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15、新しい日常

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 九月二十九日がやってきた。
 私がこの裏御神楽町と彩花荘からサヨナラして、現実世界に戻る日だ。
「うまい! うまい!」
「美味しい! 美味しい!」
「お前ら最後までそれなんだな……まぁ、明日からこのやかましさも半分か」
 あきれ顔で笑う蓮人くん。
 秀男さんは何かを抑えるようにひたすら「うまい!」を連呼する。
 食事が終わり、三人分の箸と茶碗を洗って部屋に戻る。
 ここに来るときに持ってきたボストンバッグに、荷物や着替えをしまっていく。
 寂しいという気持ちが、どうしても湧き出してきてしまう。
 だけどきっと、ここに残るふたりのほうがもっと寂しい。だから私は笑顔でいよう。
 輪投げ屋さんに貰った大きなぬいぐるみは、悩んだすえ台所のテーブルの、私の席に座らせておいた。ぬいぐるみの頭を撫でて、つぶやく。
「明日から、私の代わりにあなたが彩花荘の住人よ。ふたりをよろしくね」
 ふたりへの気持ちをぎゅっとこめて、一度ぬいぐるみを抱きしめた。
 ボストンバッグを担いで、彩花荘を出る。すでにドアの向こうで秀男さんと蓮人くんが待っていた。
「いよいよだなぁ……響子、ホームまで見送るぜ!」
「ホームに都子さんと灯里も待っているはずだ、行こう」
 蓮人くんが連絡を取ってくれたのだろうか。皆に見送られていくのは気持ちが弱っちゃいそうで不安な部分もあるけれど、やっぱり最後に皆の顔が見れるのは嬉しい。
 三人でお祭りに背を向けて、裏御神楽町駅まで歩く。最初に来た時はワケもわからずって感じだったけど、明るいところで見てもここは普通の駅にしか見えない。
 切符を買いホームに出る。行き先の書かれていない電車はすでに止まっていた。
「アレが……元の世界に戻る電車……」
 電車の一両目のすぐそばに、都子さんと灯里さんがいた。
「響子ちゃん、待ってたで!」
「響子さん、ホントに行っちゃうんだね。寂しくなるな」
 私は電車に乗ってドアのそばに立ち、ホームで見送ってくれる皆に向き直った。
「皆さん、今まで本当にありがとうございました! 秀男さん、私がいなくなってもきちんといろんなものを食べてくださいよ。蓮人くん、トレーニングありがとう。おかげで勇気を持って帰れるよ。元気で……。都子さん、色々お世話になりました。楽しかったです。灯里さん、灯里が良くなって本当によかった。ずっと健康でいてくださいね」
 私がひとりひとりに声を掛けると、秀男さんが私の手に何かを握らせる。見ると、家内安全と書かれた御守りと、箱にしまっている何かであった。秀男さんはすでに涙目だ。
「響子! 家内安全の御守りと、この間風鈴市で買った風鈴だ! きっとお前を護ってくれる! 風鈴が、いつでもこの二か月を思い出させてくれる! いいか、ぜったい幸せになれよ! 誰もが羨むような家庭で生きて、高校も頑張って、それで……」
 秀男さんが涙で言葉に詰まる。「それで……幸せに……!」となんとか言った秀男さんは手で自分の顔を覆った。
「ありがとうございます、秀男さん。風鈴も御守り大事にしますね! もう、泣かないで!」
「秀男さんは涙もろいからなぁ。まぁ、らしいっちゃらしい。響子、これ持ってけ」
 少し寂し気な雰囲気の蓮人くんから、一枚の紙を渡される。
「オレと灯里がやっているネットゲームの名前と、オレたちが活動しているサーバー名。それにキャラクターIDだ。いざとなればネットで会える。何かあったらいつでも来い」
「そうだよ、響子さん! 私、レンレンと待ってるからね。命の恩人である響子さんには幸せになって欲しいから……いつでも来てね」
 蓮人くんのよこで、泣きそうな顔の灯里さんが言う。
「蓮人くん、灯里さん。ありがとう。これがあれば私が困ったとき、蓮人くんたちに会いにいけるんだね。とっても心強いや」
「響子ちゃん、元気でなぁ。ほんまに、元気で幸せに……アンタ、良い子やったで」
 都子さんが抱きしめるように頭を撫でてくれる。とっても暖かい。
「都子さん、ありがとうございます。この町で生活していけたのも、都子さんが増宮米店で雇ってくださったおかげです。増宮さんにもよろしくお伝えください」
 発車のベルが聞こえた。私は改めて皆の顔を見る。
 秀男さんはもう涙、涙。蓮人くんは不器用な笑顔。灯里さんも泣きそうな顔で笑ってる、都子さんはいつにもまして明るい笑顔で手を振ってくれた。
 ドアが閉まる。私は皆に手を振った。
 秀男さんが両手をぶんぶん振っている。蓮人くんがすっと片手をあげひらひらさせる。
 彩花荘のふたりとも、これでお別れ――。
 車内がガラガラの電車が動き出す。
 皆の姿が、どんどん遠ざかっていく。
(私の裏御神楽町での、彩花荘での日々が終わるんだ……)
 胸が締め付けられる思い。私も、遠くなった彼らに思い切り手を振った。
 彼らの姿が見えなくなる。いつまでも車窓から皆の居た場所を見ていようと思ったけれど、不意に私の頭が重くなる。立っていられないような眠気。
「なんだろう……急に頭が……」
 私は耐えきれなくなって、すぐそばの席に腰をかけた。
 そのまま、私の意識は途切れていって――。

『次は、川崎駅。川崎駅』
 車内のアナウンスで目を覚ます。
 ガラガラだったはずの電車には、普通にひとが乗り込んでいた。
 電車がホームに滑り込む。ドアが開いた。
「川崎駅……戻ってきたの? 早く降りなきゃ!」
 電車を降りる。ホームから階段を昇り改札口を出ると、喧騒が私を包み込む。
 今まで過ごしてきた、賑やかな地元駅の光景だ。
「ホントに、帰ってきたんだな、私。……家に帰ろう」
 お父さんはまだ泥酔しているかもしれない。でも、もう逃げちゃいけない。
 お父さんと向かい合って、弱かった自分とも向き合わなきゃ。
 決意とともにバスに乗り、家に帰る。
 家のカギを取り出す。もちろん彩花荘のカギとは違う。
 二か月ぶりに取り出した自分の家のカギは、何か新鮮な気持ちになる。
「ただいま!」
 カギを開け、元気に家の中に入っていく。お母さんはまだ帰ってきてないようだ。
 自分の部屋に荷物を置いてリビングへ向かった。やはり、お父さんは泥酔して寝ている。
「お父さん、起きて。私だよ、響子。帰ってきたよ!」
 お父さんの身体を揺する。「ううん……」という唸り声とともに、お父さんがふらふらと身体を起こした。
「響子……お前ずっとどこをほっつき歩いていた?」
 お父さんの心の色――相変わらず、どす黒い中に暗い赤色を宿している。
 怒りや恨みの感情は消えていないのだろう。
 お父さんが立ち上がる。相変わらずうつむきながら、お父さんが声をあげた。
「お前は! オレのことも家のこともほったらかしにして、どこかに逃げやがって!」
 お父さんの右手が私に向かってきた。
 ――首だけで避けるな。下半身をリラックスさせて上半身を全部使え。
 蓮人くんの教え。私はお父さんの拳をひらりとかわした。
 寝起きなうえに泥酔しているお父さんは、拳が外れて前のめりに倒れこんだ。
「お父さん、もう現実から逃げないで!」
 私は起き上がれないお父さんに手を伸ばす。
 お父さんは苦しそうな表情で、吐き捨てるように言った。
「うるさい! うるさい、うるさい! お前にオレの何がわかるっていうんだ!」
「わかる! 今ならわかるよお父さん! お父さんも、見えているんでしょ!?」
 私の言葉に、お父さんが両目を大きく開いた。
「見えているって、響子、お前まさか……」
「ひとの中にある心の色! 私はそれが見えてずっと苦しんでいた。ねぇ、お父さんも見えているんでしょ」
 話す時、いつも顔を見ないでうつむいて話をしていたお父さん。
 それは決して内向的な性格だからというワケじゃない。お父さんはずっと、相手の心の色を見ながら話していたんだ。
「そんな……お前にも、見えていたのか」
「ずっと見えていた。ずっと悩んでた! だから、今ならお父さんの気持ちわかるよ! 仕事がダメになって、そのあとずっと再就職先を探して……きっと皆ひどい心の色でお父さんを見ていたんでしょ? 私やお母さんもそう。お酒に逃げ始めたお父さんを悲しんで見ていた。その色が、余計にお父さんを追い詰めていた。そうなんでしょ!」
「響子、お前……」
「でももう逃げないで! 私は逃げないって決めた。お父さんを応援するって決めた。今の私の心の色、見えるでしょ。私の言葉が信じられないなら、私の心を信じて!」
 お父さんが、じっと私を見つめる。胸の辺りと顔を交互に見やったお父さんが、「ああ……」と小さく嘆いた。
「こんな、こんなふざけた体質はオレだけだと思ってた。オレだけ苦しいんだと思ってた。だけど、響子にもずっと見えていたのか……お前は、それを乗り越えたのか……」
「再就職がうまくいかない時、お酒に逃げた時、私たちお父さんをひとりにしちゃったよね。だけどもうそんなことしない。だから、いっしょに頑張ろう。ねぇ、お父さん。私たち、家族に戻ろう!」
「家族に、戻る……」
 お父さんの心の色が、少しずつ落ち着いていく。
 黒い炎のような怒りが消えて、淡いカーキ色の穏やかな心が見え始めた。
「お前は、乗り越えたんだな。そうか、ずっと苦しんで、それでも……。それなら、お父さんだってこんなことしてられないよな」
 お父さんがゆっくりと立ちあがり、じっと私の顔を見る。
「少し見ないうちに、なんだか大人になったな。いろんな経験をしてきたのかな。お父さんも、負けてられないよな。お前が乗り越えられたんだ、オレだって、この現実を乗り越えなきゃな」
 お父さんは台所に行くと、コップに水をたっぷり注いでそれを一気飲みした。
「響子、ありがとう。まだ酒は抜けないけど……もう酒に逃げる日々はおしまいだ。お前が前に進んだように、お父さんももう一度前に進んでみるよ。」
「お父さん……。私の話を聞いてくれて、ありがとう。私、全力で応援するから」
「こっちこそ、ありがとう。それと、本当にすまなかった。どんなに謝っても、お前にしたことは許されることじゃないけれど……これからの日々で一生懸命償っていくよ」
「そんなに重く考えないで、お父さん。私はもう平気なの。平気だから」
 お父さんの心に穏やかな色が戻る。
 その時、玄関が開きビニール袋を両手に抱えたお母さんが帰ってきた。
「ただいまー。久しぶりの我が家だわー。あら、親子のお話は終わったのかしら?」
 私たちが見つめ合っているのを見て、お母さんがおどけた様子で笑った。
「母さん、母さんにも悪いことをしたな。お父さん、これからは全力で頑張るから……」
「はいはい。お父さんにもたまには休憩が必要だったってことでいいでしょ。さぁ、今日の晩御飯は鍋よ、皆で鍋を囲んで仲直りしましょ。響子、鍋の支度手伝って」
 お母さんはそういうと、何事もなかったかのように台所に立つ。
 お父さんがそのとなりに立って、残っていたお酒を全部流しに捨てた。
「お父さん、何もそこまでしなくても……」
「いや、捨てる。酒に逃げるのはもうおしまいだからな。これは必要ない」
「あらまぁ、いつの間にか頼もしくなっちゃって。どうしたのあなた」
「娘の成長に刺激されたのかな。母さん、美味しい鍋期待してるから」
 お父さんが照れくさそうに笑って言った。
 その日、私たちは久しぶりに三人で食卓を囲んだ。
 毎年見ていた花火の話もしたけれど、裏御神楽町で見て花火の話はしなかった。
 あの思い出は、私の胸の中に大切にしまっておくつもりだ。あまりにもまぶしい日々過ぎて、それを簡単に言葉にしてしまえば、あの日々がありふれた陳腐なものになってしまいそうな気がするから――。
 その日、私たちの食卓には笑顔がたえないまま時間が過ぎていった。

 あれから一か月。
 お父さんは無事就職先が決まり、再び仕事の日々に戻っていった。お酒はもう飲んでいない。お父さんの、うつむいてひとと話をするクセも少しずつ改善されて相手の顔を見るようになった。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃいお父さん!」
 お母さんといっしょにお父さんを玄関で見送って、私も部屋に戻って高校へ行く支度をする。蓮人くんに貰ったネットゲームの紙は、まだ折りたたんだまま。
 これは秀男さんに貰った御守りとともに、自分を守ってくる紙にしている。
 いつか、ゲームに接続する日が来るかもしれない。
 だけど今の私はだいじょうぶ。彩花荘の日々が、私を変えてくれたから。
「いっけない! もう高校行かなきゃ遅刻しちゃう!」
 今でも時々、あの二か月は夢だったんじゃないかと思う。
 だけど、皆と過ごした日々が私を支えてくれている。
 チリン、と窓際に置いた季節外れの風鈴が鳴った。
 その澄んだ音が、裏御神楽町で、彩花荘で過ごした日々が夢ではないと教えてくれる。
「お母さん、行ってきまーす!」
 台所のお母さんに声を掛け、私はカバンを持って駅に向かった。
 空を見あげる。同じ空のもとに、彼らもきっと生きているはず。
 うまい、うまいとご飯にがっつく秀男さん。それをあきれて見ている蓮人くん。
 その光景を想像して、私は空を見上げたまま呟いた。
「秀男さん、蓮人くん……行ってきます」
 青空のもと、私は清々しい気持ちで高校への一歩を踏み出した。


【了】
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