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第二章
沈黙の里《一》
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薄っすらと雪に覆われた大地を、玄奘達は走る。朝早くに街を出て、これがこの冬最後の雪になるのではないかと話をしながら歩いていた時もあった、だが。
「玄奘、こちらへ!!」
先頭を走る八戒が、追手をかわすように平原を左手に進む。
「待て!」
八戒が進む先に闇の領域を見つけた沙麼蘿が声を上げる。だが時既に遅く、玄奘一行は闇の世界へと足を踏み入れ、その姿は消え去っていた。
地の底よりも暗い、沈黙の世界。つい先程までの雪景色は闇の中に消え、夢うつつの幻を見ていたのではないかとさえ思わせた。
一面に広がる闇は永遠に続き、足元に大地があるのかさえもわからない。まるで、地に足がついていないかのような浮遊感。
そこでは、己が生きた者なのか死んだ者なのかさえわからず、その存在そのものが幻なのではないかと錯覚させ、不安ばかりがつのって行く。
この沈黙の世界には、自然界に存在する風や音も存在すらしない。あるのは、永遠に続くかと思われるほどの闇と沈黙のみ。
何も見えない暗闇を、沙麼蘿は音も立てず歩いて行く。沙麼蘿にはどんな暗闇や沈黙が襲いかかってこようとも、恐怖や不安などは一切なかった。
この沈黙の世界でさえ、沙麼蘿の灰廉石色の髪は美しい輝きを見せ、同じく灰廉石色の双眸は真実を見通し、普通の世界とは何一つ変わらない世界を見せる。だが、そこに渦巻く思念の数の多さはどうだ。
沙麼蘿は、自分達を此処に引きずり込んだ者が何者であるのか見極めようと、その睛眸をこらした。しかし……。
「お助け…下さい…」
歩みを進める沙麼蘿のその足に、誰かが触れた。
「どうか…、どうかこの子を…、助けて下さい…! お願い…します…!」
細い細い指先が、沙麼蘿の足首を掴む。沙麼蘿は、この上なく冷徹な睛眸で、己の足首を掴んだ女の面を見た。
足元に崩れ落ち、やっとのことで這う様にやって来た女の片腕には、何よりも大切な者を抱くように生まれて間もない赤ん坊が抱かれていた。普通の人間、いや神仏でさえも、沙麼蘿と睛眸を合わせただけで相手は消滅してしまうと言うのに、足元にいる女は事も無げに沙麼蘿を見つめ足に触れ、助けを求めている。
普通の人間よりも冷たい沙麼蘿の身体を訝しむこともなく、それよりも更に冷たい氷のような手を、女は沙麼蘿に伸ばす。
「この子を…」
だが、冷たく息絶えながらも動くその女同様に、腕の中の赤子もまた、既に息絶えていた。
『優しい…子…』
ふと、聞き覚えのある声が、沙麼蘿の耳に届いたような気がした。
「まったく、何処だよ此処は」
何時も通りの朝だった。泊まった宿屋の部屋もよかったし、飯だって旨かった。薄っすらと積もった雪に肌寒さは感じたが、いい朝だったはずだ、奴等が現れるまでは。
悟浄がかろうじて前にすすめるのは、刀の刀首に埋め込まれている星型の白い花が僅かに光っているからだ。この光がなければ、いくら鬼神の血を引く悟浄と言えど、この暗闇の中を歩くことは難しかっただろう。
どれくらいの距離を、ただ一人歩いただろうか。ふと何かの気配が近くにあるような気がして、悟浄はその睛眸をこらす。見つめた先に、小さく蹲るような何かが見えたような、そんな気がした。その何かは悟浄に気が付くと、必死に縋るような声を上げ叫んだ
「お願い! 母さんを助けて!!」
と。悟浄は、声の主がいる方向を見つめ姿を確認しようとする。だが、どんなにその睛眸をこらして見ても、声の主を見ることが出来ない。
「誰か、いるのか」
「母さんを、助けて!」
悟浄が、声のする方へ歩みを進める。すると、やっと子供らしい人影が見えた。
「お前の母さんが、どうかしたのか。怪我でもしてるのか」
「助けて! お願い!」
「暗くてよく見えねぇ、もっとこっちに来い」
悟浄の声にしたがって、子供らしい人影が近づいて来る。子供に思えたその人影は、少年から青年に差し掛かろうかと言うくらいの年頃に見えた。その子は泣いているようでもあり、悟浄に助けを求めるように手を伸ばす。
「助けて…、助けて…! 母さんが死んじゃうよ! 早く助けて!」
その声に導かれるように、一気に視界が開けた。声の主の足元には、衣服を真っ赤に染め上げ崩れ落ちた女の身体。
「大怪我じゃないか。一体どうしたんだ、この辺に医師は…」
そう言いかけて、悟浄が倒れる女に手を差し伸べようとした時、悟浄はその場に倒れる女によく見知った人の面影を見た。
「どうしたの、早く母さんを助けてよ。でなきゃ、姉貴まで死んでしまうよ。俺を助ける為に、母さんも姉貴も死んでしまうよ。早く、早く助けてよ!!」
女に手を伸ばしかけた悟浄は、横に立つ子供の言葉にハッとして、慌てるようにその子に顔を向け見た。何故なら、そこに倒れる女にも、助けを求める子供の声にも、聞き覚えがあったからだ。
「…ッ…!!」
悟浄はその子の顔を確認し、思わず立ち上がり後ずさる。泪を流しながらこちらを見つめる子供の顔は、紛れもなくあの日の自分の姿だったからだ。誰かに助けを求めたくて、大人を、父親を探し回りながら逃げた、まだ少年だった頃の自分自身だったからだ。
その唇から発せられる言葉の数々は、あの日自分が助けを求め誰かに言いたかった言葉。自分と姉貴を守るため、自らを犠牲にした母親を助けたくて、叫びたかった言葉。あの日、誰かに助けを求めようとして、でも誰にも助けを求められなかった自分の心。
「悟…浄…、逃げな…さ…い…」
その時、崩れ落ちた女が僅かに顔をあげ、悟浄を見つめ言った。
「母…さん」
当時、まだ悟浄は母親を母さんと、父親を父さんと呼んでいた。この後、一人で生きることになった悟浄は生きる為に過去を封印し、あの出来事を心の奥に追いやるように人前で話をする時は “御袋” “親父” と言うようになったのだった。
「助けてよ! 早く、母さんを助けてよ!!」
悟浄に追い打ちをかけるように、身体中を母親が流した血で染め上げた子供が、悟浄に手を伸ばす。その時、悟浄の持つ刀が眩しい光を放ち、悟浄の隣りにいた子供と崩れ落ちた母親の姿が消えた。
刀から放たれた光が小さくなると、今度は刀首の星型の花から一筋の光が道を指し示すように漏れ始める。悟浄は、その光に導かれるように駆け出した。
「母さんを助けて! 母さんを助けてよ!!」
悟浄が走る間も、子供の叫び声が木霊する。あれは、あの日誰にも言えなかった言葉。誰かに縋り、助けを求めたかった自分自身の言葉。
「何の冗談だ。一体、此処は何処だ」
暗闇の中、思いのほか悟浄の呟きが大きく響いた。
********
追手→逃げて行く者を追跡する人
一切→全然。まったく
双眸→両方のひとみ
渦巻く→多くの物事が、また感情や思考などが、激しく入り乱れる
思念→思い考えること。常に心に深く思っていること
事も無げ→事を事とも思わないさま。なにも特別なことではないかのように、平然と行うさま。軽々と行うさま
訝しむ→不審に思う
縋る→頼りとするものにつかまる。助力を求めて頼りとする
睛眸をこらす→まばたきもせずに、じっと見つめる。凝視する
紛れもない→きわめて明白である。間違えようがない
追い打ち→弱っている者にさらに決定的な攻撃を加えて厳しい状態にすること
木霊→声や音が山や谷などに反響すること。また、その声や音
思いのほか→「思っていた以上に」「思ったよりも」「予想外に」といった意味の言い回し
次回更新は14日か15日が目標です
「玄奘、こちらへ!!」
先頭を走る八戒が、追手をかわすように平原を左手に進む。
「待て!」
八戒が進む先に闇の領域を見つけた沙麼蘿が声を上げる。だが時既に遅く、玄奘一行は闇の世界へと足を踏み入れ、その姿は消え去っていた。
地の底よりも暗い、沈黙の世界。つい先程までの雪景色は闇の中に消え、夢うつつの幻を見ていたのではないかとさえ思わせた。
一面に広がる闇は永遠に続き、足元に大地があるのかさえもわからない。まるで、地に足がついていないかのような浮遊感。
そこでは、己が生きた者なのか死んだ者なのかさえわからず、その存在そのものが幻なのではないかと錯覚させ、不安ばかりがつのって行く。
この沈黙の世界には、自然界に存在する風や音も存在すらしない。あるのは、永遠に続くかと思われるほどの闇と沈黙のみ。
何も見えない暗闇を、沙麼蘿は音も立てず歩いて行く。沙麼蘿にはどんな暗闇や沈黙が襲いかかってこようとも、恐怖や不安などは一切なかった。
この沈黙の世界でさえ、沙麼蘿の灰廉石色の髪は美しい輝きを見せ、同じく灰廉石色の双眸は真実を見通し、普通の世界とは何一つ変わらない世界を見せる。だが、そこに渦巻く思念の数の多さはどうだ。
沙麼蘿は、自分達を此処に引きずり込んだ者が何者であるのか見極めようと、その睛眸をこらした。しかし……。
「お助け…下さい…」
歩みを進める沙麼蘿のその足に、誰かが触れた。
「どうか…、どうかこの子を…、助けて下さい…! お願い…します…!」
細い細い指先が、沙麼蘿の足首を掴む。沙麼蘿は、この上なく冷徹な睛眸で、己の足首を掴んだ女の面を見た。
足元に崩れ落ち、やっとのことで這う様にやって来た女の片腕には、何よりも大切な者を抱くように生まれて間もない赤ん坊が抱かれていた。普通の人間、いや神仏でさえも、沙麼蘿と睛眸を合わせただけで相手は消滅してしまうと言うのに、足元にいる女は事も無げに沙麼蘿を見つめ足に触れ、助けを求めている。
普通の人間よりも冷たい沙麼蘿の身体を訝しむこともなく、それよりも更に冷たい氷のような手を、女は沙麼蘿に伸ばす。
「この子を…」
だが、冷たく息絶えながらも動くその女同様に、腕の中の赤子もまた、既に息絶えていた。
『優しい…子…』
ふと、聞き覚えのある声が、沙麼蘿の耳に届いたような気がした。
「まったく、何処だよ此処は」
何時も通りの朝だった。泊まった宿屋の部屋もよかったし、飯だって旨かった。薄っすらと積もった雪に肌寒さは感じたが、いい朝だったはずだ、奴等が現れるまでは。
悟浄がかろうじて前にすすめるのは、刀の刀首に埋め込まれている星型の白い花が僅かに光っているからだ。この光がなければ、いくら鬼神の血を引く悟浄と言えど、この暗闇の中を歩くことは難しかっただろう。
どれくらいの距離を、ただ一人歩いただろうか。ふと何かの気配が近くにあるような気がして、悟浄はその睛眸をこらす。見つめた先に、小さく蹲るような何かが見えたような、そんな気がした。その何かは悟浄に気が付くと、必死に縋るような声を上げ叫んだ
「お願い! 母さんを助けて!!」
と。悟浄は、声の主がいる方向を見つめ姿を確認しようとする。だが、どんなにその睛眸をこらして見ても、声の主を見ることが出来ない。
「誰か、いるのか」
「母さんを、助けて!」
悟浄が、声のする方へ歩みを進める。すると、やっと子供らしい人影が見えた。
「お前の母さんが、どうかしたのか。怪我でもしてるのか」
「助けて! お願い!」
「暗くてよく見えねぇ、もっとこっちに来い」
悟浄の声にしたがって、子供らしい人影が近づいて来る。子供に思えたその人影は、少年から青年に差し掛かろうかと言うくらいの年頃に見えた。その子は泣いているようでもあり、悟浄に助けを求めるように手を伸ばす。
「助けて…、助けて…! 母さんが死んじゃうよ! 早く助けて!」
その声に導かれるように、一気に視界が開けた。声の主の足元には、衣服を真っ赤に染め上げ崩れ落ちた女の身体。
「大怪我じゃないか。一体どうしたんだ、この辺に医師は…」
そう言いかけて、悟浄が倒れる女に手を差し伸べようとした時、悟浄はその場に倒れる女によく見知った人の面影を見た。
「どうしたの、早く母さんを助けてよ。でなきゃ、姉貴まで死んでしまうよ。俺を助ける為に、母さんも姉貴も死んでしまうよ。早く、早く助けてよ!!」
女に手を伸ばしかけた悟浄は、横に立つ子供の言葉にハッとして、慌てるようにその子に顔を向け見た。何故なら、そこに倒れる女にも、助けを求める子供の声にも、聞き覚えがあったからだ。
「…ッ…!!」
悟浄はその子の顔を確認し、思わず立ち上がり後ずさる。泪を流しながらこちらを見つめる子供の顔は、紛れもなくあの日の自分の姿だったからだ。誰かに助けを求めたくて、大人を、父親を探し回りながら逃げた、まだ少年だった頃の自分自身だったからだ。
その唇から発せられる言葉の数々は、あの日自分が助けを求め誰かに言いたかった言葉。自分と姉貴を守るため、自らを犠牲にした母親を助けたくて、叫びたかった言葉。あの日、誰かに助けを求めようとして、でも誰にも助けを求められなかった自分の心。
「悟…浄…、逃げな…さ…い…」
その時、崩れ落ちた女が僅かに顔をあげ、悟浄を見つめ言った。
「母…さん」
当時、まだ悟浄は母親を母さんと、父親を父さんと呼んでいた。この後、一人で生きることになった悟浄は生きる為に過去を封印し、あの出来事を心の奥に追いやるように人前で話をする時は “御袋” “親父” と言うようになったのだった。
「助けてよ! 早く、母さんを助けてよ!!」
悟浄に追い打ちをかけるように、身体中を母親が流した血で染め上げた子供が、悟浄に手を伸ばす。その時、悟浄の持つ刀が眩しい光を放ち、悟浄の隣りにいた子供と崩れ落ちた母親の姿が消えた。
刀から放たれた光が小さくなると、今度は刀首の星型の花から一筋の光が道を指し示すように漏れ始める。悟浄は、その光に導かれるように駆け出した。
「母さんを助けて! 母さんを助けてよ!!」
悟浄が走る間も、子供の叫び声が木霊する。あれは、あの日誰にも言えなかった言葉。誰かに縋り、助けを求めたかった自分自身の言葉。
「何の冗談だ。一体、此処は何処だ」
暗闇の中、思いのほか悟浄の呟きが大きく響いた。
********
追手→逃げて行く者を追跡する人
一切→全然。まったく
双眸→両方のひとみ
渦巻く→多くの物事が、また感情や思考などが、激しく入り乱れる
思念→思い考えること。常に心に深く思っていること
事も無げ→事を事とも思わないさま。なにも特別なことではないかのように、平然と行うさま。軽々と行うさま
訝しむ→不審に思う
縋る→頼りとするものにつかまる。助力を求めて頼りとする
睛眸をこらす→まばたきもせずに、じっと見つめる。凝視する
紛れもない→きわめて明白である。間違えようがない
追い打ち→弱っている者にさらに決定的な攻撃を加えて厳しい状態にすること
木霊→声や音が山や谷などに反響すること。また、その声や音
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