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第一章
一刻の休息 《三》
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花韮は、誰かに呼ばれたような気がして振り返る。頭の中は、靄がかかったようにはっきりせず、今自分が何処にいるのかもわからない。
「悟…浄……?」
木々の合間から見えたのは、弟の悟浄。何故自分はこんな山奥にいるのか、どうやって此処まで来たのか、何もわからない。花韮は思わず、無意識にその首を振った。
あの日、自分の命の終わりを覚悟した日から、花韮は深い海の底に封じられたように意識がなくなる時間が増えていった。ふと意識を取り戻した時には見知らぬ場所で、見知らぬ人々に囲まれているこもある。
またある時には、ふと意識が戻り両の腕を見れば、その腕が血に染まっていて悲鳴を上げたことすらある。このまま行けば自分はどうなってしまうのか、花韮がその恐怖に身を震わせたのは一度や二度のことではない。
「姉貴」
悟浄は木々の合間をぬって花韮に走り寄ると、その細い両肩を掴んだ。
「どうして姉貴がこんな場所にいる。玄奘を、俺達を追ってきたのか!」
花韮は、突然現れた悟浄の言葉にただただ首を振り、“わからない…、わからないの…” と呟く。悟浄は、“わからない” と呟く花韮を、訝しげに見つめた。そして思い出す、“あの時、姉貴はなんと言った?” と。そう、以前立ち寄った街で、花韮は言った。
『に…げて……。私…に、近づ…いては…だめ……よ。逃げる…の、悟浄…』
“あの時の姉貴は、本当に俺の知っている姉貴だったか?”、花韮が悟浄に見せる二つの顔。昔のように、元気ではつらつとしたその姿。いや、あの姿は本当だったかと悟浄は思う。優しく穏やかな姿こそ、姉貴ではなかったか、と。どちら姿も、悟浄にとっては大事な、だった一人の姉の姿だった。
“悟浄” そう弟に声をかけようとした時、花韮の心臓がドクリと音をたて大きく揺れた。それは、また深い深い海の底のような場所に閉じ込められる前兆だ。花韮はすでに子供ではない。何故自分が命をとりとめたのか、自分のこの胸元に埋め込まれた物が何なのか、誰に何も告げられずとも花韮にはわかる。
「悟浄、聞きなさい。私達と貴方はもう赤の他人よ。私や父さんと貴方とでは、住む世界が違うの。これから先、例え私が何を言っても、聞く耳を持っては駄目。私はもう、昔の私じゃないの。もしもの時は、私に情けをかけてはいけない。わかったわね、悟浄」
「姉貴、何を言って…」
花韮はそれだけを告げると、何かを言いたげな悟浄の手を振りほどき、その場から駆け出した。
「姉貴!」
少しでも遠くへ、少しでも悟浄から離れなければ。意識がない間この身体を支配している何かは、きっと悟浄を利用しつくし最後には……。
花韮は必死に足を動かし、そして胸を押さえ苦しそうにその場に倒れた。その後起き上がり辺りを見回した花韮は、花韮でありながら花韮ではなく、別の顔で不敵に笑った。
「なにぶんにも山奥でな。たいした物もなく申し訳ないが、心ばかりの品じゃ」
憧憬大師の言葉に、玄奘達は目の前に並べられた品々に視線を向ける。それは決して豪華な物ではなく、どちらかと言えば質素な精進料理だった。だが、その手間をかけられたであろ精進料理の数々は、この山寺の僧侶達や近くの村人達から見れば、ご馳走であると一目でわかるものだ。
「大師、心を尽くした料理の数々ありがとうございます。我らのために、このように手間をかけていただき」
「何を言う、玄奘よ。この山寺にいる一刻だけでも、全てを忘れ身も心も休めるといいのだが。これは、儂らがお前達にしてやれる唯一のことじゃ。さぁさぁ、遠慮なく食べておくれ」
「ありがとうございます」
戦いに明け暮れ、数多の血に染まり、安らぎなどと言う言葉からは一番遠い旅をしている玄奘達は、このたった一日を、本当に何もないこの山寺ですごす。
だが、この周りに何もない緑に囲まれた山寺であればこそ、玄奘一行は何をするでもなく何を考えるでもなく、ただまったりと過ごすことができたのだ。それこそが、荒んでいく心を癒す唯一の方法だったのだから。
「御使い様、このたびはこの寂れた山寺にお力をいただき、ありがとうございます。本堂や香炉から溢だす氣の渦がこの辺り一帯を覆ったこと、この老いぼれにもよくわかりました」
憧憬大師は、心からの礼を沙麼蘿に言った。この山寺がいくら山の奥にあるとは言え、ここが安全な所だとは限らない。この辺鄙な場所でも、戦に巻き込まれたことはある。もし何かの理由で鬼神や邪神の攻撃を受けるようなことがあれば、ひとたまりもない。
だが、玄奘と話をしていた時にこの地一帯を覆った氣の渦は、尋常ではなかった。沙麼蘿を見た時、一目で人ではないと感じたが、まさかこれ程の力を持っていようとは。その沙麼蘿は、並べられた料理の中にあるものを見て
「お前達、これが何か知っているか」
と言った。その言葉に、憧憬大師は “はて?” と言い、雛僧達は首を傾けた。それは梅干しほどの大きさで、木に実る。数年前に、たまたま憧憬が山の木々の奥で見つけた。
最初は食べれるものかどうかもわからなかったが、一口かじってみたところ僅かな甘味がし、身体が軽くなり疲れが取れる感じがした。それ以来、この実は食べられるものとして、具合が悪い村人にも食べさせている。
「これは ”千癒の実“ と言う。薬師如来の住む瑠璃光浄土でよく見かけるものだ。この実を食せば、千の病を癒すと言われている。下界に落ちて、天界で実るほどの力はないが、それでもこれに助けられているのではないか。どうやら、お前は薬師如来に気に入られているらしい。」
そう憧憬大師はすでに、薬師如来の加護を受けていたのだ。
「毎日の勤めに、なお一層励むのだな」
この実を食すことによって、玄奘達は真の癒しを受けることになる。此処へ来ることは必然であり、これこそが導きと言うものであったのかも知れない。明日からはまた、元の戦いに明け暮れる生活に戻るのだから。
この山寺で一刻の休息を得た玄奘一行は、翌日大師や雛僧に見送られ次の街へと旅立って行った。
********
訝しむ→物事が不明であることを怪しく思うさま。疑わしい
不敵→敵を敵とも思わないこと。大胆でおそれを知らないこと。また、そのさま
荒む→心の持ち方。行動などが乱れてきて、ゆとりやおおらかさがなくなる。とげとげした状態になる
御使い→神仏の使者
尋常ではない→異様、常軌を逸している、途方もない、と言った意味合い
次回更新は一回夏休みをいただいて、23日か24日が目標です。
「悟…浄……?」
木々の合間から見えたのは、弟の悟浄。何故自分はこんな山奥にいるのか、どうやって此処まで来たのか、何もわからない。花韮は思わず、無意識にその首を振った。
あの日、自分の命の終わりを覚悟した日から、花韮は深い海の底に封じられたように意識がなくなる時間が増えていった。ふと意識を取り戻した時には見知らぬ場所で、見知らぬ人々に囲まれているこもある。
またある時には、ふと意識が戻り両の腕を見れば、その腕が血に染まっていて悲鳴を上げたことすらある。このまま行けば自分はどうなってしまうのか、花韮がその恐怖に身を震わせたのは一度や二度のことではない。
「姉貴」
悟浄は木々の合間をぬって花韮に走り寄ると、その細い両肩を掴んだ。
「どうして姉貴がこんな場所にいる。玄奘を、俺達を追ってきたのか!」
花韮は、突然現れた悟浄の言葉にただただ首を振り、“わからない…、わからないの…” と呟く。悟浄は、“わからない” と呟く花韮を、訝しげに見つめた。そして思い出す、“あの時、姉貴はなんと言った?” と。そう、以前立ち寄った街で、花韮は言った。
『に…げて……。私…に、近づ…いては…だめ……よ。逃げる…の、悟浄…』
“あの時の姉貴は、本当に俺の知っている姉貴だったか?”、花韮が悟浄に見せる二つの顔。昔のように、元気ではつらつとしたその姿。いや、あの姿は本当だったかと悟浄は思う。優しく穏やかな姿こそ、姉貴ではなかったか、と。どちら姿も、悟浄にとっては大事な、だった一人の姉の姿だった。
“悟浄” そう弟に声をかけようとした時、花韮の心臓がドクリと音をたて大きく揺れた。それは、また深い深い海の底のような場所に閉じ込められる前兆だ。花韮はすでに子供ではない。何故自分が命をとりとめたのか、自分のこの胸元に埋め込まれた物が何なのか、誰に何も告げられずとも花韮にはわかる。
「悟浄、聞きなさい。私達と貴方はもう赤の他人よ。私や父さんと貴方とでは、住む世界が違うの。これから先、例え私が何を言っても、聞く耳を持っては駄目。私はもう、昔の私じゃないの。もしもの時は、私に情けをかけてはいけない。わかったわね、悟浄」
「姉貴、何を言って…」
花韮はそれだけを告げると、何かを言いたげな悟浄の手を振りほどき、その場から駆け出した。
「姉貴!」
少しでも遠くへ、少しでも悟浄から離れなければ。意識がない間この身体を支配している何かは、きっと悟浄を利用しつくし最後には……。
花韮は必死に足を動かし、そして胸を押さえ苦しそうにその場に倒れた。その後起き上がり辺りを見回した花韮は、花韮でありながら花韮ではなく、別の顔で不敵に笑った。
「なにぶんにも山奥でな。たいした物もなく申し訳ないが、心ばかりの品じゃ」
憧憬大師の言葉に、玄奘達は目の前に並べられた品々に視線を向ける。それは決して豪華な物ではなく、どちらかと言えば質素な精進料理だった。だが、その手間をかけられたであろ精進料理の数々は、この山寺の僧侶達や近くの村人達から見れば、ご馳走であると一目でわかるものだ。
「大師、心を尽くした料理の数々ありがとうございます。我らのために、このように手間をかけていただき」
「何を言う、玄奘よ。この山寺にいる一刻だけでも、全てを忘れ身も心も休めるといいのだが。これは、儂らがお前達にしてやれる唯一のことじゃ。さぁさぁ、遠慮なく食べておくれ」
「ありがとうございます」
戦いに明け暮れ、数多の血に染まり、安らぎなどと言う言葉からは一番遠い旅をしている玄奘達は、このたった一日を、本当に何もないこの山寺ですごす。
だが、この周りに何もない緑に囲まれた山寺であればこそ、玄奘一行は何をするでもなく何を考えるでもなく、ただまったりと過ごすことができたのだ。それこそが、荒んでいく心を癒す唯一の方法だったのだから。
「御使い様、このたびはこの寂れた山寺にお力をいただき、ありがとうございます。本堂や香炉から溢だす氣の渦がこの辺り一帯を覆ったこと、この老いぼれにもよくわかりました」
憧憬大師は、心からの礼を沙麼蘿に言った。この山寺がいくら山の奥にあるとは言え、ここが安全な所だとは限らない。この辺鄙な場所でも、戦に巻き込まれたことはある。もし何かの理由で鬼神や邪神の攻撃を受けるようなことがあれば、ひとたまりもない。
だが、玄奘と話をしていた時にこの地一帯を覆った氣の渦は、尋常ではなかった。沙麼蘿を見た時、一目で人ではないと感じたが、まさかこれ程の力を持っていようとは。その沙麼蘿は、並べられた料理の中にあるものを見て
「お前達、これが何か知っているか」
と言った。その言葉に、憧憬大師は “はて?” と言い、雛僧達は首を傾けた。それは梅干しほどの大きさで、木に実る。数年前に、たまたま憧憬が山の木々の奥で見つけた。
最初は食べれるものかどうかもわからなかったが、一口かじってみたところ僅かな甘味がし、身体が軽くなり疲れが取れる感じがした。それ以来、この実は食べられるものとして、具合が悪い村人にも食べさせている。
「これは ”千癒の実“ と言う。薬師如来の住む瑠璃光浄土でよく見かけるものだ。この実を食せば、千の病を癒すと言われている。下界に落ちて、天界で実るほどの力はないが、それでもこれに助けられているのではないか。どうやら、お前は薬師如来に気に入られているらしい。」
そう憧憬大師はすでに、薬師如来の加護を受けていたのだ。
「毎日の勤めに、なお一層励むのだな」
この実を食すことによって、玄奘達は真の癒しを受けることになる。此処へ来ることは必然であり、これこそが導きと言うものであったのかも知れない。明日からはまた、元の戦いに明け暮れる生活に戻るのだから。
この山寺で一刻の休息を得た玄奘一行は、翌日大師や雛僧に見送られ次の街へと旅立って行った。
********
訝しむ→物事が不明であることを怪しく思うさま。疑わしい
不敵→敵を敵とも思わないこと。大胆でおそれを知らないこと。また、そのさま
荒む→心の持ち方。行動などが乱れてきて、ゆとりやおおらかさがなくなる。とげとげした状態になる
御使い→神仏の使者
尋常ではない→異様、常軌を逸している、途方もない、と言った意味合い
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