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【-現在⑧- 突然に、感情は、いつだって】
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「どうした西菜?」
西菜というワードを廊下で聞いて俺はビックリした。授業中なのにどうしたんだ?
「体調が悪いので保険室に行っていいですか」
「そんなに悪いのか?」
「はい」と、西菜さんと太田先生のやり取りの後、イスを引く音が聞こえた。俺は中の様子を想像しながら物理の教科書を探していた。なかなか見つからない。と、開けっ放しにしていた教室前方のドアから西菜さんが出て来た。俺は小さい声で「大丈夫?」と訊いた。西菜さんは「大丈夫だ」と小さく返してそのまま保険室に向かって歩き始め……と、なぜか俺の方に近づいて来た。
どうしたの? と声を掛けようとしたその時、西菜さんの顔がずいっと伸びて来て唇に感触が生まれた。
!!!?
何が起こったか理解出来なかった。俺はやっとの事で見つけた物理の教科書を右手で強く握っていた。そして、ハッと我に返った俺は西菜さんの肩を掴み、距離を空けるようにその身体を押しやった。
西菜さんはじっと俺の瞳を見詰め、その後に何をするでもなくそのままフッと歩き出した。そうして、俺の気持ちを置き去りにしたまま階段を下りていった。先ほどから教室では先生の声が聞こえ始めていた。
訳が分からないまま俺はとりあえず教室に戻った。そして教科書を開き、授業を受けた。
五時間目の授業が終わっても俺は呆けていた。あれは……紛れもなくキスだった。俺の人生初めてのキスだった。人生初めてのキスを俺は西菜さんとした。イビーじゃなかった。
西菜さんは一体どうしたんだ。と、訳が分からなかった。西菜さんが誰彼かまわずキスをするような人には到底思えなかった。いつも以上に回転をしてくれない頭の中で俺は何とか状況を理解しようと考えた。もしかして……西菜さんは俺の事を好きなのか? と、自惚れかもしれない様な事を考えた。だけど、そうじゃなかったらキスなんかしないだろうとも思った。自然にそう思ってしまっていた。唇に感触が残っていた。とても繊細な感覚が残っていた。そして俺は気付いた。
嫌な気持ちになっていない。
イビーとするはずだった俺のファーストキス。それが西菜さんになったのに、俺は不快感を抱かなかった。なんでだ。と、考えた。まさか……。と思った。
その時、西菜さんが保険室から帰って来た。教室後方の扉から入ってきたのだろう、西菜さんが彼女の席に来た事でそれを認識した。西菜さんは席に着くと横に掛けてあったバックを机の上に置き、教科書を入れ始めた。そしてそのままバックを持って席を立った。
バックを持った西菜さんは教室前方の扉に向かって歩いていた。俺の席は右二列目の三番目のところにあって、都合の良い事に前の席の生徒はいなかった。西菜さんが俺の視線上を通った。
「西菜さん?」
と、俺は話し掛けた。西菜さんは俺の事を一瞥し、そのまま教室を出て行った。
そのまま早退したんだろう事は明確だった。それより……。それよりだ。俺の気持ちだ。一体何だこれは。と、俺はふとイビーを見た。イビーは恐らく俺の事を見ていた。俺の動きに気付き、視線を急いで外したように見えた。
イビー。と、俺はイビーの名前を心で言った。イビー。あぁ、それに道山、姉貴、恵乃、俺は自分の気持ちがわからくなっちまった。なんなんだこれ……。なんだこれ。
自分の心に生じている違和感は明確だった。その違和感を違和感として認識する事は十分できていた。だけどそれが恋愛感情なのかどうかが分からなかった。西菜さんに対して、付き合いたいとか、結婚したいという感情は正直湧いていなかった。だけど、キスをされたのに全く不快に思ってもいなかった。自分の気持ちが分からなかった。意味も分からなかった。
そもそも恋愛感情ってなんなんだ。と、俺は考え直していた。俺はイビーと結婚したいと思っている。そしてそれは今も変わりがない。そこには間違いなく恋愛感情がある。だけど、もしかしたら西菜さんが俺の事を好きなんじゃないかと考えて、それに対して嫌な感じはしなかった。寧ろ嬉しくもあった。だけど、それは恋愛感情ではなくて恐らく『人として好きだから』のはず。『人として好きになっているから嫌な感じがしない』だと思う。いや、どうなんだよ一体。なんなんだ。人として好きだからっていきなりキスをされたら嫌にならないか? わからない。そんな経験した事なんてないんだ。分かるはずがない。
ふと自分の唇を触る。もうずいぶん前の事なのに未だに感覚が残っている。なんなんだこの気持ち。
身体的な接触……。そうだ。身体的な接触だ。しかもそれが特別な意味を持つ部分の接触だったから俺の気持ちが動いているんじゃないのか。つまり、キスをしなければ自分の気持ちで悩む事は無かったんじゃないのか? って事は、今のこの感情は西菜さんがキスをしてきたから連鎖的に思っているだけで、もともとはそんな事はなかった……?
いや、それも多分違う。俺が西菜さんとのキスに対し嫌悪感を抱かないって事は、もともと持っている西菜さんへの気持ちの中に少なからず好意があったって事じゃないのか? そうじゃなければ俺は嫌悪感を持っていたはず。そして予想外の行動ではあったけれど、西菜さんの行動に対して理解できるだけの西菜さんの背景を感じ取れているとは思う。いきなりキスをするという事を選択した西菜さんの思考の結果としての行動。西菜さんの中にその正当性、その根拠を求めた時に、キスという行動は一応予測できる。予測できるということは、西菜さんの事を理解しているってことだ。だから俺は西菜さんの事を理解できるようになっていて……今回の事を肯定的に受け入れている?
なんなんだ一体。どうしたんだ西菜さん。そして俺も。なんなんだ。考えなんてまとまらない。何がどうなってんだ。と、携帯がピロリンと鳴った。
『今日はイビー来てたわよ。この間はただ体調が悪くて休んだだけだって』
真珠からだった。時刻は十八時三十二分。かなり長い時間思考の旅に出ていた事が分かった。
俺はすぐに返信をした。
『そっか。良かった。色々と本当にごめん。ありがとう☺ 台本しっかり終わらせるぜ!』
『それは当たり前。まぁイビーの件は良かった。それであんた今日時間ある?』
『ん?』
『出来れば電話しようと思ってんだけど』
『何時?』
『十九時ちょっと過ぎくらい』
『りょーかい』
『それじゃあまた後で』
台本の事をすっかり忘れていた。真珠の事と部活の事を思い出した。とりあえずイビーは津木エリも言っていた様にこのまま部活に来てくれるっぽい。そうだ、イビーだ。イビーと俺は話さないといけない。この間はイビーの気持ちも考えないで急にごめん。って。やっぱりそこはまず伝えないと。そして本当に好きだって伝えないと。うん。そうだ。ぐちぐち考えても仕方がない。西菜さんの事は分からない。とりあえず今はぐちゃぐちゃになっちゃっているけれど、イビーとの事は部活もあるし何とかしなくてはいけない問題だ。道山だって俺のイビーへの気持ちは本物だって言ってくれていた。うん。そうだ。とりあえずイビーと話さないと。うん。イビーと話そう。と、考えていたら真珠から電話がきた。
「おつかれ。台本捗ってる?」
「なんとか今週中に終わらせる。待たせてごめん。で、どうした?」
「佳花なんだけど」
「津木さん?」
「えぇ。今日の昼休みに話をして、とりあえずイビーの事は協力してくれる事になって、それであんたがプロポーズしたって事も話したのよ」
「うん」
真珠は俺にその話をすると確認を取っていたが、それでも心はビクっと反応した。
「それで、もちろん佳花もその事は知ってるわけじゃない? で、舞台を成功させたいし大事な時期だからあんまりアンタの感情をかき乱すような事はしないでって話したんだけど」
「うん。ごめん」
「何回も言うけれどそこはホントにアンタ反省しなさいよ。全部アンタのせいだから。それで、佳花にそう話したのよ、そしたら……」
「そしたら?」
「私からアンタに言うのも佳花に悪い気がするんだけど……。話さないと説明がつかないからしょうがなく話すんだけどさ……。佳花は、『ユーマくんはそうやってイビーに思いを伝えたのに私がユーマくんに出来ないのはおかしい』って言って」
「え?」
「だから、つまり、そういう事らしくて。私も最初ビックリしたんだけさ、どうやらそうみたいで」
「マジかよ」
なんだかもう全く訳が分からない。
「佳花には佳花の考えがあってね。さすがにそれはあんたに話さないけどさ。で、佳花の言い分も理解できるものではあって。それで、あんたにお願いって言うかこれだけはやって欲しいって事があるんだけど」
「なに?」
「とりあえずイビーとの事は舞台が終わるまで一旦置いといてくれない? 舞台が終わった後にどうこうなるのは知らないけれど、とりあえず舞台に集中して。……ユーマ、私との約束覚えてるわよね? やるからには本気でやってって言ったよね? それであんたはそうするって約束をした。だけどあんたはそれを破った。そして舞台はもう動き出してる。あんたの台本で、イビーもあんたも参加する事が決まってる。一年生の目もある。アンタが断る理由がないのは分かるわよね」
「あぁわかる。わかってるよ真珠。本当にごめん。……もちろんそうする。俺も芝居に参加出来て嬉しいと思ってる。だけど、ちょっと待って、ちょっと考えさせて」
「……。」
「……。」
「……。」
「うん。分かった。さっき俺も考えてたんだけど、俺からイビーに話をする。何とか普通に話せるようにする。そうしなくちゃいけない。俺もイビーとそうしたいし、そうしないと来週からちゃんと部活に入れない」
「わかった。佳花から聴いた感じイビーも舞台はちゃんと出たいって気持ちがあるみたいだから上手くやって」
「わかった……。真珠、本当にごめん。けどありがとう」
「私は最高の舞台を創りたいだけよ。それとあんたが一旦イビーとの事を置いとくって話は佳花にするけどいい?」
「うん」
「たぶん佳花も一応は納得すると思うから、出来るだけ早くイビーと普通に話せるようにして、そして早く台本を完成させて。なんかあったらいつでも連絡くれていいから」
「わかった」
「それじゃあ、また」
色々とありすぎて頭が全く追いついていなかった。だけどとにかく、俺はイビーと話さないといけない。それだけは間違いなかった。イビーとの事をクリアにして、そこからしっかりとしていかないと……。
☆★
「来てくれてありがとう」
昼休みに部室で待っているとイビーが気まずそうにガラガラと戸を開けて入って来てくれた。まず、約束通り来てくれたことが素直に嬉しかった。そしてイビーの相変わらずの気まずそうな顔を見て、本当に申し訳ない事をした。という思いが湧いた。俺の感情がどうあれ、好きな女の子にこんな顔をさせる自分を恥じた。
「ハナシ、ナニ?」
「うん……。この間の事なんだけど……」
「……ウン」
話す内容は決まっていた。
「俺……。イビーの事をちゃんと考えていなかったと思う。本当にごめんね。いきなりプロポーズして驚いたよね? 付き合ってもいないのに、本当にごめん。だけど、俺、イビーにも言ったけど、本当にイビーの事をデステニーだと思ったんだ」
イビーは黙って聴いてくれていた。
「それで、その……。この前はいきなりすぎたし、部活もあるのに本当にごめん。だけどあの時、言葉が口から出ていたんだ。本当に、本当にそう思ったから。それで」
「NO ユーマチガウ」と、イビーは俺の言葉を遮って言った。
「ワタシモワルカッタ」
「そんなことな」
「デモ、ユーマソレダケジャナイ。ユーマキヅイテナイ」
「……何が?」
「ワタシ、ユーマスキダッタ。ダケド……ユーマキヅイテナイ。ユーマハ、ニシナサンガ、スキ」
イビーが好きだと言ってくれた。それは本当に嬉しい事のはずだった。だけど、なんでイビーの口から西菜さんの名前が出てくるんだ。
「ワタシワカル。ユーマノメ、ニシナサンミルメ、トテモヤサシイ」
「それは」そうだったのかもしれないけれど、「それは西菜さんと色々あったからそうなっているだけで、俺が本当に好きなのはイビーだよ」
「ホントウニソウオモッテル?」
イビーは真っ直ぐな目で続けた。
「ワタシ、ユーマノコトスキダッタ。ダカラエイガニイクッテキメタ。ウレシカッタ。ソノトキニモットワタシノコトスキニナッテホシカッタ……。ダケド、ユーマガワタシニプロポーズシタ。ウレシカッタケド、イヤダッタ。イイカタモイヤダッタ。ユーマハジブンノキモチガワカラナイトワタシハキヅイタ」
「そんな事ない。本気じゃなかったらプロポーズなんてするはずない」
「ダカラソレハ、ユーマガジブンニキヅイテナイ」
キスをしてからの話ならまだ心当たりはあった。だけどあの時、イビーにプロポーズをしたあの時、俺は絶対に、絶対にイビーの事が好きだった。
「イビー、俺はあの時絶対にイビーの事が大好きだった。俺は、イビーの事が大好きで、本当に結婚しようって思ってた」
「オモッテ『タ』?」
なんで、過去形になってんだ──。
俺は自分で驚いた。しかしそれでも口は動いていた。
「今でもイビーの事が好きだって気持ちはめっちゃくちゃある。だけど今、なんだかグチャグチャして……。ごめん。本当にグチャグチャしてて自分で自分がよくわからない……。だからイビー、俺はもう一度、ちゃんとイビーにプロポーズしようと思ってて……。」
形だけの言葉を吐き出している事に俺は気付いた。気付いてしまった。
「あれ?」
耳がキーンとして、空間がねじれるような違和感を感じた。俺は、いったい何を話しているんだ。
「ユーマモウイイ。プロポーズハモウシナクテイイ」
「いやっ、けど」
「ワカッタカラダイジョウブ。カエル」
「待ってッ」
俺は反射的にイビーの手を掴んだ。
「ハナセ」
そう言われても、俺はイビーの事を見詰めたまま動けなかった。
ねじ曲がってしまった時間が幾分か過ぎ、俺は右手を離した。
「ユーマノコト、ワタシワカラナイ」
「ごめん」
「……You're fucking crazy……。」(ユーマは本当に頭がおかしい)
イビーは、悲しそうに俯いていた。イビーにそんな顔をさせてしまっていた。
だけど今、俺は本当にイビーの事が大好きなのか、俺は、本当にイビーに大好きだと伝えて良いのかが分からなかった。しかし、目の前にいるイビーに対しての愛おしさは心の中にはっきりと感じていた。
「ゴメンイビー……。本当にごめん。俺が全部悪い。だけど、俺のイビーに対する気持ちに嘘はなくって……。」
どうしてこうなった。
そしてどうして西菜さんの事が浮かんでくる。
どうしてこうなった。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
どうしてこうなっちまったんだ──。
あぁ……。そうだ。部活の話をイビーにしないといけないんだった。
「それで、イビーと一緒に舞台を頑張りたいって気持ちも本物で……。だからイビー、俺のせいで色々と本当に申し訳ないんだけど、十二月の舞台まで、一緒に頑張って欲しい」
「シバイハスル。ダケド、プロポーズハシナクテイイ。ワカラナイ」
「そっか……。うん。わかった。だけどごめんね。俺はイビーの事を好きだって気持ちはあるんだ。出来ればそうしたいって気持ちはあるんだ……。とにかく、舞台の事はありがとう。ありがとうイビー」
「……マジュカラハナシキイテル。マタライシュウカラ」
「うん。ありがとう」
西菜というワードを廊下で聞いて俺はビックリした。授業中なのにどうしたんだ?
「体調が悪いので保険室に行っていいですか」
「そんなに悪いのか?」
「はい」と、西菜さんと太田先生のやり取りの後、イスを引く音が聞こえた。俺は中の様子を想像しながら物理の教科書を探していた。なかなか見つからない。と、開けっ放しにしていた教室前方のドアから西菜さんが出て来た。俺は小さい声で「大丈夫?」と訊いた。西菜さんは「大丈夫だ」と小さく返してそのまま保険室に向かって歩き始め……と、なぜか俺の方に近づいて来た。
どうしたの? と声を掛けようとしたその時、西菜さんの顔がずいっと伸びて来て唇に感触が生まれた。
!!!?
何が起こったか理解出来なかった。俺はやっとの事で見つけた物理の教科書を右手で強く握っていた。そして、ハッと我に返った俺は西菜さんの肩を掴み、距離を空けるようにその身体を押しやった。
西菜さんはじっと俺の瞳を見詰め、その後に何をするでもなくそのままフッと歩き出した。そうして、俺の気持ちを置き去りにしたまま階段を下りていった。先ほどから教室では先生の声が聞こえ始めていた。
訳が分からないまま俺はとりあえず教室に戻った。そして教科書を開き、授業を受けた。
五時間目の授業が終わっても俺は呆けていた。あれは……紛れもなくキスだった。俺の人生初めてのキスだった。人生初めてのキスを俺は西菜さんとした。イビーじゃなかった。
西菜さんは一体どうしたんだ。と、訳が分からなかった。西菜さんが誰彼かまわずキスをするような人には到底思えなかった。いつも以上に回転をしてくれない頭の中で俺は何とか状況を理解しようと考えた。もしかして……西菜さんは俺の事を好きなのか? と、自惚れかもしれない様な事を考えた。だけど、そうじゃなかったらキスなんかしないだろうとも思った。自然にそう思ってしまっていた。唇に感触が残っていた。とても繊細な感覚が残っていた。そして俺は気付いた。
嫌な気持ちになっていない。
イビーとするはずだった俺のファーストキス。それが西菜さんになったのに、俺は不快感を抱かなかった。なんでだ。と、考えた。まさか……。と思った。
その時、西菜さんが保険室から帰って来た。教室後方の扉から入ってきたのだろう、西菜さんが彼女の席に来た事でそれを認識した。西菜さんは席に着くと横に掛けてあったバックを机の上に置き、教科書を入れ始めた。そしてそのままバックを持って席を立った。
バックを持った西菜さんは教室前方の扉に向かって歩いていた。俺の席は右二列目の三番目のところにあって、都合の良い事に前の席の生徒はいなかった。西菜さんが俺の視線上を通った。
「西菜さん?」
と、俺は話し掛けた。西菜さんは俺の事を一瞥し、そのまま教室を出て行った。
そのまま早退したんだろう事は明確だった。それより……。それよりだ。俺の気持ちだ。一体何だこれは。と、俺はふとイビーを見た。イビーは恐らく俺の事を見ていた。俺の動きに気付き、視線を急いで外したように見えた。
イビー。と、俺はイビーの名前を心で言った。イビー。あぁ、それに道山、姉貴、恵乃、俺は自分の気持ちがわからくなっちまった。なんなんだこれ……。なんだこれ。
自分の心に生じている違和感は明確だった。その違和感を違和感として認識する事は十分できていた。だけどそれが恋愛感情なのかどうかが分からなかった。西菜さんに対して、付き合いたいとか、結婚したいという感情は正直湧いていなかった。だけど、キスをされたのに全く不快に思ってもいなかった。自分の気持ちが分からなかった。意味も分からなかった。
そもそも恋愛感情ってなんなんだ。と、俺は考え直していた。俺はイビーと結婚したいと思っている。そしてそれは今も変わりがない。そこには間違いなく恋愛感情がある。だけど、もしかしたら西菜さんが俺の事を好きなんじゃないかと考えて、それに対して嫌な感じはしなかった。寧ろ嬉しくもあった。だけど、それは恋愛感情ではなくて恐らく『人として好きだから』のはず。『人として好きになっているから嫌な感じがしない』だと思う。いや、どうなんだよ一体。なんなんだ。人として好きだからっていきなりキスをされたら嫌にならないか? わからない。そんな経験した事なんてないんだ。分かるはずがない。
ふと自分の唇を触る。もうずいぶん前の事なのに未だに感覚が残っている。なんなんだこの気持ち。
身体的な接触……。そうだ。身体的な接触だ。しかもそれが特別な意味を持つ部分の接触だったから俺の気持ちが動いているんじゃないのか。つまり、キスをしなければ自分の気持ちで悩む事は無かったんじゃないのか? って事は、今のこの感情は西菜さんがキスをしてきたから連鎖的に思っているだけで、もともとはそんな事はなかった……?
いや、それも多分違う。俺が西菜さんとのキスに対し嫌悪感を抱かないって事は、もともと持っている西菜さんへの気持ちの中に少なからず好意があったって事じゃないのか? そうじゃなければ俺は嫌悪感を持っていたはず。そして予想外の行動ではあったけれど、西菜さんの行動に対して理解できるだけの西菜さんの背景を感じ取れているとは思う。いきなりキスをするという事を選択した西菜さんの思考の結果としての行動。西菜さんの中にその正当性、その根拠を求めた時に、キスという行動は一応予測できる。予測できるということは、西菜さんの事を理解しているってことだ。だから俺は西菜さんの事を理解できるようになっていて……今回の事を肯定的に受け入れている?
なんなんだ一体。どうしたんだ西菜さん。そして俺も。なんなんだ。考えなんてまとまらない。何がどうなってんだ。と、携帯がピロリンと鳴った。
『今日はイビー来てたわよ。この間はただ体調が悪くて休んだだけだって』
真珠からだった。時刻は十八時三十二分。かなり長い時間思考の旅に出ていた事が分かった。
俺はすぐに返信をした。
『そっか。良かった。色々と本当にごめん。ありがとう☺ 台本しっかり終わらせるぜ!』
『それは当たり前。まぁイビーの件は良かった。それであんた今日時間ある?』
『ん?』
『出来れば電話しようと思ってんだけど』
『何時?』
『十九時ちょっと過ぎくらい』
『りょーかい』
『それじゃあまた後で』
台本の事をすっかり忘れていた。真珠の事と部活の事を思い出した。とりあえずイビーは津木エリも言っていた様にこのまま部活に来てくれるっぽい。そうだ、イビーだ。イビーと俺は話さないといけない。この間はイビーの気持ちも考えないで急にごめん。って。やっぱりそこはまず伝えないと。そして本当に好きだって伝えないと。うん。そうだ。ぐちぐち考えても仕方がない。西菜さんの事は分からない。とりあえず今はぐちゃぐちゃになっちゃっているけれど、イビーとの事は部活もあるし何とかしなくてはいけない問題だ。道山だって俺のイビーへの気持ちは本物だって言ってくれていた。うん。そうだ。とりあえずイビーと話さないと。うん。イビーと話そう。と、考えていたら真珠から電話がきた。
「おつかれ。台本捗ってる?」
「なんとか今週中に終わらせる。待たせてごめん。で、どうした?」
「佳花なんだけど」
「津木さん?」
「えぇ。今日の昼休みに話をして、とりあえずイビーの事は協力してくれる事になって、それであんたがプロポーズしたって事も話したのよ」
「うん」
真珠は俺にその話をすると確認を取っていたが、それでも心はビクっと反応した。
「それで、もちろん佳花もその事は知ってるわけじゃない? で、舞台を成功させたいし大事な時期だからあんまりアンタの感情をかき乱すような事はしないでって話したんだけど」
「うん。ごめん」
「何回も言うけれどそこはホントにアンタ反省しなさいよ。全部アンタのせいだから。それで、佳花にそう話したのよ、そしたら……」
「そしたら?」
「私からアンタに言うのも佳花に悪い気がするんだけど……。話さないと説明がつかないからしょうがなく話すんだけどさ……。佳花は、『ユーマくんはそうやってイビーに思いを伝えたのに私がユーマくんに出来ないのはおかしい』って言って」
「え?」
「だから、つまり、そういう事らしくて。私も最初ビックリしたんだけさ、どうやらそうみたいで」
「マジかよ」
なんだかもう全く訳が分からない。
「佳花には佳花の考えがあってね。さすがにそれはあんたに話さないけどさ。で、佳花の言い分も理解できるものではあって。それで、あんたにお願いって言うかこれだけはやって欲しいって事があるんだけど」
「なに?」
「とりあえずイビーとの事は舞台が終わるまで一旦置いといてくれない? 舞台が終わった後にどうこうなるのは知らないけれど、とりあえず舞台に集中して。……ユーマ、私との約束覚えてるわよね? やるからには本気でやってって言ったよね? それであんたはそうするって約束をした。だけどあんたはそれを破った。そして舞台はもう動き出してる。あんたの台本で、イビーもあんたも参加する事が決まってる。一年生の目もある。アンタが断る理由がないのは分かるわよね」
「あぁわかる。わかってるよ真珠。本当にごめん。……もちろんそうする。俺も芝居に参加出来て嬉しいと思ってる。だけど、ちょっと待って、ちょっと考えさせて」
「……。」
「……。」
「……。」
「うん。分かった。さっき俺も考えてたんだけど、俺からイビーに話をする。何とか普通に話せるようにする。そうしなくちゃいけない。俺もイビーとそうしたいし、そうしないと来週からちゃんと部活に入れない」
「わかった。佳花から聴いた感じイビーも舞台はちゃんと出たいって気持ちがあるみたいだから上手くやって」
「わかった……。真珠、本当にごめん。けどありがとう」
「私は最高の舞台を創りたいだけよ。それとあんたが一旦イビーとの事を置いとくって話は佳花にするけどいい?」
「うん」
「たぶん佳花も一応は納得すると思うから、出来るだけ早くイビーと普通に話せるようにして、そして早く台本を完成させて。なんかあったらいつでも連絡くれていいから」
「わかった」
「それじゃあ、また」
色々とありすぎて頭が全く追いついていなかった。だけどとにかく、俺はイビーと話さないといけない。それだけは間違いなかった。イビーとの事をクリアにして、そこからしっかりとしていかないと……。
☆★
「来てくれてありがとう」
昼休みに部室で待っているとイビーが気まずそうにガラガラと戸を開けて入って来てくれた。まず、約束通り来てくれたことが素直に嬉しかった。そしてイビーの相変わらずの気まずそうな顔を見て、本当に申し訳ない事をした。という思いが湧いた。俺の感情がどうあれ、好きな女の子にこんな顔をさせる自分を恥じた。
「ハナシ、ナニ?」
「うん……。この間の事なんだけど……」
「……ウン」
話す内容は決まっていた。
「俺……。イビーの事をちゃんと考えていなかったと思う。本当にごめんね。いきなりプロポーズして驚いたよね? 付き合ってもいないのに、本当にごめん。だけど、俺、イビーにも言ったけど、本当にイビーの事をデステニーだと思ったんだ」
イビーは黙って聴いてくれていた。
「それで、その……。この前はいきなりすぎたし、部活もあるのに本当にごめん。だけどあの時、言葉が口から出ていたんだ。本当に、本当にそう思ったから。それで」
「NO ユーマチガウ」と、イビーは俺の言葉を遮って言った。
「ワタシモワルカッタ」
「そんなことな」
「デモ、ユーマソレダケジャナイ。ユーマキヅイテナイ」
「……何が?」
「ワタシ、ユーマスキダッタ。ダケド……ユーマキヅイテナイ。ユーマハ、ニシナサンガ、スキ」
イビーが好きだと言ってくれた。それは本当に嬉しい事のはずだった。だけど、なんでイビーの口から西菜さんの名前が出てくるんだ。
「ワタシワカル。ユーマノメ、ニシナサンミルメ、トテモヤサシイ」
「それは」そうだったのかもしれないけれど、「それは西菜さんと色々あったからそうなっているだけで、俺が本当に好きなのはイビーだよ」
「ホントウニソウオモッテル?」
イビーは真っ直ぐな目で続けた。
「ワタシ、ユーマノコトスキダッタ。ダカラエイガニイクッテキメタ。ウレシカッタ。ソノトキニモットワタシノコトスキニナッテホシカッタ……。ダケド、ユーマガワタシニプロポーズシタ。ウレシカッタケド、イヤダッタ。イイカタモイヤダッタ。ユーマハジブンノキモチガワカラナイトワタシハキヅイタ」
「そんな事ない。本気じゃなかったらプロポーズなんてするはずない」
「ダカラソレハ、ユーマガジブンニキヅイテナイ」
キスをしてからの話ならまだ心当たりはあった。だけどあの時、イビーにプロポーズをしたあの時、俺は絶対に、絶対にイビーの事が好きだった。
「イビー、俺はあの時絶対にイビーの事が大好きだった。俺は、イビーの事が大好きで、本当に結婚しようって思ってた」
「オモッテ『タ』?」
なんで、過去形になってんだ──。
俺は自分で驚いた。しかしそれでも口は動いていた。
「今でもイビーの事が好きだって気持ちはめっちゃくちゃある。だけど今、なんだかグチャグチャして……。ごめん。本当にグチャグチャしてて自分で自分がよくわからない……。だからイビー、俺はもう一度、ちゃんとイビーにプロポーズしようと思ってて……。」
形だけの言葉を吐き出している事に俺は気付いた。気付いてしまった。
「あれ?」
耳がキーンとして、空間がねじれるような違和感を感じた。俺は、いったい何を話しているんだ。
「ユーマモウイイ。プロポーズハモウシナクテイイ」
「いやっ、けど」
「ワカッタカラダイジョウブ。カエル」
「待ってッ」
俺は反射的にイビーの手を掴んだ。
「ハナセ」
そう言われても、俺はイビーの事を見詰めたまま動けなかった。
ねじ曲がってしまった時間が幾分か過ぎ、俺は右手を離した。
「ユーマノコト、ワタシワカラナイ」
「ごめん」
「……You're fucking crazy……。」(ユーマは本当に頭がおかしい)
イビーは、悲しそうに俯いていた。イビーにそんな顔をさせてしまっていた。
だけど今、俺は本当にイビーの事が大好きなのか、俺は、本当にイビーに大好きだと伝えて良いのかが分からなかった。しかし、目の前にいるイビーに対しての愛おしさは心の中にはっきりと感じていた。
「ゴメンイビー……。本当にごめん。俺が全部悪い。だけど、俺のイビーに対する気持ちに嘘はなくって……。」
どうしてこうなった。
そしてどうして西菜さんの事が浮かんでくる。
どうしてこうなった。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
どうしてこうなっちまったんだ──。
あぁ……。そうだ。部活の話をイビーにしないといけないんだった。
「それで、イビーと一緒に舞台を頑張りたいって気持ちも本物で……。だからイビー、俺のせいで色々と本当に申し訳ないんだけど、十二月の舞台まで、一緒に頑張って欲しい」
「シバイハスル。ダケド、プロポーズハシナクテイイ。ワカラナイ」
「そっか……。うん。わかった。だけどごめんね。俺はイビーの事を好きだって気持ちはあるんだ。出来ればそうしたいって気持ちはあるんだ……。とにかく、舞台の事はありがとう。ありがとうイビー」
「……マジュカラハナシキイテル。マタライシュウカラ」
「うん。ありがとう」
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32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
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