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第四章 富百合
2 先輩と呼ばれてしまった
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年末年始にかけて、予備校では入試直前特別講習、という講座が開かれていた。大晦日と正月2日を除き、前半と後半に分かれて、1つの教科を短期集中で教える授業である。
この間、通常の授業はない。俺は、2次試験に必要な科目を選んで、受講することにした。
当日行ってみると、いつもより若やいだ雰囲気だった。見慣れない顔ばかりだ。
そのうち制服を着た人を見つけ、理由が分かった。彼らは現役高校生である。高校も年末年始休み、予備校に通うこともできる。1年しか違わないのに、この輝きの差は何だろう。挫折を知らないからか?
俺の感覚では、予備校は浪人生のためのものである。世の中には、高校の授業では物足りず、予備校に通ってまで勉強に励む生徒も、案外存在するのであった。
考えてみれば、現役向けの夏期講習というものもあったし、俺が高校生の頃、学校で受けた模擬試験は、予備校のものだった。
通い慣れない人が、落ち着きなくうろうろするのを掻き分けて、教室へ向かう。
そこここに、それらしい若者が溜まって、立ち話をしていた。通行の邪魔である。
案の定、人を掻き分けて階段を上ろうとする若い女の子が、誰かにぶつかってバランスを崩したか、よろけて足を滑らせた。
「きゃあ」
準備よくノートや筆記用具を鞄から出していたのが、仇になった。
文房具をあちこちに散らしながら、ずりずりと2、3段落ちて、踊り場で止まる。
皆、突然のことで驚いたのか、それが若者の作法なのか、遠巻きにして互いに囁き交わしながら、見ているだけである。
当人は恥ずかしそうに、散らばった荷物をかき集めている。怪我はなさそうだ。
追いついた俺の足元で、透明な下敷きが光ったので、拾い上げた。女の子は、下敷きが落ちたことには気付いていない。
「これ」
「あ、ありがとうございます。外山先輩?」
「はい?」
女の子は、ずり落ちて鼻にひっかかっていた眼鏡を、掛け直した。レンズの厚い、縁も太い眼鏡である。ちらりと見えた素顔は、眼鏡越しよりずっと可愛かった。
「あっ、失礼しました。ありがとうございました」
深々とお辞儀をした弾みに、拾い集めたノートが、またも滑り落ちる。コントみたいだ。
俺は成り行き上、謝り続ける女の子を手伝い、散らばった文房具を集めてやった。
「本当にすみませんでした。ありがとうございました」
「いいえ。気をつけて」
教室へ足を向けると、足音が後からついてきた。そのまま、俺の斜め後ろに座った気配だ。
何気なく見返ると、あっと言わんばかりに大袈裟に驚き、眼鏡を掛け直す。
「お、同じ講座を受けるんだなも」
「そうだね」
眼鏡を取れば可愛いし、先ほどの件で俺に親近感を持ったようである。続けて話そうかとも思ったが、止めた。
受験本番直前に女漁りをするのは、さすがに不謹慎だ、と思ったのが一つ。
次に、担当講師が神谷由香子だった。
俺が教室で女の子に話しかけるところを見て、由香子がフタケとのことを連想し、不愉快になるかもしれない、と気を回したためである。
由香子は時間ぴったりに教室へ入ってきて、俺に気付いたかどうか、普段と変わらぬ様子で授業を始めた。
しばらくは授業に集中していた。
顔に視線を感じた。斜め後ろからの視線である。
気のせいに違いない、と言い聞かせても、皮膚に刺さる感覚は、ますます強まった。
由香子が黒板に向かう隙をついて、とうとう振り向いた。あの女の子が、慌てて眼鏡を掛け直した。
俺は無言で、すぐに顔を戻した。
しばらくは、何も感じなかった。
再び、同じ場所がむずむずし始めた。由香子の動向を窺って、ぱっと振り向く。
またも、女の子が眼鏡を掛け直していた。
明らかに、俺を見ている。
しかも、眼鏡を外して見ているようだ。
気になる。だが、何回も振り向けば、由香子に見つかる。その時怪しまれるのは、俺の方だ。
俺は、視線がちくちく刺さるのにも、振り向きたい衝動にも、耐えた。おかげで、授業がさっぱり頭に入らなかった。
午前の授業が終わり、由香子が退室するのを見極め、今度こそ俺は振り向いた。三度、女の子は眼鏡を掛け直した。
「君、席を替わってくれないか」
「はい、一緒に食べましょう!」
「はい?」
あまりにも、まともな返事とかけ離れていた。俺は絶句した。
女の子は頬を上気させ、いそいそと手製の弁当を取り出す。
「席を替わって欲しい、と言ったんだけど」
俺がゆっくり繰り返すと、女の子は勘違いに気付き、湯気が出そうなくらい真っ赤になった。
「す、すみません。今、片づけやあす」
あ、まずい。と、思った時には、遅かった。
慌てて机の上を片付けようとして、女の子は、弁当箱を落としてしまった。横倒しに落ちた弁当箱は、みごとに中身をまき散らした。
「ああ」
泣きそうな顔をして、動けずにいる女の子を見かねて、俺は散らばった弁当箱に手をかけた。
「お昼をおごるから、勘弁してくれ」
「あ、ありがとうございます。ちょっと待とってくだせあね」
途端に女の子が笑顔になった。俺を押しのけんばかりに、素手で弁当の中身をかき集め出した。
あまりに手際が悪いので、結局手伝った。
女の子は、須藤富百合、と名乗った。
地元高校の3年生で、国立大の理系を目指している。
今回は、苦手な科目を補うため、予備校の講座を受けることにした、ということだった。
俺たちは、食堂で向かい合って食事を取りつつ、互いに質問し合った。
「先輩はどこを受けるんですか」
俺は志望校を告げた。
富百合は何故か、がっかりした様子だった。
「あ、先輩のお名前を、聞いとらんでした」
「フジノユーキ」
「フジノ先輩。私と同じ字がありゃあすね。わあ、素敵な偶然」
「さっきから先輩先輩って言っているけど、俺そんなに老けて見える?」
ついに、俺は尋ねた。年齢を言う前から、富百合は俺を先輩扱いしていた。1歳しか違わない。同じ学年でも、誕生日に最大1年の差がある。外見だって、人により若見えしたり老け顔だったり、ある程度幅がある筈だ。
確かに、俺から見た富百合は若々しい。しかし彼女は3年生である。その彼女から先輩と呼ばれることは、浪人、と呼ばれることと同義である。
事実ではある。でも改めて自覚させられると、自分でも意外なほど傷ついた。今更である。
俺の言葉に、富百合はトマトのように真っ赤になった。
「あ、すみません。そういうんじゃのうて。全然、老けてなんか、いませんけど、その」
無駄に手を動かした挙げ句、口ごもってしまった。ずり落ちた眼鏡の端から見える目には、涙が溜まっている。いまにもこぼれ落ちそうである。
俺は、落ち着かない気分にさせられた。しかし、慰めの言葉も見つからない。
食器に目を落として食事を再開した。黙々と箸を動かす。
しばらくして見ると、富百合はハンカチでそっと目頭を押さえた後、何ごともなかったかのように箸を手に取った。一瞬だけ、手が震えた。
それからは、互いに無言で食事を進めた。富百合が食べ終えるのを見計らって、俺は立ち上がった。
富百合も慌てて立ち上がろうとするのを、ほとんど触れんばかりに手で制した。
「俺、用事があるから行くけど、ゆっくり休んでくれ。午後から席を替わることを、忘れないように」
富百合を置いて足早に食堂を出た。背後で、どんがらがっしゃん、と派手な音がしたが、俺は振り向かなかった。
俺は、わざと昼休みのぎりぎりまで教室へ戻らなかった。行ってみれば、富百合は元の席でノートを広げていた。俺に気付いても、移動する素振りさえ見せない。
「席、替わってもらえないかな」
富百合は上目遣いに、俺を見た。やはり、眼鏡をかけない方が、ずっと可愛らしい。
「あの、私、どうしても、この席がええんです」
俺は目を逸らし、教室を見渡した。
後ろの隅に陣取るエイミと目が合った。僅かな身振りで承諾を示す。午前中の攻防から観察していたのだろう。
「じゃあ、他の人と替わるからいいよ。悪かったね」
俺が鞄を持って席を離れようとすると、ノートや鉛筆が宙を舞った。
富百合が前に立ち塞がっていた。
「だめです」
「何で、君が俺の席を決めるのかな」
さすがに俺も、付き合いきれない。穏やかに言ったつもりだったが、言い方がきつかったかもしれない。
またも、富百合が顔を赤くして、目に涙を溜めた。
「そ、そんなつもりじゃにゃあんです。けど」
「はいはい。皆、席について。受験は時間厳守。油断すると、合格が遠のくわよ」
ぱんぱん、と手を打ちながら、神谷由香子が教壇に立った。俺は仕方なく元の席についた。午後の授業の間にも、俺は視線を感じたが、絶対に振り向かなかった。
しかし集中力は削がれる。その上、由香子の視線が、心なしか冷たく感じられた。
1日の授業が終わると、俺は、やはり後ろを見ずに、さっさと帰り支度を始めた。この教室にはフタケもコトリもいない。留まる理由はなかった。
「あの、フジノ先輩」
この間、通常の授業はない。俺は、2次試験に必要な科目を選んで、受講することにした。
当日行ってみると、いつもより若やいだ雰囲気だった。見慣れない顔ばかりだ。
そのうち制服を着た人を見つけ、理由が分かった。彼らは現役高校生である。高校も年末年始休み、予備校に通うこともできる。1年しか違わないのに、この輝きの差は何だろう。挫折を知らないからか?
俺の感覚では、予備校は浪人生のためのものである。世の中には、高校の授業では物足りず、予備校に通ってまで勉強に励む生徒も、案外存在するのであった。
考えてみれば、現役向けの夏期講習というものもあったし、俺が高校生の頃、学校で受けた模擬試験は、予備校のものだった。
通い慣れない人が、落ち着きなくうろうろするのを掻き分けて、教室へ向かう。
そこここに、それらしい若者が溜まって、立ち話をしていた。通行の邪魔である。
案の定、人を掻き分けて階段を上ろうとする若い女の子が、誰かにぶつかってバランスを崩したか、よろけて足を滑らせた。
「きゃあ」
準備よくノートや筆記用具を鞄から出していたのが、仇になった。
文房具をあちこちに散らしながら、ずりずりと2、3段落ちて、踊り場で止まる。
皆、突然のことで驚いたのか、それが若者の作法なのか、遠巻きにして互いに囁き交わしながら、見ているだけである。
当人は恥ずかしそうに、散らばった荷物をかき集めている。怪我はなさそうだ。
追いついた俺の足元で、透明な下敷きが光ったので、拾い上げた。女の子は、下敷きが落ちたことには気付いていない。
「これ」
「あ、ありがとうございます。外山先輩?」
「はい?」
女の子は、ずり落ちて鼻にひっかかっていた眼鏡を、掛け直した。レンズの厚い、縁も太い眼鏡である。ちらりと見えた素顔は、眼鏡越しよりずっと可愛かった。
「あっ、失礼しました。ありがとうございました」
深々とお辞儀をした弾みに、拾い集めたノートが、またも滑り落ちる。コントみたいだ。
俺は成り行き上、謝り続ける女の子を手伝い、散らばった文房具を集めてやった。
「本当にすみませんでした。ありがとうございました」
「いいえ。気をつけて」
教室へ足を向けると、足音が後からついてきた。そのまま、俺の斜め後ろに座った気配だ。
何気なく見返ると、あっと言わんばかりに大袈裟に驚き、眼鏡を掛け直す。
「お、同じ講座を受けるんだなも」
「そうだね」
眼鏡を取れば可愛いし、先ほどの件で俺に親近感を持ったようである。続けて話そうかとも思ったが、止めた。
受験本番直前に女漁りをするのは、さすがに不謹慎だ、と思ったのが一つ。
次に、担当講師が神谷由香子だった。
俺が教室で女の子に話しかけるところを見て、由香子がフタケとのことを連想し、不愉快になるかもしれない、と気を回したためである。
由香子は時間ぴったりに教室へ入ってきて、俺に気付いたかどうか、普段と変わらぬ様子で授業を始めた。
しばらくは授業に集中していた。
顔に視線を感じた。斜め後ろからの視線である。
気のせいに違いない、と言い聞かせても、皮膚に刺さる感覚は、ますます強まった。
由香子が黒板に向かう隙をついて、とうとう振り向いた。あの女の子が、慌てて眼鏡を掛け直した。
俺は無言で、すぐに顔を戻した。
しばらくは、何も感じなかった。
再び、同じ場所がむずむずし始めた。由香子の動向を窺って、ぱっと振り向く。
またも、女の子が眼鏡を掛け直していた。
明らかに、俺を見ている。
しかも、眼鏡を外して見ているようだ。
気になる。だが、何回も振り向けば、由香子に見つかる。その時怪しまれるのは、俺の方だ。
俺は、視線がちくちく刺さるのにも、振り向きたい衝動にも、耐えた。おかげで、授業がさっぱり頭に入らなかった。
午前の授業が終わり、由香子が退室するのを見極め、今度こそ俺は振り向いた。三度、女の子は眼鏡を掛け直した。
「君、席を替わってくれないか」
「はい、一緒に食べましょう!」
「はい?」
あまりにも、まともな返事とかけ離れていた。俺は絶句した。
女の子は頬を上気させ、いそいそと手製の弁当を取り出す。
「席を替わって欲しい、と言ったんだけど」
俺がゆっくり繰り返すと、女の子は勘違いに気付き、湯気が出そうなくらい真っ赤になった。
「す、すみません。今、片づけやあす」
あ、まずい。と、思った時には、遅かった。
慌てて机の上を片付けようとして、女の子は、弁当箱を落としてしまった。横倒しに落ちた弁当箱は、みごとに中身をまき散らした。
「ああ」
泣きそうな顔をして、動けずにいる女の子を見かねて、俺は散らばった弁当箱に手をかけた。
「お昼をおごるから、勘弁してくれ」
「あ、ありがとうございます。ちょっと待とってくだせあね」
途端に女の子が笑顔になった。俺を押しのけんばかりに、素手で弁当の中身をかき集め出した。
あまりに手際が悪いので、結局手伝った。
女の子は、須藤富百合、と名乗った。
地元高校の3年生で、国立大の理系を目指している。
今回は、苦手な科目を補うため、予備校の講座を受けることにした、ということだった。
俺たちは、食堂で向かい合って食事を取りつつ、互いに質問し合った。
「先輩はどこを受けるんですか」
俺は志望校を告げた。
富百合は何故か、がっかりした様子だった。
「あ、先輩のお名前を、聞いとらんでした」
「フジノユーキ」
「フジノ先輩。私と同じ字がありゃあすね。わあ、素敵な偶然」
「さっきから先輩先輩って言っているけど、俺そんなに老けて見える?」
ついに、俺は尋ねた。年齢を言う前から、富百合は俺を先輩扱いしていた。1歳しか違わない。同じ学年でも、誕生日に最大1年の差がある。外見だって、人により若見えしたり老け顔だったり、ある程度幅がある筈だ。
確かに、俺から見た富百合は若々しい。しかし彼女は3年生である。その彼女から先輩と呼ばれることは、浪人、と呼ばれることと同義である。
事実ではある。でも改めて自覚させられると、自分でも意外なほど傷ついた。今更である。
俺の言葉に、富百合はトマトのように真っ赤になった。
「あ、すみません。そういうんじゃのうて。全然、老けてなんか、いませんけど、その」
無駄に手を動かした挙げ句、口ごもってしまった。ずり落ちた眼鏡の端から見える目には、涙が溜まっている。いまにもこぼれ落ちそうである。
俺は、落ち着かない気分にさせられた。しかし、慰めの言葉も見つからない。
食器に目を落として食事を再開した。黙々と箸を動かす。
しばらくして見ると、富百合はハンカチでそっと目頭を押さえた後、何ごともなかったかのように箸を手に取った。一瞬だけ、手が震えた。
それからは、互いに無言で食事を進めた。富百合が食べ終えるのを見計らって、俺は立ち上がった。
富百合も慌てて立ち上がろうとするのを、ほとんど触れんばかりに手で制した。
「俺、用事があるから行くけど、ゆっくり休んでくれ。午後から席を替わることを、忘れないように」
富百合を置いて足早に食堂を出た。背後で、どんがらがっしゃん、と派手な音がしたが、俺は振り向かなかった。
俺は、わざと昼休みのぎりぎりまで教室へ戻らなかった。行ってみれば、富百合は元の席でノートを広げていた。俺に気付いても、移動する素振りさえ見せない。
「席、替わってもらえないかな」
富百合は上目遣いに、俺を見た。やはり、眼鏡をかけない方が、ずっと可愛らしい。
「あの、私、どうしても、この席がええんです」
俺は目を逸らし、教室を見渡した。
後ろの隅に陣取るエイミと目が合った。僅かな身振りで承諾を示す。午前中の攻防から観察していたのだろう。
「じゃあ、他の人と替わるからいいよ。悪かったね」
俺が鞄を持って席を離れようとすると、ノートや鉛筆が宙を舞った。
富百合が前に立ち塞がっていた。
「だめです」
「何で、君が俺の席を決めるのかな」
さすがに俺も、付き合いきれない。穏やかに言ったつもりだったが、言い方がきつかったかもしれない。
またも、富百合が顔を赤くして、目に涙を溜めた。
「そ、そんなつもりじゃにゃあんです。けど」
「はいはい。皆、席について。受験は時間厳守。油断すると、合格が遠のくわよ」
ぱんぱん、と手を打ちながら、神谷由香子が教壇に立った。俺は仕方なく元の席についた。午後の授業の間にも、俺は視線を感じたが、絶対に振り向かなかった。
しかし集中力は削がれる。その上、由香子の視線が、心なしか冷たく感じられた。
1日の授業が終わると、俺は、やはり後ろを見ずに、さっさと帰り支度を始めた。この教室にはフタケもコトリもいない。留まる理由はなかった。
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