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5章◆命を吸う牙
第十三番『氷虫』-1
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◆
五香の月二十二日、『氷虫』の投与日。
太陽が高くのぼり、十分空気が温まってきたころ、イリスが玄関先からタビトを呼んだ。
「またどっか行くんですか?」
「ううん、行かないよ。今日はここでやろうと思って」
そう言いながらイリスは、玄関から入ってすぐのところにある小さな客間へ続くドアを開ける。以前タビトが掃除したきり使っていなかった部屋だ。その時大きな家具は背の低いソファとテーブルのセットに飾り棚くらいしかなかった。しかしイリスに続いて部屋に入った瞬間、思わずタビトは絶句した。
「……うわ」
綺麗に片付けた部屋に、またしても大量のモノが持ち込まれていた。ソファとテーブルが壁際に寄せられ、代わりに絨毯や毛布など、厚手の布が乱雑に重ねられている。それを三角形で囲むようにして、タビトが昨日持ち帰った黒い鉄の塊が三つ配置されていた。端にあるテーブルの上には携帯魔導コンロの上にヤカンが置かれ、部屋の四隅には水を入れたブリキのバケツ。足の踏み場もない――とまではいかないが、けっこうな混沌ぶりである。
「な……なんですかこれ。せっかく掃除したのに……」
「えっ掃除? ああうん、君が片付けてくれたおかげでやりやすかったよ。ありがとうね」
「いやそうじゃなくて……」
戸惑うタビトを差し置いて、イリスは中央の絨毯を広げる。大きさはイリスの背丈の半分くらいだが、布なのに重量感を感じさせる豪華な絨毯だ。そしてその上に艶光りする赤紫のクッションを載せると、「君はここね」と言いながら振り返った。
「えっ。オレがそこに座るんですか」
「そうだよ。『氷虫』に対抗できるように少しでもあったかくしなきゃいけないから」
「はぁ……」
促されるまま座ろうとすると、今度は「ちょっと待って」と服の裾を引かれる。
「その前にこれを着て。あとこの毛糸の靴下と帽子と腹巻と、ミンクのマントと……」
「いや、いやいやちょっと待ってください先生」
イリスがやけにモコモコした衣類を次々タビトの腕に載せてくるので、たまらず口を挟む。
「今これ全部着たら暑すぎてそっちで具合悪くなっちゃいますって。寒さを感じ始めてから着ても遅くないんじゃないですか? それにオレなら今回も軽く済むかもしれないし」
「う……うーん。そうか。そうだね。いいよ、じゃあそのまま座って」
イリスがすぐに引いてくれたことに安堵しつつ、改めてクッションの上に座る。一応毛糸の靴下だけは履いておくことにした。
「それじゃ他の毛布も、こうやって……いつでも被れるようにだけしとこう」
タビトの体を囲うようにして、イリスが毛布やマントを床の上に配置していく。そして黒い鉄の塊のような魔導具を床の上で引き摺り、毛布に重ならないように位置を調整した。
「このストーブも君が寒さを感じたらすぐ点けるから言ってね。あとあっちでお湯も沸かせるようにしてるから」
「ああ、はい。……ストーブだったんだ、これ」
「そうだよ。言ってなかったっけ」
イリスは悪気なくそう言うとタビトの目の前にしゃがみ込み、小さなマグカップを手渡す。
「それじゃ……準備はいいかな。始めようか」
「はい。これ、そのまま呑めばいいですか?」
「うん。うっすら草みたいな匂いがするだけで、味はほとんどしないから安心して」
「へぇ、……」
マグカップの底の方に少しだけ溜った液体は淡い水色で、ほんのりと光っているように見えた。これが『氷虫』の原料、ユキコガネの色なのだろうか。カップを口に付けて一気に呷ると、すうっと喉から胃袋にかけて冷たいものが滑り落ちていくのが分かった。空になったカップをすかさずイリスが受け取る。
最初の二十秒くらいは、ただ腹の中がひんやりしているくらいでむしろ快適なくらいだった。けれど段々その冷たさが、胃の中で存在感を増していく。
イリスはタビトの正面に座り込んだまま、固唾を呑んで様子を窺っている。
「どう? 寒い? まだ平気?」
「……あ。これ……」
「な、何? 何か気付いた?」
「あっこれやばいです寒い寒いすげー寒い! 服! 腹巻! ストーブください!」
イリスは返事をする間も惜しいというように三台の魔導ストーブを順に点火し、タビトは肌着の上から腹巻を身に付け手近にあった上着に腕を通して、マントを羽織る。
「だっ大丈夫だよタビト、これだけあったかくしてれば凍傷にもならない。砂漠とは環境が違うんだから。ね」
そう言うイリスの声の方が裏返っているが、タビトにそれを指摘することはできなかった。寒さで歯がガチガチ言い始め、口を開くと舌を噛みそうだ。
部屋の魔導具に点火し終えたイリスがタビトの正面の位置に戻る。そしていつになく青い顔で震えるタビトを心配そうに見下ろすと、さっき床に広げていた毛布でタビトの体を覆った。
「……っあり……、ありがとございます。……ちょ、ちょっとはら、楽に……」
「礼なんていいから。……ああでも、何か話していた方がいいのかな。ちょっとでも動いた方が熱が生まれるだろうし……」
イリスは何か考えるように腕を組んでいたが、「よし」と呟くと何故か急に自分のシャツのボタンを外し始めた。
「は……?」
何やってるんだろうこの人は、とタビトが呆然と見つめている内にも、シャツの隙間から見える肌の面積がどんどん広くなっていく。そしてイリスはそのまま威勢よく上半身裸になると、背中に毛布を羽織り、がばりとタビトに抱き着いた。
「えッ……! な、なに、せんせ……、」
訳の分からない展開に、一瞬寒さを忘れた。
イリスは自分の背中側の毛布とタビトが羽織るマントの先を軽く縛ると、布でできた輪の中で二人が密着する形になる。そして衣類で着ぶくれしているタビトの胸板に顔を押し付け、下から覗き込むようにして言った。
「いつだったか、吟遊詩人の詩で聴いたことがあるんだ。『凍えそうに寒い夜は二人裸で抱き合って温め合おう』みたいなやつ」
「いやそれ……ただのちょっとエッチな詩だと思いますよ。裸より服着てる方があったかいに決まってるでしょ、普通に考えて」
「そうなの? でも君、さっきより口が回るようになってるじゃないか」
「それは先生が……」
毛布に包まれているとは言え、タビトの位置からではイリスの白い肩がが丸見えだ。そしてそこから続く薄い胸板、鎖骨の窪みまで。何よりこの、下から上目遣いで覗き込んでくる感じがたまらなく――たまらなく、かわいい。
五香の月二十二日、『氷虫』の投与日。
太陽が高くのぼり、十分空気が温まってきたころ、イリスが玄関先からタビトを呼んだ。
「またどっか行くんですか?」
「ううん、行かないよ。今日はここでやろうと思って」
そう言いながらイリスは、玄関から入ってすぐのところにある小さな客間へ続くドアを開ける。以前タビトが掃除したきり使っていなかった部屋だ。その時大きな家具は背の低いソファとテーブルのセットに飾り棚くらいしかなかった。しかしイリスに続いて部屋に入った瞬間、思わずタビトは絶句した。
「……うわ」
綺麗に片付けた部屋に、またしても大量のモノが持ち込まれていた。ソファとテーブルが壁際に寄せられ、代わりに絨毯や毛布など、厚手の布が乱雑に重ねられている。それを三角形で囲むようにして、タビトが昨日持ち帰った黒い鉄の塊が三つ配置されていた。端にあるテーブルの上には携帯魔導コンロの上にヤカンが置かれ、部屋の四隅には水を入れたブリキのバケツ。足の踏み場もない――とまではいかないが、けっこうな混沌ぶりである。
「な……なんですかこれ。せっかく掃除したのに……」
「えっ掃除? ああうん、君が片付けてくれたおかげでやりやすかったよ。ありがとうね」
「いやそうじゃなくて……」
戸惑うタビトを差し置いて、イリスは中央の絨毯を広げる。大きさはイリスの背丈の半分くらいだが、布なのに重量感を感じさせる豪華な絨毯だ。そしてその上に艶光りする赤紫のクッションを載せると、「君はここね」と言いながら振り返った。
「えっ。オレがそこに座るんですか」
「そうだよ。『氷虫』に対抗できるように少しでもあったかくしなきゃいけないから」
「はぁ……」
促されるまま座ろうとすると、今度は「ちょっと待って」と服の裾を引かれる。
「その前にこれを着て。あとこの毛糸の靴下と帽子と腹巻と、ミンクのマントと……」
「いや、いやいやちょっと待ってください先生」
イリスがやけにモコモコした衣類を次々タビトの腕に載せてくるので、たまらず口を挟む。
「今これ全部着たら暑すぎてそっちで具合悪くなっちゃいますって。寒さを感じ始めてから着ても遅くないんじゃないですか? それにオレなら今回も軽く済むかもしれないし」
「う……うーん。そうか。そうだね。いいよ、じゃあそのまま座って」
イリスがすぐに引いてくれたことに安堵しつつ、改めてクッションの上に座る。一応毛糸の靴下だけは履いておくことにした。
「それじゃ他の毛布も、こうやって……いつでも被れるようにだけしとこう」
タビトの体を囲うようにして、イリスが毛布やマントを床の上に配置していく。そして黒い鉄の塊のような魔導具を床の上で引き摺り、毛布に重ならないように位置を調整した。
「このストーブも君が寒さを感じたらすぐ点けるから言ってね。あとあっちでお湯も沸かせるようにしてるから」
「ああ、はい。……ストーブだったんだ、これ」
「そうだよ。言ってなかったっけ」
イリスは悪気なくそう言うとタビトの目の前にしゃがみ込み、小さなマグカップを手渡す。
「それじゃ……準備はいいかな。始めようか」
「はい。これ、そのまま呑めばいいですか?」
「うん。うっすら草みたいな匂いがするだけで、味はほとんどしないから安心して」
「へぇ、……」
マグカップの底の方に少しだけ溜った液体は淡い水色で、ほんのりと光っているように見えた。これが『氷虫』の原料、ユキコガネの色なのだろうか。カップを口に付けて一気に呷ると、すうっと喉から胃袋にかけて冷たいものが滑り落ちていくのが分かった。空になったカップをすかさずイリスが受け取る。
最初の二十秒くらいは、ただ腹の中がひんやりしているくらいでむしろ快適なくらいだった。けれど段々その冷たさが、胃の中で存在感を増していく。
イリスはタビトの正面に座り込んだまま、固唾を呑んで様子を窺っている。
「どう? 寒い? まだ平気?」
「……あ。これ……」
「な、何? 何か気付いた?」
「あっこれやばいです寒い寒いすげー寒い! 服! 腹巻! ストーブください!」
イリスは返事をする間も惜しいというように三台の魔導ストーブを順に点火し、タビトは肌着の上から腹巻を身に付け手近にあった上着に腕を通して、マントを羽織る。
「だっ大丈夫だよタビト、これだけあったかくしてれば凍傷にもならない。砂漠とは環境が違うんだから。ね」
そう言うイリスの声の方が裏返っているが、タビトにそれを指摘することはできなかった。寒さで歯がガチガチ言い始め、口を開くと舌を噛みそうだ。
部屋の魔導具に点火し終えたイリスがタビトの正面の位置に戻る。そしていつになく青い顔で震えるタビトを心配そうに見下ろすと、さっき床に広げていた毛布でタビトの体を覆った。
「……っあり……、ありがとございます。……ちょ、ちょっとはら、楽に……」
「礼なんていいから。……ああでも、何か話していた方がいいのかな。ちょっとでも動いた方が熱が生まれるだろうし……」
イリスは何か考えるように腕を組んでいたが、「よし」と呟くと何故か急に自分のシャツのボタンを外し始めた。
「は……?」
何やってるんだろうこの人は、とタビトが呆然と見つめている内にも、シャツの隙間から見える肌の面積がどんどん広くなっていく。そしてイリスはそのまま威勢よく上半身裸になると、背中に毛布を羽織り、がばりとタビトに抱き着いた。
「えッ……! な、なに、せんせ……、」
訳の分からない展開に、一瞬寒さを忘れた。
イリスは自分の背中側の毛布とタビトが羽織るマントの先を軽く縛ると、布でできた輪の中で二人が密着する形になる。そして衣類で着ぶくれしているタビトの胸板に顔を押し付け、下から覗き込むようにして言った。
「いつだったか、吟遊詩人の詩で聴いたことがあるんだ。『凍えそうに寒い夜は二人裸で抱き合って温め合おう』みたいなやつ」
「いやそれ……ただのちょっとエッチな詩だと思いますよ。裸より服着てる方があったかいに決まってるでしょ、普通に考えて」
「そうなの? でも君、さっきより口が回るようになってるじゃないか」
「それは先生が……」
毛布に包まれているとは言え、タビトの位置からではイリスの白い肩がが丸見えだ。そしてそこから続く薄い胸板、鎖骨の窪みまで。何よりこの、下から上目遣いで覗き込んでくる感じがたまらなく――たまらなく、かわいい。
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