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虫 派遣先に入って来た後輩が怖い

第2話

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 その日も麻生は袋にお菓子をつめて、待っていた。
「さっき、児嶋さんはいつごろ出てきますかって、男の人にきかれました」
「えっ?」
「連絡先だそうです」
 …………。
 紙に、見覚えのある電話番号が書かれていた。私は動揺した。
 濃い、漆黒の瞳でじいっと私の様子を見て、麻生は言い出した。
「うちにきませんか?」
「え? 麻生さんの家? 近いの?」
「喫茶店がよいしてたら、お金なくなってきちゃって。もしよかったら、家のほうがゴロゴロできるし。紅茶ならありますよ」
「私、今日はちょっと」
 電話番号が気になる。かけようとは思わないけど、でも。付き合っていたころだって、私からかけることはほとんどなかった。でも。
 麻生は私の心中を知ってか知らずか、言った。
「夜に電話したほうがつながりませんか? 用事があるから先に帰るって言ってましたよ」
 仕事の合間に来たのだろうか? 胸が熱くなる。
「とにかくうちに行きましょう」
「あ? え?」
 麻生は私の腕を引っ張ると、見知らぬマンションまで連行した。挙動不審にぶんぶんと振り回しながら。
 

   
 麻生の部屋は面白かった。独特のセンスが随所に表われていた。
 一人暮らしとしても狭い部屋だったが、それに合う様に小型のコタツがある。普通のコタツではなかった。天板がザバッとした、凹凸のある木だった。それだけ自分で変えたのだろう。ごつごつした木の板の上からコーヒーテーブルのようにさらにガラスを置いている。
 隣には濃いブルーのマットレスが敷いてある。ソファベッドなのだが、それが、コーヒーテーブル風コタツの上にすっきりと置かれた黒いパソコンと妙に合っていた。
 白くて小さな冷蔵庫には、モーモーパジャマの柄のように大きなまだらもようがついており、しかし、そのまだらはソファと合わせたようなブルーだった。「牛乳」イメージを追っているのか?
 私はついきょろきょろと部屋中を眺め回した。
「まだ部屋あったまってないから、よかったら、これどうぞ?」
 ブルーのマットレスの上に、カバーのようにラフに置かれていた、フリースのひざ掛けを渡してくる。フリースから、ふわっと甘いホットミルクのような香りがした。
 麻生は私をそのソファに座らせ、純和風の大きな抹茶椀に甘いミルクティを入れて持ってきた。
 しかし、そこまでしておいて、スナック菓子を皿に盛らなかった。スナックの袋を、皆で食べるときにやるように、四方八方から破いたりもしなかった。ただ、袋の一方だけを開け、私の向かいに座ってそれを食べようとし、食べにくそうだと思ったのか、ひょいと私の真横に腰をおろした。
 麻生の手や肘が、私の肘に触れる。そういう時でも、いつも律儀なはずの麻生は「すみません」と言ったりはしない。なんだか、まるで姉か妹と一緒にいるかのような気安い空気が流れる。居心地がいい……。
 お茶の途中で、やっぱり電話をかけることにした。麻生にあずけたコートを返してもらって、ポケットを探った。
 ない。
「……さっきの電話番号なくした……」
 麻生は部屋中を探してくれた。
 ベッドの下、こたつの中、玄関からトイレから、本棚の奥まで。怖いような真剣な顔で、何度も。
「ないですね」
 硬い声で、麻生は言った。
「ごめんなさい。さっき、すぐに帰って電話してたら、なくさなかったですよね」
 麻生はしばらく探して、もう探す場所がないと思ったのか、がっくりと肩を落とした。黙りこんで、しばらくするとため息をついて、また探し始めては、手をとめた。そんなことを繰り返している。
 麻生の体を後ろから肩を覆うように叩いた。
「麻生さん、麻生さん、もういいよ。また連絡してくると思うし、家に帰ったら、あるの。連絡先、別に今じゃなければ……持ってるの。ごめんね」
 麻生は振り向かなかった。
 

   
「麻生さんて、恋愛の話題出さないよね。どうして?」
 お茶の続きに戻り、私はずっと聞きたかったことを口に出した。この状況になってまでくわしいことを聞いてこないなんて、普通、ありえないだろう。
「出して欲しいんですか?」
「出そうで出ないから……」
「彼氏はいません」
 麻生はきっぱりと言った。
 お茶でメガネが曇って、彼女がそれをふきはじめたとき、気がついた。素顔だと意外と怖くない。優しい、繊細な目をしている。
 彼氏がいないから出さない話題だったのか?
 麻生はメガネをかけなおした。
「本当は、児嶋さんが今どうなのか知りたいは知りたいんですけど……」
 麻生はうつむいて、机に目を落としたまま動かなくなった。
「給湯室のおばさんに聞きました。あの」
 いいにくそうだ。
「えーと、あの……」
「私が、ちょっと前に別れたって話?」
「そうです」
 麻生は机から目を離さなくなった。同情、されているのだろうか。思い出したら辛そうだから、あえて今まで話題に出さないように気を使ってくれていたのか?
「別に気にしなくていいのに」
 麻生はこちらを振り向いて、泣きそうな顔をした。
「私、わかります。好きな人とうまくいかなくなったら、どんなにつらいか」
 メガネの奥のまんまるな目が、熱に浮かされたように潤みだした。
 この子、けっこうもてるかもしれないな。ふとそんなことを考える。
 私も、別れ際に、こんな目で彼を見つめることができたら、別れずにすんだだろうか。
 

   
「仕事が忙しい忙しいって、ほんとうはどこで何をやっているんだか」
 疑われたことが悲しかった。だから、誤解を解こうともせずに、冷たく言い放ってしまった。
「もう付き合えない。疲れちゃった……」
 本当は、そこで追いかけてきてほしかった。残業続きで、体も心も疲れきっていた。
 彼も、そこで誤解を解こうとしてほしかったのだろうか? 麻生だったら、誤解をとこうと必死になっただろうか。どんなにつたなくても、せめてこんな風な目で訴えたりできたら、彼とは別れなかっただろうか。
 私は麻生の目をじっと見つめながらそんなことを考え、湧き上がってきた感情に怯えた。
 彼に会いたい。見つめあいたい。キスしたい。
 思い出したくない。
 彼と別れたのは、忙しさだけが原因ではなかったはずだ。忙しいからと会えなくなったときに彼がしたこと。それが、どうしても許せない。
 彼の浮気性な性格はわかっていたような気がする。もし、それがなかったら、私も麻生のように素直になれただろうか?
 自分が浮気する人は、相手の浮気もすぐ疑うんだね。そんな言葉を飲み込んで、彼のことはもう振ったのだ。
 もう嫌だ。思い出したくもない。連絡なんか欲しくなかった。
 麻生の唇をじっと見つめていると、苦しい。彼の感触を思い出して、切なくなる。麻生が私の様子をじっと見ているのはわかっていたが、感情が流れ出すのは止まらなかった。彼のと似たやわらかそうな唇を見ながら、まるで口付けをせがみたいのに、それができない子供のように、私は動けなかった。
 麻生から私はどう見えるのだろう? 目頭が熱くなっていく。こんな風に見つめられたままで泣いてしまうのは、あんまりだ。
 麻生は、それがわかったようだ。ふわっとした感触。ゆっくり、ひきよせて、麻生は私を抱きしめた。頬が頬と擦れ合う。女性の、白い、すべらかな冷たい肌。
「見てませんから」
 麻生の胸の鼓動が伝わってくる。やわらかい……。人間の鼓動を胸に感じるのは、いつ以来だろう?
 当たると痛いと思ったのか、麻生はメガネを外してコタツに置くと、もう一度抱きしめてきた。抱き合っていて、顔が見えないのに、麻生がしっかり目を閉じているのも、私の気配を感じているのもわかった。
 麻生の掌から、あたたかい不思議な熱がじんわりとしみ込んでくる。お風呂の湯気のような、体の芯まで届くような熱さが、私の体をまるく包み込んでいる。
 久しぶりに感じる体温に、こらえきれなくなった。声を殺しても呼吸が乱れる。涙がぽろぽろとこぼれる。どうしてしまったんだろう?
 連絡先をもらう、彼からのアクションがある、こんな小さなことが、こんなに心をかき乱すとは。彼が来るか来ないか、わからない間、ずっと緊張していたのだろうか?
 麻生のしっとりとした、温かい手のひらが、覆うように、何度も何度も私の髪をなでた。
「……児嶋さんって」
 ぽつりと、つぶやくように言って、続きを言うのをやめて、麻生は、私が腕の中で眠ってしまうまで、抱きしめていてくれた。
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