天上の桜

乃平 悠鼓

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第一章

川辺の水落鬼 《七》

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耳トウのトウの漢字が出ないのです。(ToT)




********

 沙麼蘿さばらは、振り下ろされた水落鬼すいらくきこぶしを、わずかに上げた右手のてのひら一つで受け止めた。水落鬼の拳と沙麼蘿の掌がぶつかり合う瞬間、辺りにすさまじいの渦が発せられ、木々を揺らす。
 玄奘は押し寄せる氣の波動に、思わず顔を背けた。そして、その場に倒れていた八戒と悟浄は、発せられた氣の衝撃しょうげきを受け覚醒かくせいする。
 目覚めて最初に見えたのは、真っ赤なきぬだった。身体に打ち付ける冷たい雨と、終わりなく続くような雷鳴らいめい。そんな中、真っ赤な衣だけが生き物のように揺れている。
 次に見えたのは紫黒しこく色の絹糸。それが、少し前に立つ人物の髪だとわかったのは、いつ頃だったか……。
 両手をぬかるんだ土の上につき、そのおもてを上げた八戒は、そこで初めて女を見た。真っ赤な襦裙じゅくんを着て、軽々と水落鬼の腕を持ち上げているように見える。隣にいた悟浄もまた、驚きに双眸そうぼうを見開く。 
 女が、水落鬼の攻撃を、片腕一本で止めているのだ。鬼神きしんの血を引く自分ですら、両手でやっとのこと止めた攻撃を。

「氣…か……」

 悟浄の口から、言葉がれる。腕一本で止めていると思われたそこに、水落鬼の拳と女の掌の間に、わずかの隙間すきまがあり、そこから薄い氣の壁のようなものが見えた。

「何が…起こって……」

 眼前がんぜんの信じがたい光景に、八戒が呟く。



 水落鬼の攻撃を止めた沙麼蘿は、玄奘を見やり言った。

きょうだ」
「……」

 いったい、こいつは何を言っているんだと言うような表情で、玄奘は沙麼蘿をにらんだ。

「三蔵と名乗るからには、経の一つや二つ、読めるのだろう」

 沙麼蘿は、ニヤリと口角をあげた。今の自分が何者でもないことは、沙麼蘿自身がよく理解している。だが、左耳につけられた二つの耳トウピアス
 紅玉ルビー阿修羅あしゅらの物であるし、血赤珊瑚ちあかさんご愛染明王あいぜんみょうおうの物だ。だとすれば、どちらかの力を借りれば、僅かな時間なりとも神に戻れると言うことだろう。
 それに…、沙麼蘿は自分の左手中指にはめられた瑠璃ラピスラズリ指環ゆびわを見た。これば、身分の低かったすめらぎの父親が、自ら手作りし聖宮せいぐうに渡した物だ。
 唯一ゆいいつ皇にのこされた、父と母の形見かたみの品。皇が、いったいどんな気持ちでコレを手放したのか。沙麼蘿はもう一度、玄奘を見た。

「天上の桜を、護ると決めたのだろう」

 “天上の桜”、その言葉に玄奘は双眸を見開く。やはり、この女のあのさぐるような睛眸ひとみは、自分のすべてを見透かしていたのだ。
 そして、その近く立ち上がろうとしていた八戒も、驚きの表情で女を見つめた。

「天上の桜を護りたければ、理趣経りしゅきょうだ!」



『その教えは初めに善く、中ほどにおいて善く、後に善く、その言葉と字句はたくみで妙なるものがあり、まじりなく完成で清らかで汚れがない。それはすなわちーーー』
 男女の愛を含む欲望の昇華を説く理趣経は、愛染王の力を借りるにふさわしいだろう。



 玄奘はその場で座禅ざぜんをするように座り込むと、片手に持つ玻璃すいしょう数珠じゅずを両手にかけ、経を読み始めた。
 玄奘の経は、その声に乗って見仏けんぶつの光が見えるようだ。その経をまといながら、沙麼蘿は心の中で呟く。

 “我は願う、力の解放を。あぁ、愛染明王よ”

 とたん、沙麼蘿の身体を薄赤い氣が包みこむ、そしてーーー。



 紫黒色だった長い髪が灰簾石タンザナイト色に変化し、合わせるようにその黒檀こくたん色の双眸そうぼうも灰簾石色に変わった。
 また身にまときぬも、真っ赤な襦裙しゅくんから愛染朱あいぜんしゅの薄絹の襦裙に変わり、上から同じ愛染朱の長丈の背子はいしを着ていた。 
 その背子には、すそから上半身にかけて、模様もようのように七色に輝く、透明な小さな飾りがいくつもつけられている。
 目に見える宝具は三つ。一つは、右耳の半分を覆う紅玉ルビー真珠パール金剛石ダイヤモンドで飾りつけられた耳飾イヤーカフ
 これには対になる左耳の耳飾があり、それはすめらぎの左耳につけられている。互いの居場所がわかり、如何いかなる場所であろうと、対となる耳飾を身につけた者の所に行くことができる。
 もう一つは、左の上腕につけられた白金プラチナ臂釧アームレット。白金の中に、様々な金色で阿修羅あしゅらしるしである宝相華ほうそうげの花がえがかれている。一度ひとたびその腕から離れれば、燃え盛る言葉を伝える火の鳥となる、と言われる代物だ。
 最後の一つは、右手首の腕釧ブレスレット。臂釧と同じく、白金に様々な金色で宝相華の花が画かれている。望めば一振ひとふりのジエンを出し、その白刀はくじんからは氷龍ひょうりゅう召還しょうかんすることができる。
 これには対になり得る物があり、それこそが皇の右手首につけられた腕釧。風龍を呼び出すことができる剣だ。
 愛染の衣は沙麼蘿の持つ強大な力を抑制よくせいし、阿修羅の宝具はその力を制御せいぎょする。
 皇は、もしもの時沙麼蘿の力を抑え導くために、阿修羅王より宝具を貸し与えられた。



 玄奘は、現れ出でたその姿に驚愕きょうがくした。なぜ、仏教の経文の力を借りて、道神どうじんが姿を現すのか、と……。
 いや、違う。髪の色と双眸は道神でありながら、身に纏う衣や身につける装身具アクセサリーは、すべて仏神ぶっじんの物。



 沙麼蘿が、その右手のてのひらを開くと、そこに現れた白刀を握り締め、“タン” と軽い足どりで跳び上がった。するとその身体は水落鬼すいらくきを越え、その頭上で剣を振り下ろす。軽く触れた剣と水落鬼の耳飾イヤーカフ
 だが、次の瞬間には “パリン” と音を立て水落鬼の体は崩れ落ちた。そして、もう一体も……。

あわれよ水落鬼。弱き者は、搾取さくしゅされ続けるのみ」

 沙麼蘿が呟いたその言葉は雷雨の音にかきけされ、誰の耳にも届くことはなかった。




********

眼前→目の前、ごく身近な所
理趣経→経文の一つ
座席→あぐらをかいて姿勢を正す
見仏→仏の姿や光
背子→袖のない短い上衣、唐衣の前身
一振り→刀一本
白刃→鞘から抜いた刀、抜き身
抑制→たかぶろうとする感情、衝動的な行動をおさえてとめること
制御→ここでは、目的どおり力を調整すること
搾取→ここでは弱い者から無理にとること
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