牧野

伊原亜紀

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通勤

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 朝の満員電車。普段は感じない物事に苛立ちを感じる。体を押し込むようにして入ってくるサラリーマン、耳につけたイヤホンから激しい音楽が流れている女子大生、きつい匂いの香水をつけた黒人。何もかもがストレスになる。いつから僕の心はこんなに不寛容になってしまったのだろうか。
 車内を流れる広告では、ここでだけ見かける女性タレントの映像が流されている。大手企業の広告に起用されているのだから、それなりに知名度のある人なのだろう。
大学入学と同時に始まった僕の一人暮らしの部屋には、ずっとテレビがない。いつか置こうと思っている間に、自分がテレビを必要としていないことに気づいた。バラエティー番組もニュースも見ないし、映画はパソコンでみれば良い。テレビがなくなった代償として、僕は世間の流れに少し疎くなり、雨の日に傘を忘れやすくなった。
 会社の最寄り駅につき、人の流れに押し出されるように地下鉄のホームに出る。人混みの中、少し前に比較的話しやすい同期の背中を見つけたが、その背中に追いついて話しかける気にはなれない。周りの急ぎ足に釣られるように、僕の足も同期に追いつかない程度に少しだけ早く動く。
 会社に近い出口から地上に出て、薄暗い空を見上げる。今日はもしかしたら、雨が降るかも知れない。持っているビジネスバッグには、折り畳み傘が入っている。
「おはようございます」と声をかけられ、右斜め後ろに目をやる。同じ部署の、二個下の後輩の斉藤がいた。彼女は大学の後輩なのだが、大学の時にお互いを認知していたはずもないし、会社内で同じ大学の人間は珍しくなく、特別シンパシーを感じるわけでもない。
「おはようございます」と僕は偉そうにならないように敬語で挨拶をし、軽く頭を下げた。斉藤に合わせるため、少し歩くペースを落とす。
「昼過ぎから雨みたいですね」斉藤が少し空を見上げるように言う。
「ああ、やっぱりそうなんだ」僕もなんとなく空を見上げる。
「ちゃんと傘持ってきました?」
「昨日の帰り、たまたま電車で流れてる天気予報を見ててね」
「ラッキーなやつですね」斉藤はそう言って笑った。僕も笑みを浮かべ、そうだねと返す。
お互い無言の状態で、十歩ほど歩みを進める。この道はどれだけ歩いても景色の変化がない。右手に街路樹、道路を挟んで街路樹、その向こう側にビル群、左手にビル群。白、黒、赤のブロックが不規則に嵌め込まれた地面。オフィス街は今日も味気なく、その中をスーツ姿の男女が歩いていく。その顔から、喜びのような感情が読み取れることはほぼない。
「斉藤さんって何学部だったんだっけ?」気まずさを回避するために、質問を投げる。
「文です。アメリカ文学をやっていました」
「ヘミングウェイとか」
「そうです、そうです」ニコニコと笑みを浮かべながら斉藤が答える。そうやって笑っていると、童顔の顔がさらに幼く見える。高校生の頃、斎藤に似た顔のアナウンサーをよくテレビで見かけたのだが、名前を思い出せない。
「本が好きで文学部に?」
 斎藤は笑って答える。
「いや、うちの大学で私の頭で入れる学部が文だけでした」僕たちの大学の文学部の、半分以上がこの解答をする気がする。
「まあでも、課題とかで読んでいるうちに好きにはなりましたよ。趣味を聞かれたら読書と答えられるくらいには」と斉藤が続ける。
「いいね。趣味が読書。羨ましい」僕は思ったことを素直に言う。
「本あまり読まないですか?」
「読まないね、スマホゲームばっかり」
 後方から同僚が合流し、僕たちの会話はここで終わった。
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