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第三章 現実
026 アガサという女性
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締め切り間近でパソコンと向かい合っていると、インターホンが鳴った。
『ピザのお届けに上がりました』
チョコレート肌をした男性が立っていて、白い歯を眩しいほど見せつけてくる。いい笑顔だ。
「あの……頼んでませんが……」
みるみるうちに笑顔が萎んでいく。申し訳ないことをしてしまったが、頼んでいないのは本当だ。リチャードは仕事で家を出ているし、頼んだ人は誰もいない。
男性の口から住所がつらつら出てくるが、確かに僕らのマンションだ。
「でも頼んでないんです」
『そうですか……何かのミスかもしれませんね』
「だと思います」
『ご家族の方の注文という可能性は?』
「それはないかと」
『おかしいなあ……』
ピザに限らず、家に誰かを呼ぶのはセシル以外控えている。もし食べたいときは、必ずリチャードとふたりでいるときだけだ。
ピザ宅配の人は帰っていった。
その夜、わざわざリチャードに報告する話でもないのでピザ屋の件は特に何も言わなかった。というより、仕事の締め切りが近いのとベッドに引きずり込まれたのがセットになり、頭の片隅にも残っていなかった。
原稿を送り、仕事がある程度片づいたので、僕は久しぶりに買い物と散歩を楽しむことにした。
見慣れている道であっても、仕事中と仕事終わりでは見える景色が違う。道が僕を案内してくれているようで、吸い込まれるまま屋台のある方向へ歩いた。
「こんにちは」
甘酸っぱいベリージュースを公園のベンチで飲んでいると、女性が話しかけてきた。
いかにもデートです、という格好で、僕が隣にいるのが申し訳なくなるくらい。
「あなたはディックを知っていますか?」
べこっとカップが情けない音を鳴らす。
ディック。これはリチャードの愛称だ。僕も呼ばない。呼んでいるのを見たことがあるのは、リチャードの父と弟のセシル、そして挨拶に行ったときに会った母親だけだ。親しい間柄のみ呼ぶことが許される呼び名。僕も呼ばせてもらえないわけじゃないが、初めて会ったときにリチャードだと挨拶されているので、僕はこれからもリチャードと呼び続けたい。
「あなたは?」
好奇心より圧倒的に勝った警戒心で、質問に答えずに質問で返した。二度目のべこっが響く。強くカップを持ちすぎた。
「ディックの……知り合いです。学生時代の同級生」
間はなんだと言いたくなった。肝心なことを隠しているような言い方。そして何かを匂わせようとしている。
さて、どう出ようか。とりあえず、残りのジュースを飲み干した。
「あなたとディックが歩いているのを見かけたもので、」
「いつですか?」
ちょっと前のめりになって聞いてみる。リチャードは尋問するとき、威圧のためか身体を前に出す。僕もまねてみた。
「先週の、日曜日だったかと……」
先週は確かにふたりでカフェでランチを取った。間違ってはいない。
「もし連絡先を知っているなら、会わせてもらえませんか?」
「それは……彼の仕事の都合もありますし」
「私が合わせます」
「しばらく帰ってこないかも……」
「待ちます。弁護士って忙しいんですね」
そうだった。リチャードは法学部に通い、弁護士だという設定だ。法学部へ行くと友人には伝えたのだろう。
「お願いします。どうしても会わないといけないんです」
「お名前を教えてもらえますか?」
彼女は目を逸らしながらアガサと名乗った。僕の好きな小説家と同じ名前だった。
夕食の準備をしていると、リチャードが後ろから抱きついて甘えてきた。
「リチャード、危ないですよ」
「ちゃんと何を作っているか判断してから抱きついてるさ」
抱きつかないという選択肢はないようだ。したいままにさせておこう。僕の心も平穏が保たれる。いつもなら。
「何かあったのか?」
いち早く察してくれるリチャードに、しばらく僕も甘えていた。キッチンで何をしているんだと、鍋から出る湯気を見ながらぼんやりと考えた。
「アガサって、知っていますか?」
珍しいことに、リチャードはこれでもかと驚いた顔をしている。間違いなく知り合いだ。
「そう名乗る女性に、今日会ったんです。仕事が終わって買い物ついでに散歩してたら、公園で」
「何を話した?」
「ディックに会いたいと言っていました。会えるなら、僕を通してでも連絡がほしいって。リチャードみたく背が高い女性でした。ブロンドヘアーをまとめて、意思の強そうな感じの人です」
「……分かった。俺から連絡する」
出そうになる意地汚い本音は、なんとか噛み締めて口から出さないようにした。僕にしてはえらい。よくやった。
その日に食べた夕食は、少ししょっぱかった。涙の味とごまかしたいところだが、ただの塩の入れすぎだった。リチャードは美味しい美味しいと食べてくれる。それが切ない。
いつも一緒に寝ようと誘ってくるのに、今日のリチャードは何も言ってくれなかった。僕も誘える雰囲気ではなく、キスをしてそれぞれの自室へ戻った。
「誰だろう……アガサって」
友人であれば、あんな切羽詰まった声を出さないはずだ。懐かしそうに会いたいと告げるだけでいい。浮かぶものがあっても、声に出せるほど僕は心が広くない。
もやもやしたまま眠りにつくと、朝はリチャードが先に起きていた。彼が早かったんじゃなく、僕が遅すぎた。
パンにチーズとハムを挟んだサンドイッチと、バナナのスムージー。リチャードの成長をまたしても知ることができた。格段に上手くなっていく。僕が必要とされなくなる日がくる。
「締め切り間に合ったって言ってたけど、今日時間はある? ちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」
昨日の今日であっても、リチャードはあまり変わらないトーンで告げた。
「大丈夫です。どこに行くんですか?」
「病院」
「え」
「俺がどこか悪いわけじゃないよ。知り合いが入院していて、会いにいくことになった。こそこそするまねをしたくないから、君を連れていきたい」
リチャードは余計なことは言わないが、昨日会った女性の関係者だ。朝から変な汗が出てきて、気のせいだと思いたくてスムージーを口にした。とにかく、バナナが全面にくる。多分、ミルクを入れ忘れている。後からもミルクが追いかけてこない。
「ナオが会ったアガサを名乗る女性の話だけど、彼女のことから話さなければならないね」
『ピザのお届けに上がりました』
チョコレート肌をした男性が立っていて、白い歯を眩しいほど見せつけてくる。いい笑顔だ。
「あの……頼んでませんが……」
みるみるうちに笑顔が萎んでいく。申し訳ないことをしてしまったが、頼んでいないのは本当だ。リチャードは仕事で家を出ているし、頼んだ人は誰もいない。
男性の口から住所がつらつら出てくるが、確かに僕らのマンションだ。
「でも頼んでないんです」
『そうですか……何かのミスかもしれませんね』
「だと思います」
『ご家族の方の注文という可能性は?』
「それはないかと」
『おかしいなあ……』
ピザに限らず、家に誰かを呼ぶのはセシル以外控えている。もし食べたいときは、必ずリチャードとふたりでいるときだけだ。
ピザ宅配の人は帰っていった。
その夜、わざわざリチャードに報告する話でもないのでピザ屋の件は特に何も言わなかった。というより、仕事の締め切りが近いのとベッドに引きずり込まれたのがセットになり、頭の片隅にも残っていなかった。
原稿を送り、仕事がある程度片づいたので、僕は久しぶりに買い物と散歩を楽しむことにした。
見慣れている道であっても、仕事中と仕事終わりでは見える景色が違う。道が僕を案内してくれているようで、吸い込まれるまま屋台のある方向へ歩いた。
「こんにちは」
甘酸っぱいベリージュースを公園のベンチで飲んでいると、女性が話しかけてきた。
いかにもデートです、という格好で、僕が隣にいるのが申し訳なくなるくらい。
「あなたはディックを知っていますか?」
べこっとカップが情けない音を鳴らす。
ディック。これはリチャードの愛称だ。僕も呼ばない。呼んでいるのを見たことがあるのは、リチャードの父と弟のセシル、そして挨拶に行ったときに会った母親だけだ。親しい間柄のみ呼ぶことが許される呼び名。僕も呼ばせてもらえないわけじゃないが、初めて会ったときにリチャードだと挨拶されているので、僕はこれからもリチャードと呼び続けたい。
「あなたは?」
好奇心より圧倒的に勝った警戒心で、質問に答えずに質問で返した。二度目のべこっが響く。強くカップを持ちすぎた。
「ディックの……知り合いです。学生時代の同級生」
間はなんだと言いたくなった。肝心なことを隠しているような言い方。そして何かを匂わせようとしている。
さて、どう出ようか。とりあえず、残りのジュースを飲み干した。
「あなたとディックが歩いているのを見かけたもので、」
「いつですか?」
ちょっと前のめりになって聞いてみる。リチャードは尋問するとき、威圧のためか身体を前に出す。僕もまねてみた。
「先週の、日曜日だったかと……」
先週は確かにふたりでカフェでランチを取った。間違ってはいない。
「もし連絡先を知っているなら、会わせてもらえませんか?」
「それは……彼の仕事の都合もありますし」
「私が合わせます」
「しばらく帰ってこないかも……」
「待ちます。弁護士って忙しいんですね」
そうだった。リチャードは法学部に通い、弁護士だという設定だ。法学部へ行くと友人には伝えたのだろう。
「お願いします。どうしても会わないといけないんです」
「お名前を教えてもらえますか?」
彼女は目を逸らしながらアガサと名乗った。僕の好きな小説家と同じ名前だった。
夕食の準備をしていると、リチャードが後ろから抱きついて甘えてきた。
「リチャード、危ないですよ」
「ちゃんと何を作っているか判断してから抱きついてるさ」
抱きつかないという選択肢はないようだ。したいままにさせておこう。僕の心も平穏が保たれる。いつもなら。
「何かあったのか?」
いち早く察してくれるリチャードに、しばらく僕も甘えていた。キッチンで何をしているんだと、鍋から出る湯気を見ながらぼんやりと考えた。
「アガサって、知っていますか?」
珍しいことに、リチャードはこれでもかと驚いた顔をしている。間違いなく知り合いだ。
「そう名乗る女性に、今日会ったんです。仕事が終わって買い物ついでに散歩してたら、公園で」
「何を話した?」
「ディックに会いたいと言っていました。会えるなら、僕を通してでも連絡がほしいって。リチャードみたく背が高い女性でした。ブロンドヘアーをまとめて、意思の強そうな感じの人です」
「……分かった。俺から連絡する」
出そうになる意地汚い本音は、なんとか噛み締めて口から出さないようにした。僕にしてはえらい。よくやった。
その日に食べた夕食は、少ししょっぱかった。涙の味とごまかしたいところだが、ただの塩の入れすぎだった。リチャードは美味しい美味しいと食べてくれる。それが切ない。
いつも一緒に寝ようと誘ってくるのに、今日のリチャードは何も言ってくれなかった。僕も誘える雰囲気ではなく、キスをしてそれぞれの自室へ戻った。
「誰だろう……アガサって」
友人であれば、あんな切羽詰まった声を出さないはずだ。懐かしそうに会いたいと告げるだけでいい。浮かぶものがあっても、声に出せるほど僕は心が広くない。
もやもやしたまま眠りにつくと、朝はリチャードが先に起きていた。彼が早かったんじゃなく、僕が遅すぎた。
パンにチーズとハムを挟んだサンドイッチと、バナナのスムージー。リチャードの成長をまたしても知ることができた。格段に上手くなっていく。僕が必要とされなくなる日がくる。
「締め切り間に合ったって言ってたけど、今日時間はある? ちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」
昨日の今日であっても、リチャードはあまり変わらないトーンで告げた。
「大丈夫です。どこに行くんですか?」
「病院」
「え」
「俺がどこか悪いわけじゃないよ。知り合いが入院していて、会いにいくことになった。こそこそするまねをしたくないから、君を連れていきたい」
リチャードは余計なことは言わないが、昨日会った女性の関係者だ。朝から変な汗が出てきて、気のせいだと思いたくてスムージーを口にした。とにかく、バナナが全面にくる。多分、ミルクを入れ忘れている。後からもミルクが追いかけてこない。
「ナオが会ったアガサを名乗る女性の話だけど、彼女のことから話さなければならないね」
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