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壱 腐敗
(05) 興 -キョウ-
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「カツミ様?」
足を止め、辺りを見回しても、人ごみの中に、目当ての人物の姿を捉えることはない。小柄な彼女では人ごみにもまれ、揺れる赤毛が腕に絡みつく。以前と違う結い方にしたせいか、髪が伸びたように感じてしまう。
「私ははぐれるなと忠告したのだがな…」
アガタはため息を吐き、その背の高さを活かして周囲を見渡した。しかし目立つ金の髪を見つけることはできない。
「どうなさいましょうか?」
「ココノ殿はどう考える?」
ココノの問いに、アガタは敢えて問い返した。主人がいなくなったことで、不安げに、瞳を揺らしていたココノは、もとから丸い目を、さらに丸くする。
「こ、ココノが方針を意見するなんてっ」
「主人はカツミだろう? 私は関係ないのだし、第一私は軍人だ。奴隷とともに戦う軍人が、下級だからといって采女を迫害することなどない」
戦や、“未蕾”の討伐では、各地方の領主の抱える兵が派遣され、時に宮を守るアガタのような軍人と、ともに戦うこととなる。領主の家ともなれば多くの使用人を抱えており、訓練を積んでいない奴隷が武器を持たされることも常だ。
生死を分ける戦いを多く体験したアガタにとって、共に戦った者と同じ身分の彼女を、蔑むはずもない。
「ですがっ、きゃっ」
「危ないだろう!」
立ち止まっていたので、籠を持った女性が背中にぶつかってしまう。小さく悲鳴を漏らしたが、この人ごみの中で立ち止まるココノが悪いのだろう。ココノは頭を下げるも、その女性の姿は既にない。
「脇に寄ろうか。ここは邪魔になるようだ」
人ごみの中でも、アガタほどに大柄であらば、周り者から避けてくれるので、困ることもない。小柄なココノが、人ごみに苦労することも、気付きにくいらしい。広場の脇に寄ったところで、改めて二人は向き合った。
「さて、ココノ殿はどうするかな?」
「ココノが考えるより、アガタさんの方が、適任だと思うのです」
普段は愛嬌のある彼女だが、身分が奴隷だからか、遠慮している部分もあり、頑なだ。しかしそれだけでは困る。
「それは、私が経験を積んでいるのだからそうだろう。ココノ殿の控えめな所は好ましくあるが、そのままでは困る。旅に出るのだから、自分で判断できるよう考えてもらわねば」
「そう、ですね……」
ココノは少し納得していない様子だが、アガタの言うことが正しいとわかっているらしく、目を伏せ、静かに考える。
「……“潮騒亭”に、向かうべきと思います」
「なぜだ?」
やっとの思いで口に出したのだが、甘やかすつもりはないようで、続きを促す。
「何が正しいのか、ココノのお頭では分かりません。ですが、このまま探しに出てしまっては、ヒイズ先生が先に、“潮騒亭”にたどり着いてしまうと思うのです。それでは心配をかけてしまいますし、先生は“術”も書けますから、知恵を貸して下さるのではないでしょうか?」
「……」
結果的に意見を仰ぐ相手が、アガタからヒイズに変わっただけである。しかし考え方としては間違えておらず、混乱しない道を探して答えたを導き出すことができた。
「ではそうしよう。さあ、一度“潮騒亭”に行き、ヒイズ殿を待とうか」
「……ハイっ!」
アガタの言葉に、ココノは嬉しそうに返事を返した。
何度も何度も、懐に入れた何かが、人の手にわたっていく。それが袋であるということに気がついたのは、割と早かった。いつのまにか、薄暗い路地裏に入ってしまい、石造りのいかにも古い建物が並んでいる。路地のあちこちでは、人が生活しているのか、日よけと思われる布がかけられていた。
時折異臭が漂い、得体の知れない何かが視界の隅によぎる。
カツミはおぞましいそれらを無視して、掏摸を働いた少年たちを追う。刺激された好奇心は、満たされるまでとどまる事を知らず、この街は治安が良くないと聞いていながらも、一人薄暗い建物の隙間を進んでいた。
「っ」
不意に足を止め、韻を踏むように後ろに下がる。前髪を何かが掠め、再び後ろに下がると、何者かが横道から飛び出した。
「……よそ者か?」
声から察するに、若い男―――少年のようだ。すでに変声は済んでいるようだが、青さの抜けない真っ直ぐな瞳が、カツミに怒りを向けている。少し煤けた茶色の髪は、あまり手入れをしていないらしく、伸び放題で後ろで緩くまとめている。手に持っているのは、古い角材のようで、角があり、殴られれば怪我では済まないかも知れない。
「……なんの用だ?」
カツミが答えないので、少年はしびれを切らしたように、再び口を開いた。血気盛んな少年は、緊張しているらしく、これ以上怒らせるのは危険であろう。カツミはそう判断して口を開く。
「掏摸を追っていた」
「っ傭兵に突き出すのか!?」
よそ者かどうかを問いかけた、ということは、この少年はあの掏摸の護衛的な役割なのかもしれない。しかしその割には素直とでも言うべきか、尋ね方が直情的で面白い。
「興味本位だ」
「っバカにしてるのか!?」
カツミの口角が上がるのに比例して、少年は真っ赤になって、さらに怒りを見せる。別に馬鹿にしたつもりはなかったのだが、まぁ、この態度では仕方がない。
「このっ」
「……っ」
少年が角材を振るうので、カツミはまた一歩下がる。せっかく面白いものを目撃したというのに、足止めを食らってしまった。それ自体は腹立たしくもあるが、この少年の相手をするのも面白そうなので、このまま角材を避けながら、少年の猛攻を楽しむ。
振り上げられたら一歩下がり、薙ぎ払われれば、体を反らす。攻防を続け、少年が角材を振り下ろしたところで、それを踏みつけてから、懐に飛び込み、鳩尾に掌底を打ち込む。少年は角材を振り上げようとしていたが、角材をカツミに踏みつけられて、防御も取れなかった。
腹部を押さえて、痛そうに喘いでいるが、加減したので、まぁ、無事だろう。
「広場の人ごみで掏摸の連鎖を目撃した」
「……」
少年は苦しげに眉を寄せ、それでも尚カツミを睨みつける。カツミは角材をひろうと、少年に突きつけた。少年をこれ以上痛めつけるつもりはないが、話を聞きたい。その欲求は抗えそうもない。
「掏摸が見つかっても疑われない、いい案だ」
「オレは知らない」
苦しさからか、すでに先ほど傭兵に報告するのかと聞いたことも忘れているらしい。加減したつもりだったのだが、少年にとってはなかなかの威力だったのだろうか。
「……!」
考え事をしていたせいで、 反応が一瞬遅れてしまった。後ろから喉元に、冷たくて細い何かが突きつけられている。
「カイナに手を出すな……」
高い声だ。“カイナ”というのは、おそらく少年の名であろう。怒気をまとった声はわかりづらいが、女性の声に思えた。怒っているようだが、殺気を感じないので、カツミは少年につきつけていた角材を投げ、それから後ろを振り返った。……少年に背を向けることになるが、そちらは警戒するに値しない。
「……っ、離せ!!」
後ろを振り向くと同時に、大柄な人物が、黒髪の少女の左腕を締め上げていた。傍には男女が一人ずつ控えており、カツミは今更ながら、一人離れたことに、後ろめたさを感じてしまう。
「……カツミ、一人で移動するなといったはずだ。北には近づかないよう忠告もしていたな」
「このあたりが北だったのか?」
カツミが尋ねると、あからさまにアガタの目つきが悪くなった。どうやら掏摸の少年を追いかけているうちに、北の貧困街へと迷い込んでいたらしい。通りで薄暗く、汚い場所なわけだ。
「カツミ殿、怪我はありませんね?」
「ないです。とくに害はないですよ」
という言葉に、アガタに捕まっている少女の視線が鋭くなった。おそらく背後でうずくまっている少年もであろう。単純な動きだったので、害でも何でもなかったが、筋は悪くないので、なかなかに楽しい時間だった。……そう言うとさらに怒らせてしまいそうなので、口には出さないが。
「では、アガタ殿。彼女を放してあげてください」
「ヒイズ殿がそういうのなら……」
カツミが脇によると、アガタが突き放すように少女を解放した。少女は少年の横に立ち、機嫌悪そうにこちらを睨みつけている。
改めて見ると、とんだ美少女である。
この薄暗い路地裏で暮らしているからなのか、透き通るような白い肌を持ち、艶やかで美しい黒髪を、後ろで無造作にまとめている。尖った顎の小さな顔には、まるで翠玉が埋め込んだような、大きな目が主張しており、ぷっくりとした唇がどこか婀娜っぽい。体つきは華奢だが、決して細身でもなく、どこを取っても、まるで神が丹精込めて作り上げた、自信作と言うような美しさだ。
「……テメーら、こんな所に何しに来やがった?」
―――台無しである。
涼やかな外見にふさわしい、高く澄んだ声をしているというのに、口調が汚い。まるで粗野な男のような口調だ。しかし、膨らんだ胸元や、腰のくびれを見るに、見た目は女そのものである。
「……わ、我々は、彼を迎えに来たのですよ」
ヒイズもその格差に驚いたのか、少々もたついた口調だ。少女はアガタを睨みつけていたのだが、ヒイズの発言を受け、カツミに視線を向ける。
「っつーことは、お前が元凶か? うちのカイナが世話になったみたいじゃねえか」
「……先に攻撃を仕掛けたのはそっちだ」
「カイナは危ねぇやつ以外にみだりに攻撃したりしねえ。お前がなんかやったんだろ?」
美人の口から汚い言葉が漏れることは、やや認めたくないものがある。しかし、一応勝手に入り込んだ自覚もあるので、カツミは現状を説明しようと口を開いた。
「人ごみで掏摸の連鎖を見た。面白そうで話を聞きたかったから追いかけただけだ」
「うちの禿び共追っかけてんじゃねえか。話聞いてどうするつもりだったんだよ」
「話を聞くだけだ」
少女はカツミを訝しげに見つめる。そばに蹲っていた少年も、ヨロヨロと立ち上がり、同じように眉を寄せている。
「傭兵に言いつけたりするんじゃねえのか? ちょっとしたことでも、役所に言うのは市民の義務だろ」
「生憎だが、俺はその辺には疎い」
何しろ記憶がないのだから。それは口に出さなかったのだが、まぁ、興味がないということくらいは伝わったであろう。
「一応言うが、本当だ。そいつは、常識がないからな」
「おい」
アガタが補足するが、相変わらず言い回しが悪い。常識を知らないのは本当のことだが、人にこのような言い方をされると、とりわけアガタに言われるのは、癪に障る。
「……お前ら、名前は?」
しかし今のやり取りで僅かに警戒が緩んだらしい。少女が少し困惑したように、名を尋ねる。
「俺はカツミ」
「ヒイズと申します」
カツミが名乗り、次にヒイズが名乗る。胸に手を当てた折に、手首の枷が音を立て、二人はあからさまに驚いてみせた。
「あんた、罪人なのか?」
……どうやら遠慮のある人間ではなかったらしい。不躾に尋ねるので、カツミも思わずヒイズを見る。ヒイズ自体は好青年だが、手首の枷は、彼の優しい印象からかけ離れている。そのこともあって、枷のことを口に出すことはためらわれていたのだが、彼らには関係ないのだろう。
「私は……」
ヒイズは口に手を当て、少し考えているような仕草を見せた。言いにくいことなのか、それとも説明が難しいのか。特に戸惑っていたり、動揺しているようには見えず、単純に何と言ったらいいのかを考えているようだ。
「……カイナ、罪人なんざ掃いて捨てるほどいるじゃねえか。―――あんたは?」
少女がアガタに問いかける。アガタはフンッと一息漏らすと「アガタだ」と短く名乗った。
「アガタって、あのアガタか?」
二人が先程以上に驚いてみせ、カツミも今度はアガタに視線を向ける。特に二人の様子を気に留めていないようだが、この様子では、彼女は有名人だったらしい。
「さて、ほかのアガタに会ったこともないので知らんが、“アガタ”など、好んで名乗る者はおらんだろうな」
遠まわしな肯定に、再び視線を交わす二人。
「有名なのか?」
「昔取った杵柄だ。今は意味を成さない」
否定はしないが、本人は特に興味ないらしい。あるいは触れられたくないのかもしれない……とも思ったが、アガタに限ってそれはないだろうと思い、カツミは考えることをやめた。
「……そっちは?」
「こ、ココノ、と、申しますっ」
少女がアガタの少し後ろに控えるココノに気づいたらしく、声をかける。声をかけられて驚いたのか、ココノは少し戸惑いながらも、不安げに名乗った。
「ふーん……」
少女はココノに歩み寄る。さりげなくアガタの表情が鋭くなったのだが、本人は気づいていないのか、気にしていないのか。黒く長い髪を翻す少女の口元が緩んでいるので、危害を加えるつもりはないと思うのだが……。
「な、なんでしょうかっ」
「その格好で、ココノってことは、宮の奴隷だよな?」
ココノが戸惑うままに「ハイ」と答えると、少女はますます笑みを深め、ココノの顔を覗き込んだ。カツミは機嫌良さげな少女の様子が気になる一方で、先ほど掌底を打ち込んだ少年を見る。彼はどこか呆れているようだった。
「きゃっ」
ココノの口から小さな悲鳴が漏れる。
チュッと軽い音を立て、ココノの頬に、柔らかな温もりが触れた。
意外な事態に驚き、少女を止めることもできなかった。ココノは真っ赤になり、目をぱちくりと気の毒なほどに瞬かせている。
「俺はこの貧困街を取り仕切ってる、マサゴってんだ。よろしくなっ!」
名乗った少女は、弾けるような笑顔を浮かべたのだった。
足を止め、辺りを見回しても、人ごみの中に、目当ての人物の姿を捉えることはない。小柄な彼女では人ごみにもまれ、揺れる赤毛が腕に絡みつく。以前と違う結い方にしたせいか、髪が伸びたように感じてしまう。
「私ははぐれるなと忠告したのだがな…」
アガタはため息を吐き、その背の高さを活かして周囲を見渡した。しかし目立つ金の髪を見つけることはできない。
「どうなさいましょうか?」
「ココノ殿はどう考える?」
ココノの問いに、アガタは敢えて問い返した。主人がいなくなったことで、不安げに、瞳を揺らしていたココノは、もとから丸い目を、さらに丸くする。
「こ、ココノが方針を意見するなんてっ」
「主人はカツミだろう? 私は関係ないのだし、第一私は軍人だ。奴隷とともに戦う軍人が、下級だからといって采女を迫害することなどない」
戦や、“未蕾”の討伐では、各地方の領主の抱える兵が派遣され、時に宮を守るアガタのような軍人と、ともに戦うこととなる。領主の家ともなれば多くの使用人を抱えており、訓練を積んでいない奴隷が武器を持たされることも常だ。
生死を分ける戦いを多く体験したアガタにとって、共に戦った者と同じ身分の彼女を、蔑むはずもない。
「ですがっ、きゃっ」
「危ないだろう!」
立ち止まっていたので、籠を持った女性が背中にぶつかってしまう。小さく悲鳴を漏らしたが、この人ごみの中で立ち止まるココノが悪いのだろう。ココノは頭を下げるも、その女性の姿は既にない。
「脇に寄ろうか。ここは邪魔になるようだ」
人ごみの中でも、アガタほどに大柄であらば、周り者から避けてくれるので、困ることもない。小柄なココノが、人ごみに苦労することも、気付きにくいらしい。広場の脇に寄ったところで、改めて二人は向き合った。
「さて、ココノ殿はどうするかな?」
「ココノが考えるより、アガタさんの方が、適任だと思うのです」
普段は愛嬌のある彼女だが、身分が奴隷だからか、遠慮している部分もあり、頑なだ。しかしそれだけでは困る。
「それは、私が経験を積んでいるのだからそうだろう。ココノ殿の控えめな所は好ましくあるが、そのままでは困る。旅に出るのだから、自分で判断できるよう考えてもらわねば」
「そう、ですね……」
ココノは少し納得していない様子だが、アガタの言うことが正しいとわかっているらしく、目を伏せ、静かに考える。
「……“潮騒亭”に、向かうべきと思います」
「なぜだ?」
やっとの思いで口に出したのだが、甘やかすつもりはないようで、続きを促す。
「何が正しいのか、ココノのお頭では分かりません。ですが、このまま探しに出てしまっては、ヒイズ先生が先に、“潮騒亭”にたどり着いてしまうと思うのです。それでは心配をかけてしまいますし、先生は“術”も書けますから、知恵を貸して下さるのではないでしょうか?」
「……」
結果的に意見を仰ぐ相手が、アガタからヒイズに変わっただけである。しかし考え方としては間違えておらず、混乱しない道を探して答えたを導き出すことができた。
「ではそうしよう。さあ、一度“潮騒亭”に行き、ヒイズ殿を待とうか」
「……ハイっ!」
アガタの言葉に、ココノは嬉しそうに返事を返した。
何度も何度も、懐に入れた何かが、人の手にわたっていく。それが袋であるということに気がついたのは、割と早かった。いつのまにか、薄暗い路地裏に入ってしまい、石造りのいかにも古い建物が並んでいる。路地のあちこちでは、人が生活しているのか、日よけと思われる布がかけられていた。
時折異臭が漂い、得体の知れない何かが視界の隅によぎる。
カツミはおぞましいそれらを無視して、掏摸を働いた少年たちを追う。刺激された好奇心は、満たされるまでとどまる事を知らず、この街は治安が良くないと聞いていながらも、一人薄暗い建物の隙間を進んでいた。
「っ」
不意に足を止め、韻を踏むように後ろに下がる。前髪を何かが掠め、再び後ろに下がると、何者かが横道から飛び出した。
「……よそ者か?」
声から察するに、若い男―――少年のようだ。すでに変声は済んでいるようだが、青さの抜けない真っ直ぐな瞳が、カツミに怒りを向けている。少し煤けた茶色の髪は、あまり手入れをしていないらしく、伸び放題で後ろで緩くまとめている。手に持っているのは、古い角材のようで、角があり、殴られれば怪我では済まないかも知れない。
「……なんの用だ?」
カツミが答えないので、少年はしびれを切らしたように、再び口を開いた。血気盛んな少年は、緊張しているらしく、これ以上怒らせるのは危険であろう。カツミはそう判断して口を開く。
「掏摸を追っていた」
「っ傭兵に突き出すのか!?」
よそ者かどうかを問いかけた、ということは、この少年はあの掏摸の護衛的な役割なのかもしれない。しかしその割には素直とでも言うべきか、尋ね方が直情的で面白い。
「興味本位だ」
「っバカにしてるのか!?」
カツミの口角が上がるのに比例して、少年は真っ赤になって、さらに怒りを見せる。別に馬鹿にしたつもりはなかったのだが、まぁ、この態度では仕方がない。
「このっ」
「……っ」
少年が角材を振るうので、カツミはまた一歩下がる。せっかく面白いものを目撃したというのに、足止めを食らってしまった。それ自体は腹立たしくもあるが、この少年の相手をするのも面白そうなので、このまま角材を避けながら、少年の猛攻を楽しむ。
振り上げられたら一歩下がり、薙ぎ払われれば、体を反らす。攻防を続け、少年が角材を振り下ろしたところで、それを踏みつけてから、懐に飛び込み、鳩尾に掌底を打ち込む。少年は角材を振り上げようとしていたが、角材をカツミに踏みつけられて、防御も取れなかった。
腹部を押さえて、痛そうに喘いでいるが、加減したので、まぁ、無事だろう。
「広場の人ごみで掏摸の連鎖を目撃した」
「……」
少年は苦しげに眉を寄せ、それでも尚カツミを睨みつける。カツミは角材をひろうと、少年に突きつけた。少年をこれ以上痛めつけるつもりはないが、話を聞きたい。その欲求は抗えそうもない。
「掏摸が見つかっても疑われない、いい案だ」
「オレは知らない」
苦しさからか、すでに先ほど傭兵に報告するのかと聞いたことも忘れているらしい。加減したつもりだったのだが、少年にとってはなかなかの威力だったのだろうか。
「……!」
考え事をしていたせいで、 反応が一瞬遅れてしまった。後ろから喉元に、冷たくて細い何かが突きつけられている。
「カイナに手を出すな……」
高い声だ。“カイナ”というのは、おそらく少年の名であろう。怒気をまとった声はわかりづらいが、女性の声に思えた。怒っているようだが、殺気を感じないので、カツミは少年につきつけていた角材を投げ、それから後ろを振り返った。……少年に背を向けることになるが、そちらは警戒するに値しない。
「……っ、離せ!!」
後ろを振り向くと同時に、大柄な人物が、黒髪の少女の左腕を締め上げていた。傍には男女が一人ずつ控えており、カツミは今更ながら、一人離れたことに、後ろめたさを感じてしまう。
「……カツミ、一人で移動するなといったはずだ。北には近づかないよう忠告もしていたな」
「このあたりが北だったのか?」
カツミが尋ねると、あからさまにアガタの目つきが悪くなった。どうやら掏摸の少年を追いかけているうちに、北の貧困街へと迷い込んでいたらしい。通りで薄暗く、汚い場所なわけだ。
「カツミ殿、怪我はありませんね?」
「ないです。とくに害はないですよ」
という言葉に、アガタに捕まっている少女の視線が鋭くなった。おそらく背後でうずくまっている少年もであろう。単純な動きだったので、害でも何でもなかったが、筋は悪くないので、なかなかに楽しい時間だった。……そう言うとさらに怒らせてしまいそうなので、口には出さないが。
「では、アガタ殿。彼女を放してあげてください」
「ヒイズ殿がそういうのなら……」
カツミが脇によると、アガタが突き放すように少女を解放した。少女は少年の横に立ち、機嫌悪そうにこちらを睨みつけている。
改めて見ると、とんだ美少女である。
この薄暗い路地裏で暮らしているからなのか、透き通るような白い肌を持ち、艶やかで美しい黒髪を、後ろで無造作にまとめている。尖った顎の小さな顔には、まるで翠玉が埋め込んだような、大きな目が主張しており、ぷっくりとした唇がどこか婀娜っぽい。体つきは華奢だが、決して細身でもなく、どこを取っても、まるで神が丹精込めて作り上げた、自信作と言うような美しさだ。
「……テメーら、こんな所に何しに来やがった?」
―――台無しである。
涼やかな外見にふさわしい、高く澄んだ声をしているというのに、口調が汚い。まるで粗野な男のような口調だ。しかし、膨らんだ胸元や、腰のくびれを見るに、見た目は女そのものである。
「……わ、我々は、彼を迎えに来たのですよ」
ヒイズもその格差に驚いたのか、少々もたついた口調だ。少女はアガタを睨みつけていたのだが、ヒイズの発言を受け、カツミに視線を向ける。
「っつーことは、お前が元凶か? うちのカイナが世話になったみたいじゃねえか」
「……先に攻撃を仕掛けたのはそっちだ」
「カイナは危ねぇやつ以外にみだりに攻撃したりしねえ。お前がなんかやったんだろ?」
美人の口から汚い言葉が漏れることは、やや認めたくないものがある。しかし、一応勝手に入り込んだ自覚もあるので、カツミは現状を説明しようと口を開いた。
「人ごみで掏摸の連鎖を見た。面白そうで話を聞きたかったから追いかけただけだ」
「うちの禿び共追っかけてんじゃねえか。話聞いてどうするつもりだったんだよ」
「話を聞くだけだ」
少女はカツミを訝しげに見つめる。そばに蹲っていた少年も、ヨロヨロと立ち上がり、同じように眉を寄せている。
「傭兵に言いつけたりするんじゃねえのか? ちょっとしたことでも、役所に言うのは市民の義務だろ」
「生憎だが、俺はその辺には疎い」
何しろ記憶がないのだから。それは口に出さなかったのだが、まぁ、興味がないということくらいは伝わったであろう。
「一応言うが、本当だ。そいつは、常識がないからな」
「おい」
アガタが補足するが、相変わらず言い回しが悪い。常識を知らないのは本当のことだが、人にこのような言い方をされると、とりわけアガタに言われるのは、癪に障る。
「……お前ら、名前は?」
しかし今のやり取りで僅かに警戒が緩んだらしい。少女が少し困惑したように、名を尋ねる。
「俺はカツミ」
「ヒイズと申します」
カツミが名乗り、次にヒイズが名乗る。胸に手を当てた折に、手首の枷が音を立て、二人はあからさまに驚いてみせた。
「あんた、罪人なのか?」
……どうやら遠慮のある人間ではなかったらしい。不躾に尋ねるので、カツミも思わずヒイズを見る。ヒイズ自体は好青年だが、手首の枷は、彼の優しい印象からかけ離れている。そのこともあって、枷のことを口に出すことはためらわれていたのだが、彼らには関係ないのだろう。
「私は……」
ヒイズは口に手を当て、少し考えているような仕草を見せた。言いにくいことなのか、それとも説明が難しいのか。特に戸惑っていたり、動揺しているようには見えず、単純に何と言ったらいいのかを考えているようだ。
「……カイナ、罪人なんざ掃いて捨てるほどいるじゃねえか。―――あんたは?」
少女がアガタに問いかける。アガタはフンッと一息漏らすと「アガタだ」と短く名乗った。
「アガタって、あのアガタか?」
二人が先程以上に驚いてみせ、カツミも今度はアガタに視線を向ける。特に二人の様子を気に留めていないようだが、この様子では、彼女は有名人だったらしい。
「さて、ほかのアガタに会ったこともないので知らんが、“アガタ”など、好んで名乗る者はおらんだろうな」
遠まわしな肯定に、再び視線を交わす二人。
「有名なのか?」
「昔取った杵柄だ。今は意味を成さない」
否定はしないが、本人は特に興味ないらしい。あるいは触れられたくないのかもしれない……とも思ったが、アガタに限ってそれはないだろうと思い、カツミは考えることをやめた。
「……そっちは?」
「こ、ココノ、と、申しますっ」
少女がアガタの少し後ろに控えるココノに気づいたらしく、声をかける。声をかけられて驚いたのか、ココノは少し戸惑いながらも、不安げに名乗った。
「ふーん……」
少女はココノに歩み寄る。さりげなくアガタの表情が鋭くなったのだが、本人は気づいていないのか、気にしていないのか。黒く長い髪を翻す少女の口元が緩んでいるので、危害を加えるつもりはないと思うのだが……。
「な、なんでしょうかっ」
「その格好で、ココノってことは、宮の奴隷だよな?」
ココノが戸惑うままに「ハイ」と答えると、少女はますます笑みを深め、ココノの顔を覗き込んだ。カツミは機嫌良さげな少女の様子が気になる一方で、先ほど掌底を打ち込んだ少年を見る。彼はどこか呆れているようだった。
「きゃっ」
ココノの口から小さな悲鳴が漏れる。
チュッと軽い音を立て、ココノの頬に、柔らかな温もりが触れた。
意外な事態に驚き、少女を止めることもできなかった。ココノは真っ赤になり、目をぱちくりと気の毒なほどに瞬かせている。
「俺はこの貧困街を取り仕切ってる、マサゴってんだ。よろしくなっ!」
名乗った少女は、弾けるような笑顔を浮かべたのだった。
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