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「おはよう」
「おはようございます」
目覚めた、と言っても意識を回復しただけで視力は失われたままであるが、時にも彼の腕の中にいた。寒くもなく暑くもない。空腹感もない。
「死んだ後も眠ったり起きたりするとは思いませんでした」
「眠らずにいることもできるけれど、習慣はなかなか捨てられない。時々眠った方が、楽しく過ごせる」
「そういうものですか」
「うん。身支度をしたら、服を貰いに行こう。自分で作ることもできるけど、慣れるまでは作ってもらった方が早いし、他の人が作った服を着るのは目先が変わって楽しい」
彼は私を撫でながら言った。色々疑問は出てきたが、いずれわかることだろうと黙っていた。
身支度は彼が整えてくれた。慣れた手つきである。生前は、亭主関白の典型だった筈である。
但し、結婚後の家庭には立ち入らなかったから、そこで鍛えられたのかもしれない。また奥さんの存在を思い出した。事ここに至って敢えて口に出すのは厚かましいが、思い出した以上は訊かずにいられない。
「あのう。私はいつまでお世話になれるのでしょうか」
既に私たちは家を出ていた。彼は手をつないで先導していたが、私の言葉を耳にして、速度を緩めた。
「ここでは、現世と同じ関係を続ける必要がない。一人で住みたい人もいれば、両親と住みたい人もいる。その辺の調整は、きっと神様が塩梅してくださるのだろう。そもそも俺とお前がここで会えたことが、一つの結論なんだ。心配要らない」
そうまで断言されては、引き下がるより他なかった。
服をくれる人の家は、ブティックのような店構えをしているらしかった。
嬉しいことに、ずらりと並んだ洋服は独特の手触りを持ち、触れるだけで大体の色合いが判別できるようになっていた。もちろん彼が付ききりで説明してくれるのだが、赤系統か青系統かだけでも、自分でわかるのは重要なことだった。白や黒の服はなかった。
「皆一着は持っているから、必要ないのよ。作る気もしないわ」
婦人は言った。それで私はカラフルな服をいくつか貰った。ここでは売買が成立し得ない。貨幣が存在しないのである。生活の糧を得る必要がないからである。
この婦人は楽しみのために服を作っており、その服が人に喜んで貰われていくことが報酬になるという。そういう人はたくさんいて、彼らの家は生前の世界に倣って店と呼ばれる。
貰った服に早速着替え、次に向かった先は美容室だった。
「まあ。きれいなお嬢さんね」
美容師は、男性の身体を持ち、女性らしい外見をした人物と推測された。この人物が死後も希望の身体を手に入れられなかったのか、それとも現在の形を望んで得たのか、疑問には思ったがさすがに礼を失するので尋ねることは差し控えた。美容師は髪型を整えるばかりでなく、化粧も施してくれた。
「素敵よ。彼氏も大喜びね」
「ああ。本当に素晴らしい」
当然私は仕上がりを見ることはできなかったが、彼の反応に満足した。
他にも帽子の店や着物の店、宝飾店があり、それぞれで欲しい品を手に入れると、一旦家へ戻った。再び彼が連れ出した先は、レストランであった。
「食べる必要はないと聞きましたが」
「味や雰囲気を楽しむんだよ」
食事はフレンチのフルコースだった。始めにフォークとナイフの位置を教わった後は、最後まで困らなかった。
空腹ではなかったのに、前菜からデザートまで美味しく食べられた。見えなくとも、香りや食感、味の違いが判る分だけ、楽しみの多いイベントだった。
ただ満腹感は覚えず、ワインも飲んだが、全く酔わなかった。不思議な感じである。
「いろいろ案内してくださって、ありがとうございました。楽しかったです」
帰宅後、私は彼に礼を言った。返事は口づけだった。
時間が経っても、彼の私に対する態度は変わらなかった。正確には、時間が経っているかどうか判らない。止まっているのかもしれない。
いずれにしても、私と彼はほぼ常に一緒にいた。家にいる時は、本を読み聞かせてもらったり、庭の手入れを手伝ったりした。彼は庭に香りの高い草木を選んで植え、香りがぶつからないよう順番に花を咲かせた。香りに釣られて花をもらいにくる人も時折あった。
私は目の見えない生活に慣れ、家にいる間ならば、一人で歩き回ることができるようになった。いまでは身の回りの世話も自分で始末できる。彼と私の楽しみに、料理をすることさえできる。
ある時、私は庭で花の香りを嗅いでいた。今は銀木犀の出番だった。金木犀に似た名前の木を、私はここへ来て初めて教わった。見た目も金木犀と似ているそうだが、香りはまるで別物だった。より軽く、爽やかな香りである。
庭の散策を終えて縁側へ戻ったが、彼はそこにいなかった。私は彼を探しに家の中へ入った。彼は奥の部屋にいた。そこは彼の書斎ということで、まず私には縁のない部屋だった。
「ここにいらしたのですね。入ってもよろしいですか」
「いいよ」
そう言う彼の声は、普段と違って聞こえた。彼は工作の最中だったらしく、かたかたと音を立てて辺りを片付けた。私は突っ立っていた。その部屋に本棚があるのか、机や椅子といった家具があるのかどうかも知らなかった。
「何か作っていらしたのですか」
「そうだよ」
彼はキッチン用具もクッションも自分で作った。私にも作れる筈であるが、未だ上手にできなかった。
目が見えないということの不便さを改めて感じさせられた。死後には元々持っていたハンディも消失するものと想像していたが、生前にはなかったものまで背負わされるとは予想だにしなかった。
私が死んでいることは確かである。三途の川も渡った。それにしてもここはどういう場所なのだろう。地獄なのか極楽なのか、その他の場所なのか。近頃は、そんな疑問が折りに触れて浮かび上がる。
「手伝えることがあれば致しますし、お邪魔ならば別の部屋へ行きます」
「話がある」
彼が近付いてきた。かたかたという音に混じり、重い布を引きずるような音もした。材料を抱えて移動するらしい。私は運ぶのを手伝おうと、手を伸ばした。
骨に触れた。骨には触ったことがあるから、判る。彼は動きを止めた。一切の音が消えた。彼と私の気配だけが存在する。私は骨に触れたまま、じっと待った。
「それは俺の腕だ。こっちが皮と肉。確かめてごらん」
とうとう彼が言った。手を滑らせると、骨は立体的に組み合わさり、つながって人体を構成していた。皮と肉の方は、中身が留守のせいで、触ってもよくわからなかった。彼は私が確認している間、かたりとも動かなかった。
「その姿の方が楽なのですか」
「いや。どちらも変わらない。たまに脱いでみたくなることがある。こういう人は俺だけじゃないと思うんだけれど、見かけないからね。気分の問題」
「これからは、好きな方の姿でいてください」
私は骨に手をかけたまま言った。彼はかたかたと音を立てて頷いた。
「おはようございます」
目覚めた、と言っても意識を回復しただけで視力は失われたままであるが、時にも彼の腕の中にいた。寒くもなく暑くもない。空腹感もない。
「死んだ後も眠ったり起きたりするとは思いませんでした」
「眠らずにいることもできるけれど、習慣はなかなか捨てられない。時々眠った方が、楽しく過ごせる」
「そういうものですか」
「うん。身支度をしたら、服を貰いに行こう。自分で作ることもできるけど、慣れるまでは作ってもらった方が早いし、他の人が作った服を着るのは目先が変わって楽しい」
彼は私を撫でながら言った。色々疑問は出てきたが、いずれわかることだろうと黙っていた。
身支度は彼が整えてくれた。慣れた手つきである。生前は、亭主関白の典型だった筈である。
但し、結婚後の家庭には立ち入らなかったから、そこで鍛えられたのかもしれない。また奥さんの存在を思い出した。事ここに至って敢えて口に出すのは厚かましいが、思い出した以上は訊かずにいられない。
「あのう。私はいつまでお世話になれるのでしょうか」
既に私たちは家を出ていた。彼は手をつないで先導していたが、私の言葉を耳にして、速度を緩めた。
「ここでは、現世と同じ関係を続ける必要がない。一人で住みたい人もいれば、両親と住みたい人もいる。その辺の調整は、きっと神様が塩梅してくださるのだろう。そもそも俺とお前がここで会えたことが、一つの結論なんだ。心配要らない」
そうまで断言されては、引き下がるより他なかった。
服をくれる人の家は、ブティックのような店構えをしているらしかった。
嬉しいことに、ずらりと並んだ洋服は独特の手触りを持ち、触れるだけで大体の色合いが判別できるようになっていた。もちろん彼が付ききりで説明してくれるのだが、赤系統か青系統かだけでも、自分でわかるのは重要なことだった。白や黒の服はなかった。
「皆一着は持っているから、必要ないのよ。作る気もしないわ」
婦人は言った。それで私はカラフルな服をいくつか貰った。ここでは売買が成立し得ない。貨幣が存在しないのである。生活の糧を得る必要がないからである。
この婦人は楽しみのために服を作っており、その服が人に喜んで貰われていくことが報酬になるという。そういう人はたくさんいて、彼らの家は生前の世界に倣って店と呼ばれる。
貰った服に早速着替え、次に向かった先は美容室だった。
「まあ。きれいなお嬢さんね」
美容師は、男性の身体を持ち、女性らしい外見をした人物と推測された。この人物が死後も希望の身体を手に入れられなかったのか、それとも現在の形を望んで得たのか、疑問には思ったがさすがに礼を失するので尋ねることは差し控えた。美容師は髪型を整えるばかりでなく、化粧も施してくれた。
「素敵よ。彼氏も大喜びね」
「ああ。本当に素晴らしい」
当然私は仕上がりを見ることはできなかったが、彼の反応に満足した。
他にも帽子の店や着物の店、宝飾店があり、それぞれで欲しい品を手に入れると、一旦家へ戻った。再び彼が連れ出した先は、レストランであった。
「食べる必要はないと聞きましたが」
「味や雰囲気を楽しむんだよ」
食事はフレンチのフルコースだった。始めにフォークとナイフの位置を教わった後は、最後まで困らなかった。
空腹ではなかったのに、前菜からデザートまで美味しく食べられた。見えなくとも、香りや食感、味の違いが判る分だけ、楽しみの多いイベントだった。
ただ満腹感は覚えず、ワインも飲んだが、全く酔わなかった。不思議な感じである。
「いろいろ案内してくださって、ありがとうございました。楽しかったです」
帰宅後、私は彼に礼を言った。返事は口づけだった。
時間が経っても、彼の私に対する態度は変わらなかった。正確には、時間が経っているかどうか判らない。止まっているのかもしれない。
いずれにしても、私と彼はほぼ常に一緒にいた。家にいる時は、本を読み聞かせてもらったり、庭の手入れを手伝ったりした。彼は庭に香りの高い草木を選んで植え、香りがぶつからないよう順番に花を咲かせた。香りに釣られて花をもらいにくる人も時折あった。
私は目の見えない生活に慣れ、家にいる間ならば、一人で歩き回ることができるようになった。いまでは身の回りの世話も自分で始末できる。彼と私の楽しみに、料理をすることさえできる。
ある時、私は庭で花の香りを嗅いでいた。今は銀木犀の出番だった。金木犀に似た名前の木を、私はここへ来て初めて教わった。見た目も金木犀と似ているそうだが、香りはまるで別物だった。より軽く、爽やかな香りである。
庭の散策を終えて縁側へ戻ったが、彼はそこにいなかった。私は彼を探しに家の中へ入った。彼は奥の部屋にいた。そこは彼の書斎ということで、まず私には縁のない部屋だった。
「ここにいらしたのですね。入ってもよろしいですか」
「いいよ」
そう言う彼の声は、普段と違って聞こえた。彼は工作の最中だったらしく、かたかたと音を立てて辺りを片付けた。私は突っ立っていた。その部屋に本棚があるのか、机や椅子といった家具があるのかどうかも知らなかった。
「何か作っていらしたのですか」
「そうだよ」
彼はキッチン用具もクッションも自分で作った。私にも作れる筈であるが、未だ上手にできなかった。
目が見えないということの不便さを改めて感じさせられた。死後には元々持っていたハンディも消失するものと想像していたが、生前にはなかったものまで背負わされるとは予想だにしなかった。
私が死んでいることは確かである。三途の川も渡った。それにしてもここはどういう場所なのだろう。地獄なのか極楽なのか、その他の場所なのか。近頃は、そんな疑問が折りに触れて浮かび上がる。
「手伝えることがあれば致しますし、お邪魔ならば別の部屋へ行きます」
「話がある」
彼が近付いてきた。かたかたという音に混じり、重い布を引きずるような音もした。材料を抱えて移動するらしい。私は運ぶのを手伝おうと、手を伸ばした。
骨に触れた。骨には触ったことがあるから、判る。彼は動きを止めた。一切の音が消えた。彼と私の気配だけが存在する。私は骨に触れたまま、じっと待った。
「それは俺の腕だ。こっちが皮と肉。確かめてごらん」
とうとう彼が言った。手を滑らせると、骨は立体的に組み合わさり、つながって人体を構成していた。皮と肉の方は、中身が留守のせいで、触ってもよくわからなかった。彼は私が確認している間、かたりとも動かなかった。
「その姿の方が楽なのですか」
「いや。どちらも変わらない。たまに脱いでみたくなることがある。こういう人は俺だけじゃないと思うんだけれど、見かけないからね。気分の問題」
「これからは、好きな方の姿でいてください」
私は骨に手をかけたまま言った。彼はかたかたと音を立てて頷いた。
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