荒れ地に花を

グタネコ

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第一章 ミイラ

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「誰も、おかしな物音とか、聞いていないようですね」
 鈴木が手帳を確認しながら言った。
「ああ」
「鍵は部屋の中から掛かっていたから、やっぱり病死ですかね」
「ああ」
 鈴木が話し、佐竹が相づちを打っていた。聞き込みを終え、二人は豊洲駅に向かって歩いていた。めぼしい情報はなかった。都会のマンションは、住民同士の交流は少なく、お互いの関心は薄い。隣の部屋と言っても、挨拶はおろか誰が住んでいるのかさえ知らないケースも多い。よほど変わった人間が住んでいて大きな音でもさせなければ注意を引くこともない。
 聞き込みに行った部屋の住人達は、特別気になるような事はなかったと言った。
 もっとも、上の階の家族は、週末、遊園地に遊びに行っていて留守だったし、下の階も、週末、家にいたのは高校生の息子一人だと言っていた。
 横の家は耳の遠そうな老夫婦だけで、少々の物音では気が付かなかったかもしれない。
「トイレに起きたとき、ザワザワという音が聞こえたような……」
 月曜日の朝、日の出の頃、おかしな音が聞こえたかもしれないと、老夫婦の妻が証言していたが、ただの耳鳴りか、外の音の可能性が高そうだった。
 改めて整理してみると、強盗や殺人の線は、薄そうだった。管理人の話によると、部屋の鍵は確かに中から掛けられていた。窓は開いていたのだが、四十八階までベランダづたいに登ってくる物盗りもいないだろう。
 自殺も考えづらい。離婚して生活は不安定だったが、落ち込んでいるようには見えなかったという。
 夫婦仲は相当冷え込んでいたようで、警察が高橋が亡くなったと連絡したときも、元の妻は、
「あら、そうですか」と淡々と答え、身元の確認を依頼すると、
「もう、関係がありませんから」と断った。そして、続けて、
「会社の関根さんに聞いた方がいいんじゃないですか」と言った。
「銀座にも誰かいるみたいですけど」
 妻と別れた後―前からかもしれないが―高橋はそれなりに楽しい生活を送っていたようだった。
 覚醒剤などの薬物による中毒死も考えられないことはないが、部屋からは、毒物も薬物も発見できなかった。
「病気だろうな……」
 佐竹はつぶやいた。
「ええ、多分」
 鈴木も相づちを打った。
 それにしても、死んでいた男が確かに高橋だということになると、わずか三日でミイラになったことになる。
「おい。お前、三日で……」
 佐竹は鈴木に、ミイラになる方法を知っているかと、聞きかけて止めた。
 鈴木は、手帳を見ながら緊張感のないにやけた顔をしていた。
 佐竹は、「フー」と一つ息を吐いた。
 何だこいつは。自分はさっき見たミイラの顔が夢に出て来そうになっているのに、脳天気な顔をしている。最近、恋人ができたとか言っていたから、その恋人とのデートのことでも考えているのだろう。
 まあ病気だろう、と佐竹は自分に納得させようとした。事件でなければ、もう自分がミイラを見ることもない。
 しかし、考えないようにしようと思っても、やはりミイラが気になった。
 高橋は日曜日に業者を呼んで、引越の打ち合わせをしている。日曜日の午後二時、引越業者が確かに下見をして、高橋に会っていた。タツミバイオの社員とマンションの管理人が、文字通り変わり果てた高橋の遺体を発見したのは水曜日の午前十時だ。遺体が高橋に間違いないとすると、一番長く見積もっても、二日半でカラカラのミイラになったことになる。
 ミイラの作り方に詳しいわけではないが、どんなに乾燥していたとしても、遺体を部屋に二日置いただけでは、ミイラにならないだろう。とすれば、誰かがミイラにして殺したことになる。
 特殊な薬品でもあるのか。遺体を溶かして下水に流した殺人鬼もいた。短時間でミイラにする薬品があるかもしれない。
 動物や虫はどうだ。アマゾンのピラニアは骨だけ残して食い尽くす。軍隊蟻というやつは、牛を骨だけ残して食い尽くすらしい。貨物船に乗って、人間をミイラにする虫が日本に来ている……。
 もしかしたら、短時間でミイラを作る特別な方法でもあるのかもしれない。コインランドリーにあるような大型の乾燥機に入れるとミイラになるだろうか。
 ただ、もし何か方法があるとしてもミイラにする意味があるのか。あるとしたらどんな理由だ。
 考えれば考えるほど、佐竹は気味悪くなった。柔道三段、五分刈りでがに股。風貌はいかついが怪談やホラー映画は苦手だった。遊園地に行っても、お化け屋敷だけは避けて通る。誰にも言えないが刑事になった今でも街灯のない暗い夜道を一人で歩くのは怖い。古い墓場なんてあると、道を変えてしまう。
「でも、どうしてですかね、ミイラになるなんて。科捜研に知り合いがいるんで、さっき、ちょっと聞いてみたんでけど、ウソでしょ言われちゃいましたよ。全く見当もつかないって。もしかしたら、何かおかしな伝染病じゃないのって」
 鈴木が佐竹に顔を向けると、佐竹が鈴木から離れようとしていた。
「佐竹さん、何で離れるんです」
「お前、あれに触ったろ」
 佐竹が嫌そうな顔で言った。
「あれって何ですか」
「あれだよ、あれ。ミイラだよ」
「えっ? 触ってないですよ」
「お前、顔をくっつけるようにして調べていただろう。その時、ミイラの唇がお前の右のほっぺたについていたぞ。チュって」
「えー。本当ですか」
「ああ」
「やだな」
 鈴木はあわてて右の頬を手でぬぐった。
「おかしな病気だったら。お前、明日の朝にはミイラだぞ」
「ちょっと、待って下さいよ。ウソでしょ」
「ミイラだ、ミイラ」
 端から見れば、バカな男がじゃれ合っているようにしか見えなかった。
 豊洲の駅前には巨大な複合商業施設が営業していた。二人は、色とりどりのショッピングバッグを持つ人々の間を歩きながら、地下鉄の駅に続く階段を降りて行った。
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