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第五章 マドゥヤ帝国
8 騎乗の慕情
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「コーシャ様、遅れまして申し訳ございません」
やはり、馬から降りて拝跪したのを、王妃から許され顔を上げる。
どこか見覚えのあるマドゥヤ系の顔立ちは、日焼けして精悍だった。俺より十ばかり年上。無駄なく引き締まった体躯は、鍛錬とは違う日頃の過ごし方で、自然と出来上がったようだ。
「彼、あなたの息子だ、と、レンヤが言ったわ」
王妃がそう言って、レンヤを撫でる。ふと見ると、オピテルが渋面で、さりげなく剣に手をかけていた。
「はい。長男のルゥイヤと申します。十三歳になります。私の後継として、見習いにつけております」
「十三歳。そう」
王妃は遠い目をした。そういえばコルネリア姫は十四歳だったか。王妃が嫁いですぐ結婚したのか、と俺はウー・リャンヤという男に、もやもやした感情を抱く。
リャンヤがつと俺を見た。まるで俺の気持ちを察したように。更に目が合った瞬間、悟った。
彼もコーシャ王妃に想いを寄せていた。
俺達は、互いにすぐ目を逸らした。
「今日は、この人達を乗せて欲しいの。できそう?」
王妃は打って変わって明るい調子で龍に話しかけた。王妃の指は、明らかに俺を指している。俺は助けを求めようと近衛隊長を見た。
笑顔で俺を見返すオピテルは、他人事である。手も剣から離れていた。
「コーシャも加えて三人までなら乗せられる。どのみち、姫も乗るのだろう?」
俺達を一瞥し、レンヤが答えた。龍の巨大な爬虫類の眼も、先ほどのリャンヤの目に比べれば、全く脅威を感じない。
「よかった。では、最初にオピテルとイレナが手本を見せる?」
思いがけず指名を受けたオピテルは、全力で首と両手を振った。
「滅相もございません。彼らは優秀です。手本を見せるまでもありません」
笑顔が強張っている。先ほどからマドゥヤ語が出る度に通訳を務めてきたイレナは、上官を横目で見て、沈黙を守った。
ハーフエルフである彼女は、オピテルほど龍に拒否感がなさそうだ。上官の面子を保つため、口を閉じている。
「そうね。では、こちらの二人でお願い。トリスとグリリは、王太子付きの近侍と護衛なの」
「よろしくお願いします」
グリリが龍に頭を下げたので、俺も倣った。
リャンヤは、馬の背に荷物を載せていた。取り出されたのは、母子用自転車の前後に付く、子ども用の椅子に似た物である。それぞれからベルトや紐が出ており、重ねて三つあった。流れを予想して用意したのだ。
「龍に乗るというのは、もしかして、馬に跨るように乗るのですか」
俺の懸念を、グリリが口にした。俺と王妃を除く全員が頷いた。
王妃は、レンヤを撫でて何やら話しかけている。龍はくすぐったそうに、なまず髭をひょこひょこ動かしつつ、耳を傾けていた。
「吐くかも」
更に声を低めて、グリリが囁く。
リャンヤは、息子のルゥイヤに手伝わせ、既に椅子を取り付け始めている。
縦三列である。ベルトで体を固定する仕組みだ。落下の心配はないが、吐いた物を王妃にかけてしまっては、問題である。グリリも同じことを考えたらしく、衣服を探って皮小袋を取り出した。
「これで足りるかな」
出かける前に、点心を食べている。夕食に比べればさほどの量ではないが、出してみなければわからない。袋を見たイレナが、チャルビに取り置きの点心を渡す。完全に、見物客だ。
「どのような順番で乗りますか。手綱を握る姫が手前として、残るお二方」
準備を終えたリャンヤが王妃に呼びかけた。王妃が答える前に、オピテルが急いで前へ出てきた。イレナもまだ通訳していない。
「ちょっと待った。トリスもグリリも男ではないか。妃殿下の後ろになど乗せられん」
「グリリの心は女性です。問題ありません」
すかさず王妃が断じた。えっ、と驚いたのはオピテル隊長だけである。イレナは通訳しなかったので、ウー父子が戸惑った風に様子を窺っている。
「だって一緒に、風呂に入ったってメッサラが‥‥」
動揺のあまり、言葉遣いが乱れている。
「わたくし、外見は男性ですし、護衛という任務上、浴場もご一緒すべきと判断しました。船上でも触れましたが、前の世界では女性でした」
グリリが近衛隊長に釈明した。それで前から王妃、グリリ、俺の順で座ることになった。俺も王妃に抱きつけるなどと期待していなかった。
「では、行ってきます」
「姫。二人共初心者ですから、無茶なさらぬように」
リャンヤが忠告した。王妃より俺達の心配をしているようだ。漠とした不安がよぎる。王妃は大袈裟な笑顔を作り、手綱を引いた。
龍が、飛び上がった。
「無理無理無理無理無理」
グリリの声が風圧で小さく聞こえる。
ロン・レンヤは、ほとんど垂直に上昇した。ロケットに縛り付けられているようなものである。加速Gを感じてもおかしくない。まさに上り龍である。
龍は、上空まで一気に登った後、速度を落とさず水平飛行に移った。
ジェットコースターのように、小刻みな高度変更を行いながら、龍舎の敷地を一周する。
地上のオピテル達が小さく見える。高い、速い、そして寒い。
「はあ、はあ。お、王妃、様、り龍の周りに、結界、張っても、飛べますか?」
グリリが吐き気を堪えるため、荒い息で、更に寒さと恐怖で歯をがちがち鳴らしながら尋ねる。王妃の腰にがっつり抱き付いている。他意はないだろうが、俺からするといい気分ではない。
王妃が手綱を引くと、レンヤはスピードを緩めた。向きを変え、平行に敷地の周囲を旋回し始めた。
「どうかしら、レンヤ。経験ある?」
「ない。人が魔法を使うのは邪道とされているからな」
そうだった。船内でグリリから講義を受けた時にも話題に上った。そして基本的に魔法を使える獣人も、人間より下に位置付けられていた。今回の随行が人間主体なのは、そういう事情もあったのだ。
「では、乗員の周りにだけ結界を張るのはどうでしょう。寒さも和らぎますし」
俺は一層声を張り上げた。風の音に対抗するため、龍以外は皆大声で話している。
「レンヤ、かけてもいい?」
「それなら差し支えなかろう」
許可が出たと解し、王妃とグリリと俺だけ囲むようにして、バリアを張ってみた。風が遮られただけで、気温が上がったように感じられた。龍が風を切る音も聞こえるものの、随分と静かになった。王妃が手綱を操った。
再び龍ジェットコースターが始まった。下降した時、チャルビが立ったまま、点心を口に放り込むのが見えた。オピテルが蒼い顔のグリリを見て、にこやかに手を振る。代わりに俺が手を振り返しておいた。
「風を感じなくても、結構楽しいわ」
独り言のような呟きも、聞き取ることができた。グリリは王妃にしがみつき、頭をもたせかけて目と口を開いている。虚ろだった目の焦点が合ってきた。
「王妃様。この機会に確認したいことがあります」
その姿勢のまま、発言した。
「どうぞ」
王妃も前を見据えたまま応じる。また手綱を操ると、レンヤは水平飛行に戻った。ただし今度は円ではなく、蛇行前進している。完全に蛇の動きである。俺達は左右に揺られることになった。
「トリスはレクルキスへの残留を望んでおります。王妃様は、皇帝陛下のご提案に賛成なさいますか」
そのことについてグリリと話し合う時間はなかったが、彼は俺の気持ちを知っていた。
「王の意向に従います。でも、あなた方転生者は魔法学院の保護下にあるだけで、正確にはレクルキス国民ではありません。本人の希望を無視して強行することはできない筈です」
王妃が手綱を動かす。レンヤがまた飛行の仕方を変えた。あまり激しい動きではない。恐る恐る下界を見る。侍女はまだ食べている。イレナはハーフエルフだから、風魔法を使えるかもしれない。バリアを張っている間は盗聴できないが、長引けば『できないこと』自体を怪しまれる。
「あまり時間がないので手短に言います」
王妃も俺と同じ考えのようだった。
「メッサラとオピテルは、状況によって王からトリスを始末する許可を得たと思われます。帰国すれば、刺客は増えるでしょう」
コーシャ王妃が俺を心配してくれている。近衛隊長達が受けたという王命など、この幸せの前では何程でもなかった。
「私は、妃殿下のご意向に従います。このままどこかへ飛び去りたいのであれば、喜んでお供します。お側にて、妃殿下のお役に立ちたいのです」
あなたを愛している。あなたは俺のものだ。一緒に来て欲しい。想いの一つも口に出来なかった。性急すぎる。わかっている。同時に、これを逃せば機会は二度とない気がした。
王妃は急に手綱を引いた。レンヤが宙返りした。
「あなたの気持ちは承知しております」
レンヤの飛行が安定した。王妃とレンヤは俺のバリアに隔てられて直接話ができないにもかかわらず、互いに通じ合っているように見えた。
「ご好意は嬉しく思います。私は、王と子供達、レクルキス国を愛しております。お気持ちには応えられません」
答えは予想していた。でももしかしたら、という期待はあっけなく潰えた。もはや、王妃が夫と子供を捨てて別の男に走る人間ではない、ということに慰めを見出す他ない。
相手が俺だから断った、という可能性は敢えて考えないようにした。俺の気持ちが嬉しいと言っていた。嫌われた訳ではない。まだ諦めるには早い。難しいのは承知の上だ。そう簡単には諦めきれない。
「このような機会を設けていただき、感謝いたします。妃殿下のお役に立ちたい気持ちは変わりません。何かの折に思い出していただければ幸いです」
「ありがとう。その時のために、身を謹んで生き延びてください」
「お取り込み中すみませんが」
グリリが不明瞭な発音で口を挟んだ。色黒の顔が青褪めて見える。俺は彼にしがみついていながら、存在を忘れていた。締め過ぎていた腕の力を少し緩める。
「吐きそうです」
口をほとんど開かずに言う。懐から例の小袋を取り出した。
「もう少しだけ我慢して。しっかり掴まる」
王妃は手綱を操った。レンヤは、頭を上に向けた。そして螺旋を描くように回転しながら急上昇した。
ごおっと遠くで風の音がする。俺はバリアを解いた。たちまち風圧が顔にかかる。目を開けているのが難しい。吹き飛ばされる恐怖で再びグリリにしがみつく。
龍が頭を下に向けた。渦巻の動きで急降下する。目が回る。
地面に激突、と思った途端、ふっと速度が落ちた。地面に生えた芝が風圧で靡くほど、急速に停止した。尾の方は、ほとんど落下状態だった。十分な距離をとっていたにもかかわらず、オピテル達が後退りした。
ウー・リャンヤ父子が駆け寄ってベルトを外しにかかる。王妃もグリリも、その前にほとんど外し終わっていた。
「失礼しまっ」
グリリは彼らを押し退けるようにして龍から飛び降りると、誰もいない方へ駆け出した。手にはしっかりと小袋を握っている。オピテルが一瞬剣に手をかけたが、すぐに離した。事情を察したと見えた。
本当は敷地外へ出るか、建物の陰に隠れたかったのだろうが、生憎敷地は広大で、グリリが進んだ方向は龍舎と反対だった。そして、彼の我慢が尽きた。
「うぐっ」
膝から崩れ落ちて地面に片手をついたグリリは、残る手で袋を口につけ、盛大に吐いた。
やはり、馬から降りて拝跪したのを、王妃から許され顔を上げる。
どこか見覚えのあるマドゥヤ系の顔立ちは、日焼けして精悍だった。俺より十ばかり年上。無駄なく引き締まった体躯は、鍛錬とは違う日頃の過ごし方で、自然と出来上がったようだ。
「彼、あなたの息子だ、と、レンヤが言ったわ」
王妃がそう言って、レンヤを撫でる。ふと見ると、オピテルが渋面で、さりげなく剣に手をかけていた。
「はい。長男のルゥイヤと申します。十三歳になります。私の後継として、見習いにつけております」
「十三歳。そう」
王妃は遠い目をした。そういえばコルネリア姫は十四歳だったか。王妃が嫁いですぐ結婚したのか、と俺はウー・リャンヤという男に、もやもやした感情を抱く。
リャンヤがつと俺を見た。まるで俺の気持ちを察したように。更に目が合った瞬間、悟った。
彼もコーシャ王妃に想いを寄せていた。
俺達は、互いにすぐ目を逸らした。
「今日は、この人達を乗せて欲しいの。できそう?」
王妃は打って変わって明るい調子で龍に話しかけた。王妃の指は、明らかに俺を指している。俺は助けを求めようと近衛隊長を見た。
笑顔で俺を見返すオピテルは、他人事である。手も剣から離れていた。
「コーシャも加えて三人までなら乗せられる。どのみち、姫も乗るのだろう?」
俺達を一瞥し、レンヤが答えた。龍の巨大な爬虫類の眼も、先ほどのリャンヤの目に比べれば、全く脅威を感じない。
「よかった。では、最初にオピテルとイレナが手本を見せる?」
思いがけず指名を受けたオピテルは、全力で首と両手を振った。
「滅相もございません。彼らは優秀です。手本を見せるまでもありません」
笑顔が強張っている。先ほどからマドゥヤ語が出る度に通訳を務めてきたイレナは、上官を横目で見て、沈黙を守った。
ハーフエルフである彼女は、オピテルほど龍に拒否感がなさそうだ。上官の面子を保つため、口を閉じている。
「そうね。では、こちらの二人でお願い。トリスとグリリは、王太子付きの近侍と護衛なの」
「よろしくお願いします」
グリリが龍に頭を下げたので、俺も倣った。
リャンヤは、馬の背に荷物を載せていた。取り出されたのは、母子用自転車の前後に付く、子ども用の椅子に似た物である。それぞれからベルトや紐が出ており、重ねて三つあった。流れを予想して用意したのだ。
「龍に乗るというのは、もしかして、馬に跨るように乗るのですか」
俺の懸念を、グリリが口にした。俺と王妃を除く全員が頷いた。
王妃は、レンヤを撫でて何やら話しかけている。龍はくすぐったそうに、なまず髭をひょこひょこ動かしつつ、耳を傾けていた。
「吐くかも」
更に声を低めて、グリリが囁く。
リャンヤは、息子のルゥイヤに手伝わせ、既に椅子を取り付け始めている。
縦三列である。ベルトで体を固定する仕組みだ。落下の心配はないが、吐いた物を王妃にかけてしまっては、問題である。グリリも同じことを考えたらしく、衣服を探って皮小袋を取り出した。
「これで足りるかな」
出かける前に、点心を食べている。夕食に比べればさほどの量ではないが、出してみなければわからない。袋を見たイレナが、チャルビに取り置きの点心を渡す。完全に、見物客だ。
「どのような順番で乗りますか。手綱を握る姫が手前として、残るお二方」
準備を終えたリャンヤが王妃に呼びかけた。王妃が答える前に、オピテルが急いで前へ出てきた。イレナもまだ通訳していない。
「ちょっと待った。トリスもグリリも男ではないか。妃殿下の後ろになど乗せられん」
「グリリの心は女性です。問題ありません」
すかさず王妃が断じた。えっ、と驚いたのはオピテル隊長だけである。イレナは通訳しなかったので、ウー父子が戸惑った風に様子を窺っている。
「だって一緒に、風呂に入ったってメッサラが‥‥」
動揺のあまり、言葉遣いが乱れている。
「わたくし、外見は男性ですし、護衛という任務上、浴場もご一緒すべきと判断しました。船上でも触れましたが、前の世界では女性でした」
グリリが近衛隊長に釈明した。それで前から王妃、グリリ、俺の順で座ることになった。俺も王妃に抱きつけるなどと期待していなかった。
「では、行ってきます」
「姫。二人共初心者ですから、無茶なさらぬように」
リャンヤが忠告した。王妃より俺達の心配をしているようだ。漠とした不安がよぎる。王妃は大袈裟な笑顔を作り、手綱を引いた。
龍が、飛び上がった。
「無理無理無理無理無理」
グリリの声が風圧で小さく聞こえる。
ロン・レンヤは、ほとんど垂直に上昇した。ロケットに縛り付けられているようなものである。加速Gを感じてもおかしくない。まさに上り龍である。
龍は、上空まで一気に登った後、速度を落とさず水平飛行に移った。
ジェットコースターのように、小刻みな高度変更を行いながら、龍舎の敷地を一周する。
地上のオピテル達が小さく見える。高い、速い、そして寒い。
「はあ、はあ。お、王妃、様、り龍の周りに、結界、張っても、飛べますか?」
グリリが吐き気を堪えるため、荒い息で、更に寒さと恐怖で歯をがちがち鳴らしながら尋ねる。王妃の腰にがっつり抱き付いている。他意はないだろうが、俺からするといい気分ではない。
王妃が手綱を引くと、レンヤはスピードを緩めた。向きを変え、平行に敷地の周囲を旋回し始めた。
「どうかしら、レンヤ。経験ある?」
「ない。人が魔法を使うのは邪道とされているからな」
そうだった。船内でグリリから講義を受けた時にも話題に上った。そして基本的に魔法を使える獣人も、人間より下に位置付けられていた。今回の随行が人間主体なのは、そういう事情もあったのだ。
「では、乗員の周りにだけ結界を張るのはどうでしょう。寒さも和らぎますし」
俺は一層声を張り上げた。風の音に対抗するため、龍以外は皆大声で話している。
「レンヤ、かけてもいい?」
「それなら差し支えなかろう」
許可が出たと解し、王妃とグリリと俺だけ囲むようにして、バリアを張ってみた。風が遮られただけで、気温が上がったように感じられた。龍が風を切る音も聞こえるものの、随分と静かになった。王妃が手綱を操った。
再び龍ジェットコースターが始まった。下降した時、チャルビが立ったまま、点心を口に放り込むのが見えた。オピテルが蒼い顔のグリリを見て、にこやかに手を振る。代わりに俺が手を振り返しておいた。
「風を感じなくても、結構楽しいわ」
独り言のような呟きも、聞き取ることができた。グリリは王妃にしがみつき、頭をもたせかけて目と口を開いている。虚ろだった目の焦点が合ってきた。
「王妃様。この機会に確認したいことがあります」
その姿勢のまま、発言した。
「どうぞ」
王妃も前を見据えたまま応じる。また手綱を操ると、レンヤは水平飛行に戻った。ただし今度は円ではなく、蛇行前進している。完全に蛇の動きである。俺達は左右に揺られることになった。
「トリスはレクルキスへの残留を望んでおります。王妃様は、皇帝陛下のご提案に賛成なさいますか」
そのことについてグリリと話し合う時間はなかったが、彼は俺の気持ちを知っていた。
「王の意向に従います。でも、あなた方転生者は魔法学院の保護下にあるだけで、正確にはレクルキス国民ではありません。本人の希望を無視して強行することはできない筈です」
王妃が手綱を動かす。レンヤがまた飛行の仕方を変えた。あまり激しい動きではない。恐る恐る下界を見る。侍女はまだ食べている。イレナはハーフエルフだから、風魔法を使えるかもしれない。バリアを張っている間は盗聴できないが、長引けば『できないこと』自体を怪しまれる。
「あまり時間がないので手短に言います」
王妃も俺と同じ考えのようだった。
「メッサラとオピテルは、状況によって王からトリスを始末する許可を得たと思われます。帰国すれば、刺客は増えるでしょう」
コーシャ王妃が俺を心配してくれている。近衛隊長達が受けたという王命など、この幸せの前では何程でもなかった。
「私は、妃殿下のご意向に従います。このままどこかへ飛び去りたいのであれば、喜んでお供します。お側にて、妃殿下のお役に立ちたいのです」
あなたを愛している。あなたは俺のものだ。一緒に来て欲しい。想いの一つも口に出来なかった。性急すぎる。わかっている。同時に、これを逃せば機会は二度とない気がした。
王妃は急に手綱を引いた。レンヤが宙返りした。
「あなたの気持ちは承知しております」
レンヤの飛行が安定した。王妃とレンヤは俺のバリアに隔てられて直接話ができないにもかかわらず、互いに通じ合っているように見えた。
「ご好意は嬉しく思います。私は、王と子供達、レクルキス国を愛しております。お気持ちには応えられません」
答えは予想していた。でももしかしたら、という期待はあっけなく潰えた。もはや、王妃が夫と子供を捨てて別の男に走る人間ではない、ということに慰めを見出す他ない。
相手が俺だから断った、という可能性は敢えて考えないようにした。俺の気持ちが嬉しいと言っていた。嫌われた訳ではない。まだ諦めるには早い。難しいのは承知の上だ。そう簡単には諦めきれない。
「このような機会を設けていただき、感謝いたします。妃殿下のお役に立ちたい気持ちは変わりません。何かの折に思い出していただければ幸いです」
「ありがとう。その時のために、身を謹んで生き延びてください」
「お取り込み中すみませんが」
グリリが不明瞭な発音で口を挟んだ。色黒の顔が青褪めて見える。俺は彼にしがみついていながら、存在を忘れていた。締め過ぎていた腕の力を少し緩める。
「吐きそうです」
口をほとんど開かずに言う。懐から例の小袋を取り出した。
「もう少しだけ我慢して。しっかり掴まる」
王妃は手綱を操った。レンヤは、頭を上に向けた。そして螺旋を描くように回転しながら急上昇した。
ごおっと遠くで風の音がする。俺はバリアを解いた。たちまち風圧が顔にかかる。目を開けているのが難しい。吹き飛ばされる恐怖で再びグリリにしがみつく。
龍が頭を下に向けた。渦巻の動きで急降下する。目が回る。
地面に激突、と思った途端、ふっと速度が落ちた。地面に生えた芝が風圧で靡くほど、急速に停止した。尾の方は、ほとんど落下状態だった。十分な距離をとっていたにもかかわらず、オピテル達が後退りした。
ウー・リャンヤ父子が駆け寄ってベルトを外しにかかる。王妃もグリリも、その前にほとんど外し終わっていた。
「失礼しまっ」
グリリは彼らを押し退けるようにして龍から飛び降りると、誰もいない方へ駆け出した。手にはしっかりと小袋を握っている。オピテルが一瞬剣に手をかけたが、すぐに離した。事情を察したと見えた。
本当は敷地外へ出るか、建物の陰に隠れたかったのだろうが、生憎敷地は広大で、グリリが進んだ方向は龍舎と反対だった。そして、彼の我慢が尽きた。
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