牧野

伊原亜紀

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コーヒー 過去

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きちんと豆から入れると美味しいんだよ」家に行くたびに、牧野はそう言って僕にコーヒーを淹れてくれる。
手で豆を挽き、沸かした湯をゆっくりと円を描くように注ぐ。僕は狭い部屋に漂うコーヒーの香りを嗅ぎながら、僕に背を向けてコーヒーを淹れている、牧野の華奢な背中を見る。     
 ダボダボの半袖のシャツから突き出た二本の白い腕は、二人きりの密室で見ると色っぽくも見える。一度そう感じると、連鎖反応のように、さっきまで気にしていなかったシャツの背中に走る下着の線に気を取られ始める。
 僕はそれらから逃れるように、部屋の中に設置されている本棚に視線を向けた。その本棚は一人暮らしのワンルームに設置されるには少し大きく、牧野の部屋で一番の存在感を放っていた。僕の胸ほどまである本棚に、たくさんの本が縦向きや横向きの状態で、並んでいる。いや、詰め込まれている。本棚の上や本棚の横の床にも、本は置かれていた。
「また本が増えてないか?」
「こないだ、神保町を回って、十冊ぐらい買ったかな」
「それはまた随分と」
 本棚の物色をはじめた僕は、見慣れない作者名の本を見つけた。本を手に取り、裏表紙に書いてある紹介文に目を通す。精神科医の筆者によるエッセイのようだった。
「コーヒーできたよ」牧野がコーヒーを持って近づいてくる。
「これ借りて良い?」僕は牧野に本の表紙を見せる。僕は自分が読んでいない本や、観ていない映画の感想を牧野に求めない。そうすると、牧野の感想が僕の頭にこびりつき、僕の頭で鑑賞することができなくなってしまう。牧野はそうなった僕から自分と同じような感想が出てくるのをつまらないと言い、僕もそう感じた。僕と牧野は、互いに鑑賞した映画や本の話をするのが好きだった。簡易で刺激的な娯楽が手に入るようになった時代に、そんなことをできる友人がいるのは貴重だった。僕も牧野もそんな友人に、今までは出会えなかった。
「どうぞどうぞ」
「ありがとう」
 僕と牧野は部屋の中央に置かれた丸テーブルの周りに腰を落とす。この場面が映画のワンシーンとして切り抜かれたら、僕らは恋人同士に見えるのだろうなと思う。
「いただきます」僕はそう言って牧野が入れてくれたコーヒーを飲む。芳醇な香りと深い味が口の中に広がっていく。
「うまいな」いつも通り僕はそう呟く。
「あなたもインスタント卒業して、豆にしなよ」そう言って、牧野は以前僕があげたマグカップに口をつけた。
「いや、インスタントも捨てがたい」
「普通に美味しいもんね。けど、たまには私にもあなたが淹れたコーヒーを飲ませてくれると嬉しいんだけど」
「考えておくよ」
 「それはきっと作らないパターンだね。そして私に二度とコーヒーを淹れることができないと気づいた時、あなたは少し胸に苦しみを覚える。ふとした日常に蘇る小さな過去への後悔」
 牧野はウェットティッシュで机を軽く拭くと、それをゴミ箱に放り投げた。ティッシュはかなり右にそれた。
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