荒れ地に花を

グタネコ

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第一章 ミイラ

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「いつも、すみません」
 麻生亮子は、小野幸司にお礼を言いながら、差し出された段ボール箱を受け取った。
  箱は亮子が両手で抱えるほどの大きさなのだが、中身がそれほど入っていないのか思いの外、軽かった。
「いいえ、そんな。研究室を整理していたら、麻生さんの私物が出てきたものですから」
 小野は悪いことでもしたように、消え入りそうな声で言った。
「宅急便でお送りしてもよかったんですが……」
「いいえ……ありがとうございます」
 亮子がお辞儀をすると、段ボール箱が傾き、箱の中で何かが転がる音がした。
 何が入っているのだろう。届けてもらったことは有り難いのだが、まだしばらくは、開けて見る気にはなれないだろう、と亮子は思った。
 大学の研究所に勤めていた姉が亡くなり、二ヶ月が過ぎようとしていた。時間は過ぎてゆくが心の整理はつかない。亮子は、気が付くと姉のことをぼんやりと考えて、涙ぐんでいた。
 今でも電話をとると、姉が「亮子」と声を掛けてくるような気がする。
「ねえ、今度、遊園地に行かない? 駿が行きたいってうるさいのよ」
 休みの日にはよく呼び出された。五歳になる姉の一人息子、駿一と一緒に遊園地やデパート、動物園などに出かけていった。
 三年前、姉は夫を亡くしていた。食料支援を行うNPOに参加していた姉の夫は、北アフリカで活動していた時、反政府暴動に巻き込まれて死亡した。
 休日、遊園地は親子連ればかりだ。子どもと二人きりでは寂しいのだろう。だから姉は自分を誘っていたのではないか。そう亮子は思っていた。
 両親は亮子が高校のときに、相次いで病気で亡くなった。一時は進学を諦めかけたが、姉に励まされて大学に入った。既に働いていてた姉のアパートに移り、そこから大学に通った。学費は奨学金とアルバイトで賄い、生活費は姉に援助して貰った。
 不幸はまだ続いた。一年前、姉の息子、駿一が小児ガンで亡くなった。そして、姉も後を追うように自殺してしまった。
 ため息ぐらいでは慰めにもならない。
「あの、いいですか。お線香だけでも」
 小野が部屋の中を覗くように見ながら言った。
「あっ、どうぞ。お願いします」
 亮子はドアから体を離した。
「失礼します」
 小野は軽く頭を下げて部屋に入った。
 階段の手すりにサビが目立つ古いアパートだった。亮子の部屋は六畳と四畳半の二間に、小さめのテーブルを置くと、それだけで一杯になる台所兼食堂がついていた。
 おしゃれでも使いやすくもないが、一人で住むにはこれで十分だった。
 姉の写真が奥の四畳半に飾られていた。小野は線香をあげ、写真に向かって手を合わせた。
 亮子は台所でお茶を入れていた。
「おかまいなく、すぐに帰りますから」
 と小野は言ったが、亮子はすでにお茶をテーブルに置いていた。
「何もありませんけど」
「すいません」
 小野が台所に来て椅子に座り、お茶を口に含んだ。眼鏡が湯気で曇り、小野はハンカチでレンズを拭いた。
「私……来月から復帰することにしました」
 ポツリと亮子が言った。
「学校に、ですか?」
 小野は顔を上げ、亮子を見た。
「ええ、昨日、校長先生と相談して……」
「そうですか……」
「忙しくしていたほうがいいかなって。一人で部屋にいると、つい姉のことや駿君のことを考えてしまって」
「そうですね。働いていた方が気が紛れていいかもしれませんね」
「姉のマンションも整理しなくちゃと思いながら、まだ入る勇気がなくて、何を見ても、姉や駿君のことを思い出してしまって……」
 亮子はハンカチを取りだし、目頭を押さえた。小野は黙って二度三度と相づちをうった。
 亮子は小学校の先生をしていた。三月二十五日、深夜、警察から電話があった。姉が研究所の屋上から飛び降りたという連絡だった。
 亮子はタクシーを拾い、姉が運び込まれた病院に駆けつけた。亮子が会ったのは、冷たくなった姉だった。救急車が現場に到着したとき、すでに姉は息をしておらず、病院に運ばれる間、心肺蘇生を施したが生き返ることはなかった、と知らされた。
 両親が早くに亡くなり、亮子にとって姉は唯一人の肉親だった。何かあればいつも姉に相談していた。頼れるのは姉だけだった。その姉が自殺してしまった。
 亮子はショックで職場に行けなくなった。
何をしていても急に姉の顔が浮かび、涙が止まらなくなってしまう。
 町を歩いていても、しゃがみ込んで泣きじゃくりそうになる。とても子どもの前に立つことなどできそうになかった。
 一人で部屋にいると、悲しさから自殺さえ考えたのだが、二ヶ月経ち、ようやく心が少し落ち着いてきた。少しだけ。元には戻らない。多分……永遠に……。それでも、生きよう、と亮子は思い直した。姉もきっと自殺を望んではいない。
 小野に言ったように、一昨日、亮子は学校に行き、学校長と復帰の時期について相談してきた。
 帰り際、休み時間に校庭で遊んでいた生徒たちが、「亮子先生」「もうだいじょうぶなの」「早く帰ってきて」と口々に言いながら、駆け寄ってきた。休職前に担当していた、三年二組の生徒たちだった。
「ごめんね。もうだいじょうぶだから。みんな、元気だった」
 亮子は子どもたち一人一人に声をかけた。
 気が付くと、一人の女の子が亮子のスカートの裾を握り、亮子を見上げていた。
「ミオちゃん」
 小塚美緒だった。小太りで跳び箱が苦手な内気な子だった。ビーズで指輪や腕輪を作るのが好きな子で、時々、自分で作ったビーズ細工を持ってきて亮子に見せた。
 亮子が「わー、きれい。ミオちゃん、上手ね」と褒めると、美緒は、いつも恥ずかしそうに顔を赤くしてうなずいていた。
「先生、これ、あげる」
 美緒がビーズで作った指輪をポケットから取りだし、亮子に渡した。
「ありがとう」と亮子が言うと、美緒は嬉しそうに笑った。
 ここに戻ってこよう。亮子は、もう一度、校舎に戻り、校長に「私、戻ってきます」と告げた。私が泣いていても姉は喜ばないはずだ。頑張って前に進んで行こう、と亮子は強く思った。
「ごちそうさまでした」
 小野が湯飲みを置いて、立ち上がった。
「それじゃ、失礼します」
 小野は玄関に向かい、靴を履いた。
「また、何かあったら、お知らせしますから」
「はい」
「あの……」
 小野は亮子の顔を見て、何か言いかけて止めた。
「何か?」
「いえ、何でも……」
 小野が硬い笑顔を見せ、ドアから出て行こうとすると、亮子が、
「あっ、私も、ちょっと買い物に行きますから、駅までご一緒します」と言った。
「ええ」
 小野は嬉しそうな顔を見せた。
 亮子は髪だけとかし、トレーナーにジーンズのまま、部屋から出て来た。
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