニャリと笑った気がした。
『そうか……。私はこの日のために、生まれてきたのか』
魔を見据えた沙麼蘿が漠然とそう想ったとき、今まで白と黒でしか感じ取ることができなかった彼女の頭の中に、美しい薄明光線の光りと共に無数の色が降り注ぎ、彼女の心を彩った。
仏界で鬼神と聖人の間に生まれ、心を持たず忌みの子として疎まれ、真っ暗な世界で操り人形のように喋りもせず、何もなかった彼女の心に白と黒の色をつけたのは此処道界だった。
「尊い子。愛し子」
そう言って抱きしめてくれた聖宮。
「僕の妹だよ。大切にして可愛がるんだ!」
何時も手を握って離さなかった皇。
親にさえ抱きしめられたこともなく、触られたことすらなかった沙麼蘿に、人の温もりを教えてくれた此処道界。
聖宮が愛し、これから先皇が生きていくこの世界。此処を護りきらなければ道界はおろか仏界、下界と、この世界のすべてを魔は飲み込み消滅させる。
「お前ごときに、この世界を渡しはしない」
沙麼蘿は、そっと右手の掌を開いた。すると、手首の白金の腕釧が微かに光を放ち細かな粒子が掌に集まり渦を巻き、そして一つの形を作り始めた。そこに現れたのは白刃。
単剣と呼ばれる長さ三尺程の剣。やや細身で剣身は両側が刃。剣格は阿修羅の徽章である宝相華の形。剣柄には阿修羅一族の色である紅色の絹糸が巻かれ、剣首は龍の頭。龍の口には藍晶石の玉が咥えられ、剣首の端には剣柄と同じ紅色の剣穂が付けられている。
阿修羅が持つ五つが宝刀の一つ“氷龍神剣”。
********
蒼穹→青空・大空
天都→天上界の都
上界→天上界・神々の住む所
下界→地上・人間等が住む所
泥犂→地獄
天人→天上人・神々
紫微宮→天帝の住む所
赤紅色→鮮やかで濃い赤色。神なのでこの色に
仏界→天上界で仏教神が住む所
天色→晴天の澄んだ空のような鮮やかな青色
衣→衣服・着物
徽章→衣服などにつけるしるし・バッジ。ここではお印の意味
薄明光線→太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光りが漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象
聖人→仏教神
道界→天上界で道教神が住む所
掌→手のひら
白金→プラチナ
腕釧→ブレスレット
白刃→鞘(さや)から抜いた刀、抜き身
三尺→約70センチ、ここでは一尺約23センチ1ミリ
剣格→日本刀でいう鍔(つば)
宝相華→空想上の花、ここでは奈良の興福寺の阿修羅像が身につけている布の柄のこと
剣柄→日本刀でいう柄(つか)
紅色→鮮やかな赤色
剣首→日本刀でいう柄頭あたり
藍晶石→カヤナイト
剣穂→多くの糸をたばねその先端を散らして垂らしたもの、房、タッセルみたいなもの
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