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1章◆王都スタルクリア
来訪者-2
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一人でお茶を淹れるのは三回目だったので決して手際は良くなかったが、なんとかリンゴ茶のマグカップが二人分と、タビトのぶんのリンゴパイの皿が、テーブルの上に整った。
「では失礼して。ああ、いい香りだ。温まる」
老人がマグカップに口を付けたのを見て、タビトも自分の皿を見下ろす。
老人の奥方が作ったというリンゴパイはこんがりとしたきつね色で、何か工夫があるのか全体がつやつやと光っていた。ところどころに見え隠れする黄色っぽい塊はリンゴの果肉だろう。野生のリンゴは基本的に生のまま齧っていたから、火を通して食べるのは初めての体験だ。
三角に切り分けた先端の部分にフォークを落とし、思い切りぱくつく。途端、タビトの口内に柔らかなリンゴの風味と、香ばしいバターの香りが広がった。
「……! んんっ! なんか……! なんか美味いです! よく分かんないけど! 懐かしい味がするっていうか!」
タビトの勢いに老人は驚いたのか目を丸くする。けれどすぐその目を細め、嬉しそうに微笑む。
「ええ、そうでしょう。家内の自信作ですから」
「奥さん天才ですね! オレこんなの初めて食べました! あっ奥さんが作ったってことは、毎日これが食べられるのか。いいなぁ」
「いや、さすがに毎日は……」
老人は何か言いたげにしていたが、タビトは構わずパイを腹に収めていく。あっという間に一切れ完食してしまった。
「いやぁ、良い食べっぷりですなお手伝いさん。もう一切れいってもいいんじゃないですか」
「いえ……食べたいのはやまやまですけど、さすがに先生が帰るまではやめときます」
「そうですか。まあ、そうでしょうな。ところでお手伝いさん、つかぬことをお聞きしますが……」
老人が白く濁った瞳をタビトへ向ける。
「もしや、その首のもの……『真の公正の首輪』ではありませんか?」
「……」
――あ。
そ、そうだった! 先生が全然奴隷扱いしないから忘れてた! いやなんで忘れるんだよ、この首輪の解除方法を探すために先生は走り回ってるっていうのに!
「え、えっと、これは……」
タビトはさり気なく首輪を手で隠しながら――遅すぎるが――老人の目から隠すように体を捻る。
たしか『真の公正の首輪』を魔法使いに渡すことは最大限の侮辱だとイリスは言っていた。そんな首輪を使っていることが知られれば、イリスの名誉にかかわるのではないか。
――やっぱり最初から玄関に出るべきじゃなかったんだ。なんてバカなんだオレは。
内心で後悔しながらも必死で言い訳を考える。
「せ、……先生は悪くないんです。どうしても仕方ない事情でこうなっただけで。あっ、奴隷にしてくれって頼んだのもオレからだし、先生は奴隷扱いなんかしないで普通に世話してく――」
何故かそこで、言葉が途切れた。
突然声が出なくなったことに驚いて、喉に触れようとすると、腕が動かない。
――あれっ?
と思った時にはタビトの体は斜めに傾いで、椅子から滑るようにして床に落ちた。受け身を取ったり頭を庇うこともできず、ただべしゃりと落ちた。
――なんで? 体が動かない。
床に「落ちた」姿勢のまま、眼球だけを動かす。心音がやけにうるさい。まったく体が動かないという、訳の分からない状態に汗が噴き出す。横倒しになった視界に、男物の黒い革靴が現れた。
――あれ、お爺さん、靴、履いたまま……。スリッパ勧めたのに。土足厳禁なのに。
そんなことを思いながら目だけで老人を見上げようとすると、目の前の靴が片方消えた。
「ぐっ……!」
即座にみぞおちに食い込む鈍い痛みに、蹴られたのだと分かった。立ち上がるとか、腹を抑えるとか、転がって逃げるとか、普通ならできるはずのことが何もできない。咳き込むことすらままならず、ただ口の端から涎が落ちて床を汚す。
「これは面白い。まだ意識があるとは」
頭上から落ちてきた声にぎくりとする。
その声はさっきの老人のものとはまるで違っていた。張りがあり、深みのある、低い男の声。
「ソマリ人は元々毒に対して強い抗体を持つ個体が多いが、君ほど頑丈なのは初めて見たよ。まさか一切れ食べておかわりまで欲しがるとはね」
くすくす、と面白がるような笑い声には、しかし一切温度が通っていない。
――ソマリ人? 毒? ああそうか、リンゴのパイに毒が入っていたのか。でも、ソマリ人って……。
とても嫌な予感がした。
健康的なソマリ人の男を求めている者がいると――たしか、イリスはそういう意味のことを言っていなかったか。でもその人物は今は不在で、あと二週間は猶予があると……
「タビト……! 大変だ、今すぐ荷物を……!」
ドアを叩きつけるような激しい音と共に、イリスの声が玄関口から飛び込んできた。いつになく忙しい足音はまっすぐキッチンに向かってくると、部屋の入り口でぴたりと止まる。
――先生。
顔を見たいのに、首を動かすことすら叶わない。タビトの目前には、相変わらず黒い革靴を履いた足がある。
「やあ、お邪魔してるよ。私のイリス」
「……ずいぶんとお早いお帰りですね。ヴァルトレイン郷」
タビトが聞いたことのないくらい冷たく低い声で、イリスはその名を呼んだ。
「では失礼して。ああ、いい香りだ。温まる」
老人がマグカップに口を付けたのを見て、タビトも自分の皿を見下ろす。
老人の奥方が作ったというリンゴパイはこんがりとしたきつね色で、何か工夫があるのか全体がつやつやと光っていた。ところどころに見え隠れする黄色っぽい塊はリンゴの果肉だろう。野生のリンゴは基本的に生のまま齧っていたから、火を通して食べるのは初めての体験だ。
三角に切り分けた先端の部分にフォークを落とし、思い切りぱくつく。途端、タビトの口内に柔らかなリンゴの風味と、香ばしいバターの香りが広がった。
「……! んんっ! なんか……! なんか美味いです! よく分かんないけど! 懐かしい味がするっていうか!」
タビトの勢いに老人は驚いたのか目を丸くする。けれどすぐその目を細め、嬉しそうに微笑む。
「ええ、そうでしょう。家内の自信作ですから」
「奥さん天才ですね! オレこんなの初めて食べました! あっ奥さんが作ったってことは、毎日これが食べられるのか。いいなぁ」
「いや、さすがに毎日は……」
老人は何か言いたげにしていたが、タビトは構わずパイを腹に収めていく。あっという間に一切れ完食してしまった。
「いやぁ、良い食べっぷりですなお手伝いさん。もう一切れいってもいいんじゃないですか」
「いえ……食べたいのはやまやまですけど、さすがに先生が帰るまではやめときます」
「そうですか。まあ、そうでしょうな。ところでお手伝いさん、つかぬことをお聞きしますが……」
老人が白く濁った瞳をタビトへ向ける。
「もしや、その首のもの……『真の公正の首輪』ではありませんか?」
「……」
――あ。
そ、そうだった! 先生が全然奴隷扱いしないから忘れてた! いやなんで忘れるんだよ、この首輪の解除方法を探すために先生は走り回ってるっていうのに!
「え、えっと、これは……」
タビトはさり気なく首輪を手で隠しながら――遅すぎるが――老人の目から隠すように体を捻る。
たしか『真の公正の首輪』を魔法使いに渡すことは最大限の侮辱だとイリスは言っていた。そんな首輪を使っていることが知られれば、イリスの名誉にかかわるのではないか。
――やっぱり最初から玄関に出るべきじゃなかったんだ。なんてバカなんだオレは。
内心で後悔しながらも必死で言い訳を考える。
「せ、……先生は悪くないんです。どうしても仕方ない事情でこうなっただけで。あっ、奴隷にしてくれって頼んだのもオレからだし、先生は奴隷扱いなんかしないで普通に世話してく――」
何故かそこで、言葉が途切れた。
突然声が出なくなったことに驚いて、喉に触れようとすると、腕が動かない。
――あれっ?
と思った時にはタビトの体は斜めに傾いで、椅子から滑るようにして床に落ちた。受け身を取ったり頭を庇うこともできず、ただべしゃりと落ちた。
――なんで? 体が動かない。
床に「落ちた」姿勢のまま、眼球だけを動かす。心音がやけにうるさい。まったく体が動かないという、訳の分からない状態に汗が噴き出す。横倒しになった視界に、男物の黒い革靴が現れた。
――あれ、お爺さん、靴、履いたまま……。スリッパ勧めたのに。土足厳禁なのに。
そんなことを思いながら目だけで老人を見上げようとすると、目の前の靴が片方消えた。
「ぐっ……!」
即座にみぞおちに食い込む鈍い痛みに、蹴られたのだと分かった。立ち上がるとか、腹を抑えるとか、転がって逃げるとか、普通ならできるはずのことが何もできない。咳き込むことすらままならず、ただ口の端から涎が落ちて床を汚す。
「これは面白い。まだ意識があるとは」
頭上から落ちてきた声にぎくりとする。
その声はさっきの老人のものとはまるで違っていた。張りがあり、深みのある、低い男の声。
「ソマリ人は元々毒に対して強い抗体を持つ個体が多いが、君ほど頑丈なのは初めて見たよ。まさか一切れ食べておかわりまで欲しがるとはね」
くすくす、と面白がるような笑い声には、しかし一切温度が通っていない。
――ソマリ人? 毒? ああそうか、リンゴのパイに毒が入っていたのか。でも、ソマリ人って……。
とても嫌な予感がした。
健康的なソマリ人の男を求めている者がいると――たしか、イリスはそういう意味のことを言っていなかったか。でもその人物は今は不在で、あと二週間は猶予があると……
「タビト……! 大変だ、今すぐ荷物を……!」
ドアを叩きつけるような激しい音と共に、イリスの声が玄関口から飛び込んできた。いつになく忙しい足音はまっすぐキッチンに向かってくると、部屋の入り口でぴたりと止まる。
――先生。
顔を見たいのに、首を動かすことすら叶わない。タビトの目前には、相変わらず黒い革靴を履いた足がある。
「やあ、お邪魔してるよ。私のイリス」
「……ずいぶんとお早いお帰りですね。ヴァルトレイン郷」
タビトが聞いたことのないくらい冷たく低い声で、イリスはその名を呼んだ。
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