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二部
112 侵略
しおりを挟む真っ白だった。
本来見えるはずの青空も。全周に広がる水平線も。すぐとなりにいるはずの船乗りたちも。
それどころか自分の足元すら白く溶けているかのように見える。
「……まるで、死霊にでもなった気分だ」
不安げに、どこかの誰かがそんなことを呟いた。
今、この場にいる多くの者は、屈強な船乗りたちだ。
彼らは陸上より多くの時間を海の上で過ごす。どこまでいっても陸地の見えない孤独な海は誰よりも慣れているはずだった。
だが、自分の靴でもあるかのように、丹念に磨いた甲板すら見えないこの霧は、今まで味わったどの不安感よりも海の男たちを弱気にさせていた。
「雲の中ってのは、こんな感じなのかね」
「あの世もこんな感じかもしれないぜ」
どこかの誰かが声高にうそぶく。
――ははは。
――幽霊船の船員ってのも乙なもんだ。
――違いねえ。
その調子に乗るように、あちこちから声が上がる。勝手の違うこの状況で、皆が互いの心を鼓舞しているかのようだった。
あるいは海の男である彼らだからこそ、この船がどこにどう進んでいるかもわからない中で、怯懦にとらわれずに済んでいるのかもしれない。
いつもに比べれば、船員の動きは必要最小限で、ひとりひとりが持ち場を堅持している。しかし、声の大きさと口数はいつもよりも上かもしれない。
「てめえら! 無駄口もそろそろ終にしねえか!!」
「へい! 船長!!」
よく通る男の声がした。効果はてきめんで、今までどこか緩んでいた気配がぴしりと締まったように感じられる。この船長に従っていれば大丈夫――そんな信頼を船員たちが持っていることは門外漢でも感じられたことだろう。
「もうとっくにユルセールの領海に入ってるんだ。いつどこで相手の哨戒船と鉢合わせるかわからねえ――気ィ引き締めておけ」
「へい!!」
戦いがあるかもしれない。それを知ってのこの統率であった。ただの船乗りにしては肝が座りすぎているし、はたまた海賊であれば統率されすぎている。
「船長。この船に近づくものがあれば、わたしが気がつきます。ご安心を」
「そうですか、アヴェストリア様。しかしまぁ、あいつらこの霧で弱気になってやがりますから、そういうことにしておいてやって下さいまし」
アヴェストリア。そう呼ばれた女が船長につと近づいてきた。黒い絹で織られたような、身体のラインがぴったりとわかる、夜会にでも着ていくワンピースを身にまとった美女だった。その指には魔術師がよく身につけている魔法の発動体の指輪を通している。
姿こそ軽装ではあったが、その全身は数多くの装身具。おそらくは魔法の品物だろう。もっとも目を引くのは、開けた胸元からこぼれ出そうな谷間におさまるようにして、水にミルクを流し込んだような大きな宝石が嵌めこまれた胸飾りだ。この霧のように白く、しかし透明感を損なわない絶妙な色合いの宝石だ。
――不思議なことに、アヴェストリアの周囲は霧が晴れていた。
そこにスッと、燃えるような髪と目の色をした長身の男が姿を現した。
「用心深いのはいいことよ。――ここまで進んでおきながら骸骨の邪魔が入らないということは、本当にやられたみたいね」
「せっかく対抗策を嵩じてきたっていうのに、残念だな!!」
まだ若い、青年といっていい男が豪放に笑った。ぎらぎらと燃えるような目と、逆だった炎のような髪を持つ若者だ。ただ事ではない雰囲気を感じさせるその男は、気軽な平服に長剣を吊るしていた。剣帯には見るものが見ればすぐに気がつくであろう。レゴリス王家の紋章が入った金具が使われていた。
「ザラシュトラス様。甲板は霧で危ないですよ……といってもここまで歩いてこれたんだから大したお方だ」
船長は自分の言葉がすぐに杞憂であると気がついた。
この船に寝泊まりをして、目を瞑っていたとしてもどこに何があるかがわかる船長や船員以外では、この霧の中を歩こうという気は起こらないだろう。
(――さすがはレゴリスの狂太子)
レゴリス王国の第三王子。レゴリス=ザラシュトラス。またの名を『狂太子』。
自国民ならずとも、多くの人びとが知る王太子であった。
優れた剣士にして、豪胆な戦争狂。
戦場では常に先陣を切り、レゴリス大陸の版図をもっともダイナミックに書き換えた男。
伝説に彩られた『ブリンガー』とはまた違った意味で、この狂太子も伝説に残る男といえよう。なにしろ、知られている数としては、この百年でもっとも多くの命を奪った人物だといっても過言ではないからだ。
「ふん、月の光もない夜の戦場を、死体に足を取られぬよう歩くことに比べればどうということはない。そこらに人の気配があるのだから容易い容易い」
ぞっとしないことを言われて、船長は口を閉ざす。
気分屋で好戦的なレゴリス王の血筋をもっとも色濃く受け継いでいる。そういわれる狂太子に、船乗りの軽口を返せるほどにはこの船長も豪胆ではなかった。
「父王がまだ若い頃、数十隻の軍艦でユルセールに攻め込もうとしたときにはさんざんな目に会って、小舟一隻で逃げ帰ってきたらしい。そのときの骸骨――『ペストブリンガー』とやらに会ってみたかったんだが、じつに残念だ」
レゴリスの船乗りたちには伝説があった。
軍艦がユルセールに近づくだけで、その船は骸骨の魔物に襲われ、帰ってくることはないと――
その伝説が事実であることは、レゴリスの王は実体験として思い知らされており、息子たちにもこう伝えていた。
「お前たち。この世界のどこに攻め入ってもかまわない。海軍や私掠船を使ってよその大陸に攻め入るのも結構なことだ。――だが、ユルセールだけはやめておけ。下手をすればこの国が滅ぶ」
そう、“四人”の王子に実体験として話を聞かせたものだ。
一番年かさの第一王子はこの話を聞くと、無謀にもユルセールに攻め入ろうとして海軍を動かした。大武力でもってユルセールに攻め入ろうとしたが、結果はひとり残らず帰ってくることはなかった。
それだけではなく、軍艦が出た港町では悪意の塊のような疫病の流行により、町の人口の五分の四が失われた。
かくしてレゴリスの王太子は三人となることになった。
「大兄の顔などもう忘れたが…… 俺がその骸骨を倒したかったものだ!!」
「シュトラ様。ユルセールの国王が代替わりをし、何やら国が荒れているということでご決断をされたまで。『ペストブリンガー』などという半分魔物の領域に踏み込んだもののことなどお忘れ下さい」
「ま、いないものを惜しんでも仕方ないな。ヴェストリア」
アヴェストリアは狂太子を“シュトラ”と呼び、ザラシュトラスは女を“ヴェストリア”と愛称で呼んでいる。
(レゴリスの『狂太子』と、霧の魔女『ミストブリンガー』の組み合わせとかおっそろしいったらありゃしねえ……)
賢明にも船長は声に出さず感想を心のうちにとどめておいた。
狂太子の愛人にして第三王子軍の参謀を務める魔女。
霧を自在に操り他国でも『ミストブリンガー』として恐れられている伝説の魔女。
本当の年齢は誰も知らないが、『ブリンガー』の称号持ちであること。その称号がはるか昔から伝わっていることを考えると、魔法で延命と若い姿を保っているとしか思えない。
狂太子はそんなことを歯牙にもかけていないようで、ヴェストリアを抱き寄せると獣のように荒々しく唇を吸った。戦いを前にして昂った心が、そのまま欲情に転化したかのようだった。
「ピニオーリに到着するまでまだ時間があるだろう。抱かせろ、ヴェストリア」
「シュトラ様がわたしを抱くのに許可など不要だと申し上げた筈で――」
ヴェストリアの言葉は再び狂太子の唇によって荒々しく塞がれた。
「せめて、船室に戻ってから……」
獣のような性欲に当てられ、ヴェストリアは弱々しく懇願した。が、ザラシュトラスは背後に回りこむと首筋に舌を這わせ、胸元が開いたワンピースの上から乱暴に胸をわし掴みにする。
「せっかくの霧だ。誰にも見えないのだから、どこでやろうと変わらぬだろう――」
「――そんな。無体な……ああっ……」
ふたりの姿が霧の中に消えていった。
押し殺したアヴェストリアの声と、雄々しく本能のままに獣性を声にする狂太子。
姿が見えない分だけ、ふたりの声は甲板全員が想像をふくらませつつ耳にすることになる。
「くそっ。ピニオーリを占領したらまずは女だ。――しかし王子様も魔女様もたいしたタマだぜ」
人間というよりは動物といった嬌声の響き渡る甲板で、船長以下全員。戦いのモチベーションが上がるのを感じていた。
――レゴリス王国私掠船団。
それがこの船の正体だ。
私掠船というのはすなわち、国によって海賊行為を認められた船のことだ。
海軍とは違い、平時はレゴリスに由来しない船を好き勝手に襲い、略奪を正業とするが、いざ国の要請があれば軍艦とならなくてはいけない。
つまり、戦争がないときは勝手に食い扶持を稼いでくれる海軍。曲がりなりにも彼らは軍隊教育を受けた、れっきとした公務員であるといえるだろう。
レゴリスの私掠船は強い。それは日々、海の上で実戦を繰り返しているからだ。
――次の日。
百年以上にわたって不可侵であったユルセールの土地が、突然の暴力によって破られることとなる。
霧が晴れたとき、ピニオーリはろくな抵抗もできぬまま、レゴリスの狂太子によって占領された。
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9月1日更新です! 褒めて!! 撫でて!!!
…あ、いや。当然のことをしたまでです(突然冷静になって)
まだ若かった王様が代替わりしたことにより、
やっぱりどこかが攻めにきました。
あんがい仕事をしていた感を滅んでからアピールされるペスブリさん。
メテオが適当な幻影を海のあちこちに配置して、
「げえっ! ペスブリ!! 引け引けーッ!!」
みたいなトラップも考えたのですが、あほっぽいのでやめました。
次回更新は9/2のAM10:00です。
あと学生諸君は夏休み終わった? 終わった!?(ひがみ&喜悦)
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