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【-過去⑦- 嬉しさと悲しさが共存する事は確かにある。ここにある。】
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別にこれはデートじゃない。と、俺は自分に言い聞かせていた。女の子と二人きりで会う事をデートだと一括りにする人はいる。そういう人がいるという事実によって、俺はその考えに気付いているだけでこれは俺にとってデートではない。俺にはイビーがいるし、俺はイビーの事が本当に好きだ。今日のこれは西菜さんの事をより深く知って、彼女にとってよりポジティブな事を期待している俺の行動なんだ。
西菜さんと学校で話し掛ける事をやめた俺だったが、そうすると今度は西菜さんの方からツイッターでメッセージが届くようになった。俺は西菜さんが心を開いてくれている事を嬉しく思った。西菜さんは絵、俺は芝居が好きなのでその話をよくしていた。西菜さんの絵はネットの好きなアーティストに影響を受けているらしい。そういったやりとりを重ねているうちに、ほぼ毎日連絡するようになっていった。そしてある日、西菜さんが『久し振りに公園の絵を描こうと思っている』と言って、俺も同行する事になった。それが日曜日の今日だ。
俺の家から電車で三駅離れたところにある、市内一の広さを誇るこの公園はアスレチックや綺麗な池もある事から周辺の人気スポットだった。
デートではない、デートではないと思いつつ、姉妹と真珠以外で女性と二人で会うのは初めてだったので若干の緊張をした。私服でどこかに出かけるのも久し振りだ。公園の出入口は幾つもあるのだが、その中でも一番大きくて立派な門構えをしている正面入り口で待ち合わせをした。
約束の五分前、十二時五十五分に俺は正門に着いた。見渡すと西菜さんはいない様だったのでツイッターのメッセージで連絡をした。
『正面向かって左側の方にいるね』と、西菜さんからすぐに返信が着た。
『わたしは右の方にいる』
あれいたっけ?と、思いながら俺は正門右側に向かった。西菜さんらしき人は見当たらない。あれ?と思いその場所に立っている女性を見て回った。マジか!?
「なんだその顔」
「いや、学校での感じと全然違うからビックリして! 西菜さんお洒落なんだね! それに今日はコンタクト? メイクするんだね! なんかカッコイイね」
西菜さんは白のワンポイントが入った黒いキャップ、黒の生地に赤い薔薇があしらわれた少し大きめの襟付き長袖シャツ、下は白をベースにいくつかの幾何学模様が薄い黒色でプリントされた下に向けて広くなるダボダボしたズボン。足元は黒い靴下でシュッとさせ、黒のローファーのような艶のある靴。目元はメイクで赤くなっていてキリっとした印象。そして足元には男からしても大きいくらいの黒いバック。姉妹や真珠とはまた違った感じのおしゃれさんだった。
「そんなにまじまじと見るな」と西菜さんはどうやら照れているようだ。
「西菜さんでも照れる事があるんだね」と俺は笑った。
「死ね」
「ははは」
「笑ってんじゃねーよ」
「はーいすいませーん」
「死ね。……お前はなんか外人みたいだな」
俺は白い長そで襟付きシャツに薄いブルーのジーンズ、茶色の革靴。
「まぁ一応海外の血が入っているからね。で、どこに行くの?」
「そうなのか?」と、西菜さんはビックリしているようだった。
「そうだよ~。母さんがイビーと同じニュージーランド人でさ。まぁイビーと母さんは全然タイプが違うけどw」
「そうか」
「で、どこ行く?」
「中央に大きな池があってそこに神殿みたいな綺麗な建物があるだろ」
「あぁ~!あるねあるね! あそこね! 行こっか! 荷物重いでしょ? 持つよ!」
俺は手を差し伸べた。
「……自分の荷物だからいい」
「いやだけど俺用のあの~ほら、絵を描く時の板のやつとか」
「画板」
「そう画板! 画板とか色々持ってきてくれてるんでしょ?」
「別にいいと言ってる」
「わかった! 疲れたら言ってね!」
思いの外、俺は自分が楽しんでいる事に気付いた。絵を描くのも久し振りだし、この公園に来る事も久し振りだった。確か小学校二年生の時に今日と同じ様に写生をしにみんなで来た事もあった。
「ここに来るのはどれくらいぶりなの?」
「去年の二月が最後」
「そっか~」と言いながら、俺は西菜さんのツイートを思い返した。二月くらいには確かもう風景画を描いていなかったはずだ。
「俺はたぶん小学校卒業ぶりかなぁ~。中学に入ってからは演劇ばっかっだったからさ~」
「そう」
と、西菜さんと俺はぽつぽつ話しながら歩いた。
「うおぉぉぉ!」と、目的地の池が見えると同時に俺は走って行った。
「こんな感じ! こんな感じだよ西菜さん! 早く~!」と結構な大声で呼んだが西菜さんは歩くペースを変えなかった。
「恥ずかしいからやめろお前。周りの人が笑ってたぞ」
「いやぁほとばしる感情を抑える事が出来なくてさw」
「ガキか」
「高校生はまだガキなんじゃねぇかな? まぁとにかく楽しみだ! 描こうよ!」
と、西菜さんは池の奥の方に向かって歩いて行った。ここじゃないのか? と、思ったが、きっと西菜さんのお気に入りの場所があるんだろうと感じた俺は黙って後ろをついていく。
人工の池は長方形をしていて、西菜さんは長辺の真ん中あたりからそのまま真っ直ぐ短辺の端を目指している様だった。池には等間隔で白い石のようなベンチが並べられていて、柵の高さもそのベンチの高さと同じくらい。この辺りでは珍しく、西洋の形を模して創られているらしい。西菜さんは俺の事を見向きもしないでてくてく歩く。
てくてく歩く。
てくてく歩く。
てくてく歩く。
対岸にある神殿のような建物は長辺の真ん中にある。てくてく歩くとそれがどんどん遠くなっていく。俺なら、っていうか男ならあの白くて綺麗で格好良い神殿を描くだろうけど、やっぱり女の子の感性は違うんだよなぁ。とか、イビーとここに来たらイビーは喜んでくれるかな。とか、そういう雑多な事を考えていた。
短辺の隅に来たのでもう座るのかなと見ていたが、今度は池の短辺に沿って歩き始めた。てくてく歩く西菜さん。それも真ん中くらいまでくると今度は右手にあった森の中に入って行った。そしてようやく木の下で荷物を下ろした。荷物を置いた西菜さんは振り返って池の方を見ながら座った。俺も西菜さんにつられて振り返った。息を飲む光景がそこにあった。
木の葉っぱが薄いカーテンのようになり微かに太陽の光を通す。そして、その木の太い枝と枝の間のちょうど開いた空間に、すっぽりと収まる神殿とその岸辺。下に視線を落とすと花壇がある。赤、黄、橙、紫、白、そういった色とりどりの綺麗な花が咲いていて、その先にある池の柵は多分座ると見えなくなる。池の柵が全て見えないのかというとそうではなく、花壇を両隣に真ん中に白い石の道があり、そこから森へと自然に続いているのでそこからは池の柵、そして池を見る事が出来る。美しかった。余すことなく美しかった。俺はそのままその場に座り込み、西菜さんと同じ景色を見た。
「西菜さん」
「なんだ」
「これはヤバイね」
「そうか」
「マジ西菜さんセンスヤバいって。よくここ見つけたね」
「私以外にもこの場所を知っているやつはいる」
「それでもここは凄いよ。本当に綺麗だ」
「そうか」
ん? でもこんな綺麗な景色ならツイッターに投稿するはず……。
「ってか西菜さんここの絵はツイッターに載せてなくない?」
「本当に大事なものをさらすのはバカだ」
「そっか」と、俺は答えたが西菜さんの言葉を嬉しく思った。本当に大事なものを俺に教えてくれているのか、と。西菜さんの反応は変わらないし、未だに何を考えているのかよく分からないところはあるけれど、西菜さんは俺に心を開いてくれている。そう思った。
「好きなものを使え」と、西菜さんはバックから色々なペンを出した。えんぴつ、沢山の色付きボールペン、色鉛筆、クレヨン、そして透明な筆ペンみたいなペン。
「これはなに?」と俺はその透明な筆ペンを持った。
「水筆ペン」
「水筆ペン?」
西菜さんはバックから小さいノートを取り出して、赤色の色鉛筆でぐるぐると円を描いた。水筆ペンをそれでなぞると……。
「おお!」と思わず声が出た。赤色がゆっくりと水に溶け広がっていく。
「難しいからお前には無理だろうけどな」
と、サラッと西菜さんは言ったが、その水筆ペンは西菜さんが持っているもの以外にもう一つ用意されていた。
「やりたくなったらやってみる」
「そうか」
西菜さんは画板を取り出して俺に渡した。続けて大きなスケッチブックを取り出して一枚破り、それも俺に渡すとおもむろに絵を描き始めた。西菜さんは画板を使わないようだ。何をどう描くのか気になって最初の方は見ていたんだが、真珠のように完全に集中している顔をし始めたので俺はそのまま黙って自分でも絵を描き始めた。
集中していた。とても集中していた。描いているうちに、『絵を描く』という事が台本と似ている事に気付いた。大枠を決める、『カクこと』を決める、『カクもの』を決める、バランスを考える、細部を描く、強調したいものを描く、『イロを使い分ける』、『ミタトキの印象』を考える、そして、感じたものを表現するにはやっぱり技術が必要だ。
集中がいつまでも続くものではないので、俺は西菜さんの絵と西菜さんを時々見た。あぁ、西菜さんもアーティストなんだなと思った。自分の世界を持っているのがすぐにわかった。それを感じて、西菜さんに対する印象がまた少し変わった。真珠とそんなに変わりはないんじゃないかとさえ思った。ベクトルとしては西菜さんがマイナスで、真珠の方がプラスにはなるだろうけど。今はそうではないけれど、西菜さんはネガティブな方向に一直線だったと思う。真珠は芝居が絡むと良い舞台にするために一直線だ。俺もきっとそうだ。西菜さんを前にこんな事を思うのは悪い事かもしれないけれど、姉貴に言われた事も理解できてたし、西菜さんが俺の事を無視したりしてたのは、西菜さんとの関係を断つ決断をするのに十分なものだったとは思う。だけど俺はなぜかそれが出来なかった。そういったところで俺も変に一直線なのかもしれない。
綺麗な絵だった。西菜さんが描いた絵はとても綺麗だった。目に見える風景を描いてはいるものの、メインになっているのは色とりどりの花たちとやわらかい木漏れ日、そして眩しいくらいに輝く水面だということが分かる。ツイッターで見たどの絵よりも綺麗で、明るい絵だった。
「綺麗だね」と俺は言った。
水筆ペンを使って優しく広げられたような赤い陽が、いつの間にかあたりを包んでいた。
「お前はやっぱり下手だな」
「はは。けど楽しかったよ」
「だけど下手なりにいい絵だ」
「え? なんで?」
「ちゃんと描こうとしてるのがわかる。続けたらきっとうまくなる」
「そっか。ありがとう」
すると西菜さんは無言で片付けを始めた。それに倣って俺も使わせて貰った道具を片付ける。楽しい時間っていうのはあっという間に過ぎるもんだ。と、西菜さんは先ほどまで描いていた絵だけを残してしまわずにいた。改めてその美しい絵を見る。あぁ、水が渇いていないのか。
「もう少し時間が掛かる」
「りょーかい」
「お前の絵なんだけど」
「ん?」
「持って帰るの無理だろ」
実は俺もそこを考えていた。
「スケッチブックに挟んで私が持って帰ってやる。また今度渡す」
「ありがとう」
水面から反射する赤色の明度が徐々に下がり、穏やかに時間が移ろう。風の質感がすこし冷たくなる。公園の照明に明かりが灯る。小さい子供たちが笑いながら出口に向かっている。
「「あの」「おい」」
と、西菜さんと声が被った。
「どうぞ」
「いい。お前から離せ」
西菜さんを見る。俺から視線を外し、先に話をするよう促している感じがした。
「それじゃあ」と俺は前置きをして「……西菜さんに訊きたい事があってさ……」と西菜さんの様子を伺いながら話し出す。
「なんだ」
「その……、出来れば怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「お前はわたしを怒らせるような事を話そうとしているのか」
「いや、全然そんな事はないと思う。怒らせようとしている事は一つもないよ」
「だったら話せばいい」
緊張していた。西菜さんにもう一歩踏み込んで行くことになる。だけど、ここで訊かなかったら多分後悔する。話している感じ、西菜さんもきっと怒らないとは思う。
「あの……、西菜さん」
「だからなんだ」
「西菜さん、何か大変な事があった?」
「は?」
「いやだから、その、初めから話すと朝の教室の事なんだけど」
「あぁ……、あれか」
「そう。それで、」と、俺は俺が考えて来た事を西菜さんに伝える覚悟を持った。「俺、あの時も言ったけど本当に西菜さんの事が心配だったんだ。いやっ、その、悪い意味じゃなくて本当に純粋に、西菜さんの事が心配っていうか気掛かりっていうか。それで、色々と考えたんだ。考えていく中で色々と変わっていったんだけど、西菜さんが教室であぁいった事をしようとしていたのは、それまでの西菜さんの人生っていうか、体験した事を通して何かが蓄積されていって、その中で溢れ出したものがあの日の朝に繋がったのかなって……。」
西菜さんは話を聴く姿勢を保ってくれている様に見えた。
「そうやって考えて、そしたらやっぱり俺は……。なんて言うんだろう、その、西菜さんが体験した出来事っていうのは変わらない事だけど、そこに対する西菜さんの感じ方っていうか、そういったものでなんていうか……。とにかくあの日の朝みたいな行動、西菜さん自身で自分を傷つけるような事になるのが絶対に嫌だって思って」
「……結局お前は何が言いたい」
「あぁ、ごめん分かり辛くて。だから……」と、俺は少し考えた。俺は西菜さんになにが言いたい。どうなって欲しい。
「だから……、俺が西菜さんに言うような話じゃないかもしれないし、本当に余計なおせっかいかもしれないけれど……。俺は西菜さんが自分を傷つけるような考えを持って欲しくないし、持つ必要はないと思う。だから、その、なんて言うか……とにかく楽しく過ごして欲しい。そして出来れば笑っていてほしい」
話し終えた後、西菜さんは少し黙っていた。俺が言った事を考えてくれているようだった。
「……お前は」
「はい」
「本当におせっかいだな。お前には関係ない」
「そうだけど、本当に嫌だったから、ごめん」
「そうか」
そう言うと、西菜さんは自分で描いた絵を触って渇き具合を見た。そしてそのままスケッチブックを折りたたんだ。
「お前の絵をかせ」
と、俺は自分の絵を渡した。西菜さんはそれをスケッチブックに挟み込み、バックの中にしまうと立ち上がった。
「帰る」
「そうだね」
と、俺は立ち上がり、先に歩いている西菜さんの後をついていった。
森の部分を抜け、池の周りを歩く。視線の先には二、三組の人達がベンチに座って神殿を見ているのが分かった。神殿は赤や橙でライトアップされていた。綺麗だった。
俺はとぼとぼと歩いていた。西菜さんの言うように、余計な事を話してしまったのかもしれない。自分でもわかっていた。踏み込む必要はなかったかもしれない。けれど、それでも俺は西菜さんにもっと笑っていて欲しいと思った。
「神殿綺麗だね」と、俺はちょうど対岸の神殿を通り過ぎる時に言った。
「そうだな」
返事があった事にホッとした。
「こんなライトアップなんてあったっけ?」
「二年前からライトアップされるようになった。季節によって色も変わる」
「へーそうなんだ。そしたら冬は青とか白とかそんな感じ?」
「そうだ」
「へー」
「また来たらいい」
「そうだね」
と、会話をしているうちに神殿と池はどんどん遠くなっていく。今日は楽しかった。西菜さんも最後に俺が話す前までは楽しんでいてくれていたと思うけれど、それが今でも続いてくれていればいいな。
なんて話をすればいいのか分からなかった。だけど、話さなくても別にいいのかな。という思いもあった。西菜さんから怒っているような感じはしなかった。怒っていないのであればそれで良いし、静かになっている公園の雰囲気が心地良かった。
てくてく歩いて行った。あそこの曲がり角を曲がると入ってきた入口だ。
「わたしは」と、西菜さんは止まった。
「わたしは、昔の父親に虐待をされていた」
「え?」
「昔の父親に虐待をされていた」
すると、西菜さんは帽子を近くのベンチに置き、黒いシャツのボタンを外し始めた。
「え!?」
そのまま西菜さんはボタンを外し、腕のところまで脱いだ。黒のキャミソール姿になった西菜さんは俺に見えるように肩をこちらに向け、半身の態勢をとった。
「タバコを押し付けられていた」
見ると、西菜さんの肩辺りには何度も繰り返されないとならないような、いびつな形に変形した肉の後があった。
「小学校に入る前だった。わたしは細かいことは覚えていない。だけどとにかく怖かったことは覚えている」
言葉が出なかった。ただ、とにかく悲しい気持ちが湧き上がった。あぁそうか……だから西菜さんはいつもプールを見学していたのか……。そうか……。そうか……。
西菜さんはシャツを着直した。
「小学校一年で昔の父親と母親は離婚をした。そして、母親は小学校六年生の時に再婚した」
俺は黙って話を聴いていた。鈴虫の鳴く声が聞こえていた。
「新しい父親は良い人だった。とても優しかった。私も小学校六年生だったから考える力があった。最初はその父親に対する恐怖心もあったが、その父親は私を本当の娘のように扱ってくれた、優しかった。私の事を世界で一番の宝物だと言ってくれた。わたしは信用した。そして、中学一年の時に弟が出来た。わたしも喜んだ。両親も喜んでいた」
西菜さんは、言葉に詰まっていた。
「だけど……、母親が浮気をした。母親はどうしようもないクズだった。だから昔の父親のような男と結婚したんだろう。せっかく新しい父親と一緒になったのに、浮気をした。二回も浮気をした。弱い人間だった。クズだった。両親は離婚する事になった。私は父親と一緒に住みたかった。だけど、新しい父親はそれを拒んだ。弟だけを、新しい父親は引き取った。私は……世界で一番の宝物ではなかったみたいだ……。私は母親と生活する事を拒否した。児童養護施設も拒否した。二人は金を払うことになった。そして、私は去年の冬から一人暮らしを始めた」
俺なんかとは住む世界が違っていた。想像をはるかに超える現実を過ごしている西菜さんの感情を理解出来なかった。一体それはどんな気持ちなんだ。父親に虐待されて、気持ちを裏切られて……。訳が分からない。なんでそんな事が。
西菜さんはベンチに置いていた帽子を取り再び被った。俺はその様子を見ていた。
「お前が聴きたかったのは私の話じゃないのか」
「いや、その、そうだけど」
「余計なおせっかいだな」
「ごめん」
「なにがだ」
「その、」
胸につかえるものがあった。
西菜さんの話を想像していた。
小さい頃、何があったかは知らない。けれど、どんな理由があったとしてもタバコの火を押し付けられるなんて事は間違っている。なんでそんな事になるんだ。どうしてそんな事をするんだ……。
父親も、母親も、なんなんだ。
なんで西菜さんがそんな目に合わないといけないんだ。
なんで西菜さんがそんな思いをしなきゃいけないんだ。
なんでそんな思いをわざわざ……。
なんでそんなことが起こるんだ……。
「なんでお前が泣く」
「だって……」
西菜さんの世界を見ようとした。
西菜さんの世界を、俺は直視する事ができなかった。
次の父親と知り合って……。その人が西菜さんの新しい父親になった。だけどそれも本当の父親じゃなかった。なんだよそれ……。おかしいだろ。なんなんだそれ。何でそんな事になる……。
なんでそんな行動をする。
なんで、そんな決断をする……。
高校生で一人暮らしってなんだよ。
辛すぎるじゃないか。
そんなの、悲しいじゃないか──。
「意味がわからないやつだな」
「ごめん」と、俺は頬をぬぐった。
「ただ私は話しただけだ。同情はするな」
同情……なのかこれは、俺は西菜さんに同情しているのか。同情ってなんだ。
「西菜さん」
口が勝手に動いていた。
「俺は……、なんて言って良いか分からない。なんて言って良いか全然わからない……。だけど、西菜さん」
「なんだ」
「話してくれて、ありがとう」
西菜さんは目を大きく見開いて、そのあとすぐに下を向いた。
「話させてごめん。だけど、ありがとう」
西菜さんと学校で話し掛ける事をやめた俺だったが、そうすると今度は西菜さんの方からツイッターでメッセージが届くようになった。俺は西菜さんが心を開いてくれている事を嬉しく思った。西菜さんは絵、俺は芝居が好きなのでその話をよくしていた。西菜さんの絵はネットの好きなアーティストに影響を受けているらしい。そういったやりとりを重ねているうちに、ほぼ毎日連絡するようになっていった。そしてある日、西菜さんが『久し振りに公園の絵を描こうと思っている』と言って、俺も同行する事になった。それが日曜日の今日だ。
俺の家から電車で三駅離れたところにある、市内一の広さを誇るこの公園はアスレチックや綺麗な池もある事から周辺の人気スポットだった。
デートではない、デートではないと思いつつ、姉妹と真珠以外で女性と二人で会うのは初めてだったので若干の緊張をした。私服でどこかに出かけるのも久し振りだ。公園の出入口は幾つもあるのだが、その中でも一番大きくて立派な門構えをしている正面入り口で待ち合わせをした。
約束の五分前、十二時五十五分に俺は正門に着いた。見渡すと西菜さんはいない様だったのでツイッターのメッセージで連絡をした。
『正面向かって左側の方にいるね』と、西菜さんからすぐに返信が着た。
『わたしは右の方にいる』
あれいたっけ?と、思いながら俺は正門右側に向かった。西菜さんらしき人は見当たらない。あれ?と思いその場所に立っている女性を見て回った。マジか!?
「なんだその顔」
「いや、学校での感じと全然違うからビックリして! 西菜さんお洒落なんだね! それに今日はコンタクト? メイクするんだね! なんかカッコイイね」
西菜さんは白のワンポイントが入った黒いキャップ、黒の生地に赤い薔薇があしらわれた少し大きめの襟付き長袖シャツ、下は白をベースにいくつかの幾何学模様が薄い黒色でプリントされた下に向けて広くなるダボダボしたズボン。足元は黒い靴下でシュッとさせ、黒のローファーのような艶のある靴。目元はメイクで赤くなっていてキリっとした印象。そして足元には男からしても大きいくらいの黒いバック。姉妹や真珠とはまた違った感じのおしゃれさんだった。
「そんなにまじまじと見るな」と西菜さんはどうやら照れているようだ。
「西菜さんでも照れる事があるんだね」と俺は笑った。
「死ね」
「ははは」
「笑ってんじゃねーよ」
「はーいすいませーん」
「死ね。……お前はなんか外人みたいだな」
俺は白い長そで襟付きシャツに薄いブルーのジーンズ、茶色の革靴。
「まぁ一応海外の血が入っているからね。で、どこに行くの?」
「そうなのか?」と、西菜さんはビックリしているようだった。
「そうだよ~。母さんがイビーと同じニュージーランド人でさ。まぁイビーと母さんは全然タイプが違うけどw」
「そうか」
「で、どこ行く?」
「中央に大きな池があってそこに神殿みたいな綺麗な建物があるだろ」
「あぁ~!あるねあるね! あそこね! 行こっか! 荷物重いでしょ? 持つよ!」
俺は手を差し伸べた。
「……自分の荷物だからいい」
「いやだけど俺用のあの~ほら、絵を描く時の板のやつとか」
「画板」
「そう画板! 画板とか色々持ってきてくれてるんでしょ?」
「別にいいと言ってる」
「わかった! 疲れたら言ってね!」
思いの外、俺は自分が楽しんでいる事に気付いた。絵を描くのも久し振りだし、この公園に来る事も久し振りだった。確か小学校二年生の時に今日と同じ様に写生をしにみんなで来た事もあった。
「ここに来るのはどれくらいぶりなの?」
「去年の二月が最後」
「そっか~」と言いながら、俺は西菜さんのツイートを思い返した。二月くらいには確かもう風景画を描いていなかったはずだ。
「俺はたぶん小学校卒業ぶりかなぁ~。中学に入ってからは演劇ばっかっだったからさ~」
「そう」
と、西菜さんと俺はぽつぽつ話しながら歩いた。
「うおぉぉぉ!」と、目的地の池が見えると同時に俺は走って行った。
「こんな感じ! こんな感じだよ西菜さん! 早く~!」と結構な大声で呼んだが西菜さんは歩くペースを変えなかった。
「恥ずかしいからやめろお前。周りの人が笑ってたぞ」
「いやぁほとばしる感情を抑える事が出来なくてさw」
「ガキか」
「高校生はまだガキなんじゃねぇかな? まぁとにかく楽しみだ! 描こうよ!」
と、西菜さんは池の奥の方に向かって歩いて行った。ここじゃないのか? と、思ったが、きっと西菜さんのお気に入りの場所があるんだろうと感じた俺は黙って後ろをついていく。
人工の池は長方形をしていて、西菜さんは長辺の真ん中あたりからそのまま真っ直ぐ短辺の端を目指している様だった。池には等間隔で白い石のようなベンチが並べられていて、柵の高さもそのベンチの高さと同じくらい。この辺りでは珍しく、西洋の形を模して創られているらしい。西菜さんは俺の事を見向きもしないでてくてく歩く。
てくてく歩く。
てくてく歩く。
てくてく歩く。
対岸にある神殿のような建物は長辺の真ん中にある。てくてく歩くとそれがどんどん遠くなっていく。俺なら、っていうか男ならあの白くて綺麗で格好良い神殿を描くだろうけど、やっぱり女の子の感性は違うんだよなぁ。とか、イビーとここに来たらイビーは喜んでくれるかな。とか、そういう雑多な事を考えていた。
短辺の隅に来たのでもう座るのかなと見ていたが、今度は池の短辺に沿って歩き始めた。てくてく歩く西菜さん。それも真ん中くらいまでくると今度は右手にあった森の中に入って行った。そしてようやく木の下で荷物を下ろした。荷物を置いた西菜さんは振り返って池の方を見ながら座った。俺も西菜さんにつられて振り返った。息を飲む光景がそこにあった。
木の葉っぱが薄いカーテンのようになり微かに太陽の光を通す。そして、その木の太い枝と枝の間のちょうど開いた空間に、すっぽりと収まる神殿とその岸辺。下に視線を落とすと花壇がある。赤、黄、橙、紫、白、そういった色とりどりの綺麗な花が咲いていて、その先にある池の柵は多分座ると見えなくなる。池の柵が全て見えないのかというとそうではなく、花壇を両隣に真ん中に白い石の道があり、そこから森へと自然に続いているのでそこからは池の柵、そして池を見る事が出来る。美しかった。余すことなく美しかった。俺はそのままその場に座り込み、西菜さんと同じ景色を見た。
「西菜さん」
「なんだ」
「これはヤバイね」
「そうか」
「マジ西菜さんセンスヤバいって。よくここ見つけたね」
「私以外にもこの場所を知っているやつはいる」
「それでもここは凄いよ。本当に綺麗だ」
「そうか」
ん? でもこんな綺麗な景色ならツイッターに投稿するはず……。
「ってか西菜さんここの絵はツイッターに載せてなくない?」
「本当に大事なものをさらすのはバカだ」
「そっか」と、俺は答えたが西菜さんの言葉を嬉しく思った。本当に大事なものを俺に教えてくれているのか、と。西菜さんの反応は変わらないし、未だに何を考えているのかよく分からないところはあるけれど、西菜さんは俺に心を開いてくれている。そう思った。
「好きなものを使え」と、西菜さんはバックから色々なペンを出した。えんぴつ、沢山の色付きボールペン、色鉛筆、クレヨン、そして透明な筆ペンみたいなペン。
「これはなに?」と俺はその透明な筆ペンを持った。
「水筆ペン」
「水筆ペン?」
西菜さんはバックから小さいノートを取り出して、赤色の色鉛筆でぐるぐると円を描いた。水筆ペンをそれでなぞると……。
「おお!」と思わず声が出た。赤色がゆっくりと水に溶け広がっていく。
「難しいからお前には無理だろうけどな」
と、サラッと西菜さんは言ったが、その水筆ペンは西菜さんが持っているもの以外にもう一つ用意されていた。
「やりたくなったらやってみる」
「そうか」
西菜さんは画板を取り出して俺に渡した。続けて大きなスケッチブックを取り出して一枚破り、それも俺に渡すとおもむろに絵を描き始めた。西菜さんは画板を使わないようだ。何をどう描くのか気になって最初の方は見ていたんだが、真珠のように完全に集中している顔をし始めたので俺はそのまま黙って自分でも絵を描き始めた。
集中していた。とても集中していた。描いているうちに、『絵を描く』という事が台本と似ている事に気付いた。大枠を決める、『カクこと』を決める、『カクもの』を決める、バランスを考える、細部を描く、強調したいものを描く、『イロを使い分ける』、『ミタトキの印象』を考える、そして、感じたものを表現するにはやっぱり技術が必要だ。
集中がいつまでも続くものではないので、俺は西菜さんの絵と西菜さんを時々見た。あぁ、西菜さんもアーティストなんだなと思った。自分の世界を持っているのがすぐにわかった。それを感じて、西菜さんに対する印象がまた少し変わった。真珠とそんなに変わりはないんじゃないかとさえ思った。ベクトルとしては西菜さんがマイナスで、真珠の方がプラスにはなるだろうけど。今はそうではないけれど、西菜さんはネガティブな方向に一直線だったと思う。真珠は芝居が絡むと良い舞台にするために一直線だ。俺もきっとそうだ。西菜さんを前にこんな事を思うのは悪い事かもしれないけれど、姉貴に言われた事も理解できてたし、西菜さんが俺の事を無視したりしてたのは、西菜さんとの関係を断つ決断をするのに十分なものだったとは思う。だけど俺はなぜかそれが出来なかった。そういったところで俺も変に一直線なのかもしれない。
綺麗な絵だった。西菜さんが描いた絵はとても綺麗だった。目に見える風景を描いてはいるものの、メインになっているのは色とりどりの花たちとやわらかい木漏れ日、そして眩しいくらいに輝く水面だということが分かる。ツイッターで見たどの絵よりも綺麗で、明るい絵だった。
「綺麗だね」と俺は言った。
水筆ペンを使って優しく広げられたような赤い陽が、いつの間にかあたりを包んでいた。
「お前はやっぱり下手だな」
「はは。けど楽しかったよ」
「だけど下手なりにいい絵だ」
「え? なんで?」
「ちゃんと描こうとしてるのがわかる。続けたらきっとうまくなる」
「そっか。ありがとう」
すると西菜さんは無言で片付けを始めた。それに倣って俺も使わせて貰った道具を片付ける。楽しい時間っていうのはあっという間に過ぎるもんだ。と、西菜さんは先ほどまで描いていた絵だけを残してしまわずにいた。改めてその美しい絵を見る。あぁ、水が渇いていないのか。
「もう少し時間が掛かる」
「りょーかい」
「お前の絵なんだけど」
「ん?」
「持って帰るの無理だろ」
実は俺もそこを考えていた。
「スケッチブックに挟んで私が持って帰ってやる。また今度渡す」
「ありがとう」
水面から反射する赤色の明度が徐々に下がり、穏やかに時間が移ろう。風の質感がすこし冷たくなる。公園の照明に明かりが灯る。小さい子供たちが笑いながら出口に向かっている。
「「あの」「おい」」
と、西菜さんと声が被った。
「どうぞ」
「いい。お前から離せ」
西菜さんを見る。俺から視線を外し、先に話をするよう促している感じがした。
「それじゃあ」と俺は前置きをして「……西菜さんに訊きたい事があってさ……」と西菜さんの様子を伺いながら話し出す。
「なんだ」
「その……、出来れば怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「お前はわたしを怒らせるような事を話そうとしているのか」
「いや、全然そんな事はないと思う。怒らせようとしている事は一つもないよ」
「だったら話せばいい」
緊張していた。西菜さんにもう一歩踏み込んで行くことになる。だけど、ここで訊かなかったら多分後悔する。話している感じ、西菜さんもきっと怒らないとは思う。
「あの……、西菜さん」
「だからなんだ」
「西菜さん、何か大変な事があった?」
「は?」
「いやだから、その、初めから話すと朝の教室の事なんだけど」
「あぁ……、あれか」
「そう。それで、」と、俺は俺が考えて来た事を西菜さんに伝える覚悟を持った。「俺、あの時も言ったけど本当に西菜さんの事が心配だったんだ。いやっ、その、悪い意味じゃなくて本当に純粋に、西菜さんの事が心配っていうか気掛かりっていうか。それで、色々と考えたんだ。考えていく中で色々と変わっていったんだけど、西菜さんが教室であぁいった事をしようとしていたのは、それまでの西菜さんの人生っていうか、体験した事を通して何かが蓄積されていって、その中で溢れ出したものがあの日の朝に繋がったのかなって……。」
西菜さんは話を聴く姿勢を保ってくれている様に見えた。
「そうやって考えて、そしたらやっぱり俺は……。なんて言うんだろう、その、西菜さんが体験した出来事っていうのは変わらない事だけど、そこに対する西菜さんの感じ方っていうか、そういったものでなんていうか……。とにかくあの日の朝みたいな行動、西菜さん自身で自分を傷つけるような事になるのが絶対に嫌だって思って」
「……結局お前は何が言いたい」
「あぁ、ごめん分かり辛くて。だから……」と、俺は少し考えた。俺は西菜さんになにが言いたい。どうなって欲しい。
「だから……、俺が西菜さんに言うような話じゃないかもしれないし、本当に余計なおせっかいかもしれないけれど……。俺は西菜さんが自分を傷つけるような考えを持って欲しくないし、持つ必要はないと思う。だから、その、なんて言うか……とにかく楽しく過ごして欲しい。そして出来れば笑っていてほしい」
話し終えた後、西菜さんは少し黙っていた。俺が言った事を考えてくれているようだった。
「……お前は」
「はい」
「本当におせっかいだな。お前には関係ない」
「そうだけど、本当に嫌だったから、ごめん」
「そうか」
そう言うと、西菜さんは自分で描いた絵を触って渇き具合を見た。そしてそのままスケッチブックを折りたたんだ。
「お前の絵をかせ」
と、俺は自分の絵を渡した。西菜さんはそれをスケッチブックに挟み込み、バックの中にしまうと立ち上がった。
「帰る」
「そうだね」
と、俺は立ち上がり、先に歩いている西菜さんの後をついていった。
森の部分を抜け、池の周りを歩く。視線の先には二、三組の人達がベンチに座って神殿を見ているのが分かった。神殿は赤や橙でライトアップされていた。綺麗だった。
俺はとぼとぼと歩いていた。西菜さんの言うように、余計な事を話してしまったのかもしれない。自分でもわかっていた。踏み込む必要はなかったかもしれない。けれど、それでも俺は西菜さんにもっと笑っていて欲しいと思った。
「神殿綺麗だね」と、俺はちょうど対岸の神殿を通り過ぎる時に言った。
「そうだな」
返事があった事にホッとした。
「こんなライトアップなんてあったっけ?」
「二年前からライトアップされるようになった。季節によって色も変わる」
「へーそうなんだ。そしたら冬は青とか白とかそんな感じ?」
「そうだ」
「へー」
「また来たらいい」
「そうだね」
と、会話をしているうちに神殿と池はどんどん遠くなっていく。今日は楽しかった。西菜さんも最後に俺が話す前までは楽しんでいてくれていたと思うけれど、それが今でも続いてくれていればいいな。
なんて話をすればいいのか分からなかった。だけど、話さなくても別にいいのかな。という思いもあった。西菜さんから怒っているような感じはしなかった。怒っていないのであればそれで良いし、静かになっている公園の雰囲気が心地良かった。
てくてく歩いて行った。あそこの曲がり角を曲がると入ってきた入口だ。
「わたしは」と、西菜さんは止まった。
「わたしは、昔の父親に虐待をされていた」
「え?」
「昔の父親に虐待をされていた」
すると、西菜さんは帽子を近くのベンチに置き、黒いシャツのボタンを外し始めた。
「え!?」
そのまま西菜さんはボタンを外し、腕のところまで脱いだ。黒のキャミソール姿になった西菜さんは俺に見えるように肩をこちらに向け、半身の態勢をとった。
「タバコを押し付けられていた」
見ると、西菜さんの肩辺りには何度も繰り返されないとならないような、いびつな形に変形した肉の後があった。
「小学校に入る前だった。わたしは細かいことは覚えていない。だけどとにかく怖かったことは覚えている」
言葉が出なかった。ただ、とにかく悲しい気持ちが湧き上がった。あぁそうか……だから西菜さんはいつもプールを見学していたのか……。そうか……。そうか……。
西菜さんはシャツを着直した。
「小学校一年で昔の父親と母親は離婚をした。そして、母親は小学校六年生の時に再婚した」
俺は黙って話を聴いていた。鈴虫の鳴く声が聞こえていた。
「新しい父親は良い人だった。とても優しかった。私も小学校六年生だったから考える力があった。最初はその父親に対する恐怖心もあったが、その父親は私を本当の娘のように扱ってくれた、優しかった。私の事を世界で一番の宝物だと言ってくれた。わたしは信用した。そして、中学一年の時に弟が出来た。わたしも喜んだ。両親も喜んでいた」
西菜さんは、言葉に詰まっていた。
「だけど……、母親が浮気をした。母親はどうしようもないクズだった。だから昔の父親のような男と結婚したんだろう。せっかく新しい父親と一緒になったのに、浮気をした。二回も浮気をした。弱い人間だった。クズだった。両親は離婚する事になった。私は父親と一緒に住みたかった。だけど、新しい父親はそれを拒んだ。弟だけを、新しい父親は引き取った。私は……世界で一番の宝物ではなかったみたいだ……。私は母親と生活する事を拒否した。児童養護施設も拒否した。二人は金を払うことになった。そして、私は去年の冬から一人暮らしを始めた」
俺なんかとは住む世界が違っていた。想像をはるかに超える現実を過ごしている西菜さんの感情を理解出来なかった。一体それはどんな気持ちなんだ。父親に虐待されて、気持ちを裏切られて……。訳が分からない。なんでそんな事が。
西菜さんはベンチに置いていた帽子を取り再び被った。俺はその様子を見ていた。
「お前が聴きたかったのは私の話じゃないのか」
「いや、その、そうだけど」
「余計なおせっかいだな」
「ごめん」
「なにがだ」
「その、」
胸につかえるものがあった。
西菜さんの話を想像していた。
小さい頃、何があったかは知らない。けれど、どんな理由があったとしてもタバコの火を押し付けられるなんて事は間違っている。なんでそんな事になるんだ。どうしてそんな事をするんだ……。
父親も、母親も、なんなんだ。
なんで西菜さんがそんな目に合わないといけないんだ。
なんで西菜さんがそんな思いをしなきゃいけないんだ。
なんでそんな思いをわざわざ……。
なんでそんなことが起こるんだ……。
「なんでお前が泣く」
「だって……」
西菜さんの世界を見ようとした。
西菜さんの世界を、俺は直視する事ができなかった。
次の父親と知り合って……。その人が西菜さんの新しい父親になった。だけどそれも本当の父親じゃなかった。なんだよそれ……。おかしいだろ。なんなんだそれ。何でそんな事になる……。
なんでそんな行動をする。
なんで、そんな決断をする……。
高校生で一人暮らしってなんだよ。
辛すぎるじゃないか。
そんなの、悲しいじゃないか──。
「意味がわからないやつだな」
「ごめん」と、俺は頬をぬぐった。
「ただ私は話しただけだ。同情はするな」
同情……なのかこれは、俺は西菜さんに同情しているのか。同情ってなんだ。
「西菜さん」
口が勝手に動いていた。
「俺は……、なんて言って良いか分からない。なんて言って良いか全然わからない……。だけど、西菜さん」
「なんだ」
「話してくれて、ありがとう」
西菜さんは目を大きく見開いて、そのあとすぐに下を向いた。
「話させてごめん。だけど、ありがとう」
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