檸檬

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檸檬

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江戸時代 
江戸の小伝馬町辺り。

少女は両親と共に長屋暮らしをしていた。年は数えで14、5と言った所か。
彼女の親は小さな呉服屋を営んでいた。
貧しいながらも幸せな家庭だった。

「悪いがこれを柳さんのところへ」

少女は着物を渡されて頷いた。いつものようにお使いに出かける。
「あれ お父さんにお使いでも頼まれたのかい 大変だね」
少女は長屋の住人に声をかけられる。
「ええ 慣れてますから」
長屋を出るときに一人の長髪の青年とすれ違った。
少女は何回か青年を見かけた事はあるけれども話を交わした事は無い。


青年は不思議な人間だった。
年は22、3と言った所。背が高くその端正な顔は人目を引いた。
日中は何をするまでもなくブラブラとしてたまに部屋で絵を描いている。
夜になるとどこかに出かけていく。遊郭に入り浸っているという話だった。
または高級な料亭の離れでいるとも。
青年を取り巻く噂は華やかなものが多かった。えらく金回りがよい。
何を生業としているのかよくわからず長屋連中はあれこれと噂をした。
「きっと組頭か何かの家柄に違いない」
「下級藩士なのかも そうは見えないけど」
「じゃあなんでこんな長屋に住んでるんだい」
「何か問題を起こして隠れてるんじゃないの」
噂は絶えなかった。
両親は言った。
「あの男には近寄るんじゃないよ お前はおぼこな娘だから」
少女はこくりと頷いた。
兄弟も少なく奉公にも出されなかった少女は大切に育てられた。
親の意に自分が背くとは思ってもみなかった。

ある日少女が青年の部屋を通り過ぎると青年は何かを描いている。

青年はそれを台の上に置きひたすら描いていた。
その姿は一見淡泊そうだがそのまなざしは厳しく怖い。
少女はその様子をひたすら見ていた。動こうとするが動けない。
二十を超えたに過ぎない若者なのに青年はどこか老成した感じを受けた。
青年は少女が見ているのを知ってか知らずかただひたすら筆を進める。

「何か用かな」
青年は口を開く。低いドスの利いた声だった。少女は何も言えず思わず吐息をつく。しばらく沈黙が訪れた。
「いえ 失礼しました ただ」
少女は顔を赤らめて言う。
「それは何ですか」
台の上にのせられた黄色い物をさす。
「これ? これは檸檬だよ 江戸の人間は殆どが知らないだろうね。
異国の物だから 食べてみるかい」
そう言って青年は檸檬を器用に小さく輪切りにした。
檸檬は薄く切られて少女の前に差し出された。
青年はそれを少女の口に含ませた。
少女はその酸っぱさに顔をしかめる。今まで口にした事の無い類いの物だ。
青年はそれを見て笑う。
「またおいで」
「・・・・・・」
少女は何も言えずただ頷いた。
「もっと色々なものを見せてあげよう」
青年はにっこりとほほ笑むと畳に座りまた絵に没頭し始めた。
「わたくし・・・・」
少女は何か言いいかけて口をつぐんだ。親の言いつけは守らなければ
もう来れないと言わなければ。青年は不思議そうに言う。
「どうなさった」
「いえ もう帰ります」
もう来てはいけない。心の声がする。でも一度ここに来てしまうと
心がひきつけられる。少女はそれに抗えなかった。
青年がその日帰ってきたのは
5ツ過ぎだった。戸も満足に閉められず酔っているようだった。
少女は駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫。」
「お酒を呑んでいたのですね」
「咎めるように言わないでくれ」
「そうですか」
「たまには飲みたくなる」
青年は毎日飲んでいるようだった。
「何かあったんですか お仕事とかで」
少女は聞いた。
「危険な仕事だ。色々ある」
「そうですか。」
少女はそれ以上聞かなかった。立ち去ろうとすると。
「行かないでくれ。できればそばに」
青年はそう言って少女を腕の中に引き寄せた。
少女はたびたび青年の部屋に訪れるようになっていた。
「素敵な風景ですね」
「そうかな」
青年の描く絵はどこか優しさが有った。少女はその繊細なタッチに見とれる。
うっすらと頬を染めながら。目は輝いている。
「あなたさまに伺いたいことがあります」
「なにかな」
青年のへやには見た事も無い品物がたくさん有った。異国の物らしい。
「こういった品はどこから手に入れるのですか」
少女はいくつかを手に取り聞いた。
「ルートが有ってね」
そういって青年は笑った。すこし悪戯っぽい表情で。
「そうですか」

青年は江戸で暗躍する密輸ルートの元締めをする組織の一員だった。
「江戸には金持ちが多くてね そういった羽振りの良い商人 金貸しや御家人連中にこういった商品を売るのさ 飛ぶように売れる」
そういって檸檬をくるくる回した。

「お役人様に見つかったらどうするんですか」
「袖の下を握らせてるから大丈夫だよ あいつらの扱いには慣れてるから」
青年の父は奉行所で要職についていた。青年も表向きはその手伝いという事になっている。
「だからこんな長屋なんかに住んでるんだよ。周囲に怪しまれないように」
「怖くないんですか」
「私には怖いものなどない」
それより今度茶屋に行こう。 いきつけの。青年はそう言いだした。
「旨い魚料理を食べたくはないかな」
一度もそうした贅沢をしたことのない少女はすこし躊躇した。
町外れに有る料理茶屋は男女の逢瀬によく使われる。
青年はこうした遊びに慣れているようだった。
逢瀬の度に青年は檸檬を輪切りにして少女に食べさせた。
こうすると躯から良い香りがするだろう。そう言いながら少女の髷から簪を抜く。
少女は笑う。体からは檸檬の匂いが抜けなくなっていた。
少女は16になった。もう嫁入りする年頃である。
長屋の人間は少女が美しくなったという。
母親は縁談の話を進めている。
「好い所に嫁入りをさせてあげるね」と。

青年は探りを入れるように聞いた。
「いつまで逢っていられるか。あなた、どこかに縁談もあるのですか」
「まだございません」
少女はいたずらっぽく笑う。白地の浴衣がまぶしい。丸い目を大きくしながら青年を見つめる。少女から次第に丸みを帯びたからだが初々しく感じさせる。
「あなたの親も心配しておろう。私なんかと逢って」
「親は気ずいておりません」
そうか、青年はつぶやいた。そして少女のほうを見やる。
「すっかりいい娘になった」
「そんなことを言って」
「どうした」
「いつもと違うなと思いまして」
少女は正直に言った。青年は苦笑いをする。少女は顔を赤らめた。
今日も少女は青年と逢い引きをしていた。少女は目をそらさず青年を見つめる。
「異国をいつか見てみたいんだ」
青年は煙管の灰を灰吹きに落としながらなにげなく言う。
そうして少女を腕の中で抱えながら頬を軽くなでた。
「渡航の話も来ている」
少女は驚きながら青年の顔を見る。
「見つかったら死罪ですよ」
「分かってる 覚悟の上だ このチャンスを逃したら次は無いかもしれない」
「では 私も連れて行ってください」
「それは駄目だ 君の両親が悲しむ」
「私が御嫌いですか」
少女の問いに青年は無言のまま、少女を抱き寄せた。少女を抱きながら青年は遠くを見ていた。

青年が奉行所に連れて行かれたという噂が
流れたのはそれから少し後だった。死罪になったとも
流刑になったとも云われた。青年の行方は誰にも分からなかった。

少女の縁談が決まった。初詣のときに見初められたのだ。
相手は向かいの米屋のせがれだった。
少女の両親は嫁入り先が定まると満面の笑みでこの縁談を喜んだ。

祝言の席で少女は顔を上げる。米屋のせがれが少女を見つめる。
「あなたは良い香りがしますね 今までかいだ事の無い香りが」
少女は頭を下げたまま微笑む。
「そうですか」
「あなたと暮らせるのが楽しみです」
米屋のせがれは少女のほほをそっと撫でる。
丸顔のせがれを見ながら少女は思う。
この人を愛せるのかと。


檸檬の行方は誰も知らない。


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