月の歯車

Minoru.S

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三.日曜の午後、冬の雨

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 三

 ――くしょん。
 秋夜は猫のようなくしゃみをして鼻をすすった。奥の台所に食器を下げに行っていた初穂には見られていないし、気づかれてもいないようだ。台所からは水を流す音が聞こえる。もし見つかりでもしたら、あのくらいで風邪を引いたのかと馬鹿にされたかもしれない。
 ティッシュの箱を取り、鼻をかむ。いや、と秋夜は思い直す。もう初穂は一生風邪を馬鹿にすることはないだろう。それどころか、必要以上に心配して、事情を知らない周囲を驚かせるかもしれない。
 秋夜の母が亡くなったのは、風邪をこじらせ肺炎を発症したからだった。季節の変わり目の寒暖の差の大きい時季に、体調を崩し、あっけなくいってしまった。
 あんなに簡単にひとが死ぬなんて思いもしなかった。秋夜はぼんやりと窓の外を見つめる。外はどんよりと曇って、いつの間にか雨がしとしとと降っていた。冬の雨は雪が降るよりも寒く感じる。雪は世界を綿のように包みこむのに対し、雨は体温を根こそぎ奪うように浸みこむからかもしれない。秋夜はこたつ布団を手繰り寄せ、潜りこむように体を入れる。シュンシュンとストーブの上で鳴く、やかんの蒸気の音が眠気を誘う。こたつもストーブも午前中にだしておいてよかったと思い、安息の吐息を漏らした。
 ――ずいぶん、地味じゃないか。
 ふと、母の言葉が思いだされた。このこたつは、前に使っていたものが壊れた際に、秋夜が安売り品のなかから購入したものだ。まだ初穂はこの家におらず、母と二人きりで暮らしていたころだった。カーキ色の無地のこたつ布団を段ボール箱からだすと、日ごろあまり文句を言わない母が、眉を八の字にして困ったようにそう言ったのだ。秋夜はなぜか必死になって、前に使っていた赤のチェック柄のこたつが派手だったからそう感じるのだとか、使っていれば馴染むよと、言い訳をしたのを覚えている。
 みかんを抱きかかえるようにして台所から戻ってきた初穂が、こたつに入って背を丸くする秋夜を見て、苦笑を浮かべる。
「なんかそうしていると、年寄りみたいだね」
「中学生から見たら、三十一なんて紛いもない年寄りだろう」
「そうなのかなあ。秋夜は童顔だから、あんまりそんな感じしないけどね」
「初穂が僕を軽んじる理由はそれか。いい加減、敬意を払って叔父さんと呼ぶべきだろう。せめて呼び捨てはやめなさい。近所の人だって不思議に思うだろう」
「長い付き合いなんだから、ご近所さんだってわたしが秋夜を小さいころから呼び捨てにしてることくらい知ってるよ」
 その近所が問題なんだ、という言葉を秋夜は呑みこむ。
 初穂はこたつテーブルの上に抱えたみかんをばらばらと転がし、そのうちひとつだけを手にとって隣りの部屋につづく襖をあけた。ストーブで温められていない冷えた空気が流れこんでくる。仏壇にみかんを供え、りんを鳴らし手を合わせる。
 口の減らない姪の、うって変わった真摯な背中は、見知らぬ他人のようだ。幼いころから、黙っているとなにを考えているのかよくわからない子どもだった。しゃべっているときは、年相応の幼さの証である無邪気と生意気を感じるのに、ときどきひとりでぼうっとたたずみ、深い井戸に映る月影のような怜悧な光を目に宿す。その沈黙は秋夜を臆させた。おとなになるにつれ初穂の静寂は磨きがかかり、初穂すら気づかないような場所――例えば背中やうなじや足の裏で、その蕾が摘まれぬようひっそりと息を潜めて、開花のときを待っているようにも思えた。そして、それはふとした瞬間、誘うように毒々しいほどの甘い芳香を漂わせ、初穂を別人のように錯覚させ、秋夜を戸惑わせる。
 秋夜は初穂から視線を逸らし、中指で眼鏡を持ちあげた。大きくなったと思う。初穂がこの家に来たときはまだ九歳の小さな少女だった。それが六年も経ち、身長もずいぶん伸びて、簡単に抱き上げることもできなくなってしまった。
 ため息をつき、近所の噂も仕方ないのかもしれないと考える。初穂は無関心のようだが、近所の人が祖母のいなくなった家で叔父と姪だけが暮らすのは不自然だと話しているのを、秋夜は偶然聞いてしまっていた。しかも常日頃初穂は秋夜を呼び捨てにしている。むかしからそうだったとはいえ、なにかあるんじゃないかと面白半分に勘繰るものさえいた。
 叔父と姪であり、社会人と中学生である関係になにかあると邪推するほうがどうかしていると思いつつ、胸を張って近所を歩けるほど秋夜は気が大きくなかった。それから秋夜はせめて呼び捨てはやめさせようと、初穂にしつこく注意するようになった。当の初穂はまったく意に介したようすはないのだが。
「そう言えば、初穂は進路どうする気だ?」
 仏間から戻ってきた初穂は気まずい笑顔を見せてこたつに入り、みかんを手に取った。皮に爪が喰いこんだ瞬間、飛沫が散って、爽やかな柑橘の匂いがほとばしる。
「まだ決めてない」
「そうか。担任は地元校より都内の高校を進めていたぞ。いまの学力で地元校に残るのはもったいないって。少なくとも県立の進学校を薦めたいみたいだったな。都内なら兄のマンションがあるし、そっちに越して通うこともできる」
 みかんの皮を剥き、無心に白い筋を取りながらうん、とだけ初穂は頷いた。いつもは白い筋なんて気にせず頬張るのに、いまはどんなに細い一筋も見逃して堪るかという態度だ。
「兄とは話したのか」
「話してないよ。あの人はわたしが受験生だってことも知らないかもしれない」
 父とは決して呼ばない初穂の声は硬く、だが同時に自然だ。そうかとだけ秋夜は返す。
 兄は初穂をこの家に連れてきてから、ほとんど顔を見せることはなかった。家庭訪問も授業参観も母と秋夜が対応した。なんとなくわかっていたことだったが、兄は子どもが好きではなかったらしい。実子か否かで、その気持ちが変わることはなかったようだ。兄は初穂に対して無関心でありつづけた。
 そんな兄と初穂の久々の再会は母の葬式だったが、会話を交わしているようすを見ることはなかった。母が亡くなって数日後、叔父と二人で暮らしていくのは気まずいこともあるかもしれないと思った秋夜が、初穂に兄のもとに戻るかと尋ねると、ここに置いてほしいと振り絞るように言ったのだ。
「もし、塾とか、そういう心配しているなら、どうにかなるから。知っていると思うけど、初穂の生活費は余剰があるくらい十分に兄からもらっているから」
 初穂が返事もせず白い筋を取りつづけるので、秋夜は沈黙に耐えられず言葉を継いだ。
「初穂の担任にも言われたよ。もっと関心を持ってくださいって。家庭の事情はわかっているけど、初穂がいまも進路を決めかねてるのは相談する相手がいないからじゃないかって。そういうこと母さんと僕じゃあ気が回らなかったもんな」
 みかんはいまやどれもつるんとして、肥えた芋虫が丸まっているかのような不気味さだった。手を止めた初穂が食入るように秋夜を見据え、静かに口を開いた。
「秋夜は、わたしがここにいると迷惑?」
 そういうときの初穂の目には不思議な力強さがあって、秋夜は気圧されている気すらしてしまう。純真と真摯でコーティングされ、鏡のように秋夜を見つめる。瞳は脅しているようでさえある。若者は純粋さに命を懸けられるが、それは秋夜にとってすでにどこかに置き去りにしてしまった観念だ。同じ力強さで相対しなければならないが、どこにもそんな力は残っていない。
 思わず秋夜は取り繕った笑顔を浮かべてしまう。まずいと思って口元を覆うがその態度がいっそ不自然だ。
 初穂はなにも言わず、秋夜から目を逸らしていた。つるんとしたみかんを無言で食べている。なにか言おうとして、なにを言っても駄目な気がして秋夜は言葉がでない。なすすべもなく、みかんで少しだけ黄色くなった初穂の細い指先をただ目で追った。沈黙のなか、手もとのみかんを残らず食べ終えた初穂が口を開く。
「ごめん。わかってるよ。わたしがここにいると秋夜は結婚だってしづらいだろうし、彼女ができても家に連れてくることもできないもんね」
 いや、と否定しようとする秋夜を制するように初穂は続ける。
「進路はもう絞っているんだ。家から近い公立にするか、少し離れた高校にしようか迷ってるところ。結論出すのに時間かかってるし、心配してくれているのかもしれないけど、ちゃんと考えてるから」
「そうか……。余計なことだったな」
「ううん。ありがとう」
 初穂は紛れもなく笑ったのだったが、秋夜には笑っているようには見えなかった。みかんの皮を手にし、台所へ行く初穂の後ろ姿を見送る。気を遣わせてしまったと、ため息が漏れそうになって、そんな資格はないと思い直し、寸前に呑みこむ。
 日曜日の午後、冬の雨が降るなか、どこへ行きつくこともできない大人になりきれないままの自分を実感する。いい歳になっても適切な言葉を見つけることができない。ただいたずらに年を重ねただけのこの身が虚しくなる。だがいまやその虚しさにも慣れ親しみ、まるで体の一部のようになってしまっているから余計に性質が悪い。
 仕事もしているし、家事もなんとかこなしている。部屋は片づき荒んだ生活をしているわけではないし、法律に罰せられるようなことは犯していない。胸を張って生きていいはずなのに、そんな自信少しも持てやしなかった。自分は足りないのだと思ってしまう。重大ななにかが欠落し、いつかその欠けた部分からひびが入り、脆くも崩れてしまう日を恐れている。いや、いっそそんなどうにもしようのなく打ちのめされた状況を待ち望んでいるふしすらある。
 なにかを求めているはずなのに、それがなにかが自分自身ですらわかっていなかった。だからこんな中途半端な人間になってしまったのだろうか。兄の背広姿の背中を思いだす。着せられた感のあった秋夜の喪服姿とは違い、兄のそれは馴染み、板についていた。兄は名の知れた銀行でそれなりの地位に就いているらしい。書店員の秋夜とは給料も雲泥の差だろう。
 学生のころから、品行方正で成績優秀だった兄は秀才だとこの界隈ではちょっとした有名人で、十歳も年が離れているのに、小中学校では兄を覚えている教師は必ずいて、引き比べられる秋夜にとって常にコンプレックスの対象だった。しかも、仲良く遊んだ覚えも、口をほとんど利いたこともないまま、兄は、秋夜が八歳になるころには大学に通うために家をでていた。
 兄を誇りに思った時期もあった。だがそれを兄自身が許さなかった。ときどき家に帰ってくる兄は秋夜を冷たく蔑むように見下ろす。その表情には翳が差し、筋肉をピクリとも動かさず、秋夜はそんなふうに見られる自分が煩わしい羽虫になったような心地でいたたまれなかった。
 兄は家族を憎んでいたのではないだろうかと思うときもある。家を出て以来、数えるほどしか帰ってくることがなかったし、兄にとってこの家は常に足を引っ張る枷でしかなかったのだから。だが、母が亡くなったとき、葬式から役所の手続き、相続に関する手続きまでもすべて滞りなく済ませたのも兄だった。大した財産ではないとこの家や土地の相続放棄をし、秋夜にすべて譲ったうえで。
 眼鏡を外し、眉間をもむ。体がだるい気がした。いまさら兄との関係に想いを馳せるなんてどうかしている。だが、その想いは波のように押し寄せる。
 数年ぶりの兄との長い会話は事務的なものだった。理路整然とした説明は、書類や手続きを苦手とする秋夜にもわかりやすいもので、秋夜は必要最低限のことしかせず、ほとんどを兄任せにしてしまった。兄はそれを文句も言わず、淡々とこなしていた。勤め先近くの喫茶店で会ったあの日、何枚もの書類に目を通し鞄につめる兄は、大人だった。それは秋夜がなりたくてなれなかったものの具現のような気がして、汗を掻くお冷のコップごとテーブルがぐにゃりと斜めに曲がったような目眩を覚えた。
 初穂は賢く、兄に似ている部分があると、ときどき実感する。塾にも行っていないのに成績はトップクラスだし、なにごともそつなくこなす。母が亡くなり気負って家事全般を請け負おうとしてはち切れそうになった秋夜に、そっと手を貸し負担を減らす提案をしてきたのも初穂だった。そんなふうに大人のふるまいができるようになっていく初穂を見ていると、感心する一方で胃が押さえつけられるような不快な気持ちを抱いてしまうときがあった。
 台所から水を流す音がする。食器でも洗っているのだろう。なにも言わず無言で食してしまったが、昼食の鍋焼きうどんは美味しかった。思えば外で作業していた秋夜を慮って体の温まるものにしたのだろう。いまさらそれに気づく。いつも少しずつ遅い。タイミングを外している。
 秋夜は立ち上がり、台所へ向かう。ジャラジャラと耳障りな音を出すオレンジと黄色のビーズののれんを手で避けながら、初穂の背中に声をかけた。
「初穂、手伝うよ」
「いいよ。ゆっくりしていて」
「だけど」
「じゃあ夕飯はお願いしていい?」
「わかった。うどん美味しかった。……ごめんな」
「なんで? 謝るなんて、変な秋夜」
 初穂は結局振り返らず、手も止めなかった。よどみない行動に秋夜の胸が疼く。
 外は静かな雨が絶えず降り注ぎ、地面に浸みこんでいく。このままでは芯から冷え切ってしまう気がした。こんな日はぬくもりが必要なのに、そうするにも秋夜自身に温度が足りなかった。もし善意のだれかが秋夜をあたためようとしても、それと同じぬくもりを返せないから、そのだれかを凍えさせてしまう。
 自室に向かいぼんやりと手のひらを見つめる。暗く寒い日は駄目なのだと思う。指の先に宿った細かい震えが嘲笑っているように見える。おまえはひとりで生きていくしかないのに、ひとりでは生きていけないのだと。
 ずるずると座りこみ、深く息を吸って吐いた。身を切るような息苦しいほどの孤独感が肺をいっぱいに満たしていた。
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