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攻防
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ドラマなんかでよくある信頼で結ばれた職場の先輩後輩の関係っていいなって思う。
五十川さんのマンションを出た時は理想と現実の差に茫然としてしまったけど、キッカケさえあれば俺に対する評価は変えられるはずだ。
「見直した」とか言われたい!
しかし、週末が明けて月曜日、「おはようございます」と声をかけたときの一瞥の冷たさに、俺の意気込みはさっそく揺らぐ。
「服、ありがとうございました」
俺が紙袋を差し出すと、奈美枝さんの明るい声がした。五十川さんはさっと紙袋を奪いデスクの下へ置く。
「お二人さん、おはよう! なになに? 辛気臭いわね?」
「おはようございます」
「そっちが朝から元気すぎるんだよ」
「なによもう。あの後どうだった?」
五十川さんがあからさまな無視をしてパソコンを立ち上げるから、俺は奈美枝さんの腕を引っ張って事務所の隅へ移動する。
「実は俺、途中から記憶なくて…何かやらかしてました?」
こそこそ耳打ちすると、奈美枝さんはそろりと五十川さんへ視線を向け、やはり小声で「覚えてないの? 仲良くなりたいって泣いてたことも?」と言った。
「だ、誰が! 誰と!」
聞くまでもないが、聞かずにはいられない。なんて恥ずかしい奴なんだ俺は。
「弥田くんが、五十川くんと。泣いて言われちゃうとねぇ、わたしたちも協力しないわけにはいかないじゃない?」
奈美枝さんは楽しそうだった。姉が二人いる俺は知っている。女性にはお節介というありがた迷惑な性分があることを。
「だから五十川くんに弥田くんを預けて帰ったの。どう? 親睦は深まった?」
預けてっていうか押しつけたんだろうな。
しかも深まってないことを分かった上でこの質問をしている。お節介というか、完全に人の悩みを面白がっている。
「親睦ではなく溝が深まりました…覚えてないんですけど吐いたらしくって、そのせいで五十川さんはすごく怒ってるんで…」
「弥田! 始業時間だぞ! いつまでしゃべってるんだ」
「す、すみません」
「今日は朝イチで市役所へ初校を持ってくんだろ」
「はいっすぐ!」
奈美枝さんの側を「それじゃ」と言って離れようとすると、ぐいと肩を持たれた。
「弥田くん、愛の反対は憎悪じゃなくて無関心よ」
「はい?」
「少なからず、あの五十川くんの関心の対象にはなってるってこと」
「…いつか許してくれますかね?」
「案外もう許してるかも、五十川くんはツンデレだから」
「デレるんですか?」
「…わたしはそう信じてる!」
「弥田ぁ!」と殺気立った声に呼ばれ、許されてないと確信する。
「行きますっ! すぐ、行きます」
デレる姿なんて想像できない。ベティに対してだって常に無表情なのに。いや、見てないところではわからないか。
自分のデスクに置かれた初校入りの封筒を手に持ち、隣の五十川さんに、「行ってきます」と声をかける。
「さっさと行け」
かっちりと固めた髪、感情が読めない眼鏡の奥、キーボードを叩く神経質そうな指。
でも、呑みすぎた俺を介抱してくれたわけで。無愛想だが悪いひとじゃない、はずだ。
「おい」
「へ?」
「なに突っ立ってんだよ、朝イチって約束だぞ」
「い、行ってきます!」
慌てて事務所を飛び出しそのまま駐車場の営業車まで走った。運動不足なのか、少しの距離なのに動悸がした。
***
五十川さんと仲良くなりたい発言をしたことで、奈美枝さんからは面白がられ、社長と根津さんからは生温かい視線を向けられた。
ただ、当の五十川さんが我関せずといった風だから三日も経てばそれ以前と変わらない日々となった。
五十川さんは相変わらずベティを連れて外回りに出かけ、俺は少しずつ仕事を覚えていった。
あの朝、「仕事以外のことを話しかけるな」と言われ、数日はどう接してよいか悩んだものの、仕事のことであれば話しかけてもいいと解釈すれば開き直ることができた。
五十川さんも最初は話しかけるたびに微妙な表情をしていたが、俺が仕事のことしか聞くつもりがないらしいと理解するとしだいに露骨な警戒はしなくなった。
だから、電話の取り方とか、メールの送り方とか、些細なことでもなんでも聞いた。
四月は新しい生活に慣れることだけで終わった。五月も覚えたての仕事に追われているうちに過ぎ、気づけば雨の気配がする季節になっていた。
「それでは、校正はこれで完了ということで承知しました」
「月曜の夕方にはチラシ欲しいんだけど、間に合うかな」
「印刷部数がこれくらいならどうにか間に合うと思います…十七時くらいになるかもしれませんが、それでもよろしいでしょうか?」
「いいよいいよ。毎回、無理を言って申し訳ない」
「とんでもないです、いつもありがとうございます」
「弥田くんも慣れてきたね」
商工会議所の宮本さんは社長と同級生らしく馬場印刷のお得意様だ。
地元じゃないから、こうして顔馴染みが増えていくことが嬉しい。
「ビアガーデンも解禁になったしさ、今度飲みに行こうよ」
「ぜひ! よろしくお願いします」
「馬場に声かけとくな」
肉厚な手でばしばしと肩を叩かれる。こういう対応をされるたび、五十川さんはどうしているんだろうと不思議に思った。
愛想の良いことを言うなんて想像がつかない。
宮本さんから預かった原稿のデータを根津さんに渡して今週の仕事は終わりだった。腕を上に伸ばしたい気持ちを抑え、俺は営業車に乗り込んだ。
「金曜日かぁ」
今週末の天気予報はどうだっただろう。洗濯物がたまっているからどうにかしないとな。あと、シンクの食器も。ゴミもまとめて…
十八時過ぎに会社へ到着し、今日は早いなと思う。定時という概念は早々に捨てている。
「ただいま戻りましたぁ」
事務所には五十川さんしかいなかった。
「おかえりー」
「根津さんは印刷所ですか?」
「いや、帰ったよ。孫が来るって」
「えー! まあ…今日はどうせ印刷は無理だもんな」
「宮本さんとこのチラシ?」
「はい」
「他に急ぎもないし、月曜で間に合うだろ」
「ですねー」
手帳の月曜の欄に「データ→根津さん」と書き込む。それからパソコンに向かい、メールの返信が必要な案件がないことを確認した。
帰れる!
五十川さんは原稿の修正作業を行っている。
「手伝えることはありますか?」
「ねえよ」
「…今日、宮本さんからビアガーデン誘われました」
「へえ」
「ああいう時ってどう言うのが正解なんでしょうね」
「さあな」
「五十川さんはどう答えてるんですか?」
「…誘われねえし。つか、俺なんかに聞くより弥田のほうがそういうの得意だろ」
誘われないのか。
「終わったんなら遠慮なく帰っていいぞ」
仕事終わりでメシ行きませんかと誘いたい。誘いたいが、プライベートに立ち入ることで多少マシになった距離感がまた遠くなるのが怖い。
そうして俺は、何度目になるのか出かけた言葉を飲み込み、「お先に失礼します」と肩を落とした。
事務所を出ると、辺りはようやく暗くなりはじめていた。自動販売機の明かりが目にとまり、その中にいつも五十川さんのデスクに置かれている缶を見つける。
これくらいなら、平気かな。
冬場を過ぎても「あったか~い」缶が買えるのは、五十川さんが飲むからだ。
「事務所にポット置いてるし自分でいれればいいのにねえ」と揶揄しながら奈美枝さんが教えてくれた。「あったか~い」を一年中買えるよう業者に頼んでいるのだという。
俺は見慣れたカフェオレの缶を手に事務所へ引き返した。
「五十川さーん」
「あ゛?」
「自販機で押し間違えてしまって、いつもコレ飲んでますよね」
「ああ…」
「貰ってください」
デスクに置くと、五十川さんは「どうせボサッとしてたんだろ」と言って財布を出そうとする。
「お金はいいです! ボサッとしてた俺が悪いんで! じゃあ、お疲れさまですっ」
眉間にしわを寄せた五十川さんを笑顔でごまかし背を向ける。
不自然じゃないよな。大丈夫、大丈夫。
間を置かず聞こえたプルタブを開ける音に、にやついている自分がいた。
***
浮ついた気分で暮れていく町を自転車で進む。
大学を卒業するとき、社会人になるわけだし引っ越しをしようかとも考えた。でも結局、更新料を払って学生時代と同じアパートで暮らしている。
スーパーや理髪店など馴染みの店を変えるのが面倒だったのと、川沿いのジョギングコースを気に入っているからだ。
「リバーサイド」というラブホテルのような名前のとおり、俺の住むアパートは川沿いにある。
M市は西から東へ一級河川が流れていた。河口付近は工場地帯となっていて、我が城「リバーサイド」は工場と住宅地の境目にあった。
自動車のテールランプが目立つくらい夜が迫った頃、川沿いのジョギングコースに着く。町の喧騒は遠退き、俺は川音を聞きながらペダルをふむ。
ふと、進行方向の東の空に明るいものを見つける。川にかかった橋の上にぽっかりと浮かんでいるのは、怖いくらいの大きな満月だった。
思わず自転車を止め、見惚れてしまう。
こんなに見事な満月なのに、橋を渡る人たちは誰も気づいている様子がない。
川沿いを行く人も平然と俺を追い越していく。
この発見を誰かと共有したいと思った。五十川さんに言ったら、なんて答えるだろう。
個人的な話を聞くわけじゃないから怒りはしないかな。でも仕事の話ではないから、微妙な表情をするかもしれない。
五十川さんの仏頂面を思い浮かべている間に月はするすると空を登り、いつもの大きさになってしまった。
***
不自然で圧倒的な満月を眺めながら頑なな仏頂面を思い浮かべたりしたから。だから、翌朝の夢には五十川さんが登場した。
どんな内容だったか、よく覚えていない。覚えてはいないが俺に対して怒っていた気はする。
怒られているのに変な話だがちっとも嫌な気持ちはしなくて。仏頂面か怒っている姿しか知らないんだなと可笑しかった。
そういうわけで、久しぶりに川沿いをジョギングしていて、休日仕様の職場の先輩を見かけると迷わず声をかけていた。
「五十川さんっ!」
呼びかけた瞬間に、「仕事のこと以外は話しかけるな」と言われていたことを思い出す。
俺としては、また会いましたね、という気持ちだったが、もちろんそれは夢の話で。変に警戒されると困るなと焦ったが、五十川さんは「声が大きい」とだけつまらなそうに言った。
話しかけてもいいのかな。
五十川さんは犬の散歩中だった。連れているゴールデンレトリーバーの毛色はベティと同じ色だ。
飼い主とは違って俺に興味津々のようで、ジョギングをやめ歩調を合わせると鼻を近づけてくる。点検するように嗅がれるから、こちらも挨拶がわりにわしわしと頭を撫でた。
「散歩ですか?」
「見りゃわかるだろ」
「犬飼ってたんですね」
「実家の」
「へえ! この辺りなんですか?」
「まあな」
とりあえず会話は成立している。隣を歩くことも拒否されない。ひとまず俺は安心した。
前髪のおりた五十川さんは、二日酔いの朝以来だ。
あの朝から二ヶ月。どうにか信用は回復したらしい、と思っていたのに。
「なんて名前ですか?」
犬の名前を尋ねると、とたんに五十川さんに無視された。
なにかまずかったかな。五十川さんのファーストネームを聞いていると勘違いされたとか?! いやでも、それはもう知っているし。
「い、犬の名前ですよ?」
「…わかってるよ」
言いにくい名前なのだろうか。
どうフォローをしようかと考えていると、つぶやくように「ソーシ」と五十川さんが言った。
聞き違い?
「ソーシ、ですか?」
「そうだよ!」
「それって…五十川さんの名前じゃ…」
「っ一緒なんだよ、悪いか」
不機嫌そうに声を荒げこちらを睨むのが、ただの照れ隠しに思える。
「最高のネーミングセンスです!」
「笑いをこらえて言うな。嫌味なヤツだな」
「いや、笑って…ないです」
五十川さんが照れていると思うと楽しくて仕方ない。
「笑いたきゃ笑え」
澄ました横顔に俺の頬は緩みっぱなしだ。
「くふふ…ふふ…誰がつけたんですか?」
「…母親。俺が実家を出てから飼い始めたんだ」
「五十川さんの代わりなんですねぇ…ふふっ」
「名前を考えるのが面倒だっただけだろ。ニヤつくな、気持ち悪い」
「スミマセン…よくここで散歩させてるんですか?」
「時々。実家に帰ると押し付けられんだ」
「俺も学生時代からのジョギングコースなんです。もしかしたらすれ違ってたかもしれませんね」
人間の話を聞いているのかいないのか、犬のソーシが「ワフッ」と返事をした。
「おっ、会ったことあるって? 賢いな、ソーシは」
「お前…面白がってるだろ」
「いえ、そんな、ちょっとだけです」
「…ハァ、言うんじゃなかった」
「良い意味で、面白いです」
「面白いに良いも悪いもあるか。つか、ジョギング中じゃないのかよ。いつまでついてくる気だ」
もう少しこうしていたいのが本音だが、長居するとまた溝ができてしまうかもしれない。
「それじゃあ月曜日に」
「おー」
「ソーシも、またな!」
「さっさと行け」
五十川さんとの距離が縮まった気がして単純に嬉しい。
きっと、もっと仲良くなれる。いつか、笑った顔も見てみたい。
五十川さんのマンションを出た時は理想と現実の差に茫然としてしまったけど、キッカケさえあれば俺に対する評価は変えられるはずだ。
「見直した」とか言われたい!
しかし、週末が明けて月曜日、「おはようございます」と声をかけたときの一瞥の冷たさに、俺の意気込みはさっそく揺らぐ。
「服、ありがとうございました」
俺が紙袋を差し出すと、奈美枝さんの明るい声がした。五十川さんはさっと紙袋を奪いデスクの下へ置く。
「お二人さん、おはよう! なになに? 辛気臭いわね?」
「おはようございます」
「そっちが朝から元気すぎるんだよ」
「なによもう。あの後どうだった?」
五十川さんがあからさまな無視をしてパソコンを立ち上げるから、俺は奈美枝さんの腕を引っ張って事務所の隅へ移動する。
「実は俺、途中から記憶なくて…何かやらかしてました?」
こそこそ耳打ちすると、奈美枝さんはそろりと五十川さんへ視線を向け、やはり小声で「覚えてないの? 仲良くなりたいって泣いてたことも?」と言った。
「だ、誰が! 誰と!」
聞くまでもないが、聞かずにはいられない。なんて恥ずかしい奴なんだ俺は。
「弥田くんが、五十川くんと。泣いて言われちゃうとねぇ、わたしたちも協力しないわけにはいかないじゃない?」
奈美枝さんは楽しそうだった。姉が二人いる俺は知っている。女性にはお節介というありがた迷惑な性分があることを。
「だから五十川くんに弥田くんを預けて帰ったの。どう? 親睦は深まった?」
預けてっていうか押しつけたんだろうな。
しかも深まってないことを分かった上でこの質問をしている。お節介というか、完全に人の悩みを面白がっている。
「親睦ではなく溝が深まりました…覚えてないんですけど吐いたらしくって、そのせいで五十川さんはすごく怒ってるんで…」
「弥田! 始業時間だぞ! いつまでしゃべってるんだ」
「す、すみません」
「今日は朝イチで市役所へ初校を持ってくんだろ」
「はいっすぐ!」
奈美枝さんの側を「それじゃ」と言って離れようとすると、ぐいと肩を持たれた。
「弥田くん、愛の反対は憎悪じゃなくて無関心よ」
「はい?」
「少なからず、あの五十川くんの関心の対象にはなってるってこと」
「…いつか許してくれますかね?」
「案外もう許してるかも、五十川くんはツンデレだから」
「デレるんですか?」
「…わたしはそう信じてる!」
「弥田ぁ!」と殺気立った声に呼ばれ、許されてないと確信する。
「行きますっ! すぐ、行きます」
デレる姿なんて想像できない。ベティに対してだって常に無表情なのに。いや、見てないところではわからないか。
自分のデスクに置かれた初校入りの封筒を手に持ち、隣の五十川さんに、「行ってきます」と声をかける。
「さっさと行け」
かっちりと固めた髪、感情が読めない眼鏡の奥、キーボードを叩く神経質そうな指。
でも、呑みすぎた俺を介抱してくれたわけで。無愛想だが悪いひとじゃない、はずだ。
「おい」
「へ?」
「なに突っ立ってんだよ、朝イチって約束だぞ」
「い、行ってきます!」
慌てて事務所を飛び出しそのまま駐車場の営業車まで走った。運動不足なのか、少しの距離なのに動悸がした。
***
五十川さんと仲良くなりたい発言をしたことで、奈美枝さんからは面白がられ、社長と根津さんからは生温かい視線を向けられた。
ただ、当の五十川さんが我関せずといった風だから三日も経てばそれ以前と変わらない日々となった。
五十川さんは相変わらずベティを連れて外回りに出かけ、俺は少しずつ仕事を覚えていった。
あの朝、「仕事以外のことを話しかけるな」と言われ、数日はどう接してよいか悩んだものの、仕事のことであれば話しかけてもいいと解釈すれば開き直ることができた。
五十川さんも最初は話しかけるたびに微妙な表情をしていたが、俺が仕事のことしか聞くつもりがないらしいと理解するとしだいに露骨な警戒はしなくなった。
だから、電話の取り方とか、メールの送り方とか、些細なことでもなんでも聞いた。
四月は新しい生活に慣れることだけで終わった。五月も覚えたての仕事に追われているうちに過ぎ、気づけば雨の気配がする季節になっていた。
「それでは、校正はこれで完了ということで承知しました」
「月曜の夕方にはチラシ欲しいんだけど、間に合うかな」
「印刷部数がこれくらいならどうにか間に合うと思います…十七時くらいになるかもしれませんが、それでもよろしいでしょうか?」
「いいよいいよ。毎回、無理を言って申し訳ない」
「とんでもないです、いつもありがとうございます」
「弥田くんも慣れてきたね」
商工会議所の宮本さんは社長と同級生らしく馬場印刷のお得意様だ。
地元じゃないから、こうして顔馴染みが増えていくことが嬉しい。
「ビアガーデンも解禁になったしさ、今度飲みに行こうよ」
「ぜひ! よろしくお願いします」
「馬場に声かけとくな」
肉厚な手でばしばしと肩を叩かれる。こういう対応をされるたび、五十川さんはどうしているんだろうと不思議に思った。
愛想の良いことを言うなんて想像がつかない。
宮本さんから預かった原稿のデータを根津さんに渡して今週の仕事は終わりだった。腕を上に伸ばしたい気持ちを抑え、俺は営業車に乗り込んだ。
「金曜日かぁ」
今週末の天気予報はどうだっただろう。洗濯物がたまっているからどうにかしないとな。あと、シンクの食器も。ゴミもまとめて…
十八時過ぎに会社へ到着し、今日は早いなと思う。定時という概念は早々に捨てている。
「ただいま戻りましたぁ」
事務所には五十川さんしかいなかった。
「おかえりー」
「根津さんは印刷所ですか?」
「いや、帰ったよ。孫が来るって」
「えー! まあ…今日はどうせ印刷は無理だもんな」
「宮本さんとこのチラシ?」
「はい」
「他に急ぎもないし、月曜で間に合うだろ」
「ですねー」
手帳の月曜の欄に「データ→根津さん」と書き込む。それからパソコンに向かい、メールの返信が必要な案件がないことを確認した。
帰れる!
五十川さんは原稿の修正作業を行っている。
「手伝えることはありますか?」
「ねえよ」
「…今日、宮本さんからビアガーデン誘われました」
「へえ」
「ああいう時ってどう言うのが正解なんでしょうね」
「さあな」
「五十川さんはどう答えてるんですか?」
「…誘われねえし。つか、俺なんかに聞くより弥田のほうがそういうの得意だろ」
誘われないのか。
「終わったんなら遠慮なく帰っていいぞ」
仕事終わりでメシ行きませんかと誘いたい。誘いたいが、プライベートに立ち入ることで多少マシになった距離感がまた遠くなるのが怖い。
そうして俺は、何度目になるのか出かけた言葉を飲み込み、「お先に失礼します」と肩を落とした。
事務所を出ると、辺りはようやく暗くなりはじめていた。自動販売機の明かりが目にとまり、その中にいつも五十川さんのデスクに置かれている缶を見つける。
これくらいなら、平気かな。
冬場を過ぎても「あったか~い」缶が買えるのは、五十川さんが飲むからだ。
「事務所にポット置いてるし自分でいれればいいのにねえ」と揶揄しながら奈美枝さんが教えてくれた。「あったか~い」を一年中買えるよう業者に頼んでいるのだという。
俺は見慣れたカフェオレの缶を手に事務所へ引き返した。
「五十川さーん」
「あ゛?」
「自販機で押し間違えてしまって、いつもコレ飲んでますよね」
「ああ…」
「貰ってください」
デスクに置くと、五十川さんは「どうせボサッとしてたんだろ」と言って財布を出そうとする。
「お金はいいです! ボサッとしてた俺が悪いんで! じゃあ、お疲れさまですっ」
眉間にしわを寄せた五十川さんを笑顔でごまかし背を向ける。
不自然じゃないよな。大丈夫、大丈夫。
間を置かず聞こえたプルタブを開ける音に、にやついている自分がいた。
***
浮ついた気分で暮れていく町を自転車で進む。
大学を卒業するとき、社会人になるわけだし引っ越しをしようかとも考えた。でも結局、更新料を払って学生時代と同じアパートで暮らしている。
スーパーや理髪店など馴染みの店を変えるのが面倒だったのと、川沿いのジョギングコースを気に入っているからだ。
「リバーサイド」というラブホテルのような名前のとおり、俺の住むアパートは川沿いにある。
M市は西から東へ一級河川が流れていた。河口付近は工場地帯となっていて、我が城「リバーサイド」は工場と住宅地の境目にあった。
自動車のテールランプが目立つくらい夜が迫った頃、川沿いのジョギングコースに着く。町の喧騒は遠退き、俺は川音を聞きながらペダルをふむ。
ふと、進行方向の東の空に明るいものを見つける。川にかかった橋の上にぽっかりと浮かんでいるのは、怖いくらいの大きな満月だった。
思わず自転車を止め、見惚れてしまう。
こんなに見事な満月なのに、橋を渡る人たちは誰も気づいている様子がない。
川沿いを行く人も平然と俺を追い越していく。
この発見を誰かと共有したいと思った。五十川さんに言ったら、なんて答えるだろう。
個人的な話を聞くわけじゃないから怒りはしないかな。でも仕事の話ではないから、微妙な表情をするかもしれない。
五十川さんの仏頂面を思い浮かべている間に月はするすると空を登り、いつもの大きさになってしまった。
***
不自然で圧倒的な満月を眺めながら頑なな仏頂面を思い浮かべたりしたから。だから、翌朝の夢には五十川さんが登場した。
どんな内容だったか、よく覚えていない。覚えてはいないが俺に対して怒っていた気はする。
怒られているのに変な話だがちっとも嫌な気持ちはしなくて。仏頂面か怒っている姿しか知らないんだなと可笑しかった。
そういうわけで、久しぶりに川沿いをジョギングしていて、休日仕様の職場の先輩を見かけると迷わず声をかけていた。
「五十川さんっ!」
呼びかけた瞬間に、「仕事のこと以外は話しかけるな」と言われていたことを思い出す。
俺としては、また会いましたね、という気持ちだったが、もちろんそれは夢の話で。変に警戒されると困るなと焦ったが、五十川さんは「声が大きい」とだけつまらなそうに言った。
話しかけてもいいのかな。
五十川さんは犬の散歩中だった。連れているゴールデンレトリーバーの毛色はベティと同じ色だ。
飼い主とは違って俺に興味津々のようで、ジョギングをやめ歩調を合わせると鼻を近づけてくる。点検するように嗅がれるから、こちらも挨拶がわりにわしわしと頭を撫でた。
「散歩ですか?」
「見りゃわかるだろ」
「犬飼ってたんですね」
「実家の」
「へえ! この辺りなんですか?」
「まあな」
とりあえず会話は成立している。隣を歩くことも拒否されない。ひとまず俺は安心した。
前髪のおりた五十川さんは、二日酔いの朝以来だ。
あの朝から二ヶ月。どうにか信用は回復したらしい、と思っていたのに。
「なんて名前ですか?」
犬の名前を尋ねると、とたんに五十川さんに無視された。
なにかまずかったかな。五十川さんのファーストネームを聞いていると勘違いされたとか?! いやでも、それはもう知っているし。
「い、犬の名前ですよ?」
「…わかってるよ」
言いにくい名前なのだろうか。
どうフォローをしようかと考えていると、つぶやくように「ソーシ」と五十川さんが言った。
聞き違い?
「ソーシ、ですか?」
「そうだよ!」
「それって…五十川さんの名前じゃ…」
「っ一緒なんだよ、悪いか」
不機嫌そうに声を荒げこちらを睨むのが、ただの照れ隠しに思える。
「最高のネーミングセンスです!」
「笑いをこらえて言うな。嫌味なヤツだな」
「いや、笑って…ないです」
五十川さんが照れていると思うと楽しくて仕方ない。
「笑いたきゃ笑え」
澄ました横顔に俺の頬は緩みっぱなしだ。
「くふふ…ふふ…誰がつけたんですか?」
「…母親。俺が実家を出てから飼い始めたんだ」
「五十川さんの代わりなんですねぇ…ふふっ」
「名前を考えるのが面倒だっただけだろ。ニヤつくな、気持ち悪い」
「スミマセン…よくここで散歩させてるんですか?」
「時々。実家に帰ると押し付けられんだ」
「俺も学生時代からのジョギングコースなんです。もしかしたらすれ違ってたかもしれませんね」
人間の話を聞いているのかいないのか、犬のソーシが「ワフッ」と返事をした。
「おっ、会ったことあるって? 賢いな、ソーシは」
「お前…面白がってるだろ」
「いえ、そんな、ちょっとだけです」
「…ハァ、言うんじゃなかった」
「良い意味で、面白いです」
「面白いに良いも悪いもあるか。つか、ジョギング中じゃないのかよ。いつまでついてくる気だ」
もう少しこうしていたいのが本音だが、長居するとまた溝ができてしまうかもしれない。
「それじゃあ月曜日に」
「おー」
「ソーシも、またな!」
「さっさと行け」
五十川さんとの距離が縮まった気がして単純に嬉しい。
きっと、もっと仲良くなれる。いつか、笑った顔も見てみたい。
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