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3.祝杯
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カガミの館の奥には苔生した自然の岩石が連なって出来た小さな滝があった。館を建てる際、湖の小島に元々あった自然そのままの滝をそのまま残した場所であった。
「カガミ様の寝殿に行かれる前に、禊をお済ませください。」
カガミの官女がキヨを滝に案内する。
キヨは近くの脱衣所で禊用の生地の薄い白装束に着替え、滝壺のある場所に出た。
キヨの背丈の何倍の高さもある大きな岩の壁の上部から、水が細い糸の束のようになって落ちている。月明かりによるほのかな闇の中、辺りは水の心地よい音だけが響いていた。
キヨは滝壺にまず片足をそっと入れ、次に腰までゆっくり浸かった。波紋が広がり水面に映った月が揺らめく。
建物の北側にあるせいか滝壺の水は冷たかった。
水で濡れた手で顔を濡らした時、キヨの表情は再び凍り付いた。
濡れた手の冷たさが、自分の頬に触れてきたカガミの手の冷たさを思い出させたのだった。
それを皮切りに、考えないようにしようと思っていた不安が頭の中から溢れ出す。口の中が乾いて、震えは止まらなくなっていた。
(私はどうなるんだろう?
私が『守り神』であるカガミ様のもの(生贄)になること。
それが例え自分の命を失う結果になることでも、村が豊かになるならそれは村にとっても、家族にとっても名誉なこと。
いや、どうなるかなんてもう考えたってどうにもならない!大人達の気休めの理屈を受け入れるしかないんだ……。生贄になったその時点で私は事実上村から追放された人間として生死は関係なくなるのだから。
もう帰る場所なんてない。
なのに……!)
キヨは震えが止まらず強張る体に無理やり頭から滝の水を打たせ、肌が抉れそうな程爪を立てて身を強く抱きしめた。
「こちらです。
カガミ様、お連れしましたよ。」
月明かりで明るい廂に二人の人影。燭台を持った官女が含み笑いをしながら簾の反対側にいるカガミに話しかけた。官女の隣には暗い表情で俯向いているキヨがいた。
簾の奥で燈台に照らされた影が動く。カガミだった。
「うん。こちらへ。
今日は月が明るい。簾は上げたままに。」
簾を上げる官女。
床に深々と伏せる。
キヨは震える手で着物の裾をギュッと掴んだまま、燈台が数個のわずかな明かりしかない寝所に足を踏み入れる。
(生贄に帰れる場所なんてもうない……。)
キヨは入り口から差し込んでいた月の光が届かない部屋の奥に進むと、周りを見渡すことなく床に深々と伏せた。
「顔を上げてこっちに来なさい。
月が綺麗だ。一緒にこれをやると良い。」
カガミが片手に持った盃を差し出す。朱塗りの盃が燈台の蝋燭の火に照らされ、妖艶な輝きを放つ。
「……は、はい。」
緊張で喉が締められようになって声がうまく出せない。キヨは震える手をどうにか制して盃を受け取る。
「それは君の村からの捧げ物だよ。今年のは甘みが強いから君でも飲みやすいだろう。
それを飲んだら少し休みなさい。とても疲れているようだから……。」
気遣いの言葉に裏があるのではないかー。キヨはこれ以上余計な思案によって不安を膨れさせないために盃の酒を口にする。果実のような香りと甘みが少しだけほっとさせてくれた。
「私ももう一杯もらおうか。」
「は、はい。」
盃に酒を注ぎ、頭を低くして恭しく手渡そうとするキヨ。それをカガミが止めた。
「すまないがそのまま持っていてくれ。」
カガミは座ったまま上半身を屈め、顔の布を鼻のあたりまで捲り上げた。手と同じ白い肌と輪郭の整った頬骨と顎、艶のある唇が見える。
そして薄く開いた口から赤紫色の舌を出し、盃の酒にその先をつけた。
キヨはカガミの突然の行動にまず驚いたが、布を捲った下部分から見える中性的で美しい顔立ちに気付き、しばらく見惚れてしまっていた。
しかし何気なく視線を盃に移した時、妙な物が目に入った。
酒に映った白い蛇の顔だった。
瞬きをした瞬間、目の前に見えているものは酒を飲む大きな白蛇に変わっていた。
「ひっ、やああ!」
キヨは短く叫び声を上げて後ろに仰け反った。盃が床に落ちる。同じ場所にカガミが着ていた着物や冠、顔を覆っていた布が落ちていた。
白蛇ー、カガミは動じず、舌をチロチロと出してキヨを見ていた。
腰が抜けて動けなくなっているキヨに向かってカガミが蛇行で近付く。
(しまった!カガミ様は"守り神"……、人間の姿が本当の姿とは限らない。)
「も、申し訳ありません。
『守り神』であるあなたのお姿に対して、このようなご無礼を……!
で、でもどうか……!」
「『守り神』か……。私は『神』などではない。」
瞬きの無いカガミの目に、揺れる蝋燭の火が映っている。
「えっ?」
カガミは素早くキヨの足元に移動し、そのまま体に絡み付く。キヨは硬直し、仰向けに倒れた。
足から、腿。腿から腰。腰から胸へ、縄のように太くて長い体がゆっくりと撫でるようにキヨの体にゆったりと巻き付いていく。
「っあ、あああああっ!」
ただ喘ぎ、言葉にならない声を発することしか出来なかった。
キヨは悔しそうに涙を流した。
胸から喉下まで巻き付き終わり、カガミの頭部がキヨの眼前にやって来る。
「じゃあ私は村や親に家を追い出されて、
ただ餌になる為にやって来たの……?」
動きを止めるカガミ。
「待てキヨ。別にお前を食おうとしてるのではない。私は文字通りお前を『嫁』として迎えたつもりだ。
お前達と私達が暮らす、この『ツキオカ』を保つ為に。」
人間の姿の時と同じ抑揚の無い、しかし心配しているかのような喋り方でカガミが言う。喋ると言っても顔の辺りから声が響いてくる感じだった。
カガミはキヨの頬を軽く舐めてから、さらに自分の身を器用にくねらせながら下顎を使ってキヨの頭を優しく撫でる。それからキヨの体から自分の体をゆっくり解いていく。
キヨはカガミによって命を絶たれると思い込んでいた為、あっさりと解放されたことに唖然としていた。
「どうした?人がよく考える絵空事の様に、『村の為に雨乞いの生贄になって食われろ』と言われてきたのか?」
キヨは少し安心したのか、力が抜けたようにそのまま床で仰向けになって息を長く吐いた。
「カガミ様あなたは……一体?」
「見ての通り育ち過ぎた蛇だよ。」
カガミは含み笑いをしながら答えた。恐らくキヨがカガミと出会ってから初めて聞いた笑いらしい笑いであった。
「人間の言う"神"とは違うが、この界隈では皆から"主"と認められている。」
「『ツキオカ』の……主様?」
「数百年に一度の儀式なのだが、戦火でまた村の語り部が絶えて本当の意味を忘れてしまった様だ。……まあそれは追々説明しよう。
道理で村長供からの文で『水神』だの『命を捧げし娘』だのおかしな言葉が書かれてた訳だ。」
カガミは再び人間の姿に戻り、優しくキヨの前髪から頬を撫でた。
顔を覆う布が無い今、カガミの凛とした顔立ちや銀色の髪、紅玉のような紅の瞳がはっきり見えた。目を細め、少しだけ口角を上げ僅かに慈しむかの様な優しい表情を浮かべている。
「私も少し事を急いてしまったな。お前が慣れるまでは人の姿がよかろう。」
華奢でありながら程よく引きしまった白い体には何も身に付けて無い。
キヨはカガミが裸で自分の側に坐していることに気が付き、大急ぎで身を起こして顔を赤らめた。
「すまん……。服は先ほど元の姿になった時に後ろに置いてきてしまった。」
「私は……これから何をすればいいんでしょう?」
カガミは気まずそうに逸らしていた目視線を真っ直ぐキヨに移す。
「当初と変わらない。私の本当の姿を見ても尚、私を夫とするかどうかだ。
それが嫌になったのなら、村長に文で説明をしてから婚約を破棄して家に返してやれる。それが駄目なら住む場所を探してやることもできる。」
「尊い貴方に対して卑しい私がそんなこと許される訳……。」
「ある。この契りはお前が望まなければ恐らく上手くいかない。」
ー生贄の話があった時、私の両親でさえ私がどうしたいかなんて聞くフリすらすることもなかった……。何で私なのかその理由さえ……。あの時から私を腫れ物のように扱い始めて……。例え家に帰れるとしても私は……。
キヨは自らカガミの胸に伏した。
カガミもまたキヨの肩をそっと包む。
「今のこの体は紛い物故、温もりまではやれぬ。許せ。」
キヨはカガミに身を委ねる。ひんやりとしたカガミの胸の中で、安心したような表情で目の端から生温かい雫を流した。
「カガミ様の寝殿に行かれる前に、禊をお済ませください。」
カガミの官女がキヨを滝に案内する。
キヨは近くの脱衣所で禊用の生地の薄い白装束に着替え、滝壺のある場所に出た。
キヨの背丈の何倍の高さもある大きな岩の壁の上部から、水が細い糸の束のようになって落ちている。月明かりによるほのかな闇の中、辺りは水の心地よい音だけが響いていた。
キヨは滝壺にまず片足をそっと入れ、次に腰までゆっくり浸かった。波紋が広がり水面に映った月が揺らめく。
建物の北側にあるせいか滝壺の水は冷たかった。
水で濡れた手で顔を濡らした時、キヨの表情は再び凍り付いた。
濡れた手の冷たさが、自分の頬に触れてきたカガミの手の冷たさを思い出させたのだった。
それを皮切りに、考えないようにしようと思っていた不安が頭の中から溢れ出す。口の中が乾いて、震えは止まらなくなっていた。
(私はどうなるんだろう?
私が『守り神』であるカガミ様のもの(生贄)になること。
それが例え自分の命を失う結果になることでも、村が豊かになるならそれは村にとっても、家族にとっても名誉なこと。
いや、どうなるかなんてもう考えたってどうにもならない!大人達の気休めの理屈を受け入れるしかないんだ……。生贄になったその時点で私は事実上村から追放された人間として生死は関係なくなるのだから。
もう帰る場所なんてない。
なのに……!)
キヨは震えが止まらず強張る体に無理やり頭から滝の水を打たせ、肌が抉れそうな程爪を立てて身を強く抱きしめた。
「こちらです。
カガミ様、お連れしましたよ。」
月明かりで明るい廂に二人の人影。燭台を持った官女が含み笑いをしながら簾の反対側にいるカガミに話しかけた。官女の隣には暗い表情で俯向いているキヨがいた。
簾の奥で燈台に照らされた影が動く。カガミだった。
「うん。こちらへ。
今日は月が明るい。簾は上げたままに。」
簾を上げる官女。
床に深々と伏せる。
キヨは震える手で着物の裾をギュッと掴んだまま、燈台が数個のわずかな明かりしかない寝所に足を踏み入れる。
(生贄に帰れる場所なんてもうない……。)
キヨは入り口から差し込んでいた月の光が届かない部屋の奥に進むと、周りを見渡すことなく床に深々と伏せた。
「顔を上げてこっちに来なさい。
月が綺麗だ。一緒にこれをやると良い。」
カガミが片手に持った盃を差し出す。朱塗りの盃が燈台の蝋燭の火に照らされ、妖艶な輝きを放つ。
「……は、はい。」
緊張で喉が締められようになって声がうまく出せない。キヨは震える手をどうにか制して盃を受け取る。
「それは君の村からの捧げ物だよ。今年のは甘みが強いから君でも飲みやすいだろう。
それを飲んだら少し休みなさい。とても疲れているようだから……。」
気遣いの言葉に裏があるのではないかー。キヨはこれ以上余計な思案によって不安を膨れさせないために盃の酒を口にする。果実のような香りと甘みが少しだけほっとさせてくれた。
「私ももう一杯もらおうか。」
「は、はい。」
盃に酒を注ぎ、頭を低くして恭しく手渡そうとするキヨ。それをカガミが止めた。
「すまないがそのまま持っていてくれ。」
カガミは座ったまま上半身を屈め、顔の布を鼻のあたりまで捲り上げた。手と同じ白い肌と輪郭の整った頬骨と顎、艶のある唇が見える。
そして薄く開いた口から赤紫色の舌を出し、盃の酒にその先をつけた。
キヨはカガミの突然の行動にまず驚いたが、布を捲った下部分から見える中性的で美しい顔立ちに気付き、しばらく見惚れてしまっていた。
しかし何気なく視線を盃に移した時、妙な物が目に入った。
酒に映った白い蛇の顔だった。
瞬きをした瞬間、目の前に見えているものは酒を飲む大きな白蛇に変わっていた。
「ひっ、やああ!」
キヨは短く叫び声を上げて後ろに仰け反った。盃が床に落ちる。同じ場所にカガミが着ていた着物や冠、顔を覆っていた布が落ちていた。
白蛇ー、カガミは動じず、舌をチロチロと出してキヨを見ていた。
腰が抜けて動けなくなっているキヨに向かってカガミが蛇行で近付く。
(しまった!カガミ様は"守り神"……、人間の姿が本当の姿とは限らない。)
「も、申し訳ありません。
『守り神』であるあなたのお姿に対して、このようなご無礼を……!
で、でもどうか……!」
「『守り神』か……。私は『神』などではない。」
瞬きの無いカガミの目に、揺れる蝋燭の火が映っている。
「えっ?」
カガミは素早くキヨの足元に移動し、そのまま体に絡み付く。キヨは硬直し、仰向けに倒れた。
足から、腿。腿から腰。腰から胸へ、縄のように太くて長い体がゆっくりと撫でるようにキヨの体にゆったりと巻き付いていく。
「っあ、あああああっ!」
ただ喘ぎ、言葉にならない声を発することしか出来なかった。
キヨは悔しそうに涙を流した。
胸から喉下まで巻き付き終わり、カガミの頭部がキヨの眼前にやって来る。
「じゃあ私は村や親に家を追い出されて、
ただ餌になる為にやって来たの……?」
動きを止めるカガミ。
「待てキヨ。別にお前を食おうとしてるのではない。私は文字通りお前を『嫁』として迎えたつもりだ。
お前達と私達が暮らす、この『ツキオカ』を保つ為に。」
人間の姿の時と同じ抑揚の無い、しかし心配しているかのような喋り方でカガミが言う。喋ると言っても顔の辺りから声が響いてくる感じだった。
カガミはキヨの頬を軽く舐めてから、さらに自分の身を器用にくねらせながら下顎を使ってキヨの頭を優しく撫でる。それからキヨの体から自分の体をゆっくり解いていく。
キヨはカガミによって命を絶たれると思い込んでいた為、あっさりと解放されたことに唖然としていた。
「どうした?人がよく考える絵空事の様に、『村の為に雨乞いの生贄になって食われろ』と言われてきたのか?」
キヨは少し安心したのか、力が抜けたようにそのまま床で仰向けになって息を長く吐いた。
「カガミ様あなたは……一体?」
「見ての通り育ち過ぎた蛇だよ。」
カガミは含み笑いをしながら答えた。恐らくキヨがカガミと出会ってから初めて聞いた笑いらしい笑いであった。
「人間の言う"神"とは違うが、この界隈では皆から"主"と認められている。」
「『ツキオカ』の……主様?」
「数百年に一度の儀式なのだが、戦火でまた村の語り部が絶えて本当の意味を忘れてしまった様だ。……まあそれは追々説明しよう。
道理で村長供からの文で『水神』だの『命を捧げし娘』だのおかしな言葉が書かれてた訳だ。」
カガミは再び人間の姿に戻り、優しくキヨの前髪から頬を撫でた。
顔を覆う布が無い今、カガミの凛とした顔立ちや銀色の髪、紅玉のような紅の瞳がはっきり見えた。目を細め、少しだけ口角を上げ僅かに慈しむかの様な優しい表情を浮かべている。
「私も少し事を急いてしまったな。お前が慣れるまでは人の姿がよかろう。」
華奢でありながら程よく引きしまった白い体には何も身に付けて無い。
キヨはカガミが裸で自分の側に坐していることに気が付き、大急ぎで身を起こして顔を赤らめた。
「すまん……。服は先ほど元の姿になった時に後ろに置いてきてしまった。」
「私は……これから何をすればいいんでしょう?」
カガミは気まずそうに逸らしていた目視線を真っ直ぐキヨに移す。
「当初と変わらない。私の本当の姿を見ても尚、私を夫とするかどうかだ。
それが嫌になったのなら、村長に文で説明をしてから婚約を破棄して家に返してやれる。それが駄目なら住む場所を探してやることもできる。」
「尊い貴方に対して卑しい私がそんなこと許される訳……。」
「ある。この契りはお前が望まなければ恐らく上手くいかない。」
ー生贄の話があった時、私の両親でさえ私がどうしたいかなんて聞くフリすらすることもなかった……。何で私なのかその理由さえ……。あの時から私を腫れ物のように扱い始めて……。例え家に帰れるとしても私は……。
キヨは自らカガミの胸に伏した。
カガミもまたキヨの肩をそっと包む。
「今のこの体は紛い物故、温もりまではやれぬ。許せ。」
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