1 / 2
1
しおりを挟む
河原にいる。川は右から左に流れている。
幼い頃遊んだ記憶にある風景と異なる最大の点は、植物が見当たらないことである。葦の茂みや灌木ばかりか、まさに草の根ひとつなかった。岩盤を思わせるほど硬い地面の上には、大小様々の積み石が足の踏み場もないほど作られ、隙間にも無数の石が詰まる。つまりは土がない。
人びとは移動する度に積み石の小山を崩し、また別の人びとが新たな小山を積み上げる。積み石をするのは子どもばかりである。しかしながら遊びではなく、皆真剣に取り組んでいる。
そこには人がたくさんいた。
積み石をする子ども以外は、皆一方を目指して進み、川岸で止まる。川を歩いて、あるいは泳いで渡ろうと試みる者はない。川の上には霧が立っていて、向こう岸が見えない。ただ対岸の方が明るく、相対的に此岸が暗いように感じられる。
人びとは川岸に佇み、明るい方へ顔を向けている。口を利くものはない。
霧を掻き分けて、舟が現れた。十人も乗れば一杯になるような、木製の簡素な舟である。船頭が棹を差して舟を操り、船縁を直接岸へつける。桟橋がないのである。
人びとは行儀よく順番に舟へ乗り込む。岸にはあぶれた人が大勢残るが、誰もが大人しく先客を見送る。船頭が棹をぐいと押し出すと、舟は岸を離れる。河原に立つ人びとはすぐに霧に紛れて見えなくなる。
霧の中、舟は静かに進む。川の流れは穏やかである。霧のせいか、川面に影が映らない。水中の様子も見えず、深さも知れない。船頭の棹は常に水中に先端を没しており、長さから深さを推し量る事もできない。
船頭は頭からつま先までを黒い布ですっぽり覆っている。顔も布の奥深くに隠されている。棹を握る手だけは布から外に出ているが、黒い手袋を嵌めているので、老若男女の別もつかない。船頭は黙々と棹を動かす。
不意に、視界が明るくなった。同時に舟が接岸した。振動と音が同時に感じられた。
人びとは次々と立ち上がり、舟から出た。人気がなくなってから立ち上がると、恐らく船頭と思われる手が、背後から上陸を手助けしてくれた。
こちらの地面に砂利はない。耕した畑の土のような、柔らかさがあるように感じられる。視界は上下左右変わらぬ白さである。眩しくはない。そこここから穏やかな話し声がする。こちらの方が幾分温かい。川を渡る前は肌寒かった。
「よう。来たな」
聞き覚えのある声がした。私は声の方を向いた。やはり何も見えない。人の近付く気配だけは感じられた。
「若返った気分はどうだ? 俺もお前と同じぐらいまで若返ったぞ。ちょうど良い釣り合いだな」
声は親しげで、上機嫌だった。
「若返る?」
「お前、見えないのか?」
相手の声が曇った。私は意識的に目蓋を開け閉めしてから頷いた。
「そのようです」
「どうして。ここに来るまで見えていただろうに」
「私にも、わかりません」
川を渡り終えるまでは確かに見えていた。私は視力を失ったことを漸く理解し、今後は目蓋をなるべく閉じておくよう心がけることにした。使わない物を箱にしまう感覚である。相手は吐息のように笑った。
「俺の姿を見てもらえないのは残念だが、迎えにきた甲斐があったというものだな。さあ、行こう」
と手を取る。途端にそこから記憶が流れ込んできた。
彼と私は幼なじみである。幼い頃から各々人生の針路を定められており、互いに恋愛感情を抱くことなど考えられなかったし、現にそうして一生を過ごしてきた。
しかるに今つながれた手から伝わる感情は、紛れもなく恋愛のそれである。顧みれば、掟がなかったならば、私も彼を愛したかもしれない。
とはいえ、現実には彼は別の女性と結婚し、子までなした。彼女もいずれ必ずここへ至るのだから、揉め事は避けたい。そこで手を振り放そうと考えたものの、目が見えない不安から、実際には大人しく手をつながれたままでいた。
周囲の音や匂いからは、今歩いている場所が屋外であるらしいということしかわからない。そもそも、私は本来どこへ行くべきか、知らない。川を渡った後の決まりを教わる機会はなかった。
「どこへ行くのですか」
「家だよ。一緒に住む家」
彼は当然のように言った。ここにも家があるということも驚きだが、一緒に住むという言葉は聞き捨てならない。私は立ち止まった。彼もすぐに止まった。手はつないだままである。この状態では聞き辛いが、確かめずにはいられない。
「あのう。奥様は?」
「だってまだ来ないもの。ここへ来るとは限らないし。多分来ないよ。ともかく、今は一緒においで」
彼は屈託なく答えた。私は観念して従った。
「着いた。ここだよ。といっても見えないか」
途中どんな道を通ったのかも、遠いのかも近いのかもわからぬまま、彼の言う家に到着した。何も見えないのは彼の言う通りである。
「どんな家ですか」
「木造の平屋。それほど大きくない。冷暖房の心配も要らないしね。気に入らなければ、建て直す。煉瓦造りでも漆喰塗りでも作るよ」
「そんなに簡単に作れるものですか」
「そう。服でも家でも好きなものは何でも作れる。生き物以外はね。さあ、入ろう」
彼は手を放したかと思うと、肩へ手を回して私を導いた。戸惑いも覚えたが、実際、案内なしには、身動きが取れなかった。座らされたのは二人掛けの小振りなソファで、彼が隣に来て一杯になったので、それと知れた。
彼の腕は肩にかかったままである。こうした状況には不慣れで、私はあしらいに困った。
「お前の心が読めない。俺の考えていることは判るか?」
「いいえ」
ただでさえ初めての地に来て、しかも突然視力を失い、私は身の置き所さえわからないでいた。何もかもわからず、尋ねるべき問いも浮かばない。
「でも俺の元へ来たのだから、それが答えだよな」
回された腕に力が入り、向きを変えられた。もう一方の腕も加わり、私を囲い込む。彼の顔が近付く気配がわかった。緊張に身体が強張る。
「あのう」
「ん?」
という声は既に蕩けかかっている。私は頭がくらくらした。体勢を立て直す前に、唇を塞がれた。思い出した。遥か以前にも似たようなことがあった。しかし決して同じではない。何故なら、私も一緒に蕩けてしまったからである。
「愛している」
私から離れる度に、彼の唇は繰り返した。見えなくても、彼の形ははっきりとわかった。彼の存在に包まれ、私は生涯にも体験しなかった幸福感を覚えた。
「愛しています」
こぼれ出た言葉に、彼が笑顔を作ったのが感じ取れた。
「初めて言ってもらえた」
「私もです」
「言ったことなかった?」
「はい」
私たちはひたすら互いを求め合った。
幼い頃遊んだ記憶にある風景と異なる最大の点は、植物が見当たらないことである。葦の茂みや灌木ばかりか、まさに草の根ひとつなかった。岩盤を思わせるほど硬い地面の上には、大小様々の積み石が足の踏み場もないほど作られ、隙間にも無数の石が詰まる。つまりは土がない。
人びとは移動する度に積み石の小山を崩し、また別の人びとが新たな小山を積み上げる。積み石をするのは子どもばかりである。しかしながら遊びではなく、皆真剣に取り組んでいる。
そこには人がたくさんいた。
積み石をする子ども以外は、皆一方を目指して進み、川岸で止まる。川を歩いて、あるいは泳いで渡ろうと試みる者はない。川の上には霧が立っていて、向こう岸が見えない。ただ対岸の方が明るく、相対的に此岸が暗いように感じられる。
人びとは川岸に佇み、明るい方へ顔を向けている。口を利くものはない。
霧を掻き分けて、舟が現れた。十人も乗れば一杯になるような、木製の簡素な舟である。船頭が棹を差して舟を操り、船縁を直接岸へつける。桟橋がないのである。
人びとは行儀よく順番に舟へ乗り込む。岸にはあぶれた人が大勢残るが、誰もが大人しく先客を見送る。船頭が棹をぐいと押し出すと、舟は岸を離れる。河原に立つ人びとはすぐに霧に紛れて見えなくなる。
霧の中、舟は静かに進む。川の流れは穏やかである。霧のせいか、川面に影が映らない。水中の様子も見えず、深さも知れない。船頭の棹は常に水中に先端を没しており、長さから深さを推し量る事もできない。
船頭は頭からつま先までを黒い布ですっぽり覆っている。顔も布の奥深くに隠されている。棹を握る手だけは布から外に出ているが、黒い手袋を嵌めているので、老若男女の別もつかない。船頭は黙々と棹を動かす。
不意に、視界が明るくなった。同時に舟が接岸した。振動と音が同時に感じられた。
人びとは次々と立ち上がり、舟から出た。人気がなくなってから立ち上がると、恐らく船頭と思われる手が、背後から上陸を手助けしてくれた。
こちらの地面に砂利はない。耕した畑の土のような、柔らかさがあるように感じられる。視界は上下左右変わらぬ白さである。眩しくはない。そこここから穏やかな話し声がする。こちらの方が幾分温かい。川を渡る前は肌寒かった。
「よう。来たな」
聞き覚えのある声がした。私は声の方を向いた。やはり何も見えない。人の近付く気配だけは感じられた。
「若返った気分はどうだ? 俺もお前と同じぐらいまで若返ったぞ。ちょうど良い釣り合いだな」
声は親しげで、上機嫌だった。
「若返る?」
「お前、見えないのか?」
相手の声が曇った。私は意識的に目蓋を開け閉めしてから頷いた。
「そのようです」
「どうして。ここに来るまで見えていただろうに」
「私にも、わかりません」
川を渡り終えるまでは確かに見えていた。私は視力を失ったことを漸く理解し、今後は目蓋をなるべく閉じておくよう心がけることにした。使わない物を箱にしまう感覚である。相手は吐息のように笑った。
「俺の姿を見てもらえないのは残念だが、迎えにきた甲斐があったというものだな。さあ、行こう」
と手を取る。途端にそこから記憶が流れ込んできた。
彼と私は幼なじみである。幼い頃から各々人生の針路を定められており、互いに恋愛感情を抱くことなど考えられなかったし、現にそうして一生を過ごしてきた。
しかるに今つながれた手から伝わる感情は、紛れもなく恋愛のそれである。顧みれば、掟がなかったならば、私も彼を愛したかもしれない。
とはいえ、現実には彼は別の女性と結婚し、子までなした。彼女もいずれ必ずここへ至るのだから、揉め事は避けたい。そこで手を振り放そうと考えたものの、目が見えない不安から、実際には大人しく手をつながれたままでいた。
周囲の音や匂いからは、今歩いている場所が屋外であるらしいということしかわからない。そもそも、私は本来どこへ行くべきか、知らない。川を渡った後の決まりを教わる機会はなかった。
「どこへ行くのですか」
「家だよ。一緒に住む家」
彼は当然のように言った。ここにも家があるということも驚きだが、一緒に住むという言葉は聞き捨てならない。私は立ち止まった。彼もすぐに止まった。手はつないだままである。この状態では聞き辛いが、確かめずにはいられない。
「あのう。奥様は?」
「だってまだ来ないもの。ここへ来るとは限らないし。多分来ないよ。ともかく、今は一緒においで」
彼は屈託なく答えた。私は観念して従った。
「着いた。ここだよ。といっても見えないか」
途中どんな道を通ったのかも、遠いのかも近いのかもわからぬまま、彼の言う家に到着した。何も見えないのは彼の言う通りである。
「どんな家ですか」
「木造の平屋。それほど大きくない。冷暖房の心配も要らないしね。気に入らなければ、建て直す。煉瓦造りでも漆喰塗りでも作るよ」
「そんなに簡単に作れるものですか」
「そう。服でも家でも好きなものは何でも作れる。生き物以外はね。さあ、入ろう」
彼は手を放したかと思うと、肩へ手を回して私を導いた。戸惑いも覚えたが、実際、案内なしには、身動きが取れなかった。座らされたのは二人掛けの小振りなソファで、彼が隣に来て一杯になったので、それと知れた。
彼の腕は肩にかかったままである。こうした状況には不慣れで、私はあしらいに困った。
「お前の心が読めない。俺の考えていることは判るか?」
「いいえ」
ただでさえ初めての地に来て、しかも突然視力を失い、私は身の置き所さえわからないでいた。何もかもわからず、尋ねるべき問いも浮かばない。
「でも俺の元へ来たのだから、それが答えだよな」
回された腕に力が入り、向きを変えられた。もう一方の腕も加わり、私を囲い込む。彼の顔が近付く気配がわかった。緊張に身体が強張る。
「あのう」
「ん?」
という声は既に蕩けかかっている。私は頭がくらくらした。体勢を立て直す前に、唇を塞がれた。思い出した。遥か以前にも似たようなことがあった。しかし決して同じではない。何故なら、私も一緒に蕩けてしまったからである。
「愛している」
私から離れる度に、彼の唇は繰り返した。見えなくても、彼の形ははっきりとわかった。彼の存在に包まれ、私は生涯にも体験しなかった幸福感を覚えた。
「愛しています」
こぼれ出た言葉に、彼が笑顔を作ったのが感じ取れた。
「初めて言ってもらえた」
「私もです」
「言ったことなかった?」
「はい」
私たちはひたすら互いを求め合った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる